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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: めるろ〜001さん

    2010/05/09 15:03:13

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    今度は道教からメモ

    道教
    後漢の張陵によって始められた宗教。
    その子、張衡、孫の張魯を経て大成された。

    教義
    老荘の反儒教的無の世界観に留まらず
    後漢王朝への不満を解消する役目を持っていた。
    当時の仏教に反抗している面もある。

    しかしながら、儒教や仏教から教理を受容して深化していった
    面もある。
    対峙する宗教を受容し変容する宗教としてあったのである。

    反儒教の精神を持ちながら、
    随唐宋の時代に政治とも絡み、朝廷の宗教として君臨もした。
    いえ、君臨とは、対峙する宗教を弾圧したのですね。
    そうすると、対峙する宗教の方も理論的攻撃信仰的反撃を
    してきて、相互間の離反や合同の紆余曲折を経て、
    発展していく。

    道教は人間の根底にある
    幸運、幸福、長寿、繁栄を願い、その達成手段として
    善を行うことを勧める。
    そのためには、祈祷呪術も盛んに行われる。
    通俗性と順応性に優れた?宗教である。

    道教では、長寿のために水銀を飲むことを進めていたので、
    時の皇帝が早死にするという自虐的な面も見られた。

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コメント: 全6件

from: 沙羅さん

2010/05/12 21:02:57

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:今度は道教からメモ」
めるろ〜さん

 色々お調べくださって、ありがとうございます。
 面白いですよね〜?ホントに〜・・・・歴史って・・・
 最近は、愉しみ覚えて、面白い〜♪ルンルン・・・探究 って面白いし辞められないですね〜・・・笑


 > 百済と朝廷の密接な関係は、歴史的に明らかですね。
> 百済という国は660年に滅亡しているようです。
>
>
> 当時の天皇は斉明天皇(在655〜661)ですね。
> ところで、舒明天皇(在629〜641)は
> 本名を「田村」というそうです。
>
> 大仏開眼は
>
> 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会をした。
>
> 時の孝謙天皇ですね。
>
> 歴史は長いです。

思うのですが 
 天皇の家系を見ると、時たま流れが飛びますよね?
 必ずしも、直系が幼少で継ぐという流れではなく、時の摂政や、大臣の存在や出入りをする豪族の存在や、預言をする僧の存在や
色々人脈もあるみたいですし・・・どの時代に生きても、「人間は本当に・・・もう少しどうにかならんか?」という地点で生かされてるようです・・・笑、
それはよいのですが、
推古天皇の時代なんですよね〜後継者選び(田村皇子、後の舒明天皇)が不自然な選択に思え随分前から感じていましたから・・・
聖徳太子の存在もありますし、日本が仏教を普遍化しようとする時代の天皇の後継者の流れや、豪族や大臣の力関係・・・

百済寺を導いた原因など・・秦氏の関係・・不思議で、昔色々調べました・・

子供がいない推古天皇の後に、何故?田村皇子が継ぐのか?よく観えなかったですから・・・
これも、不思議に思えるのですが、蝦夷 という漢字なんですよね。
この時代は、蘇我勢力を抑えるのは大変だったと思うのです。
田村皇子を、推古天皇の跡継ぎとして押したのは、実際は蘇我蝦夷だそうですから・・・
蝦夷と同じ漢字ですけど、音素はエミシなんですよね。

なんというのでしょうかねえ〜・・・・その後に繋がる坂上田村麻呂も、その時代に生まれるして生まれたんでしょうねえ〜・・・と思ったりしました。闘ってみたら以外に蝦夷の渡来人は、優れた豪族であった・・と、田村麻呂の心に訴えるものがあるとすれば?アテルイ、モレと助け合って日本の未来観を観ていた。つまり、最初東北征服目的だと外敵と対象視しますが、どうも、田村麻呂はその後の普遍化の動きは違う感じを受けます。色々サイトみましたけど、結局、アテルイ、田村麻呂仲良し説が実際の東北の豪族と田村麻呂の心情関係ではなかったか?・・・・あるサイトには、稲作文化を蝦夷人に教える田村麻呂が農業政策を教える一貫学校の遺跡がでてきた・・というような記事も読んだのです、・・・
万が一、田村麻呂に説得されて、朝廷での合意を得ると信じ切って、田村麻呂に同行し、京の都についてきた、アテルイ、モレに下された朝廷の決断は、田村麻呂にとっては、大変な心痛を生むと思うのです。
此処ら辺なんですよね。田村麻呂に信頼を寄せた、蝦夷の豪族の未来に起こった事の原因とは???

どちらにしても、処刑に追いやった、田村麻呂になんらかの、CULPABILITEキュルパビリテ(罪の意識が生まれたとしたら罪悪感???)
これは、空に存在し続けると思うのです。
同じ使い方にCOUPABLEクッパーブルという音素があるのですが、これは有罪という意味で使われます。行為のみの判断ではないんです。
ラテン語(CULPABILIS)は非難するという意味ですから、何かしら非難される、心が何者から非難される・・・という意味だと思われます。似た音素に、「切る」という意味動詞が、「COUPER」クぺーですので、心を切るという意味が、CULPABILITEクッパビリテ(罪悪感)という語を生んだのかも知れません。

行為そのものではなく、むしろ結果に至った原因、思った心情を観るんです。
そういえば、WEB見て思うのですが負けた心情だけといういつも勝ち負け感情に引っ張られるのではなく、実際、時の流れをみると、変化が生じるのですから、その変化を生じさせた原因はなんであったか?という視点を見抜く眼力がないと、いつまでも、歴史も勝ち負けだけの、闘争意識だけで、解釈しようとする。結果の勝敗だけしか見ず、人間の心は見ない・・というのは、片手落ちに思えるんです。
議論もすぐ勝つとか負けるとか、安易に表現するようですが、勝ったとか負けたとか、記号に異様に、自己投影していると何でも勝ち負けで判断したがるという性格になっていくのでしょうか?

前世の影響かもしれません?(笑)とも思ったりします。自分が無意識に放っているから、負けた時の感情を自分から探しているような言葉を放っているから苦しいのだと思うのですね。もう少し、美しい心地よい音素を探して空に放ってもらいたいのですね。なんとかならんでしょうか???・・・と思うのです。
  

蘇我蝦夷をはりつけときます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E8%9D%A6%E5%A4%B7



  

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from: めるろ〜001さん

2010/05/12 13:35:55

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「Re:Re:Re:Re:Re:今度は道教からメモ」
207>

沙羅ちゃん

ドラマは、途中までしか見てません。
確か、金の不足によって大仏開眼が遅れたことがあったように
思います。

<日本と百済>メモ
「420年に建国された南朝の『宋書』には倭の5王が朝貢し、官爵を授けられた事が記されています。下記にその年次、官爵名を記します。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

これを見て分かることは百済を除く南朝鮮に何らかの権限が認められていることです。なお百済は日本が朝貢する前から、南朝に朝貢しており、その実績を認められていたためであると思われます。

この5王は血縁関係より、済が允恭、興が安康、武が雄略天皇とするのが定説になっています。讃又は珍が仁徳天皇とする説が有力ですが、定説はありません。」

任那日本政府
広開土王碑以降の朝鮮半島との関わり、562年の任那の滅亡、663年の白村江の敗戦による半島からの完全撤退までを詳細に述べています。

          記

百済と朝廷の密接な関係は、歴史的に明らかですね。
百済という国は660年に滅亡しているようです。


当時の天皇は斉明天皇(在655〜661)ですね。
ところで、舒明天皇(在629〜641)は
本名を「田村」というそうです。

大仏開眼は

聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会をした。

時の孝謙天皇ですね。

歴史は長いです。
 >
> > 日本国民放送がドラマ『大仏開眼』で、時の聖武天皇に着せている衣装の肩のところに北斗七星が描かれているんです。
> > その衣装の前には、玄武などの四方を守る幻獣が
> > 描かれているんです。
> >
> > 奈良の大仏は、平城京ですから時を同じくしているのですね。
> > 天ー神ー朝廷という流れの中で、吉凶を占う。
> > そういう政治でもあったと。
> >
> > 修正があるかも???
>  
>
>  フト、思ったのだけど、日本では、大仏開眼 というドラマをやってるそうなんですね。わたしは見れないのだけど、
>
>  そのドラマで、百済の国の金貨の話ししませんか?
>
>  日本では当時金が取れなかったので、大仏の開眼を急がせる為に、東北に田村麻呂が関わった黄金神社があって、百済 と関係しているのだという記憶があるのだけど、開眼に向けて百済から輸入された金貨がどうのこうの・・・という記憶があるのですが、調べてはりつけます。
>
> http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/wakukogane.htm
>

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from: 沙羅さん

2010/05/11 20:38:16

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「Re:Re:Re:Re:今度は道教からメモ」
めるろ〜さん
 >
> 日本国民放送がドラマ『大仏開眼』で、時の聖武天皇に着せている衣装の肩のところに北斗七星が描かれているんです。
> その衣装の前には、玄武などの四方を守る幻獣が
> 描かれているんです。
>
> 奈良の大仏は、平城京ですから時を同じくしているのですね。
> 天ー神ー朝廷という流れの中で、吉凶を占う。
> そういう政治でもあったと。
>
> 修正があるかも???
 

 フト、思ったのだけど、日本では、大仏開眼 というドラマをやってるそうなんですね。わたしは見れないのだけど、

 そのドラマで、百済の国の金貨の話ししませんか?

 日本では当時金が取れなかったので、大仏の開眼を急がせる為に、東北に田村麻呂が関わった黄金神社があって、百済 と関係しているのだという記憶があるのだけど、開眼に向けて百済から輸入された金貨がどうのこうの・・・という記憶があるのですが、調べてはりつけます。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/wakukogane.htm

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from: めるろ〜001さん

2010/05/11 12:03:56

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「Re:Re:Re:今度は道教からメモ」
> 沙羅ちゃん

東北の田村神社が、北斗七星の形に並んでいるのを
ご存知だと思いますが、
こういった例は、通常<天>の思想ということになります。

<天>に従いますということなんですね。

これは、「朝廷に従います。」という暗示ではなかったか
と思うのですね。

日本国民放送がドラマ『大仏開眼』で、時の聖武天皇に着せている衣装の肩のところに北斗七星が描かれているんです。
その衣装の前には、玄武などの四方を守る幻獣が
描かれているんです。

奈良の大仏は、平城京ですから時を同じくしているのですね。
天ー神ー朝廷という流れの中で、吉凶を占う。
そういう政治でもあったと。

修正があるかも???

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from: めるろ〜001さん

2010/05/10 12:48:39

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「Re:Re:今度は道教からメモ」
沙羅ちゃん

何故清水寺がそこに建てられなければならなかったか?

清水寺の創建に空海が関与していませんが、
鎮護国家としての意味合いを持つ時に関与していたと思われます。
清水寺の創建時は、観音信仰による救済という意味合いの
お寺だった。

空海の真言宗は、鎮護国家をも視野に入れた思想であり、
空海の入唐時代に、当然触れたであろう道教が鎮護国家を
し初めていた時代に入唐したのです。
空海が道教の占いの部分を引き継いでいたと思われます。

坂上田村麻呂は、奥州征伐の前に清水寺の創建に関与している。
この時は、信仰心の意味合いがあったものと思われます。

何故、そこなのか?
多分に賢心が立てたおほらに、長岡京の鎮護の為その北?の方に
ある清水の地に賛同したものと思います。

798年に坂上田村麻呂が十一面千手観音菩薩と同時に
脇侍させた
地蔵菩薩は、信仰心
毘沙門天は、鎮護国家
という意味なんだろうと思います。
平安京の遷都による都の東になるのは、
不可抗力の賜物かと思います。

また、796年造東寺長官で南家の藤原伊勢人が堂宇を創建し
鞍馬寺と称した。鞍馬寺も創建当時から毘沙門天を安置しており、
東西南北の守護を目的としているものと思われます。


http://www.kiyomizudera.or.jp/

清水寺HPより
宝亀 9 778 大和子嶋寺の賢心、夢告により清泉を尋ねて
       音羽の滝に至り、永年修行の行叡居士に観音霊木を
受け彫像奉祀し寺を創建。
宝亀11 780 坂上田村麻呂公、音羽の滝の清水に導かれて滝上に
       止宿・練行中の賢心に遭い、観音に帰依して
       仮仏殿を造立し、十一面千手観世音菩薩を安置、
       寺を創建。 賢心は名を延鎮と改める。
      <794年平安京遷都>
延暦17 798 田村麻呂公、延鎮上人と力を合せ、更に伽藍を
      造替え、本尊金色八尺の千手観音像、
      脇侍に、地蔵菩薩・毘沙門天像を安置する。
弘仁 1 810 鎮護国家の道場となり、「北観音寺」の法号を賜い「清水寺」の額を掲げる。
弘仁 2 811 5月23日、坂上田村麻呂公、没。
弘仁12 821 6月17日、開山・延鎮上人、入寂。
承平 7 937 轟門に多聞天・持国天を奉祀する。

「坂之上田村麻呂」

[宝亀11 780 坂上田村麻呂公、音羽の滝の清水に導かれて滝上
      止宿・練行中の賢心に遭い、観音に帰依して仮仏殿を造立し、十一面千手観世音菩薩を安置、寺を創建。]
      
784年、延暦3年、父苅田麻呂造長岡宮使に任命され、
      長岡京遷都に関与します。

<長岡京遷都>

786年、延暦5年、父苅田麻呂死去します。享年59歳。

789年、延暦8年、征東大将軍紀古佐美は奥州征討に出発。

     蝦夷の大将阿弖流為との巣伏村での戦いで官軍大敗を
     喫します。

791年、延暦10年、1月坂上田村麻呂、百済王俊哲と共に
     東海道諸国に蝦夷征討の準備の為に派遣されます。

     そして、7月征討軍が派遣されます。

     其の数およそ10万といいます(日本後記によると)。 征夷大使:大伴弟麻呂、
     副使:百済俊哲、副使:多治比浜成、
     副使:従5位下坂上田村麻呂、副使:巨勢野足。

794年、延暦13年、1月征夷大将軍大伴弟麿に節刀を賜う。
     6月13日、副将軍坂上大宿禰田村麿己下蝦夷を征す (日本記略)。

     坂上田村麻呂の指揮の下、蝦夷(エミシ)部隊を殲滅して首級457をあげております。官軍の大勝利だった
     ようです。

    延暦十四年征夷将軍正四位下近衛中将越後守。

     同年二月兼木工頭。
     <平安京遷都>

795年、延暦14年、1月大伴弟麻呂、節刀を返上して
     おります。

     2月征夷の功績で坂上田村麻呂は従4位下に特進して
     おります

     (この伝記では正4位下になっております。)。

     そして木工頭(こだくみのかみ)に任じられました。

796年、延暦15年、1月坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使
     ・陸奥守に任じられます。

     10月坂上田村麻呂は鎮守将軍も兼務します。

797年、延暦16年、11月坂上田村麻呂は征夷大将軍に
     任じられました。

798年、延暦17年、これ以後数年間は積極的に奥州の俘囚を
     各地に移配しております。

     これに坂上田村麻呂が大いに関与したものと
     思われます。

     同二十年十一月叙従三位。

801年、延暦20年、第3次の征夷作戦が始まります。

     2月に坂上田村麻呂は節刀を賜っております。

     (このときは軍勢4万で攻撃)

     9月27日、征夷大将軍坂上宿禰田村麿等が夷賊を
     討伏したと報告しております(日本記略)。

     10月、この功績にたいして従三位を授けられて
     おります。

     このとき、「遠く閉伊村を極めて」とありますので、

     胆澤・紫波地方よりも北に攻め込んだことも
     考えられます。

802年、延暦21年、1月坂上田村麻呂は陸奥國胆澤城使に
     任じられて 、胆沢城の造営を開始します。

803年、延暦22年、3月今度は造志波(しわ)城使に
     任じられ、胆澤城よりも北の地点(盛岡市のやや南)に城を築きます。

     志波城は北上盆地のほぼ北に位置し、
     それから北は奥深い山林となっておりました。

     同二十三年正月補陸奥出羽按察使。

804年、延暦23年、第4次の征夷作戦が計画されます。

     坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられます。

     板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡
     中山柵に運び込まれます。

     次の目標は岩手県の北から青森県にかけてです。
     最終打倒の標的は津軽(?)でした。

     坂上田村麻呂はこのとき、征夷大将軍従3位行近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲2等となって
     おります。      

     同二十四年任参議。

805年、延暦24年、坂上田村麻呂は参議に任じられました。

     12月、有名な「天下の徳政」論議がおこなわれ、
     藤原緒嗣の建議によって、第4次の征夷作戦が
     中止になります。

弘仁元年(大同元年の間違い?)叙正三位。任中納言。

806年、延暦25年(大同元年)坂上田村麻呂は中納言そして
     中衛大将に任じられております。
     <空海帰国>

807年、大同2年坂上田村麻呂50歳、4月中衛府改め右近衛府となってその右近衛大将になります。

     8月には侍従に、11月に兵部郷に任じられて
     おります。

808年、大同3年坂上田村麻呂4月正3位に叙せられて
     おります。

     同年九月任大納言。
     
     <空海、神護寺を賜る>

810年、弘仁元年(大同5年)坂上田村麻呂は9月大納言に
     任じられました。

     藤原薬子の変で、坂上田村麻呂は鎮圧軍の指揮を
     とっております。
     <清水寺鎮護国家の道場となる。>北観音寺と号す。

811年 弘仁2年1月坂上田村麻呂は渤海國の使者を
     接待しております。

    同二年五月二十三日薨。

     干時年五十四。

坂上田村麻呂は平安京郊外粟田別業で死去しました。享年54歳。

即日賜し(糸偏に施の右の字=あしぎぬ)六十九疋。調布一百一段。商布四百九十段。

米七十六こく(角+斗=石)。役夫(えきふ)二百人。

坂上田村麻呂が没したその日、遺族は上記のものを賜っております。


>  時々、考えるのは、民族が大陸上、または海を越えて移動する本当の理由はなんだったのかしら?と不思議に思うのです。
>  京都、清水寺の創建に導いた、坂之上田村麻呂は、いったい
>  何処からきて何処の出自だったのかしら?
>  何故?
>  音羽山で、清水寺を、建てなくてはならなかったのか?
>  色々人物の歴史上の出現とその意味、その後の歴史の流れの方向を感じ、その流れに導いた要因や原因や理由には、複雑な思いや心や願いが関係しているのではないか?と思うのです。
>  
>  いえですね〜・・・大阪生まれで大阪育ちで、しかも平野の杭全神社に近いようなんですよね。Jさんの話しなんですが〜・・・
>
> http://maoda.hp.infoseek.co.jp/tamuramaro.html
>
> つまり、とても一筋縄ではいかなくて、多種多様の人間の集まりが過程の何処かで、繋がっているようなので、他者との違いに意識を引っ張られて、自分自身が正しいというような我田引水説を、している限り、永遠にその現れ方しか出来ないので、真理にはドンドン遠く遠方へと行くようなんです・・・・笑
>
> 他者を非難したり、排他している限り、自分自身を自分で排他したり認めようとしていないのと同じ事なので、長い歴史的な流れを観ると
> 結局自分の首を絞めているような間接的な行為、末端行為をしているのだと思うのです。時間と空間の存在する意味は、やはり人間にもう少し賢くなりなさい!・・という創造主からの暗示でしょうかね?
>
>
>

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from: 沙羅さん

2010/05/09 19:09:31

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「Re:今度は道教からメモ」
 めるろ〜さん

 時々、考えるのは、民族が大陸上、または海を越えて移動する本当の理由はなんだったのかしら?と不思議に思うのです。
 京都、清水寺の創建に導いた、坂之上田村麻呂は、いったい
 何処からきて何処の出自だったのかしら?
 何故?
 音羽山で、清水寺を、建てなくてはならなかったのか?
 色々人物の歴史上の出現とその意味、その後の歴史の流れの方向を感じ、その流れに導いた要因や原因や理由には、複雑な思いや心や願いが関係しているのではないか?と思うのです。
 
 いえですね〜・・・大阪生まれで大阪育ちで、しかも平野の杭全神社に近いようなんですよね。Jさんの話しなんですが〜・・・

http://maoda.hp.infoseek.co.jp/tamuramaro.html

つまり、とても一筋縄ではいかなくて、多種多様の人間の集まりが過程の何処かで、繋がっているようなので、他者との違いに意識を引っ張られて、自分自身が正しいというような我田引水説を、している限り、永遠にその現れ方しか出来ないので、真理にはドンドン遠く遠方へと行くようなんです・・・・笑

他者を非難したり、排他している限り、自分自身を自分で排他したり認めようとしていないのと同じ事なので、長い歴史的な流れを観ると
結局自分の首を絞めているような間接的な行為、末端行為をしているのだと思うのです。時間と空間の存在する意味は、やはり人間にもう少し賢くなりなさい!・・という創造主からの暗示でしょうかね?



 
 
道教
> 後漢の張陵によって始められた宗教。
> その子、張衡、孫の張魯を経て大成された。
>
> 教義
> 老荘の反儒教的無の世界観に留まらず
> 後漢王朝への不満を解消する役目を持っていた。
> 当時の仏教に反抗している面もある。
>
> しかしながら、儒教や仏教から教理を受容して深化していった
> 面もある。
> 対峙する宗教を受容し変容する宗教としてあったのである。
>
> 反儒教の精神を持ちながら、
> 随唐宋の時代に政治とも絡み、朝廷の宗教として君臨もした。
> いえ、君臨とは、対峙する宗教を弾圧したのですね。
> そうすると、対峙する宗教の方も理論的攻撃信仰的反撃を
> してきて、相互間の離反や合同の紆余曲折を経て、
> 発展していく。
>
> 道教は人間の根底にある
> 幸運、幸福、長寿、繁栄を願い、その達成手段として
> 善を行うことを勧める。
> そのためには、祈祷呪術も盛んに行われる。
> 通俗性と順応性に優れた?宗教である。
>
> 道教では、長寿のために水銀を飲むことを進めていたので、
> 時の皇帝が早死にするという自虐的な面も見られた。
>
>

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