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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

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  • from: 沙羅さん

    2010年09月03日 05時45分04秒

    icon

    神さまはホントに いるのかな?


     多分2年前だったか・・・・
     パリのコンドミニアムに滞在している I さんが、パリに居る間遊びに来て欲しい・・と言って、自分が滞在しているアパートのサロンの写真を送ってきた。

     そこは16区、治安はよく、比較的高級アパルトマンが立ち並ぶ。パリ観光をするには、ほとんど観光場所は尋ねているので、
    ゆったりしたパリ生活、起きて、天気しだいで、外に出たり、気分で、気に入った方角歩いていたりすると、不思議な場所で不思議な人に会ったりする。パリというところは、そういう場所なのです。

    目的を持たず、感性が導くのに、自然に委ねれば、結構自分自身の楽しい思い出が創れる町なのです。

    そんな訳で、わたしもパリまで出かけてみた。

    ある日、雨上がりアパルトマンに居て、音叉を出して、440ヘルツの絶対音を鳴らしてみた。

    ラ の音です。

    ラの音、絶対音の高さで、

    KAAAA・・・KA〜N〜JI〜ZAI〜BO〜SA〜GYO〜JI〜HAN〜NYA〜

    と唱えたら、教会の鐘が鳴った。

    「貴女?ここ教会があるの?」わたし

    「云、あるらしい・・・・・」Iさん

     「なんていう名前の教会?」わたし

    「知らない〜」Iさん

     「ふふ〜〜ん」わたし

    彼女は、この時のわたしの会話が気になったとみえ、

    わたしが帰った後、どこに教会があるのか?
    探しに言ったそうなのです。

    翌日メイルで、NOTRE DAME ASSOMPTION
    ノートルダム、アソンプション、聖母マリア被昇天教会だと言って来た。

     パリは山手線の内の大きさに中る。教会の数は限りない。

     それでもASSOMPTION被昇天教会はそれほどないでしょう・・・・と思って、検索したら、同じ名前の教会が他にひとつあった。

     それにしてもノートルダムだったのね〜・・・・・と考え深い。

     半年後、又彼女が同じアパルトマンを借りてる時、又パリに行って、パンテオンなどを探索しにいった。

     この時、彼女は大きなゆりの花を買うので、

     「そんなに大きなゆりの花を飾るの?」わたし

     包装紙に包まれると、等身大くらいに大きいのです。

     それを持つだけで、買い物袋は持てない。
     わたしがいるから、二人なら荷物を持つ手は足りると思ったのでしょう。

     しかし、この時彼女は、ゆりの意味を知っているのか?
     知らなかったけど、意識的に黙っていた。

     フランスの王家を守る白いゆりの花の意味、、

     受胎告知には、必ずガブリエル天使は白いゆり持ち、交霊してくる。王家の繁栄を願い、フランスの王家が、家の繁栄を願い、
     紋章に、白いゆりのロゴを考えたのは、不思議でもなんでもないかも・・・・ジャンヌダルクは、ランスで、シャルル7世の戴冠を達成するため、イギリス軍で包囲されていた、オルレアンを、白いゆりの紋章が入った旗をなびかせ、フランス軍の鋭気を奮い起こさせた。
    まるで、ドラクロアの自由の女神マリアンヌ、そのものだったに違いない。

     パリのノートルダム寺院の大きな、ステンドグラスは、キリスト赤ちゃんを抱いた聖母マリアの手にも、白いゆりがあったのではないかしら?
     
     I さんが買った白いゆりを、仕方なくカメラに納めてみた。
     写真じゃ分からないけど、ほんとうに大きなユリなのです。

     またまた、おなじみのオーラの泉ですが、

     <これしかないからね?>

     神様がいたとしたら、その人にしか分からない、、
     キーワードでコミュニケートを取ってくるに違いない。

     その人にしか分からない、キーワードなのだ。

     何故なら?

     個と個の関係が存在しようとするからなのだと思う。

     決して、団体で集まって契りをするのではなく、

     あくまでも、個<心>と個<心>の独立した関係なのだと思う。

     だから、死者も、その人にしか分からない、キーワードを述べてきて、自分の存在を知らせるのだと思う。

     優れた霊能者だと、その個と個の関係のキーワードを放つ事ができるのは、それもあると思う。

     文字や記号を分解していても、実践には結びつかないでしょう?
     自分の心を自分自身見つめてみる・・・

     そして他者に向けてみる・・・他者の心に自分の姿が見えなければ、他者は自分の中に存在していないのでしょう?

     だから、いつまでも、字を読まないと、返答が返せないという行為になると思うのですね。
     
     他者は、字を読む前に貴方の前に現れるんですよね。
     字を読む必要もないんです。

     字はどうでもいいんです。何語で書いても、どのように表現しても、どうでもいいんですよね。鏡みたいなものですから、、

    鏡<字>が浮き出る画像だけ、心で感じれば、その人が何故?
    それを書こうとしたか?
    という何故?
    書いているのか?
    という意味を汲み取るだけに思えます。

    実践は、心そのものの作用なんですね。

    きれいなものを見、きれいな音を聞く、人の優しい感情に触れ、人にありがとうと言える、、、心をきれいにする、心を清らかにする、、

    人に愛される為、神様に愛される為にこの世に生まれてきたのではないでしょうか?

    そのような、不思議な経験をし、確かなものと自分自身で観じたり、観たりして欲しいのです。

    人に言われて、それを信じるだけではなく、自分自身の自らの経験として、自分の手で掴みとる、、という前向きな意識ですよね?

    後ろ向きではなく、前向きです。
    http://www.youtube.com/watch?v=NeiGbjw2dXg&feature=related








     
     

     


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コメント: 全11件

from: 沙羅さん

2010年09月06日 23時34分10秒

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「Re:Re:Re:Re::神さまはホントに いるのかな?」
>  MSG620続き
>
>  あ〜これこれ、、これも面白い言説ですね。
>  哲学的思考の上での、神の否定 について、
>  ダンテクなどは、何を放っていたのかな?」
>  
>  「わたしが、無神論者であるのは、わたしがブルターニュ人であると同じで、髪が褐色であったり、金髪であったりするのと同様、自分の意思と関係のないことである。従って私には、無神論が他の議論より優れていると断言するだけの個人的理由は何もない。自分の舌で他の思想を味わってみることができなかったからにすぎない」 無神論
>
>  結局、哲学者にとってそのような神秘的な体験や体感がないというのは、このような感じに落ち着くので、無神論がどうのこうの・・・という人を指して、述べる事はありませんです。
> 問題は、いかにも、我田引水説に、自己の真理が、絶対正しいと述べだすような、個人の内的な価値観と、外部の他者との価値観をすりあわす事が出来ない、コミュニケートのなさ、意味の食い違いが、いつまでも、分からず<意識的?>自覚できないでいるという地点での言説を放つ。
>
> または、万人に根ざす真善美を感じる事が不可能なための心的感情を廃した無機質な価値観だけに重視する事、、 
>
> 善悪の価値観も、外部情報に委ねる場合多し。人が駄目だといっているから駄目だと思うというタイプ。
>
> 自己と他者の心的感情の交流が少ない人に多し・・・
>
> J,ロスタンは、
>
>  「神を信ずる人たちは、神を信じない我々が、その不在について考えているほど、果たして神のことについて、熱情こめて考えているであろうか?」  生物学者の随想
>
> で語っているそうです。
>
>  「なんとなく、言えてる〜〜・・・・・・」
>
>  という感じが共感出来る位置にいる人沢山いますね。
  
  ま!色々他に述べたい事ありますが〜


>
>
> つまり、、神の存在についても
>
> 肯定説、否定説 無神論者、信仰者、等々あちこちから、光を当ててみる・・・あちこちの人に放って、反応を見て見る・・・
>
> そのような、あ〜でもないこ〜でもないというあらゆる経験が複数他者との 間になければ、普遍性がみえてこないと思うのです。
>
> 哲学は、智を愛するであって、
>
> 何かを、妄信するであったり、何かを信じ込むという意識ではなく、
>
> 愛する  なんですよね。

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from: 沙羅さん

2010年09月06日 22時27分39秒

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「Re:Re::神さまはホントに いるのかな?」
>
> MSG617の続き
>
>  それで、哲学者はどのように神の概念を引き出してくるか?」というと、西洋では、パスカルと違った視差をもち、推論に基づいてあれやこれや、いかなる目標に到達すべきか?すでにあちこちなんらかの認識によって必然的に方向が決定されてしまうんですね。パスカルはキリスト教信仰に忠誠心もありますから、色々な宗教上の神をあげ、ヤコブの神やアブラハムの神・・・旧約聖書にも忠実なのでしょう。ところが哲学者、懐疑論者、無信教者はあれやこれやと、込み入った論理の筋道を辿るという事をするのですよね。
> しかし、どちらにしても、懐疑論者や無信教者の哲学者ががどこから導くのかは、神の概念の源は、けっきょく、伝統、、つまり宗教的伝統の中にあるんです。
>
> ですから、伝統というのは、大変な存在を示すのです。どの思考も伝統が導いているといっても過言ではないとおもうのですね。
>
> ですから、他者への尊重、他者の排除したり自分と違うからといって、認めないという意見に安易に至らないんです。他者を認めないというのは、他者を存在させてる伝統も認めないと言いかねないところで、述べているのだと思うのです。
>
> ベルクソンが興味深い説を述べてます。
>
>  「そのような神は大方の人々が考えている
> 神と実はほとんど無縁なのだ。、したがってもし奇跡が起こり、哲学者の思惑を逆なでして、このように定義された神が経験の領野に降り立ったとしても、だれ、一人、それをその神と気づく者はいないだろう」 H,ベルクソン  道徳と宗教の二源泉
>st vincent de paul
> この方ですね〜。サン、ヴァンサン、デゥポール、、亡くなられて200年以上経たれているのに、1820年のキャトリーヌさんが娘さんだった頃の夢に出てこられて、キャトリーヌさんを修道女になるように導いて、パリの6区のごちxごちゃ政情も不安定な1830年、に聖母マリアと出現して、メダイユなるものを、世の中に普遍化するという、、ちょっとよく考えると、不思議のメダイユが造られるまで300年のプランニングなんですよね。
>    マル

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from: 沙羅さん

2010年09月06日 21時08分03秒

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「:神さまはホントに いるのかな?」


 それでは、宇宙が何故?
 存在するのか?
 という意味を考える。
 宇宙は、誰かの意志によって造られたのか?
 と考える。
 いや・・・
 適当に、ある日・・・突然に造られた・・・・
 人間もある日、、突然造られた・・・・
 という説を信じルことにおいて、
 どのような問題が生じるか?というと、
 世界の超越体験、不思議現象にまっすぐ、見つめようとしない・・・
 という意識を自覚しなければならなくなる。
 信じたくないから批判ばかりするという意識と、
 実際、科学的証明には至らないから、批判する・・という事は違うのですから、
 最初に、「非科学的な事は嫌い」・・・と素直自分の思考を象る偏向を述べる方がいいと思うのですよね。
別に、のべたところで、誰も「あ〜そうですか」という反応ですから、他者の嗜好については、関心示す人はいないんです。

どうでも良い事なんです。
そのような次元で、呼応するという次元にいてはいけないんです。

ですから、次元が高い世界の議論というのは、他者の意識を引けない自説は、孤立するんですね。

誰にも、相手にされなくなったり、誰にも無意識分野で思われなくなったり、存在出来ないのですから・・・

次元の低い世界の議論は、自分と他が一緒の世界ではなく、ただ、ただ、自分と他の違いを見つけて、排除しあったり、指摘しあったり・・・ひどい時には言説主体の人格まで中傷しあったり・・・という誹謗中傷に至る・・という世界での議論は議論ではないと思うのですね。

 トーンTONE<格>品格が重要というのはそのような事を言うと思うのです。


 
 つまり他者を、判断するという意識は自立していないのだと思うのです。
他者が気になるから批判したり指摘したり同感したりするのでしょう。それだけ、他者を求めているのだと思うのです。


この前。オーラの泉にありました、子宮がんで、妊娠している芽をとらなくてはならない試練にあい、
辛くて、病院で「神さまなんかいない!神さまがいたら一度でも見せてみろ!」とひとりで叫んだ、向田さんは、
教会に行かなくても、信仰がなくても、心の中には神に似た存在があったんでしょう・・と思うのですね。
、試練に立たされると、自分の中からそのような神に対する不信感を現わす事で、自分の精神のバランスをとろうと生きていくのだと思うのです。

白いユリが同時にポンと咲いたを、どうのこうのは、別に重大な価値を置いて、聖母マリアの存在感を述べ手いる・・という事ではないんです。それは人間の周りの現象の一つであって、もっと驚く不思議な同時現象はいくらでも、無信論者には生じていますし、そのような事を全く気つかないだけにも思えます。

  
 と考えると、神はあらゆるものの中に内在している反面、持ち前の絶対的な性格からすれば、神は世界に対しても、人間に対しても、ひとしく超越していることになると思うのですね。
 そして、何故?

 我々に神を知る事ができないのは、この超越性ゆえなのでしょう。
神がどのような持ち主なのか?何がしかでも知りたければ、被造物の身になってみるほかないと思うのですね。

という事で、神とは何ぞや?と定義しますと、

神という言葉によって、私達が理解するのには、無限かつ人格的<存在>にして、あらゆるものの創造者の意味であるという事ですね。
また、身に具わった完全性の自ずからなる発露として、被造物のそれぞれに、自己本来の目的を達成させてやりたい意欲せずにはいられない<存在>の事だそうです。

いや〜〜〜・・そういう神さま好きだわ〜  (笑)

正直、あんまり、因果だとか、過去世との因縁が〜とかおどろおどろしい・・事ばかり、言われるよりね〜?、

自己本来の目的を達成させてやりたいと意欲せずにはいられない存在・・・・というが実に、神さまが存在する?しない?という地点で話すよりも、
神の存在の価値観が、世界の人間の思考にある・・・というのが、地球上では現状のキリスト教信者の数が一番多いという数字になっているのだと思うのです。

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from: 沙羅さん

2010年09月06日 18時24分21秒

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「Re:Re:Re:Re:神さまはホントに いるのかな?」


 哲学思考を実践する・・というのは、

 まず、全体把握
 総体把握ができる位置に立たないと、
 どうしても、派生的な現象に、意識が捉われると、そこから、なにがしかの言説を放っても、土台がないので、その時ばかりの言説、その時間ばかり、存在できない言説になってしまうと思うのです。

 例えば、このスレッドで、
 神さまはホントに、いるのかな?

 という言説を読んだとします。

 まず、神さまは実在として見えないのですから、
 形而上METAPHISIQUEメタフィジック
 の事を話そうとしているんだな?
 と受信者は感じると思うのです。

 別に神さまじゃなくてもいいのですが、復活でも、輪廻でもなんでもよいのですが、、、とりあえず、現実に実証できない分野の事です。

 言説は人間の行為ですから、無信論者、または無神教徒が語る、神の存在または神の否定、信教徒が語る、神の存在または神の否定、・・・色々あると思うのですね。

 見た事がない現象、見られる事がない現象を、存在するか?、存在しないか?という視点で語るというのは、哲学思考を目指し人の意識と違うと思うのです。

それこそ、心や精神の病いをもたれて入院なさっている病院には、
主体発言で、「わたしは、神である」とか、「私は、仏陀である」または、「わたしは、竜樹の生まれ変わりである」・・等々、、、
仰られる方たちがかなりいらっしゃいます。

例えばです。

美輪明宏氏が、「わたしは、菩薩です」とテレビで公言なさっているからといって、「三輪明宏氏は頭が病んでいる」・・・と判断はしないのですよね。<中にはいても、個人への見解、普遍性はもたないし、むしろ、個人への発信者の嗜好が優位にたっての判断に近いのが殆どである事>

実践として、大衆に納得させてしまう、死者や霊界達とコミュニケートを確かに取られて、本人しか知らないはずの情報を次々と、放つからなんです。

神秘世界で実践できる人達が放つ、神様という意味と、
実践できない人達が放つ神さまという意味は、多少違ってくるでしょう。

そのような言葉には、言葉を放つ人がどの位置に立って放つのか?
という分析が当然事前に行われているはずなんです。

そうすると、

話すべき相手を選びますよね。

分からない人に話しても分からない・・・

体験していない人に話しても分からない分野というのが確かにあるようなんですね。

キリスト教は、高次の世界に近づけば、霊感を身につける為、神秘的な現象を経験し、それが、神と呼べるのか?ご先祖様の導きとよべるのか、または、自分を守る守護霊<これが守護天使と訳されている場合が殆ど>のなんらかのみちびきなのか?
そこら辺は途上経験の上、明確にできるのか?分かりません。
しかし
キリスト教徒達の近いがモンマルトルの誓いに示されるような、教義よりも霊的能力の高い、波動の高い普遍性を持つ聖人達の間で誓い合う・・・という史実もみると、霊感能力をつける・・・という目的に意味を持っていたというのが分かります。


どちらにしても、
私たちにとって、神とは何なのでしょう?

と話さないとならずにはいられない・・・という現象が現実に生じている。

そこに、視点を向けて、話をする・・というのが哲学の実践のようです。
高校での哲学講義の形而上学についての講義で最初に話されるのが、まず、我々にとって、神とは、何か?

を知らなければ、<神は存在する>という命題にたいし、
その是非を論じる事はできない・・・
と書かれています。

結果、、つまり、存在するか?存在しないか?

という結果に至る前に、人間には思考し、自分以外の他者と意見を交換し、共通体験に至る・・・という事をしながらしないといけない事が沢山あり過ぎるのだと思うのですね。

神については理論や論理云々よりも、全ての事から超越している存在していると思われるのに、どうやって証明したり明確化しようとして、人々に明かしたいと思うのでしょうか?

とわたしは思うのですね。
人に証明したいと思う事じたいが、すでに人間としてもオコガマシサを感じてしまうんです。

そして、そのような人間としてのオコガマシサが少しでも心にある人は、
実践にはいたらず、霊感も直観も与えられる事はない・・・という事は確かなようです。

認識、知識だけ積めば良いという世界ではないんです。

そして、霊感や霊脳力が、不足している人達だけの世界で、自己言説の有効性や我田引水ばかりの行為に夢中になり、何かを発信したり、何かを書いたり、世間にアピールし、自己説を他者に知ってもらいたいという現れ方でしか存在できない・・・永遠と続けている・・・のだと思うのですね。

普遍性は自分の中に閉じこもって超越を求めているのではなく、

他者の心の中にしか、自分の真の姿が見えないんですよね。
自分が他者もそう思っていると思ったら、全然そう思っていないんですよね。外国で、外国語で日常生活すると良くわかりますが・・・そのような広い分野で、自分を存在しようとしているのですから、他者は、しかも知らない無知の他者達の心なので、家族や仲のいい友達や、同じ信仰を持つ人達でも、同じコミュで書き込みする人達の他者ではありません。

話反れますけど
哲学史をよんでも、神の証明は、パスカル、デカルトあたりで燃え尽きますかしらん?
その後、認識、意識へと近代哲学は心理学、現象学へと向かいますから・・・たしかに、神さまの存在を証明しようと思っても、思う自分は、生きてる人間なので、死んでる霊体ではないので、

このような書き込みの形としては無理に近いのですが、
正常精神、つまり精神病を患っていない、健康的な精神で健康的に日常生活を営み、健康的な人間関係が造られている職場や家庭の世界の人間です。

普遍性を持つ事の出来る位置が生活基盤になっている人の精神世界における、何らかの現象を、皆で話し合うという方が良いと思うのですね。

信仰協会内でその人達だけで、一緒に暮らし、苦楽を共にグループ内だけの人達と恋愛したり、子孫繁栄ををする・・・みたいな方向に向かう思考は地球の自転している方向と反対なんです。閉塞感はそこまでいかなくても、普通にコミュで話していても、似たような、類が類を呼ぶ現象の人達が呼応しあって、場面も見ますが、、、
ですから、自由や自立、、という言葉 が放たれないのでしょうかね?


そういえば、話、神さまからずれますが
フランスのテレビで、人生の問題定義をあらゆる角度から心理学者や社会規制、道徳観など沢山の立場の人が意見を交換しあう番組があるんです。
、問題は色々、恋愛でも失業でも、すべてです。

イスラム教の家族の息子とユダヤ教の家族の娘が恋愛関係に至るんですよね。テレビのスタジオに、娘に暴言や暴力をふるった、男性を家にあげない、娘さんのお父さんを呼んで、テレビでは心理学者を含めデイベートするんですね。何故なら?娘さんは彼氏と一緒に人生を歩みたい。

暴力がいけないという見方ではなく、暴力を振るうイスラム教の男性に倫理を説けるのは、その女性しかいないはずですから、、、
そして一緒に彼氏と人生を歩み家族を築く事になるのは、自分の父親に彼を認めてもらわないと、彼女の幸福は完全にならないんですよね。
肉体的には、一緒に過ごしているので、娘さんの父親、もちろん娘さんの自由意志を尊重するのですから、父親としては、彼氏と同居する事は何も反論はないんです。
しかし、娘さんは実家に自由に帰れても、彼氏を娘さんの実家の敷居に上げないという行為は、
個と個の関係が成立しているんだと思うのです。
娘がなにをしても自由だが自分の家に上げる人は自分が認めた人でしかあげない・・・・という問題について、

正直、ユダヤ教の選民思考が、家に上げるという行為、、自分の敷居の内側と外側・・空間です。

日本人思考にも類似していると思いました。


 

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from: めるろ〜001さん

2010年09月06日 03時31分06秒

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「Re:Re:Re:神さまはホントに いるのかな?」
科学として神(一神教など)は、理論的に存在可能か?

残念ながら、存在できません。
日本におけるお化けと一緒なのですね。

存在するということも出来る。
しかし、それは妄想や信仰の対象として存在できる。

神は存在できるのですね。
それは人間側の規定で存在できる。

人間側の規定が、違えば存在できない。

思考の起源として、神は存在できるのか?
論理的に行きましょう。

”自然や宇宙は神が創造された。”
それは、もう一つの存在場所が必要になる。
神の存在場所と宇宙の存在場所である。

神が宇宙や自然を創っただけで、存在場所が違うのであれば、
神は人間界に対して何も影響を及ぼさない。

いえ、そもそもアインシュタインにしても、象徴的に
神の如く理路整然とした法則が見つかった。
そういっただけである。
人間側の都合で、神という存在が規定されているのである。
神の痕跡というが、自然の歴史でそこに不思議な形や生物が
存在するだけなのです。
それを、自然の産物と呼ぶか神の仕業というかは
人間側次第なのです。

西洋では、神の存在を肯定して作られた歴史がある。
殆どの人工物はそうなっている。
ドクロの絵があってもその対比として神の存在がなければ、
ドクロの絵の意味が薄れてしまう。

逆に、ドクロの絵が神の存在を正当化しているとも言えよう。
神と悪魔の場合、ちょっと事情が違う。
神と悪魔は単なる人間の精神が隣り合わせであるというだけで、
悪魔が神の存在を否定することはない。

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from: 沙羅さん

2010年09月05日 23時44分54秒

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「Re:Re:Re:Re:神さまはホントに いるのかな?」


   今日は日曜日。

 レモンさんに電話をかけた。
 しばらく<と言っても、2週間くらいですが>音沙汰がなかったので、一人暮らしのレモンさんには、用事がなくても電話を入れる。

 「 何?聞いてるの?」わたし

 電話のレモンさんの声以上に大きな、音楽がかかっていた。

 「あ〜・・・ラジオミュージックで、すごいの流しているよ。」RAYMOND

 「そうそう、あの人どうした?ホラ!日本人で癌になった人」RAYMOND

 かれも、15年前に前立腺がんの手術をしている。
 だから、わたしの友人の癌の治療の話に興味を示す。

 正直、癌治療をするのに、近代医学に確かな快復や治療の結果が得られないと判断し、代替医療へ、少しづつ比重をかけそうだ・・・というMさんの最近の情報を説明した。

「 あのね?
 LYONの癌専門医に説明された、その外科手術は温熱治療するのに、必要なのか?という点が良く見えないのよね?

 かといって、日本でも、温熱療法はしているみたいだけど、
 それがすごく効くのだったら、こんなに癌患者が多いのだから、皆温熱治療に切り替えてると思うじゃない?

 でも、どんな治療もどんな方法も、医者によって色々あるけど、
 未だに、画期的な治療はないと思うの。

LYONの外科手術が何故?温熱治療の前に行うのか?というと、
結局、がん細胞の移転のリスクを、最初からなくして、その新治療の結果が一番よい結果として得られるように・・・という、結果目的らしいという事が、ヒシヒシ、感じてくるのよね。

ご主人はお医者さんだけど、彼女にその手術のリスクは把握できないはずだから、ご主人が真っ先に反対する・・というのは、
無言の意味があるでしょ?

それなのに、手術をうけないで、このまま科学治療だけでいけば、貴女はOOしか生きられません・・・なんてお偉い専門医は言うらしいの。」わたし

「AH〜〜〜 c est pas possible]RAYMOND
A^h〜〜なんてひどい・・・

 その代替医療をする先生は、LYONの外科手術をしない事をつげたらなんて言ったんだ。?」RAYMOND

 「 初めて、ご主人がお医者さんだって言ったらしいの。彼女も、代替医療治療するこういう人達が必ずしも、近代的な医療の分野で働く人をよく思ってなかったらこまると思って黙っていたらしい。
 それで、外科手術の目的は、言われた、秘蔵と、小腸を摘出し、POCHEという人口肛門をつけるような生活になると説明された・・・と言ったら、MAGNETISEURは、
「貴女、おいくつ?」と聞いたらしい。

そしたら彼女が、「65歳」と応えたら、
「その若さで、POCHEは可哀想だ」と応えたのらしい。

「pouf・・・」RAIMOND
 何て事だ!
 

MAGNETISEURのこの答えが、何を意味(示唆)するか?分かるでしょ?
MAGNETISEURの治療は、むしろ 彼が、感じた人間的感情に作用するように治療を進めると思う。大変なことなのよ。
心が、何らかに作用するというのは・・・

本が、出ているの。

本屋さんに売っているけど、グレゴリアンという人が書いた、フランスのGUERISSEURS 有能な民間治療師9人と会って話した会話の内容が書かれているし、MAGNETISEURで治療するという目的でMAGNETISEUS達でオーガナイズされて、協会があるらしい。広く世間に理解してもらおうと、時々公開議論も催している。
そのうちの一人、ムニエ師の処に通っているの。」

と、わたしは、彼らの状況と、今後の見立てをRAYMONDさんに説明した。

「tu est vraimen、、、、」
 テゥ エ  ヴレマン・・・
 君は、ここ数年、、本当に・・・

 と言って、レモンさんは、後続の言葉を濁した。

 そんな事を話しながら、同時に、渋谷の祖母の眠っている金王神社を思いだしたりしていた。

 なんだか、全て力を総合すれば、Mさんは大丈夫のような気がしてきた。治るとか治らないという結果を求めるのではなく・・・

 私が、生まれて初めて、予定外にたずねた、高野山は、9月27日で、カトリックの聖人カレンダーは、聖、ヴァンサン、ド、ポールの祝日なのですが、
前日日本の家族から電話があって、もうすぐ命日だからお墓参りしないとね?と述べてきた。そうだった。
大好きな祖母の命日は9月27日だった。
あの聖母マリアにパリで合わすためにキャトリーヌ修道女が、導かれた、若い頃夢に出て神父さんなのですね。

ご先祖様に見守られている?

写真は、オピネルナイフのロゴの3本指。聖、洗礼者ヨハネの指の聖遺骨が保管されてるらしいという、ST JEAN  サン、ジャンというARC川沿いの町で発祥したオピネルナイフのロゴ。

 同じく、パリの、ノートルダム寺院のステンドグラスの白いユリを持つ聖母マリアが抱く、キリスト?と思う赤ちゃんも同じ3本指を天に向けているのはどういう意味なんでしょう?
    


 

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from: 沙羅さん

2010年09月05日 15時44分27秒

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「Re:Re:Re:神さまはホントに いるのかな?」

  日本語を介して、このように書き込む時にいつも思うのですが、自分が日本人に生まれて育って、日本の教育を受けたから、
日本語で、日本人と話すのは、当たり前でしょう?

 と思う事自体が、すでに 自分の中に他が居なくなる状態なんだと思うのですね。

 日本では、子供が通って日本語の読み書きを習うのにも

 国語 という言葉で呼ばす・・・という事さえも、

 不思議に思わない。

 この不思議に感じないという意識が生まれない事が
 問題なのであって、

 他のどの国が、自分の国の言葉を、国の言語 と呼ばれているのでしょうか?
 

 ドイツ語はドイツ語の授業ですし、
 フランス語やイタリア語、も同じだと思うのですね。

 国? NATIONAL?
 
 フランス語だと、国 という意味で話を通じさせると

 むしろPAYS ペイという音素が的確かもしれない。

 NATIONAL は、人、、つまり国民という意味が強いと思うのです。

 国語、、国の言語という不思議な言葉は、どちらに重心が置かれているのかしら?

 しかし、教育機関の科目の名称に、

何故?

 NATIONAL LANGUAGE なのかしら?

 普通に他の国の通常の呼び方、日本語 の授業 と、呼べばよいのに・・・

 何故?

 そこで、言葉 はNATIONALという意味を引きずる表現にしないとならないのかしら?

 と思うのです。

 聖書でも、コーランでも・・・

 書かれた言語、オリジナルで書かれた言語を、生活を介し
 その言語で話さないと、なかなか本当の意味というか、書かれた本当に伝えたい意味というのは分からないと思うのです。

 そのような深い意味を考えると、

 前にも書きましたけど、太宰治自身が、聖書の、ルカ伝?だったか・・・それだけを、解釈するのに、3,4年かかってしまった・・・という事の意味を考えるというのは、

 文学を表現する思考にある人でも聖書の書かれている本当の意味を解釈するのは、大変な事だと思うのです。

 物事を理解出来るというのは、自分の中で理解しても仕方ありませんから、その理解が他者と、意見を交換し、すり合わせないと
どの次元で言葉の意味を解釈できたか?というのが、分からないと思うのです。つまりそこには、体験 が両者にある・・という事が必要不可欠になってくる・・と思うのです。

ですから、体験を、何語で話してもどのような表現力でもかまわないのですが、体験が伴わないと、どうも、難しい表記を、こねくり回す・・・という方向にいってしまうのでしょうか?と思うのです。

他者が必要なければ、小山の中で、一人で 行為にいたり、超越でも悟りの境地でも、よいのですが、・・お一人でなさればよいとおもうのですが、

布教にしてもこのような書き込み行為もそうなのですが、
他者を求めてのコミュニケートの行為の一旦なので、

まず、他者を理解しないと、哲学も信教もないと思うのです。

コミュニケートは他者不在では、コミュニケートとは言えませんから・・・・
 

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from: めるろ〜001さん

2010年09月05日 07時19分04秒

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「Re:Re:神さまはホントに いるのかな?」
これを仏教と比較するとどうなるのか。

仏教は、自己が仏になる道を説くものであって、
自己が仏になると、沢山仏がいることになる。

キリスト教では、自己が神となることは、
宇宙を創造させる神が沢山存在させることになり、
何がなんだか分からなくなる。

たまに「俺は神だ。」という人が現れますが、
これは、神様の技のように優れているという意味であり、
神と同一であるという意味ではない。

ここは仏教と有神教との違いはありますね。

実は、仏教でも神は居まして、
梵天様、大黒天様など、天と訳されているのは、
大体が神様のことである。

人間と接している現世利益のところで、
仏教では神を存在させています。
神様なんですけど重要な位置ではないですね。

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from: めるろ〜001さん

2010年09月05日 07時12分30秒

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「Re:神さまはホントに いるのかな?」
神という信仰においては、存在するでしょう。
哲学と違って信仰は、その人個人の中で崇拝する
ということですので、存在するという言葉が適当です。

しかし、これを同じ習慣にない人たちの前で言ったら
どうなるでしょうか?

勿論、厳密に同じ習慣の人は稀ですが、
地域的に同じ習慣を持つ人は、世界中に多数あります。
それが原初的な信仰になりますね。

少し深くなると教義に触れたくなる。
キリスト教ですと、『Bible』を読むということになります。
そこで疑問を持たず、読み進めるということは、
既に信仰の中にいます。

しかし、検証し読み進めるということになると、
思想的理解に発展する。

それが方法論を利用して解読するようになると、
哲学となる。

『聖書』は時に自然現象を無視して書かれている物語なので、
それを比喩として捉える。この形も信仰に基づかないと
出てこない。

これらとは別に実体験ではどうか?
自分の思いのままにならないことは多々ある。
これが苦しみの場合も楽しみの場合もある。

また、奇跡という体験には、「神様が与えてくださったものだ。」と神を讃える。

そこで、神がいると思う瞬間でしょう。

理神論的にはどうか?
神が自然法則など宇宙を創造したものであるならば、
神は人間が見えない地平で存在することになる。

アインシュタインもエネルギーの法則の明解さに、
驚いて、「この法則が神だ。」と言ったように記憶しています。

ホワイトヘッドも理神論的に『実在と過程』で
神の存在を証明している。
この証明の可否はともかく、
信仰ゆえに神の存在証明に向かうその姿は、
神を存在させているのだろうと思ういます。

神が人間界から見えない存在であるならば、
それを神の存在証明になるのか?
という疑問は置いておいて、

信仰というものは、確かに神を存在させている。

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from: 沙羅さん

2010年09月03日 23時06分50秒

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「Re:Re:神さまはホントに いるのかな?」

  不思議な出来事のひとつにはこういう現象があるのです。

 明らかに、その人の名前も何処に住んでいるかも、私生活を知らないはずなのに、

 ポン、ポン・・・・・と、最初から観wたり、聞こえたりする事を放つ・・・そしてドンピシャなので驚く。

 そのような、霊視能力を、実際自分の前で、見せられる。

 このような人達は、決して、
〜〜教の〜〜教祖は、ご立派で信用おける人です。パチ、パチ<手叩いて褒めまくっているある信教徒さん>
すばらしいとか、
 〜〜信仰の神様はすごい、すごい、すっごい〜・・・であるとか、
 やっぱり、〜〜教のマホメッドはすごい・・であるとか、
 ユダヤ教のラビのなんとか、なんとかには、すごい力があるとか、、、仏教も、同じく、、、斯く斯くしかじか<あまりの宗派の多さに、ひとり聖人の名前あげるのにも、醜い宗派争見せられて疲れてる状態、>

 とにかくですね・・・

 江原浩之さんのお宅拝見というYOUTUBEがあったので見ましたら、聖母マリアの像と、仏壇、神棚ありましたよ?

 こういう現象はどう、一般の人々は理解したらいいんでしょうかね?

 それに、哲学を身に着けるというのも、
 ある意味、感性的、直観能力を鍛えるという事もありますから、、、、

 それによって、何がしかの不思議な体験や、自分も含めた、複数多数の他者との場所でも、何らかのコンタクトがあったりするという実践ですね・・・・

 実践に体験される方は、最初から、信仰や宗教云々決して言いませんけど、、何故でしょうね?

 字を読んだり、言説を読んで、この方記号に振り回されて、

 決して、自分に何がしか体験や、他者との共感を感じられない人に限って、最初から信教教義を話されるという事はどういう事なんでしょうね?

 何故か?
 言ってる事の意味を理解できないらしく、、、、
 意味を理解してないから、このような返答になるのかしら?

 と思っていると、

 大概、
 「わたしは、そんな事は言っていません」という事を書いてくる。

 言っている
言っていない、、

 つまり、書く
 書かない、、という事がその人にとって、一番大事なバロメーターになっているようなのですね。

 つまり記号を落とす、、という事が一番大事らしいんです。


 記号に真実のコミュニケートはないんですよね?

 他者とコミュニケートをするというのは、
 人と人の間にある、空気を察する、意味でしか、真実とするコミュニケートはないんですね。
哲学的に述べると 
全ての実体と同様に存在へと固執する固体として・・・・
 理解された人間は、その人間を現実というものの
目標にするような特権を認めない限りにおいて、
現代の、反、人間主義は多分
、正しいように観えるのだとおもいますし、この説は有力に思えてくるのでしょうと思います。
しかしです・・・
自我は、自己へと連れ戻された時、みずからに反して、ある程度の社会的規制を感じ責任あるものとなるやいなや、、、
自我力のエゴイズムを放棄し、存在のなかに意味を導入する事になるんですね。

何故ならコミュニケートの手段はそれしか人間に残されていないのだと思うのです。

他者とコミュニケートをする時にです・・・

何故?

記号では不可能なのか?
というと、
心のコミュニケートには、起源的な責任、他者に対する前です。

接し方、心の扱われ方でもいいです。
そのような他者に対する前、起源的な責任は、存在によっては測られず、決定<記号を介す、結果を追う、後追い呼応>によって先立たれてはいないのでしょう。

 ひとつの手段によって、なにかの超越体験に達したからといっても、その個人が選択した手段は、たまたまであって、
 万が一他の手段でにたような境地に至る人が何人もいたら、
 その教義だけが、正しいであるとか、絶対だ!であるとか・・・・述べてしまった地点で、世間や社会の人間は、

 なんの、関心も示さなくなると「思うのですね。
 何故なら?
 未来は、開かれた、世界にしか、扉を開けてないからなんでしょう。
  何故でしょうね?
実体の自存力よりも古く、例えば洞窟のクロマニヨン人の壁画に魂を重ねもっと、古く、、無ー始源的なものから出発し、自我は自己へと回帰し、そして<他人>に対して責任あるものーすなわち、
自分の後ろには何百の霊や魂や心が存在する事、、、すべての人々の人質、、すなわち、その交替、交換不可能そのものによって、すべての人々に置き換えられた、人質、、まさに他であるものとして自我とは同じ域に存在するのだと思うのですね。
時間経過を無駄にしてはいけないんでしょうね。

高次化しないとならないのだと思うのです。心の進化、他者との調和、他者との心のコミュニケートでしょうね。

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from: 沙羅さん

2010年09月03日 17時00分08秒

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「Re:神さまはホントに いるのかな?」
受胎告知の画は、沢山の画家によって描かれているのですが、

 大きな、ユリの花を持っているガブリエル天使の絵は、え〜っと・・・
 ボッティ千ェリかしらん?

 このユリの丈の長さからも分かるとおり、

 お花やさんが、ユリを傷つけないように、大きく包装するもんで、
 全く等身大の紙袋を持っている状態で、16区を歩いていたのですよね〜・・・・

 昨日の夜、パリに居るIさんに、スケジュールが立て込み、パリに行ける日にちは取れないから、、、

 連絡した。

 彼女は、北野武展を見に行って、初めての美術館なので、場所が分からなかったので地図を見たら、あの天文台の近くだった・・と言ってきた。入りたかったけど、予約制だといわれは入れなかった。

 パリ天文台には、あのダヴィンチコードの話題になった、ローズラインがある。
 パリ天文台からまっすぐ、直線上に
 ノートルダム寺院に向かう、道路の名前は、サン、ミッシェル

 ST MICHEL なんですね。
 そのサン、ミッシェルを、十字の形で、横切るのが、
 サン、ジェルマン デプレ、教会の前の通りですから、

 サン、ジェルマン、デプレ通りでしょう。
カタカナで表記すると分からないと思うのですが、
デ、プレ という音素自体が、野原とか広っぱとか、
そういう意味なんです。
ですから、野原、広っぱにあった、教会はST GERMAIN
教会が、パリで一番古くから存在するという、意味が音素を通して想像できるんですね。

想像力というのは、哲学を探求する上に必要不可欠な能力というか意識なんですよね。

想像力が普遍化できるかは、他者とのコミュニケート、そのものです。複数他者達とのコミュニケートが能力が不足していると、

よくありますね?対峙世界で、対話者の言説が想像であると、判断できず、妄想と放つ、、という接点で呼応しようとするんですね。

複数他者、世界のあらゆる人間と心のコミュニケートを体験せず、自分の想像力の欠如を、相手の言説に呼応する時に、妄想という言葉を安易に放つ事で、自分は優位に立とうとするんでしょうね。

何故なら?

想像より妄想、という、音素の方が、日本語がはびこる言語社会では権力的で横暴性を、含むからなんです。

 言語が思考を象るという事はそういう事なんですね。


 どのような、言語、音素をよく放つのか?

 その人の思考の癖、嗜好の癖、傾向、等々

 全て、分析しますとね?紋きり型表現で、コミュニケートするというのは、そのような思考の枠になっているんですね。

 それが良いとか悪いというのではなく、
 超越というのは、記号を読むではなく、記号の外にあるのですから・・・・・
 その意識は記号に拘る・・・という意識というのが見えてくると思うのです。

 少し、心で感じた事を放つ、、、という心の進化というか、
 心 の状態をなんとか、してもらえないと、コミュニケートはいつまでたっても、即物的な手段に頼るようになると思うのです。

なんだか、随分ガブリエル天使から反れましたね。


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