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「哲学〜真理〜探求について」

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  • from: 沙羅さん

    2010/11/06 19:22:40

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    古代の聖地と空海


     地球ひとりある紀 MSG751からの続き。

     空海と最澄の、受け止め方は、
    「役行者 と 修験道」宗教はどこにはじまったのか。久保田展弘
     の本に載っていたの抜粋してみます。

     弘法大師の名で親しまれ、全国各地に伝説をのこしているだけに、空海の実像にはつかみ難いところがある。
     ここが同時代に生きた最澄との大きなちがいであろう。

     最澄はどこから見ても求道者であり、求道者であるがゆえの厳しい悲しみのようなものが、その身辺にただよっているようにみえる。
     くらべて空海は、その多才な活躍もさることながら、ちょっと格好よすぎるところがある。

     おそらく空海には、密教に的をしぼって入唐をはたし、短期間であるがその成果をあげ、帰国した日本の王朝がこぞって、その密教的なるものに期待を寄せたことにたいする、たとえようもない自負と自信があったからではないだろうか。

    しかも空海には、挫折の影が見えず、最澄には死ぬまでその影をひきずっていたような気配がある。

    空海は、20代のはじめに、儒教や道教を知った上で仏教が優れた教えであることを信じていた。24歳(797年)のときにまとめた、戯曲風の著作「三教指帰」はこれら3教を体現した人物を登場させ、さながら比較宗教思想風の物語に仕立てあげている。
    しかも、この著作の中で、空海は、みずから山林修行していたことを述べていた。
    31歳の804年、4月に東大寺戒壇院で受戒し、その年の七月に入唐留学生として乗船するまで、およそ、7,8年のあいだ、空海の行動については何もわかっていない。
    のちの行動などからも推定されるのは、空海が、20歳のころには、机上の学問を離れ、山林修行者であったことである。

    そしてその行動が、奈良の都から吉野、大峯周辺、高野山のあたりに及び、故郷のある四国に広がっていた事も推定できる。・・・・・・・・・・・・・・・

     と、言う事だそうなのです。



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コメント: 全1件

from: めるろ〜001さん

2010/11/07 03:42:56

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「Re:古代の聖地と空海」
空海は、吉野の山を駆け巡り、パトロンに出会ったと
推定する説に同意しています。
そして、その金をもとに中国に一度渡ったと。

7.8年もあれば、中国語をマスターするのに
十分な時間があるでしょう。

百瀬説です。

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