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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

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  • from: yeshangさん

    2010年08月12日 13時32分50秒

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    「般若心経」についての一考察

     「色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」でよく知られ、読む機会の多いお経です。
     ここが結論でありもっとも重要な部分と考えてきましたが、本当にありがたいところは、最初の一行、「観自在菩薩が深く般若波羅蜜多を行じた時、五蘊(あらゆるもの)は皆、空であるとて照見された」にあると感じたからです。
     般若波羅蜜は六波羅蜜と云われる「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」ですが、これらを行じることによって空を認識し、理解できると。
     後の文句は、空についての解説、それによる効能、般若波羅蜜のすばらしさ、だから皆で彼岸に行けるのだと書いております。
     要するに、般若波羅蜜を行じることが大切だと。
     そして、このお経の大切なところはここなのだと感じました。
     ちなみに、布施は神社仏閣にお賽銭を上げたり寄付をしたりするだけでなく、生きとし生けるものに物・智慧・知識・愛情・同情などを与えることで、持戒以下はここでは述べません。
     これは、 稲盛和夫さんの「生き方」を読んで、ヒントとなって思い感じたことです。
     まさに、日ごろ読誦して忘れず、たゆまず、怠らずとしたいものと思いました。

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from: めるろ〜001さん

2010年08月25日 13時01分00秒

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「Re:Re:「般若心経」についての一考察」
沙羅ちゃん

音の連鎖は興味深いですね。

御霊信仰といいましょうか、
実際にそんなことはないのに、
そういう連鎖の所為にする。

そしてその痕跡を残す。
如何に日本人が魂の連鎖を信仰しているかが分かりますね。







>
>
>  僧玄〓については、わたくも、随分前からその存在性の意味をのべてますが、、、、現状の人ビトの捕らわれ方<理解の仕方、感受の仕方>が後ろ向きなのを感じるのです。
>
> 原因は、どのサイトにも書かれているように、藤原氏の念によって暗殺されたという、陰湿な感情にとらわれているところにあると思われます。
>
> 仏教がオドロオドロ感やネチネチ感を引きずってしまうのは、
> このような歴史上の人達まで、当時の人達との陰湿な情動とリンクしてしまって、不安や恐怖感に怯えているのだと思うのです。
>
> 例えばですが、、、
>
> 世界の歴史には、歴史上の人達の最後が、無残な死に方で殺された、、という事実は、いくらでもあるんですよね?
>
> しかし、彼らが、その時代に存在し、何かの救世的な役割を果たしス為に、生まれてきた、、、
> という存在自身に意味を見出すという努力をせず、
>
> 死ぬ時の世間からの扱われ方、世間の接し方、また権力的な力によって、死に至る、、という最期の状態だけを取り上げて、、、
> 情動をバタバタさせて、何世紀後経っても同じ視点で居る、、、
> という考えに進化が欠如しているのは問題に思えるんです。
>
> 例えばですが、
>
> ジャンヌダルクの歴史を、考えるとします。
>
> ジャンヌダルクの存在の意味を西洋的思考の人は考えるんです。
> つまり、彼女の存在させている意味です。
>
> ところがですね?
> 時を断片的に区切って考える人というのは、
> 時の停まっている時の現象しか見る事が出来ないんです。
> その時が停まった時の、心の現われ方に何か、自分の中のフィット感を感じるのだと思います。
>
> 例えば、中世の魔女裁判などありますよね?
>
> ジャンヌダルクが、魔女であるか?魔女でなかったか?
> という中世の人達の、価値観で、どのようにこのような人達が、世間の人ビトのつまり、進化していないんですね?考えも価値観も、、、
> 昔の世間の常識とされてる<進化していない>考えで、一人の人間を、処刑してしまうんです。信仰、宗教もそれに加担するんです。
>
> 宗教や信仰の歴史は、世界、どこも同じでしょう、仏教も同じです。
> 歴史を紐解くと、個の扱われ方、接し方に、権力が関与し、信仰が関与し、そして、人ビトは、生き抜くために、回りの無慈悲な出来事の原因を知ろうとはせず、ただ、情動をバタバタ、受動的に靡かせている、、という歴史の繰り返し、で今も同じに思えます。
>
> トイレットペーパーが、日本の市場から消えるという真実ではない噂が広まり、店頭に、人ビトが長蛇の列で買占めを狙いトイレットペーパーが本とに、なくなるほど、
> 大衆や民衆のバタバタ行動は、連鎖的に不安や恐怖を煽るところに生じてしまう、群集心理なんです。
> この次元で、共感を得る会話をしていてもしょうがないと思うのですね。
> ジャンヌダルクは、ルーアンで火の処刑というもっとも残虐な死に方だったのですが、
> その理由は、結局、当時の進化のしない、考え方の人達の価値観が、そのような今では考えられない、正義に反した扱いをされ、世間も教会側もそれを許してしまったという愚かさにあるのだと思うのです。
>
> 受動的な意識というのはどういう事なのか?と考えると、
> 人ビトと、関係を持とうとするとき、
> どの地点、どの次元に感応して、話をしようとしているか?
> という洞察眼が必要になってくると思うのです。
>
> ジャンヌダルクに限りませんが、例えば日本でもいくらでも、歴史上、正義から程遠い仕方で、命を落とした人達が存在していると思うのです。例えば
> 天草四郎の隠れキリシタンも火あぶりの刑もそうですし、
>
> そのような、死に方の、残虐さに過敏になるのは仕方がないとしても、彼らの魂が浮かばれるのは、
> 決していつまでも残虐性に、陰湿な感情を上塗りしながら、自分の言説を我田引水的にひっぱるのではなく、その人達が、存在した意味を、生かされた意味、、
> 歴史に関与した意味、、そのような歴史上の過去の犠牲は、現代の、正義とか、真理とか、人間の善悪の判断等、、神の世界の分野である人を判断する<罰する>事、代行する事、人間がつくる法の重さを感じ取るべきだと思うのです。
>
> ジャンヌダルクが聖人として、ヴァチカンで認められたのは、随分時間がかかったようですが、フランスの国の祝日として、ジャンヌダルクの祭日として国が認可するかどうか、審議中だという事もニュースで伝えられてましたし、
> どちらにしても、歴史上の人物で、その国の歴史を、引っ張っているであろう、、、という判断は、死後何世紀もかかるはずです。
>
> ヴァチカン内での歴史上の人を聖例に加えるという審議
> も興味深いといえば興味深いです。
>
> つまり、こういう事だと思うのです。
>
> 私達が今生きる事は、今だけを考えるのではなく、
>
> 世界の全ての流れの方角を察知しながら、自分自身の存在の在り方、仕方を問われていると思うのです。
>
> そして、今生きている方角は、昔の人達の心や願いが関与している、、という事だと思うのです。
> それを、感じ取る事が出来るか?出来ないか?
> が問題に思えます。
>
> 感じ取る事が出来る方は、心を感じられる人です。
> 体験があるというのは、判ることなので、知る事出来るという事だと思うのです。霊の事も、コミュニケートが出来れば、体感や体験があるので知る事ができるので、怖がる事がなくなるんだと思います。
>
> 、生きてる心のコミュニケートが出来る人達は、その後ろの霊界とのコミュニケートが、出来るという事なのだと思うのです、
> 感じるからコミュニケートという段階に進化させるという事に思えます。感じる事は霊感がない人はいないので、何かしら感じるのですが、低(進化していない>い魂と面白い事感じあってはいけないと思うのですね。
>
> 色々思うのですが、人間関係の質はやはり重要に思えます。
> どの次元で感応するのか?
> どの次元で、呼応するのか?
>
> 高次の神体霊となんらかの交霊されてる方は、やはりそれなりの役目を負わされるように、
> 神々しい、次元の高いところとのコミュニケートされてるように思えます。
>
> 次元の低い霊体との交霊をしてられる方ももちろんいらっしゃるらしいんです。<それはそれで仕方内のですが、、分からないのですから、、、分からない事は、自分の意思的な行為とは言えませんから>問題は業と、自分が他人をなんらかの言葉の横暴性や、不自然な力で支配しようとするような、関係を持とうとしている事でしょうか?
>
> 認識、知識があれば、正しいと思う人は、フランスにはまず居ませんから、、、 笑
>
> むしろ、大衆は、立場の力を利用しようとする不自然な力に大衆は怒るので、、
>
> 今朝の新聞は、サルコジー大統領は、800人VOYAGEURSと呼ばれる、いわゆるジタンでしょうか?東欧から流れて、居ついてしまった人達が、あちこち、住んでいるのですが、
> 住居許可証はないので、国外退去を強いた事に、左派陣営が怒るんですよね。どこかの教会の神父さんもお怒りになる、しかたないから、教会内に、東欧から来た移動居住者達をかくまう、、、
> 数年前も、同じような事、フランスの滞在許可証がない、黒人の家族があちこち、生きのビル手段をもとめ、フランスなど、ヨーロッパの先進国に渡ってきて、どこかの空き地に、あつまり、コミュニティーになるんですね。
>
> その人達を、強制的にアフリカなどの国に帰そうとすると、
> ディオールのコマーシャルしているモデル兼女優さんエマニュエル、ベアーさんも黒人達といっしょになって、パリのノートルダム寺院に皆とかくまって、国家権力に応戦する。
>
> 「弱い者いじめするな〜、、!」
> と、いつも綺麗な、おべべ着ている、女優さんは、、国家権力がノートルダムのバリケートを、とりはずすのを、必死になって
> 長いすを、引き戻そうと黒人達と一緒応戦する。
>
> 「あぁぁ〜、、わが貴婦人、聖母マリアよ、、ノートルダムよ、
> 神の采配を受けたもう」、
>
> 正直な、話、、この闘争場面見ていてノートルダム寺院にかくまる、、と言うのは、いいアイデアだ、、と思ったりしました。
>
>  
> 西洋教典の外典には、ミカエル天使は、ガブリエル天使達を引き連れ約三分の一の天使達と闘うんですよね。
>  霊体自身達が闘うらしいのですから、そのズーと下に位置している人間が闘わない訳ありませんよね?とか思ったりするんです。
>
> そうでした、、それで、何故?
> 僧玄〓 なのですか?
>  
> 間違いないです。智ちゃんというより、ご主人のR君が、玄〓に引かれてしまったと思います。
>
> かれの名前は、RIME<韻> と同じアルファベットのつづりを使うんです。、ダヴィンチコードです。
>
> マントラは、音韻の反復なんです。
>
> 彼が何故?スフィンクスと、玄〓のお墓の前で放つのか分かりました。
>
> 彼は生物の先生ですから、、
>
> 蝶やがの幼虫にスフィンクスと呼ばれるのがあるらしいんですね。それを見つけたら、目の前に、玄〓のお墓があったという時間軸ですから、目的には、なっていないんですね。
>
> なにしろ、民家と畑のなかにポツンとあるので、
>
> 目的<結果>を求めると、駄目だ(因果がみえない>!というのは、そこにあるのだと思うのです。

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from: 沙羅さん

2010年08月23日 18時46分41秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:「般若心経」についての一考察」
めるろ〜さん


 僧玄〓については、わたくも、随分前からその存在性の意味をのべてますが、、、、現状の人ビトの捕らわれ方<理解の仕方、感受の仕方>が後ろ向きなのを感じるのです。

原因は、どのサイトにも書かれているように、藤原氏の念によって暗殺されたという、陰湿な感情にとらわれているところにあると思われます。

仏教がオドロオドロ感やネチネチ感を引きずってしまうのは、
このような歴史上の人達まで、当時の人達との陰湿な情動とリンクしてしまって、不安や恐怖感に怯えているのだと思うのです。

例えばですが、、、

世界の歴史には、歴史上の人達の最後が、無残な死に方で殺された、、という事実は、いくらでもあるんですよね?

しかし、彼らが、その時代に存在し、何かの救世的な役割を果たしス為に、生まれてきた、、、
という存在自身に意味を見出すという努力をせず、

死ぬ時の世間からの扱われ方、世間の接し方、また権力的な力によって、死に至る、、という最期の状態だけを取り上げて、、、
情動をバタバタさせて、何世紀後経っても同じ視点で居る、、、
という考えに進化が欠如しているのは問題に思えるんです。

例えばですが、

ジャンヌダルクの歴史を、考えるとします。

ジャンヌダルクの存在の意味を西洋的思考の人は考えるんです。
つまり、彼女の存在させている意味です。

ところがですね?
時を断片的に区切って考える人というのは、
時の停まっている時の現象しか見る事が出来ないんです。
その時が停まった時の、心の現われ方に何か、自分の中のフィット感を感じるのだと思います。

例えば、中世の魔女裁判などありますよね?

ジャンヌダルクが、魔女であるか?魔女でなかったか?
という中世の人達の、価値観で、どのようにこのような人達が、世間の人ビトのつまり、進化していないんですね?考えも価値観も、、、
昔の世間の常識とされてる<進化していない>考えで、一人の人間を、処刑してしまうんです。信仰、宗教もそれに加担するんです。

宗教や信仰の歴史は、世界、どこも同じでしょう、仏教も同じです。
歴史を紐解くと、個の扱われ方、接し方に、権力が関与し、信仰が関与し、そして、人ビトは、生き抜くために、回りの無慈悲な出来事の原因を知ろうとはせず、ただ、情動をバタバタ、受動的に靡かせている、、という歴史の繰り返し、で今も同じに思えます。

トイレットペーパーが、日本の市場から消えるという真実ではない噂が広まり、店頭に、人ビトが長蛇の列で買占めを狙いトイレットペーパーが本とに、なくなるほど、
大衆や民衆のバタバタ行動は、連鎖的に不安や恐怖を煽るところに生じてしまう、群集心理なんです。
この次元で、共感を得る会話をしていてもしょうがないと思うのですね。
ジャンヌダルクは、ルーアンで火の処刑というもっとも残虐な死に方だったのですが、
その理由は、結局、当時の進化のしない、考え方の人達の価値観が、そのような今では考えられない、正義に反した扱いをされ、世間も教会側もそれを許してしまったという愚かさにあるのだと思うのです。

受動的な意識というのはどういう事なのか?と考えると、
人ビトと、関係を持とうとするとき、
どの地点、どの次元に感応して、話をしようとしているか?
という洞察眼が必要になってくると思うのです。

ジャンヌダルクに限りませんが、例えば日本でもいくらでも、歴史上、正義から程遠い仕方で、命を落とした人達が存在していると思うのです。例えば
天草四郎の隠れキリシタンも火あぶりの刑もそうですし、

そのような、死に方の、残虐さに過敏になるのは仕方がないとしても、彼らの魂が浮かばれるのは、
決していつまでも残虐性に、陰湿な感情を上塗りしながら、自分の言説を我田引水的にひっぱるのではなく、その人達が、存在した意味を、生かされた意味、、
歴史に関与した意味、、そのような歴史上の過去の犠牲は、現代の、正義とか、真理とか、人間の善悪の判断等、、神の世界の分野である人を判断する<罰する>事、代行する事、人間がつくる法の重さを感じ取るべきだと思うのです。

ジャンヌダルクが聖人として、ヴァチカンで認められたのは、随分時間がかかったようですが、フランスの国の祝日として、ジャンヌダルクの祭日として国が認可するかどうか、審議中だという事もニュースで伝えられてましたし、
どちらにしても、歴史上の人物で、その国の歴史を、引っ張っているであろう、、、という判断は、死後何世紀もかかるはずです。

ヴァチカン内での歴史上の人を聖例に加えるという審議
も興味深いといえば興味深いです。

つまり、こういう事だと思うのです。

私達が今生きる事は、今だけを考えるのではなく、

世界の全ての流れの方角を察知しながら、自分自身の存在の在り方、仕方を問われていると思うのです。

そして、今生きている方角は、昔の人達の心や願いが関与している、、という事だと思うのです。
それを、感じ取る事が出来るか?出来ないか?
が問題に思えます。

感じ取る事が出来る方は、心を感じられる人です。
体験があるというのは、判ることなので、知る事出来るという事だと思うのです。霊の事も、コミュニケートが出来れば、体感や体験があるので知る事ができるので、怖がる事がなくなるんだと思います。

、生きてる心のコミュニケートが出来る人達は、その後ろの霊界とのコミュニケートが、出来るという事なのだと思うのです、
感じるからコミュニケートという段階に進化させるという事に思えます。感じる事は霊感がない人はいないので、何かしら感じるのですが、低(進化していない>い魂と面白い事感じあってはいけないと思うのですね。

色々思うのですが、人間関係の質はやはり重要に思えます。
どの次元で感応するのか?
どの次元で、呼応するのか?

高次の神体霊となんらかの交霊されてる方は、やはりそれなりの役目を負わされるように、
神々しい、次元の高いところとのコミュニケートされてるように思えます。

次元の低い霊体との交霊をしてられる方ももちろんいらっしゃるらしいんです。<それはそれで仕方内のですが、、分からないのですから、、、分からない事は、自分の意思的な行為とは言えませんから>問題は業と、自分が他人をなんらかの言葉の横暴性や、不自然な力で支配しようとするような、関係を持とうとしている事でしょうか?

認識、知識があれば、正しいと思う人は、フランスにはまず居ませんから、、、 笑

むしろ、大衆は、立場の力を利用しようとする不自然な力に大衆は怒るので、、

今朝の新聞は、サルコジー大統領は、800人VOYAGEURSと呼ばれる、いわゆるジタンでしょうか?東欧から流れて、居ついてしまった人達が、あちこち、住んでいるのですが、
住居許可証はないので、国外退去を強いた事に、左派陣営が怒るんですよね。どこかの教会の神父さんもお怒りになる、しかたないから、教会内に、東欧から来た移動居住者達をかくまう、、、
数年前も、同じような事、フランスの滞在許可証がない、黒人の家族があちこち、生きのビル手段をもとめ、フランスなど、ヨーロッパの先進国に渡ってきて、どこかの空き地に、あつまり、コミュニティーになるんですね。

その人達を、強制的にアフリカなどの国に帰そうとすると、
ディオールのコマーシャルしているモデル兼女優さんエマニュエル、ベアーさんも黒人達といっしょになって、パリのノートルダム寺院に皆とかくまって、国家権力に応戦する。

「弱い者いじめするな〜、、!」
と、いつも綺麗な、おべべ着ている、女優さんは、、国家権力がノートルダムのバリケートを、とりはずすのを、必死になって
長いすを、引き戻そうと黒人達と一緒応戦する。

「あぁぁ〜、、わが貴婦人、聖母マリアよ、、ノートルダムよ、
神の采配を受けたもう」、

正直な、話、、この闘争場面見ていてノートルダム寺院にかくまる、、と言うのは、いいアイデアだ、、と思ったりしました。

 
西洋教典の外典には、ミカエル天使は、ガブリエル天使達を引き連れ約三分の一の天使達と闘うんですよね。
 霊体自身達が闘うらしいのですから、そのズーと下に位置している人間が闘わない訳ありませんよね?とか思ったりするんです。

そうでした、、それで、何故?
僧玄〓 なのですか?
 
間違いないです。智ちゃんというより、ご主人のR君が、玄〓に引かれてしまったと思います。

かれの名前は、RIME<韻> と同じアルファベットのつづりを使うんです。、ダヴィンチコードです。

マントラは、音韻の反復なんです。

彼が何故?スフィンクスと、玄〓のお墓の前で放つのか分かりました。

彼は生物の先生ですから、、

蝶やがの幼虫にスフィンクスと呼ばれるのがあるらしいんですね。それを見つけたら、目の前に、玄〓のお墓があったという時間軸ですから、目的には、なっていないんですね。

なにしろ、民家と畑のなかにポツンとあるので、

目的<結果>を求めると、駄目だ(因果がみえない>!というのは、そこにあるのだと思うのです。

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from: めるろ〜001さん

2010年08月23日 01時02分34秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:「般若心経」についての一考察」
> 沙羅ちゃん
>
僧玄〓の件、評価をもっとすべきですね。

現在の仏教研究にしても、
宗派研究にしても、
どうも嗜好に走っているように思います。

哲学的分析や現象学的分析ではないと思います。

勿論、自分の嗜好に囚われない人もいますが、、、
文献的研究は、文字の研究であって、
「そこに嗜好は無い。」という人もいるでしょう。

しかしそうではないのですね。
実はその文献をどの文献に併せるか、
または、連続させるか、
解釈するか、
は嗜好による場合があるのです。

「私はこれが好き。」だから、この文献とこの文献を重ねて見た方がよい。

そういう人もいますね。

文字の先を見ていないのですね。
文字の先の場景と言うか、見てないのですね。

『仏説摩訶般若波羅密多心経』というタイトルを
選択するか、
『摩訶波羅密多心経』というタイトルをとるかは、
大きく違います。

しかし、文字面は一緒なのです。

そういうタイトルのとり方に、嗜好性ではなく、
志向性をとらないといけないと思うのですね。
歴史的時間の問題と訳者(作者)の意図の問題ですね。
大事だと思います。

そこに『般若心経』の偉大さがあると思います。

同じくして、
僧玄〓においても、その歴史的役割、時代的意図を
評価しないといけませんね。

政治は別だと。

政治という政は、俗世間のものです。
それぞれの時代において、政治に関わった僧侶は沢山います。
しかし、それは俗世間的であると思います。

その僧侶の聖なる部分を度外視して評価するのは、
ちょっと違うのじゃないか。

政治に関わると、その政治的部分が強調されますが、
違う顔を持っていたはずである。
その部分を評価しないと、
正当な玄〓という僧侶の評価にはならないと思います。

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from: めるろ〜001さん

2010年08月21日 12時00分44秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:「般若心経」についての一考察」
沙羅ちゃん


> 般若心経ですか〜・・・
> なんと述べればいいかしら〜
>
> お経なので、
> 他人様に言葉の意味を云々という行為に至というより、
>
> 、机上の字を介した認識というより、
>
> 実際、声 に出してみて、
>
>  霊達の存在を観じて、彼らがどのように呼応するかしら?
>
>  という心が観る・・・・という実践なので、、
>
>  マントラは、一言・・・・音
>
>  音に心がどのように反応するのか?マントラを唱えると、感知できる・・・という感じなんです。
>
>  コミュニケートでしょうか?
>
>  現世の人の言説を、読み手がわが、発信する主体の意味を感じ取る事なく、コミュニケート一方通行を、永遠に繰り返していれば、
>
>  あの世の心とも同じなので、
>
>  コミュニケートが現世で生きてる人たちと通じなければ、
>
>  お経を読んでも、あの世の人たちの心にも届かないと思うのです。何故なら 音 が響く、震えて、何がしかの
>  心のひだに、届くのだと思うのです。
>
そうですね。
空海も、「『般若心経』は、呪文である。」と書いていて、
その『般若心経』を唱えることによって、宇宙と繋がり
真相(=法)へと繋がるといっています。

<梵我一如>と違うのは、自己と宇宙がその要素において対峙関係にあるというか、対比される部分がある。
と言うものであり、<梵我一如>の宇宙と自我の一体化を言っているのではないのですね。空くまでの宇宙を観ずる自己はあるとするのですね。

期せずして、空海と同じことを言っていますね。

僕が書いていたのは、文字面でしか判断していない状況で、
密教的解釈を出していいものかどうか悩んだ結果です。

チャクラは興味ありますが、研究するのはまだ先になる
でしょうね。




> チャクラですか?
>
>  チャクラは、下から、頭上に向けて7つ<6つ>のチャクラが全箇所開いて、そのまま天空を通し宇宙にスパーンと、一線上に、白か?金だったか?何かが繋がっているのが観得る人が観ると観えると思います。宇宙との交流という意味だと思います。
> 三輪氏も、テレビでよく述べていらっしゃる、、「上からのお声がありますからねえ〜」いうようなこと、フト仰るけど、
> その「上」というのは宇宙を指しているとおもいます。
>
> チャクラが閉じていると、たとえば、仏語のWIKIに載っていた、喉のチャクラが閉じていると、他者とのコミュニケートが不通なんだと思うのです。他者の述べてる意味が分からない・・・というか、、、いつも、視点がズレて頓珍漢な返事をしてくるというか・・・喉ですから、声 が通過する箇所ですし、、、
>
> 結局、 音 に関して般若心経はなんらかの普遍性を生じる何かがあると思うのです。
> ただ、読む側の心の状態や心の質というか、
> ただ読めばいいというのじゃなくて、
> これはお経を読めば、霊界が反応して除霊できるというのではないという事は、江原氏も言ってますけど、
> 読む人の心と声、、 ハーモニーだと思うのです。
> 波長をあわす事のできる、身体、心があり、それに音<声>がコミュニケートをとる・・という感じに思えます。
>
> 心が大事というのはそのような事を言うのだと思うのです。
>
>  
>
>
>
>
>
>
>
> 沙羅ちゃん
> >
> > もう一つ、『般若心経』は、読み進めていくと、
> > 自ら 「大神呪なり」と言っている通り、
> > 呪文としての経典です。
> >
> > 故に、大主語が無い状態の経典になっている。
> > そういう風に見られるのですね。
> >
> > 大主語とは、「如是我聞」という主語ですね。
> >
> > 歌謡曲で暗黙の内に主語が決まっているのと同じですね。
> >
> >
> > 沙羅ちゃんのチャクラ読みたいです。

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from: 沙羅さん

2010年08月21日 07時27分19秒

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「Re:Re:Re:Re:「般若心経」についての一考察」
めるろ〜さん

般若心経ですか〜・・・
なんと述べればいいかしら〜

お経なので、
他人様に言葉の意味を云々という行為に至というより、

、机上の字を介した認識というより、

実際、声 に出してみて、

 霊達の存在を観じて、彼らがどのように呼応するかしら?

 という心が観る・・・・という実践なので、、

 マントラは、一言・・・・音

 音に心がどのように反応するのか?マントラを唱えると、感知できる・・・という感じなんです。

 コミュニケートでしょうか?

 現世の人の言説を、読み手がわが、発信する主体の意味を感じ取る事なく、コミュニケート一方通行を、永遠に繰り返していれば、

 あの世の心とも同じなので、

 コミュニケートが現世で生きてる人たちと通じなければ、

 お経を読んでも、あの世の人たちの心にも届かないと思うのです。何故なら 音 が響く、震えて、何がしかの
 心のひだに、届くのだと思うのです。

チャクラですか?

 チャクラは、下から、頭上に向けて7つ<6つ>のチャクラが全箇所開いて、そのまま天空を通し宇宙にスパーンと、一線上に、白か?金だったか?何かが繋がっているのが観得る人が観ると観えると思います。宇宙との交流という意味だと思います。
三輪氏も、テレビでよく述べていらっしゃる、、「上からのお声がありますからねえ〜」いうようなこと、フト仰るけど、
その「上」というのは宇宙を指しているとおもいます。

チャクラが閉じていると、たとえば、仏語のWIKIに載っていた、喉のチャクラが閉じていると、他者とのコミュニケートが不通なんだと思うのです。他者の述べてる意味が分からない・・・というか、、、いつも、視点がズレて頓珍漢な返事をしてくるというか・・・喉ですから、声 が通過する箇所ですし、、、

結局、 音 に関して般若心経はなんらかの普遍性を生じる何かがあると思うのです。
ただ、読む側の心の状態や心の質というか、
ただ読めばいいというのじゃなくて、
これはお経を読めば、霊界が反応して除霊できるというのではないという事は、江原氏も言ってますけど、
読む人の心と声、、 ハーモニーだと思うのです。
波長をあわす事のできる、身体、心があり、それに音<声>がコミュニケートをとる・・という感じに思えます。

心が大事というのはそのような事を言うのだと思うのです。

 







沙羅ちゃん
>
> もう一つ、『般若心経』は、読み進めていくと、
> 自ら 「大神呪なり」と言っている通り、
> 呪文としての経典です。
>
> 故に、大主語が無い状態の経典になっている。
> そういう風に見られるのですね。
>
> 大主語とは、「如是我聞」という主語ですね。
>
> 歌謡曲で暗黙の内に主語が決まっているのと同じですね。
>
>
> 沙羅ちゃんのチャクラ読みたいです。

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from: めるろ〜001さん

2010年08月21日 05時18分30秒

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「Re:Re:Re:「般若心経」についての一考察」
沙羅ちゃん

もう一つ、『般若心経』は、読み進めていくと、
自ら 「大神呪なり」と言っている通り、
呪文としての経典です。

故に、大主語が無い状態の経典になっている。
そういう風に見られるのですね。

大主語とは、「如是我聞」という主語ですね。

歌謡曲で暗黙の内に主語が決まっているのと同じですね。


沙羅ちゃんのチャクラ読みたいです。

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from: めるろ〜001さん

2010年08月21日 05時09分27秒

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「Re:Re:Re:「般若心経」についての一考察」
沙羅ちゃん

確かに、文字面だけで解釈するのもいいと思います。

自由訳も出ている『般若心経』ですが、
その深いところも知って、
自由に行くのはいいと思います。

依然、書かれたものは表層からしか理解されません。
それを入り口として、真相に辿り着き、
その上で、自由になる。
このことが大事だと思います。

最初から、自由訳を中心として理解するのは、
ちょっと違うと思うのです。

観自在菩薩は、自由に観ずることが出来る菩薩様ということですね。

観ずるというのは、サンスクリット原文で言えば、
ダルシャナ=考えるですので、自由に考える。
自由に瞑想できる。などの意味になります。

自由に考えることが出来る菩薩が深い瞑想をして、
舎利弗に語りかけるところが、この経典の場所ということに
なるのですね。

書かれたものの時間と場所は、確認したいものです。
>
>  という事で、
>
> 般若心経の観自在菩薩は、
>
>  観る事、自由自在、、、の菩薩
>
>  この自由自在に観る事が出来るというのは、
>
>  心、または精神が自由自在であるという事だと思うのです。
>
>  物事の壁面あちこち、あらゆる角度から自由自在に観る事自由自在、
>
>
>  観自在菩薩という字を、読んで字のごとく
> 菩薩と舎利子との会話だと思うのです。
>
> あまり難しい事ここで書いても〜???、とか、思うのです。
>
> 般若心経の難しい訳は、いくらでもサイトをみればお偉い方の訳が、載っていますし〜、
> 言ってる意味が分かるか、分からないかは、その人個人の立場でありますし、、妥当であるかないか?と言った判断も、読まれる皆さんが決めればいいのですし〜、、、
>
> 学者さんが書くような分野の事を書くよりも、個人でしか組み立てられない、独創的に個性を持って表現した方がよいと思うのですね。。
>
> ここ数日間今まで関係ない独り言をズラズラ書き込みしていますが、実は、これでも、数日前から「おち」に近づかないとイカンではないか?
> 自由自在に羅針盤を向け、色についても、七色のチャクラも書いてみようかしらん?とか、
> 色については、ダヴィンチの残された構想に興味深い構文があるんですけど・・・
> 、数日間の書き込みはARGUMENTATIVE<妥当あるいは妥当でない>という視点を盛り込みながら、書き続けていた・・・というのが本音なんです〜・・・
>
> あ〜しんど・・・。
>
> 、
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>
>
>
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from: 沙羅さん

2010年08月20日 05時51分55秒

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「Re:Re:「般若心経」についての一考察」
こんにちは

中々書かれないので・・・。
> 代わりに。
>

 という事で、

般若心経の観自在菩薩は、

 観る事、自由自在、、、の菩薩

 この自由自在に観る事が出来るというのは、

 心、または精神が自由自在であるという事だと思うのです。

 物事の壁面あちこち、あらゆる角度から自由自在に観る事自由自在、


 観自在菩薩という字を、読んで字のごとく
菩薩と舎利子との会話だと思うのです。

あまり難しい事ここで書いても〜???、とか、思うのです。

般若心経の難しい訳は、いくらでもサイトをみればお偉い方の訳が、載っていますし〜、
言ってる意味が分かるか、分からないかは、その人個人の立場でありますし、、妥当であるかないか?と言った判断も、読まれる皆さんが決めればいいのですし〜、、、

学者さんが書くような分野の事を書くよりも、個人でしか組み立てられない、独創的に個性を持って表現した方がよいと思うのですね。。

ここ数日間今まで関係ない独り言をズラズラ書き込みしていますが、実は、これでも、数日前から「おち」に近づかないとイカンではないか?
自由自在に羅針盤を向け、色についても、七色のチャクラも書いてみようかしらん?とか、
色については、ダヴィンチの残された構想に興味深い構文があるんですけど・・・
、数日間の書き込みはARGUMENTATIVE<妥当あるいは妥当でない>という視点を盛り込みながら、書き続けていた・・・というのが本音なんです〜・・・

あ〜しんど・・・。



 





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from: めるろ〜001さん

2010年08月18日 06時52分00秒

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「Re:「般若心経」についての一考察」
中々書かれないので・・・。
代わりに。

『般若心経』が仏教である限り、仏説でなくてはなりません。
故に、「如是我聞」がなくても、仏説であることを確認しないと
いけませんね。

観自在菩薩が何故舎利弗語りかける形式になっているか。
それは、観自在菩薩が般若波羅密多行を深く行じて、
般若波羅密多心というのを体得したが故に、
釈尊の代わりとしての地位を得て、
舎利弗に語りかけるというストーリーですね。

また、『般若心経』が誦する経典、写経する経典として
何を省いて、何を強調したか。
それを要約というならばそれでもいいですが、
決して、『大般若経』の要約ではないですし、
『大品般若経』の要約でもない。
『金剛般若経』の要約でもない。

「般若波羅密多心」の要約の経典なのですね。
それは、「空の思想」という入り口をもっているに過ぎません。
「四諦」や「八正道」という入り口をもっているに過ぎません。

<仏教の要約である>というのならばそれは当たっていますね。

『般若心経』というのは、そういう経典です。

故に、真言宗などでは、『仏説 摩訶般若波羅密多心経』と
呼んでいるのですね。

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from: めるろ〜001さん

2010年08月14日 13時11分47秒

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「Re:「般若心経」についての一考察」
>  これは、 稲盛和夫さんの「生き方」を読んで、ヒントとなって思い感じたことです。
>  まさに、日ごろ読誦して忘れず、たゆまず、怠らずとしたいものと思いました。

稲盛和夫氏のものは、高尚な哲学というものではなく、
人生論ですね。
<僕の感性ではこう思う>というものです。
僕の場合、あまり参考にした事はありません。
本屋さんで「2行読んだらもういいや。」ってね。

そっと置きました。

本当の哲学はもっと深いものですし、
根拠のあるものです。

稲盛氏のものは、根拠付けが感性であるというのは、
その通りですが、
それでは<後世に残せる哲学>には成り得ません。

感性を方法論にする必要があるのですね。

同時代的に読むには問題ないとは思いますが、
歴史的に読むとなると、ちょっと物足りないです。

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from: めるろ〜001さん

2010年08月13日 18時22分12秒

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「Re:「般若心経」についての一考察」
yeshangさん

『心経』の一考察いいと思います。
何事も一歩からといいますし。

先ず、『心経』は良く誤解されて解釈されています。
先ず、仏典である以上、お釈迦様の説いたものであるということ。
何の行に関することを書いてあるのかということ。
ですね。

『心経』は、どこにも「如是我聞」に相当する文字が無いのです。
ということは、何かの理由で省いたか。
『心経』が仏典でないかです。

観自在菩薩が波羅密多行を深く行って、あらゆるモノは空であると
照見した。

これは、釈尊の代わりとして、舎利弗に説法するに値する
波羅密多行を行った。
ゆえに、釈尊の代わりとして、説法できる境地に達した。

そういう意味です。

智慧第一の舎利弗が、釈尊に問うた。
ということが演繹的に出てきますね。

ところが、釈尊は答えなかった。(秘密にした。)
実際は瞑想したまま黙して語らなかったのです。

yeshangさんの指摘した部分は、
実は、観自在菩薩が釈尊に相当するかどうかを
明確にした部分ですね。

『心経』の言いたいことは、もっと先にあります。
頑張って下さい。
>  「色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」でよく知られ、読む機会の多いお経です。
>  ここが結論でありもっとも重要な部分と考えてきましたが、本当にありがたいところは、最初の一行、「観自在菩薩が深く般若波羅蜜多を行じた時、五蘊(あらゆるもの)は皆、空であるとて照見された」にあると感じたからです。
>  般若波羅蜜は六波羅蜜と云われる「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」ですが、これらを行じることによって空を認識し、理解できると。
>  後の文句は、空についての解説、それによる効能、般若波羅蜜のすばらしさ、だから皆で彼岸に行けるのだと書いております。
>  要するに、般若波羅蜜を行じることが大切だと。
>  そして、このお経の大切なところはここなのだと感じました。
>  ちなみに、布施は神社仏閣にお賽銭を上げたり寄付をしたりするだけでなく、生きとし生けるものに物・智慧・知識・愛情・同情などを与えることで、持戒以下はここでは述べません。
>  これは、 稲盛和夫さんの「生き方」を読んで、ヒントとなって思い感じたことです。
>  まさに、日ごろ読誦して忘れず、たゆまず、怠らずとしたいものと思いました。

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