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「哲学〜真理〜探求について」

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from: 沙羅さん

2009年11月24日 00時30分32秒

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地球 ひとりある紀

アメリカ人のフランセスから頂いた本、お母様の旅行のお供を半世紀した本、高峰秀子さんが執筆した本の題名「巴里ひとりある記」を真似して、地球ひとりある紀・


 アメリカ人のフランセスから頂いた本、
お母様の旅行のお供を半世紀した本、
高峰秀子さんが執筆した本の題名「巴里ひとりある記」を真似して、
地球ひとりある紀・・・たてたいと思います。

 
 もうそろそろ、来年の新しいカレンダーが出回りますね?

 フランスのカレンダーを見ると気つかされるのは、日本と違うのは、毎日全ての日が、何かしらの意味があるらしいのです。

 カトリック教の国ですから、一応、国が決めてる祝日、7月14日のパリ祭であるとか、第一次休戦記念日11月11日、第二次大戦休戦記念日5月8日、またカトリックの復活祭、聖母被昇天の日・・・と色々記載されてる他に、聖人をまつる日が書かれている。聖人だけでなく、天使を祀る日もあり、国の祝日ではないけど、全ての日にちに、人の名前が記されているのです。
あの、フランシスコ、ザヴィエルさんも聖人扱いですから、聖フランシスコ、ザヴィエル年12月3日がそうなんですね。同じように、ジャンヌダルクも聖ジャンヌダルクとして、各教会に像がありますから、5月9日が、ジャンヌダルク祭の日です。
これは、近い未来国民の祝日にするかどうか、国が検討中だそうです。
その他、聖キャトリーヌ、例のマグダラのマリアは、聖マドレーヌですし、このローマ教会が認めた聖人はどれほどあるのかしら?と思って、WIKIで調べたけど、結構あるんですよね?
亡くなった後、なんらかの普遍性が何世紀にわたってあれば、その方の名前は聖人として、SAINT がつくのですね。

ですから、亡くならないと駄目なんです。・・・^^
つまり、生きてる間に名声をや何らかの存在性を、世の中にアピールしようとするような動きはおかしいと思うのですよね。

何故なら、他界した後に人達の心に存在しなければ、真の意味での普遍性はないと思うのですね。

パリのパンテオンに埋葬されるのは、亡くなった後、後世代の人達によって、その人の生きてきた貢献した経験がどのように後世代、何世紀にもわたって、存在し続けたいと希望したり願ったりするからでしょう・・・と思うのです。

聖人扱い、聖人として認められる・・というのはそのように歴史の時間の重みがあるんですね。

生きてる間に、既になんらかの権力を手中して、信仰や宗教協会の教祖として崇められる存在化とするというのは、やはりおかしいと思うのですね。まるで、マスメディアの力を利用しないと普遍化できないような動きはとても自然とはいえないと思うのですね。

キリストにしろ、お釈迦様にしろ、人々は自然に近づいて来て、普遍化していったという流れのなかにあると思うのです。


それで、なんですが〜・・・

最近、近所のレモンおじさんの1926年に突然、姿が消えてしまい、当時、死体もみつからず、なんの手がかりもなく、そのまま、80年近く経って、いきなり、何を思うのか?レモンさんは、自分の手に渡ってから20年以上も保管していた、行方不明のおばさん、ROSALIEロザリーおばさんの手紙の束を持ってきた。行方不明になった頃は、このレモンおじさんだって、この世に生まれていない。
それでも、何故か?フランス人というのは、捨てないで持っている・・・保管するらしいのです。

なんでしょう?彼らの気持ちの中で、なんとなく納得いかない記憶が、そのような思い出の品を無碍に扱えないそのような行為に出る事にブレーキがかかっているのだと思うのです。
心の存在なのでしょう・・・・と思うのです。

レモンさんのお父さんが、お姉さんのROSALIEロザリーさんと交わしていた手紙の束だった。その中に、一枚だけ絵葉書があった。
ROSALIEロザリーさんは、行った事がないパリの凱旋門 ARC DE TRIOMPHE アーク、デゥ、トリオンフの写真なのです。

 9月の初め、わたしは I さんと、パリと、ロアールに旅行に行った。ダヴィンチの息吹きを感じル為に、ロアールに行ってみたかった。ダヴィンチを擁護した、フランソワ一世が、SAVOIE公国の直系の血をひいているので、イタリアの血縁で繋が、引き寄せたのではないか?とも感じたからなのだ・・・
イタリアにはラファエルもミケランジェロ、、他にいくらでも、イタリア芸術が最盛期の時代において、

フランス国王は、
何故?
ダヴィンチに矛先の矢を向けたのか?
それが知りたかった。

しかし、その後の5世紀の間のダヴィンチの残した芸術品によって、フランスは、ルーブルにしても、他のあらゆる分野にしても、かなりの文化的な影響・・・つまり
彼が死ぬ前たった2,3年ロアール川沿いに、住居を構えた事で、大変な影響をフランスに残している。

しかも不思議な事に、たった、2,3年のフランスでの生活は、ダヴィンチにとって、フランスのロアールは自分は骨をうずめる場所・・・・・とわかっていたのではないか?

なんというか、分っててフランスに来たのではないか?
フランソワ一世との出会いのやりとりで、すごく感じるのです。

芸術家は、死ぬ場所は分かって動くであろう・・・・
ドラクロアも、サンスルピースに、天使とヤコブの壁画を描くために、ワザワザ、ヤコブ通りから入った奥、今は彼の家は美術館になっているのですが、よほど其処が気に入ったのでしょう。
引越して、サンスルピース教会に歩いていける場所に引越したのだった。
ヤコブ通りは、パリで一番古い教会、サンジェルマン、デプレ教会の裏にある。そして、フランソワ、ミッテラン大統領も、ルーブルのピラミッド計画をオルセー美術館、学芸員である愛人のアンヌさんの意向を聞きに、出来上がったマーケットと呼ばれる縮小モデルを車で運びヤコブ通りを、往復していたそうなのです。ヤコブ通りは、アンヌさん親子が住まわれてた小さな通りなのです。
当時、国民も閣僚も皆、度肝抜きましたからねえ〜〜
ピラミッドですから〜ルーブル宮殿に〜

そのような全員反対空気の中で、アンヌさんの直感がミッテランさんを、ピラミッド計画が倒れないように最後まで、後ろ立てしていたようだ・・・と、当時の閣僚達の思い出話でありました。

存在するって〜すごいですねえ〜・・・・
現れ方ってすごいですね〜〜・・・

ピラミッドのおかげで、ルーブルは又大変な観光動員数になり、ダヴィンチコードのおかげなのかどうか知りませんが、今年の4月からフランスの国家公務員で、教育省に務めている人達は全員、ルーブルの入場は無料になったのです。公務員はフランスの国民全体の
50%ほど〆ていますから、すごい影響力ですよねえ〜。

そうそう、それで話しがまた逸れました。
パリにはヤコブ通りは、そこにしかないのですが・・・・


 そういえば、最近又、亡くなられたフランセスのお母様の話しをこのブログに書くのは、亡くなられて2年目なのかしら?と思っていたら、突然、智ちゃんがおととい『そちらに行く用事ができたから、寄ってもいいですか?」という電話があった。
智ちゃんとR君が来てくれた。買ったばかりのボジョレーを開けて、わたしも久しぶりに手作りワンタンをつくった。ワンタンなどないので、豚肉の塊をミンチするところからはじまるので、時間はかかる。でも2ヶ月振りなので、久しぶりに日本食を食べて、
皆で、行方不明のロザリーおばさんの話しをして、あちこち情報収集の為、お役所、古文書、記述保管センター、法務省の検事に書簡をだしたり、飛び回っている事を話して、まるで、ダヴィンチコードの暗号解読より、真剣で真面目なのだ!と言ったら大笑いしていた。

フト、、智ちゃんとフランセスのお誕生日は、同日9月4日。、
わたしは、この二人のお母様のお葬式に、何故か付き添う形として人生が動いていた・・事を、皆に話し・・・・

アレ?

と、台所の壁にかかっているカレンダーに目がいった。

「もしかしたら?」

 と思ったのだ・・・直感・・というのは、ほんとに不思議だわ!
 探すという、意識ではなく、向うから、直線でわたしに向ってくる・・・・こちらが探そうとしていないのに、向うから、いきなり
向ってくるのだ・・・・

 求めているのではなく、他の事が意識にあって、他の話題の事を話しているのに、、いきなり向うから、気つかせようとくるのですねえ〜・・・・・

 カレンダーを外して、9月4日を見た。

 そうだった、9月4日は、SAINT ROSALIE 
 聖、ロザリーの日だったのだ。

 今まで気がつかない、わたしは鈍感なのでしょう〜・・・・

 だから、しつこくブログに書いていたのでしたね。

 誰が?書いているのかしら?
 ぅぅぅ〜ん・・・?分りませんねえ〜・・・・


 

 


 

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from: 沙羅さん

2010年12月28日 20時57分34秒

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「Re:Re:地球 ひとりある紀」
> > 今年の10月に叔母と一緒に祖父母のお墓参りの為に、渋谷にある、 >  金王八幡神社に行き、神主さんと、お話してきた。

 祖父母の苗字が渋谷という苗字なので、「渋谷から歩いて、6,7分のところに、お父様のお墓はあるのよ」と母や祖母から聞いていて知っていたが、苗字と場所の名前の関係は、ただの偶然の一致としばらく思っていた。 > >

 祖父の他界が母が結婚する前の事でもあり、私自身の記憶にないので、どうしてもあまり近い関係に感じない。 > >

血縁でも逢った事がない 知らない人、、、というのはどうしても存在が薄いのだと思う。

 

でも渋谷、若い頃どんなに頻繁に足を運んだ場所か分からない。 > >  
東京の杉並から横浜に引越しをしても、習っていた、ヴァイオリンの教室は渋谷だったので、わたしは中学に入ってからも、 > >  東京、横浜を結ぶ東横線をつかって毎週月曜日お稽古事の >  ヴァイオリン教室に通っていた。 > >

 中学生の頃、東横線の渋谷駅のホームの横には、水嵩はあまりないけど、コンクリート固めた、架線下に川みたいなものがある。 > >  はっきり言えば、どぶ川と呼んでいたのではないか?水は汚かった。 >  あれが渋谷川と呼ばれる、渋谷城の近くを流れる > >  文部省唱歌にも歌われた、 > >  

「は〜る の おがわは さらさら、いくよ〜♪」 > >  の歌になった川だった、、とWEB で知ってたまげてしまった。 > >  いったい、、地球の起伏で出来た川って、人間の存在ってずーと後のはずなのに、そのように汚してしまっていいんでしょうか? > >

 、、昔、東京と横浜、神奈川の境を走る時、電車から多摩川 >  や他の名前も浮かばない川を見るのだが、、 > >  夥しいほどの、白いあぶくが湧き出ていて、 いったい自然をこのような状態で、放っといて、人間の生活は平気でいられるのか???? > >
 小さい頃から、東京、神奈川の県境の川を見る度に、人間の自然に対する傲慢さ見せ付けられているみたいで、心がすっきりしないでいた。 > >
今は、下水処理ができて、当時の状態よりはよくなったようなのですが、 >  どちらにしても、家庭の台所から排水溝に流れる汚水は、いったいどのように処理されるのだろうか? > >
 廃棄処分には、自宅からでる家具もあるし、最近は住宅のゴミ分別は煩くなったみたいなのだが、それでも家庭からでる家具の棄て方に、怒りを現す人の訴えを、掲示板やブログで見ることが多い > >

 使い捨て時代 >  家具と言っていいのか分からない、、 > >  仏壇まで家具償却と同じ扱いで、棄てる人もいるらしい、、 > >  なんというか、仏教徒でもなく、決まった信仰をもたないわたしでさえも、このような行為に至る事ができるという > >  神経というか、考えはどこから来るのだろうか? > >  結局、人の心の接し方であったり、 >  心というものを、蔑ろにしているのではないか? > >

自分さえしなければいいという問題ではなく、そのような価値観が育つ社会に蔓延っている、潜在意識は底辺で結びついているのではないか?
 
逆に人道に反した無慈悲な行為を受動的な立場になってみれば、誰だって怒るだろうし、恨むだろうし、、そんな情動を生むのは人間だったらごく自然な行為におもえるのに、そのような他者の心に自分の心をあわせたり、想像する事が不可能らしく、いつまでも
教義一辺倒で、仕返しはいけませんとか、人を恨んでもなにもなりませんとか、、、自分が被害者や被害者の家族の立場になった時の事を人間の心に生じるごく普通の情動を想像出来ないというのは、やはり問題に思える。
争いがいけないとか、喧嘩はいけない、、という時点ではなく、

何故?
人を恨む感情をもたされてしまうのか?
何故?
人を憎むのか?
という原因を探求する事無く、いつまでも、
何々してはいけません、神様はそんな事してもよろこばないですとか釈迦はそのような事は言ってませんであるとか、結局被害者の心の苦痛を和らげる言葉を、何一つ放つ事無く、自己の信じる何がしかの世界や信仰のマニュエルだけを、繰り返し述べているという形なのではあるまいか?実践は、人ビトが
何故?
苦しむのか?
何故?
争うのか?
であって、
何々してはいけません、、という上から放ってもせいぜい馬の耳に念仏を繰り返すという行為なんではないか?と思うのです

他者を介して自分が何を言っているのか?
分からないのですから、普遍性というのはそういう事だと思うのです。

なんというのでしょうかね?、、、普通に聞いてても知らない人達の声も何がしか心の状態を感じる事ができると思うのです。
又 他者や死者の心や想いというものを、感じる事が出来ずにいるのではないか? > >

それでいて、年末年始になれば、何処かの神社仏閣に行き、現世利益を望み、お賽銭をする、、という行為は無意識にしているのではないか?と想う > >  すべて繋がっているというのが分かれば、 >  自分だけ独立するという事は無理なのがわかるはずなのに、 > >  自分だけ > 悪い事はしなければいいんでしょ?という世界ではなく、 > >  自分の子供が通う学校の友だちにも先生にも、伴侶の働く仕事仲間にも、両親の住む地域の近所の人達との関係にも全て繋がっているという事を感じなければ、いつまでも世界の中の自分、宇宙の仲の自分、、という世界観を感じる事はできないんじゃないか? > >  

いつまでも、自分の中の自分、自分のなかでの世界観、、という一方通行だけの倫理感、道徳感ばかりあげられても、他の国ぐにでは、そのような考え方はしないでしょう?

という違いや差を感じるという事は、例えば海外移住者は、地元の人達の風習や民族意識を肌で感じ、その国で働いて税金を払い、子供を育てる経験をスルと言う経験をつむと、自分の中での生まれた時から持たされたw > ある固定観念や価値観念を、回りにいる他者達の持つ価値観との接点を探すという事をしているらしい、、つまり、違民族の言葉によって、どのような笑いの接点がありどのような倫理や道徳感の違いがあり、自分以外の他者達と感情交流をする、心情的な関係を保つ事により、許容範囲の部分が広くなってくるという事を、日常茶飯事にしているだと思う。


> > > 話は飛ぶのですが、クリスマスが近づくと、 > >  フランスでは『貴方、クリスマスはどこで過ごすの?」という話題が、男女とも多い。 > >  

わたしの日本人の知り合いにはフランス人と結婚された夫婦がいらっしゃるのですが、 > >  彼女K子さんは、3人兄弟のフランス人の次男と結婚され、 >  
毎年、長男家族のパリの家でクリスマス招待されると言っていた。 > >  長男家族は子供が5人いる、彼女の家庭も2人居るので、ご主人のご両親をあわすと、13人テーブルを囲んでクリスマスの食事をするらしいのです。

> 毎年長男の家で、クリスマスの食事会を毎年集まってするのですが、この習慣、クリスマスをどこか家族の家庭で集まってするとい事はフランスでは普通の事のようなのだ。

> > 長男のお嫁さんに一番負担がかかる事は、想像するに難しくないのですが、ご主人のご両親がパリに住んでいるので、どうしても、 > 500キロ、遠方に住む次男夫婦の家だと、移動しなくてはならず大変だと言っていた。しかもご長男の奥さんは、どこかの責任あるポストにつく職業婦人。家庭のご飯も手を抜かず手つくり料理も得意ときている。
> > ある会社の責任あるポストにつき、5人の子供の面倒みながら、クリスマスに、次男家族4人の寝泊りの部屋の掃除をしたり甲斐甲斐しく働いている、、、と言っていた > > ところが、この長男の奥さんと義理のお母さんとは、仲が悪い。 > > クリスマスに呼ばれても、テーブルに座って居る食事中に、義理の母と、ご主人【次男】のお兄さん、つまり長男の奥さんとの会話は辛らつだと言う。 > > わたしの友だちは日本人なのですが、「何故?あんなに口喧嘩するんだったら、呼ばなくてもいいのに、、と思うのに、毎年義理の両親を呼んで、義理の両親も、喧嘩すると分かっていながら、義理の娘の仕切る家の招待を受けて、毎年同じ喧嘩なの、、、」 > > とわたしに述べてくる。

> > わたしは半ば、黙って聞いている。 > 述べるとしても、「あまり、めずらしくない光景だと思うわ」くらいでいる。

> > しかし、一番日本人の友人が理解出来ないと言って、わたしに述べてきたのは、この義理のお姉さんに当たる人の言葉、 > > つまり、毎年クリスマスに義理の母達を呼ぶ、長男夫婦のフランス人のアンヌさんの言葉らしい。
> > > 「 わたしは、自分の家に来てもらう事は、全然構わない、義理の母が、うちに来たければ、断ったりは絶対しないし、どんなに忙しくても、来たい日には、いてあげようと思うのよ。 >

でもわたしが自分から、義理の母の家に行きたいとは絶対に思わないし、行きたいとも思わないし、聞いた事はないわ!」、、とアンヌは言うのよ、、 > > とK子はわたしに言ってきた。 > >

「 それも、フランス人の考えからいうと普通でしょ? > >  普通は皆、その地点で同調していない? > >  この前、クリスマスの題材したコントをあの、ミュリエル,ロバンがしていて、可笑しかったわ」 > >  

ミュリエルという、ユーモリストと呼ばれる、イワユル漫才なのですがテレビでよく見るお笑い系の芸能人がいるのです。 > > 彼女が、「アラ?結婚して、旦那の両親の悪口いう話題が無くて、貴女どうやって、話題つないでいくの?」という疑問を放つ会話が皆に受けているので、 >
悪口と言っても、たぶん愚痴に近いのだと思うのだが、 > > 他者となんとか交わり接点を見つけようとしながら、コマを回す、人生を歩む、、 > >
という地点で共同体でいようとする、生命を営む、、という感じらしいのですね。 > >

一番、アンヌが言いたいのは、仲の悪い義理の母が来る事は絶対こばまない、、けど、自分から義理の両親の家には自発的に行きたいとは思わない、子供達にとって祖父母の関係は大事だから自由に父親と行ってもらう。、
> というような辛らつな表現を、わたしの友人のK子だけに話したと言う。 > 人間関係で一番大変なのは、むしろ、訪ねやすい、訪問した、逢いたい人や場所つくりが出来るか出来ないか? > 未来への自分自身の存在の仕方を問われているのであって、他者を排除したり遠のけるという地点で、共同体を造ろうとしているのでは」ない、、、という事だと思うのですね。

> > > わたしの祖父母に中る渋谷氏からフランスのクリスマスの話題へと流れてしまったけど、、、、 > >  渋谷にある渋谷オハラ祭り という盛大なおまつりを見て思ったのだ。 >
>  あのお祭りを見て、 「渋谷に何故?鹿児島県人会?」 > >  と誰も思うと思う。 > >  
何故? >  杉並に住んでいたわたしが、渋谷のヴァイオリン教室に行って、東横線で横浜から通ったりしていたのか? > >  大きくなって、渋谷でデートした回数もキリが無いほどだ。 > >
 若い時お付き合い人達と、別れ話しをしたのも別れたのも渋谷だった。 >
考えれば、渋谷という町はわたしの人生劇場のドラマの発生の場所だった。 > >  渋谷の青山で、仕事が繁盛しているS君とフランスに住み始めた頃知り合う>その20年後、彼の結婚した奥さんの友人は、食事しに入った麻布のレストランでアルバイトしていた、智ちゃんを見て、腕を掴み、「将来貴女何したいの?」と突然聞く。

> > 智ちゃんが通った大学は渋谷の青山大学だった。彼女が世田谷の自宅へ通う途上には、祖母の父がねむる青山墓地も隣りにある、 > > 智ちゃんはアレヨアレヨ、、2ヵ月後 私と、リヨンのサンテクジュペリ空港で初めて逢う。 > 5年後、わたしは、彼女のご主人になられた人との結婚式の証人として立つ事になっていた、 > >  こういう事は全て偶然事なのか? >
>  渋谷の金王神社の神主さんは渋谷一族の家系図を見せながら、祀られてる金王丸 の事を話され、一時間以上も熱心に話された。
> >  金王丸が生まれたのは、8月15日の、聖母被昇天の日にあたる。

金王桜という天然記念物が神社にあるそうで、その桜の麓で、渋谷氏子孫があつまる花見があるんですが、フランスからは遠いですね?と仰られた、、遠いんですねえ、、お花見するのに、飛行機つかわないとならない



>8月15日、聖母被昇天
鹿児島に上陸したザヴィエルの上陸した日、ヤジローに連れられて鹿児島の島津藩の藩主にあった日は聖ミカエル天使の日の会見で、島津藩主の亡くなった奥方の命日が8月15日だったので、日本上陸したイエズス会のザヴィエルの印象は快く鹿児島では受け入れられたのだった。 > >

此処らへんは、全て変だ!と思う前から直観が働いているので、 > 偶然を見つけてからなにがしかを思っているのではなく、変だ!と思うから、偶然n一致として記号が目の前に現れるという感じなので、唯物的に証拠を執りながら、、という意識ではないんですよね。 > それは、事後検証しているという物的証拠を集めるという意識であって、 >
形而下の世界では物的な唯物的なものしか知覚できず万人が感じられるものは物的なものだからなんでしょう。

これが、なんらかの先祖の暗示なのかそういうモノが作用しているのか、ただ偶然に日付が同じ出来事をぱっぱっと、トランプの神経衰弱の遊びのように捲ると全部同じよーンという行為を無意識にしているのかよく分からない

でも> > 依然として、 > > 何故? > > 時間を越えるのか? > という超越思考の説明の回答でもなんでもない。 >

> 実践に解明できたり導ける過程の説明になっていないのだと思うのです。 > >

読後感想会のレベルで個人感想を聞いたり同調したりする事とは違うと思うのです。

> > 他者との間、社会に生きる、日常生活するさいに、身についた哲学や経験が生かされ、実践する > 経験、他者とのなんらかの経験が導くものは大きいと思うのです。

他者への普遍化があり > > 自然にしらないうちに言葉が波紋し、知らない人達に届く > つまり普遍性を持つ存在の仕方というのを実践する。他者との経験を生かす。他者の心が何を言いたいのか?
> 感じる、そしてコミュニケートを、その人、その人によって変えてみる、、そのような、他者の心の会話が出来るエキスパートが必要な世の中だと思うのですね。

> いつまでも心理的な病の境界線に居る人達との曖昧な会話のみ、一般者が聞いても、何をいってるのか?さっぱりわからん??? > 状態の会話を永遠にしていて、存在性を感じられない孤立世界の怒涛の仲から叫ぶ事ばかリ一方通行に放ってても世の中機能しないと思うのです。 > >

 自分の事を何故? >  分かってくれないかではなく、 > >  世界の人達は何を思って、何を考えているのか? >  という能動的なコミュニケートだと思うのです。 > >

 自分はこう思う、だから正しい、、という意識は、 >
 世界が自分に関心を持ってくれたときだけに伝達できる意思であって、世界が自分に関心を持たないのにそのような存在の仕方でいるから、いつまでも自分は孤立感を感じ、むやみやたらに、目立ちたがり行為のような事ばかりする事になるのだと思うのです。

> > 本当に、他者の中に存在できるジワジワという存在できる存在の仕方は未来にむかっているのであり地球が自転していく方向、時間軸の途上になければ存在できないのですから、

> 他者の心を感じない、観えないというのは、自分のコミュニケート能力不足、経験不足だと思うのです。



存在の仕方というのは、何もステレオ言説など不必要でしょうし、テレビにでたり、物を書いて執筆したりという唯物的な存在の仕方をのべるのではなく、、存在そのものが、形而上で存在しようとしているのだと思うのですね。 > BE動詞の存在ではなくEXISISTERイグズィステ > 存在する > EXCITEのEXは外へCITEは、呼び出す、感情を呼び起こすで、 > EX=は外という意味なので、 > 存在するのEXISTERも、外、
、 > 自分の外、、という意味がラテン語の語源にあるので、 > > 実在する、、という形而下世界での意味とは違うというのが分かると思うのです。という事は、 > >

唯物論的に時間を後ろから追っての意識では限界があり、実践としてなんらかの手がかりや手段が教義や経典に書かれている居るわけでもないし、それを訳す知識訳者の言説も、自己を超えてない自己世界の模様が描かれているのであり、実践に、他者の役立つなんらかの意識はやはり自分自身の個人へ帰する自己への探究と同時に他者の中に自分の姿の再確認を同時進行に行うという > 実践が必要になってくると思うのです。 >

> 何の為に、この世に生まれてきたかと言うと、過去から続いて心的レベル

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