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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

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  • from: 沙羅さん

    2011年01月25日 03時10分18秒

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    哲学での形而上学<Meta ta physika>

    Meta ta physika メタ、タ、ピュシカ

    BC一世紀頃、アリストテレスの著作を編集した、アンドロ二コスは
    14巻からなる著作の表題が抜けていたため、全集の収録される順序に従い、表示する事にしたそうです。

    META TA PHYSIKA という表題

    自然学は、ピュシカ<PHYSIKA>、
    そして、自然学に関する著作の次(META>にくる著作

    これが縮まり、ラテン語メタピュシカ、METAPHYSICA

    フランス語は、METAPHYSIQUE メタフィズィック という単語になります。
    アリストテレスの論究内容そのものを示すようになったのは、
    中世からで研究対象は自然学の対象とは本質的に異なっていた。

    自然学の相手とするところとは、別個の次元に立つ事でであり、自然学者がその土台としている感覚的認識を超える、ものの考え方が必要であった。

    そこから、メタフィズィック 形而上学とは、<自然の世界、及び、それについて研究する学問の彼方、ないし上にあるもの>と言う意味がこめられるようになって使われた。

    そこで定義としていることは、

    われわれを取り囲む学問について一応の概念をおくならば、形而上学の役割は、感覚の手の届かない実在に対する認識であること。

    まずなにより、魂や神のような非物質的な存在のこと。同時に物質的な存在にかんしても、それを成り立たせている、原理自体は問題となってくる。そのような原理は、感覚に基づく知恵によっては、とらえられないからである。

    アリストテレスの時代の場合は、形而上学の対象は、存在であったが、今日一般では領域はかなり広まっている。

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コメント: 全12件

from: 沙羅さん

2011年03月06日 08時51分44秒

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「Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
Ansi toute la philosophie est comme un arbre

donc les racines sont la Métaphysique le tronc est la phisique et les branches qui sortent de ce tronc sont toute les autres sciences;
Descartes Principe de la philosophie préface

哲学の全体は一本の樹にたとえられる、
 
その根は、形而上学であり、
幹は自然学、
幹から出る枝の数々は、他のすべての学問である。
         

デカルト、『哲学原理』 序文

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from: めるろ〜001さん

2011年02月11日 10時19分35秒

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「Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
時間と存在は現象の様相も変える。

始源を追い立ててその存在を確めようとする思考には
事物の歴史(自然学)しか追わない。
この行為は神や仏に出会う行為と根本的に違う。

神の存在を見るには自然の現象もさることながら神憑り的な現象や事物があればその神の存在を意識する。
その神を意識した時に自己の中に神が宿るのである。
ブッダの場合はどうか?ブッダは過去には存在した人物である。
しかし、現在には存在しない。
その時に人は仏道(仏教)によってブッダに想いを馳せ、ブッダに出会うのである。
事物で言うと、仏像などを拝む行為がそれに中ります。
仏像を通してブッダに出会う一番身近な場面なのです。
経典を読んで、ブッダに出会える人はそれなりの修行が要ります。
そういう意味では、キリストの磔の像を拝む行為も同様でしょう。
事物の後ろに自己と共通の意味を見出す行為なのです。

これが人類共通の形而上学的行為というものです。
その共通の意味を正確にするために人は繰り返し経典や教典で
確めるのである。
人によってファーストコンタクトで直感し神仏を確信する人も居るでしょう。
また、疑い深くて繰り返し探る人も居るでしょう。
どちらにしても神も仏も<現在的時間の自然学>では存在しえず、
ただ、形而上学的展開に於いて存在を確信するのみです。

形而上学は人間に認識のみならず、普遍的感覚への入り口として
捉える必要がありますね。

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from: 沙羅さん

2011年02月06日 05時20分11秒

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「Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」

 META TA PHYSIKA メタ タ ピュシカ
 MSG973に前記しましたが
 自然学を相手とするところとは、
 別の次元に立つ
 その別の次元に立つことでの探究が必要だったんでしょう。
 それが
 形而上学的認識と言う事だったと思うのです。

 なんでも思うのですが、何かを探究する時には自分の立つ次元を変えないと、自分が観るべき対象や相手を感じたり観たりする事ができないと思うのです。

 あらゆる方面から観るという事だと思うのです。
 形而上学的認識を、形而下の次元に立って話すと言う事もあるかも知れませんが、
 しかし、自分の立つ次元を変えないとあらゆる他者の言説の意味もわかりませんし、何を言おうとしているのか?
という理解は、やはり次元を変えながら他者とのコミュニケートをしないと、特に形而上の問題は、議論にならないのではないか?と思うのです。という事は、ある程度の感覚体験も必要になってくると思われます。

 高校哲学のカリキュラムの組み立ても、
 認識として、

  認識の心理学(意識、無意識、論理的、理性的な認識、
         思考と言語)

  科学(数学、物理、人文科学、生物学、、、)

  形而上学(神、精神、世界、真理)

  ですので、

  哲学するということで、形而上学的認識は、唯物論的思考が云々というのではなく、ちゃんと科学とは別個の分野として
 なりたち、教えられているので、

 派生的な事にいきなり執着すると、議論の途上で、なにもかも一緒にして結果結論だしたがるし、早急に他者の判断をしてしまわれる。

 挙句の果てに唯物論に批判的ですね?・と、紋切り型の言説を放つのですよね。

 哲学は層が大変あついので、まず、全体、総体把握が必要に思うのです。
 
 哲学の形而上学目的は、
 感覚の手の届かない、実在の認識という名目定義ですが、

 精神的世界での、厳密な意味において解釈をするとすると、
 その特性を余すところなく現実のものとしているのは神のみであるという定義になりますね。
なぜなら、神こそ本性からいえば、超越者であるほかになりませんから、、
 または、精神も形而上学的認識の対象と考えられるのですが、精神は外的な感覚によっては知覚されず、精神活動をとらえるのは意識ですが、それも精神そのものを掴みとることは出来ないです。
最後に物質世界も感覚によって知覚されるとは言うものの、やはり認識の対象の一環に他ならないですね。
感覚は主観的な印象だけに留めておくことは出来ないですね。その印象の源である、客観的実在の本性については、なんらかの教えを感じる事はないと思うのです。

そして今度は実在的定義の探究の仕方として、ここで、直観がクローズアップされてきますね。

 デカルトは、「真理の確実な認識に達する為に人間に開かれた途は明白な直観と必然的演繹に他にない」と精神指導の規則に書いてあります。

ですから、神秘的な世界、形而上世界に感覚的に近づくのに、必ずなんらかの信仰や宗教を持たないと決して、体験できないのだ!という事はないのですよね。

もちろん信仰や宗教を手段にするのと大変類似な体験をなさるのですよね。でも絶対、何々信仰だけ、、、、とか、何々宗教だけ、、、という事はないと思います。

哲学の醍醐味ですね。それだけ、幅広いですし、何かの対象をターゲットにしているのではなく、普遍性を観ながらの探究ですから、他者不在という事はないのだと思うのです。しかし、範囲が広すぎて大変ですね。  最後は愚痴でした。


 

 

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from: めるろ〜001さん

2011年02月05日 12時58分57秒

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「Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
>沙羅ちゃん

アリストテレスは形而上学を自然学とは別のものとして
捉えていましたね。

しかし、指摘のように現代では、”meta”の意味を
「うしろ」とか「裏付ける」とかいう意味に捉えられていて、
事物の動きや結果を除く、すべてのものは形而上学的意味を帯びるとされています。

従って、形而上学は、実際に存在するものを扱うようになった
のですね。

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from: 沙羅さん

2011年02月02日 03時49分37秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
> >沙羅ちゃん > > いえね。 > 無神論も有神論も信仰といえるのですね。 > <私のそばに神が居る>という言説は誰も否定できないのです。 > また、<そこに神はいない>という言説も否定できない。 > 現象的唯物論や > 汎神論の強さはそこにありますね。 > > 個々に現象と心の反応の間にそれらが存在するのですね。


l'atheisme consiste dans la negation de l'existence de Dieu du Dieu personnel affirme par le theisme et par la revelation judeo-chretienne ainsi du principe impersonnel admis par les deistes pour expliquer le monde/
無神論とは神の存在の否定である。そしてその否定の対象は有神論、ユダヤーキリスト教系の啓示により、確立された、人格神だけではなく、世界を説明しようとして理神論者達の非人格的な原理の存在に至るまで全てにいたる
L,atheisme en general
一般的な無神論とは何か?
les veritables athees sont bien moins nombreux qu,on ne le croit et on peut meme tenir leur espece pour rare,

色々な形があるとは言え、一般的には心底の無神論者は想像よりはるかに少ないもちろん、日常的な無神論は至る所に見うけられる
sans doute l'atheisme pratique est commun, Bien des croyants eux memes vivent comme si Dieu n'existait pas, Mais comme ils, ne nient pas son existence les athees pratiques ne sauraient etre comptes au nombre des veritables athees
信仰者の間ですら、多くは、あたかも神が存在していないかのような」生活を送っている。しかしこのような生活上の無神論者も、神の存在を否定しているわけではないから、彼らを真の意味での無神論者の中に数えることは出来ない
il faut en dire autant de l'argnosticisme de ceux qui suivant l'etymologie de ce mot repondent qu'
[ on ne peut savoir s'il existe ou non] De nos jours un Jean ROSTAND par exenple N'est qu'un argnostique/

不可知論についても同じく同じことが言える語源ARGNOCTICISME
から分るように、不可知論とは、

「神が存在しているかどうか知る事は出来ない}と応える人たちのことである。現代ではジャン、ロスタンのような人は不可知論者にほかならない。

Valeur PHILOSOPHIQUE
哲学的価値

{Atheisme marque de force d'esprit mais jusau'au un certain degre selument .}note PASCAL
「無神論は」とパスカルは記す。
「精神力の徴しである。だがそれは、或る程度までの力に過ぎない」{パンセ}


と色々まだまだ、認識フルキエの哲学講義には書かれているのですが、実践において、個々の別々の推論にばかり目をうばわれると、全体像が見えなくなるので、、総合的な展望が見えない推論は、 
複数他者達の、同感や体感や納得性も持たないので、自分自身の個の価値観に執着する事はまずもって避けないとならないと思うのです。

どちらにしても、真をさがすのは、他者の中へ探しにいかないと、普遍性はありませんから、他者を介すという行為がないと
動的に動かないと思うのです。

ま!哲学の醍醐味は他者を介す・・だと思いますけど・・・空は、知らない間に波紋していって知らない他者へと、音が届いているよいう手応えもあとから分りますし・・・・空間と時間はない・・という世界での神秘の動きに思えます。

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from: めるろ〜001さん

2011年02月01日 12時31分18秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
>沙羅ちゃん

いえね。
無神論も有神論も信仰といえるのですね。
<私のそばに神が居る>という言説は誰も否定できないのです。
また、<そこに神はいない>という言説も否定できない。
現象的唯物論や
汎神論の強さはそこにありますね。

個々に現象と心の反応の間にそれらが存在するのですね。

仏の存在も華厳では、汎神論的であり、
その先の大日如来では、
宇宙の根源ともいえる光の根源を表現しています。

何が宇宙や世界の存在に必要かということは
世界共通ですね



まず、私達にとって、神とは何か?<信じる、信じないという点に意識を固定させるのではなく>
神の概念の源は何か?(無信仰者の家庭)又は(信仰者の家庭)
神の本質的性格ー>体験によって知る。神秘的霊感者の世界
       ー>神の認識と類推によって知る

神の存在証明ー>論理的で古典的証明の方法は、
ア、ポステりオリ(充足理由)
又は、ア、プリオリ(矛盾の原理)という地点から議論を展開できますし、又、出発を世界<宇宙論から>から、又は人間<心理学的 >から、ア、ポステりオリ充足理由によって、議論な成すとおもいますし、神そのものから出発する、つまり神の性格の絶対性を明示する何らかの基礎的事実を複数他者達の同一意見から出発する証明は、ア、プリオリ的です。
次に物理的世界から出発
   合目的性による証明つまり目的論的論証、また、因果性によってまたは動力因によって・・・・

それから、神の否定
 これは無神論<ATHEISME>とは何か?現代の無神論、哲学的意味(例えば、マルクス主義の無視論であり)実存主義の無神論であり、

そして、宗教に関係なく神秘体験を体験される人たちに興味深いのはLE PANTHEISME汎神論でしょうかね?
神の否定と単調に表現しても、それまでになす議論や展開の流れがありますし、、、、、近代汎神論の発展の仕方には、普遍性を見抜くという哲学意識の底辺にあるSENS は多いに触発される問題なんです。

 ま!神の存在についても否定についても、やはり個々人の人格が成す、経験や意識そしてその精神が存在する次元というものを察知し、他者との心のネットワークによって、すこしずつ 価値観を共有体感できるか?出来ないか?・・・・・
そのような、複数他者達との間における実践でしかないと思うのです。

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from: 沙羅さん

2011年01月30日 17時17分38秒

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「Re:Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
> ふと思ったのですが > > 人知を超越している神が存在するというのと > ブッダの存在を信じるというのは、 > 根本的に違うと思うのですね。 > > ブッダは人間であり、お腹も空くし、 > 旅もする。その足跡を辿るということが信仰に基づかないでも > 可能ですね。 > > しかし、神の存在は違いますね。 > 「神が存在する」という信が無いと、 > その存在を探求できない。 > > 神の仕業という自然物や創造物が多数存在しますが、 > それが神の仕業であるとは断言できない。 > > 信と真は、 > 信から神は存在するし、 > 真からブッダは存在した。


哲学する上で、この形而上の問題についての議論はある意味、興味深い問題ですが、

 どちらにしても、私達は人間であるという肉体を有す、、、
 という人間としての立場においての言説を放っている・・・・という実態を意識にとどめておかないと、
 それこそ、議論を続けているのを見ていると、日本の議論場でよく感じるのは、「病院に行った方がいいかもしれない・」・・・

 と回りの複数他者達が思うような言説を無意識に真剣に放ってしまうようなんですね。

 昨日、フランステレビ、9時からの番組で、パトリック、セバスチャンという芸能人で、バラエティー番組の司会をする55歳くらいの男性の方が出ていました。

 「僕の場合は、母親が他界した時も一筋も涙を流さなかったんです・・今でもそうですよ。あまりにも、母親が近くにいるのを感じるし、本とに居るんです。お化けの話や幽霊の話をしているんじゃないんですよ。母親が彼女の存在の仕方で、僕にコミュニケートをとって今までの人生の迷いの地点で、助言をしてくるのが、ありありとわかるんです。」
     とこの番組の司会者と話していましたが、

 これを聞いて、パトリック、セバスチャンの言説をただの妄想と判断するか?それとも、ある心霊世界のコミュニケートを体感できる人には、なるほど・・・・と思わせるエレメントがあるので、彼の体感が、個人的な妄想に過ぎないか?あるいは、ほんとに、なんらかの死者とのコミュニケートであるかの判断は、やはり同体感、類似体験という体験者でしか分らないとおもうのです。

彼が、放った言葉で、
FACONその人独特の流儀、仕方、流儀
DE 〜の
SA MANIERE 彼女のやり方、彼女の特徴がでる仕方

という言葉が放たれる。

これは、言い換えれば、親密な家族関係、生活を共にして初めてわかる、個人的な生活に対する流儀とか癖とかいうものですし、
その個人的な流儀が、どうして、その人にそのような考え方や仕方、立ち振る舞いをさせるか?
という理由を家族は分っているのだと思うのです。

死者が残された、遺族にコミュニケートをとってくるとしたら、やはり、個人的な生前の癖や流儀や立ち振る舞いや、個人的な関係にしか分らない仕方で伝えてくるようなんです。

ですから、そのような事を突然言われた、他者は闇雲に、自分に類似体験がないからと言って、理性的でないとか、信憑性がないとか、つまらないものを、信じて、、、というような唯物論、又は?無神教?的な人たちが持つ価値観を、押し付けたり、個人的な判断を諭すとい野蛮なコミュニケートを取る事は、他者<人間>とのコミュニケートをしようとするその意欲や欲望までも壊すのだと思うのです。この人間の心の接し方にまず、問題があるように思うのです。自分に感じられないから又は、数字に現れないのは全て間違いであるという考え方ではなく、
何故?
そのような体験をするのか?
何故?
予知体験をするのか?
何故?
そのような声が聞こえるのか?


形而上の世界の現象の事を、形而下の世界の思考の仕方で、何かを証明するという事じたいが、もうおかしな話に思えます。

むしろ、最初から、表現は短直ですが
「自分は唯物論者です」・・とはっきり 述べてくれる方が誠実でしょうし、それに対して、議論場での皆の反応も「ア〜そうですか。」ですむのですから、

個人的な価値観がどのようなエレメントにゆだねているのか、
それは個人の問題なのですから、
自分自身で決めればよいと思うのです。そのような事は自分自身で決めるべきに思いますし、他者がそこまで関与するべきでもないように思えます。
それくらい自立した個々の考え、思考を象るものは自己、個人の経験に因るのはごく自然におもうのです。

その個人の発する 言説は個の身体も含む言説であると思えますから、他者への尊重であるとか、他者への存在のあり方を認める・・・・という方向にいくと思うのです。
どちらにしても、平等とか愛といった言葉を放つ以前には、個の自立や個の独立といった、精神的な個への尊重や個の存在性を、存在させる意識が能動的に働かないと、真の個の平等という意識へと展開するべき流れは滞ると思われます。

哲学での形而上世界を議論する場合は、

まず、私達にとって、神とは何か?<信じる、信じないという点に意識を固定させるのではなく>
神の概念の源は何か?(無信仰者の家庭)又は(信仰者の家庭)
神の本質的性格ー>体験によって知る。神秘的霊感者の世界
       ー>神の認識と類推によって知る

神の存在証明ー>論理的で古典的証明の方法は、
ア、ポステりオリ(充足理由)
又は、ア、プリオリ(矛盾の原理)という地点から議論を展開できますし、又、出発を世界<宇宙論から>から、又は人間<心理学的>から、ア、ポステりオリ充足理由によって、議論な成すとおもいますし、神そのものから出発する、つまり神の性格の絶対性を明示する何らかの基礎的事実を複数他者達の同一意見から出発する証明は、ア、プリオリ的です。
次に物理的世界から出発
   合目的性による証明つまり目的論的論証、また、因果性によってまたは動力因によって・・・・

それから、神の否定
 これは無神論<ATHEISME>とは何か?現代の無神論、哲学的意味(例えば、マルクス主義の無視論であり)実存主義の無神論であり、

そして、宗教に関係なく神秘体験を体験される人たちに興味深いのはLE PANTHEISME汎神論でしょうかね?
神の否定と単調に表現しても、それまでになす議論や展開の流れがありますし、、、、、近代汎神論の発展の仕方には、普遍性を見抜くという哲学意識の底辺にあるSENS は多いに触発される問題なんです。

 ま!神の存在についても否定についても、やはり個々人の人格が成す、経験や意識そしてその精神が存在する次元というものを察知し、他者との心のネットワークによって、すこしずつ 価値観を共有体感できるか?出来ないか?・・・・・
そのような、複数他者達との間における実践でしかないと思うのです。




 

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from: めるろ〜001さん

2011年01月30日 14時25分03秒

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「Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
ふと思ったのですが

人知を超越している神が存在するというのと
ブッダの存在を信じるというのは、
根本的に違うと思うのですね。

ブッダは人間であり、お腹も空くし、
旅もする。その足跡を辿るということが信仰に基づかないでも
可能ですね。

しかし、神の存在は違いますね。
「神が存在する」という信が無いと、
その存在を探求できない。

神の仕業という自然物や創造物が多数存在しますが、
それが神の仕業であるとは断言できない。

信と真は、
信から神は存在するし、
真からブッダは存在した。

仏教の場合は、この修行をしたらブッダと同じように
<智慧と慈悲を得ることが出来る>ということを信じるのですね。

仏像を拝むというのは、その仏像の姿や謂われ、意味づけから
ブッダの言説の意味に辿りつくということです。

ただ、拝むというのはアニミズムの名残りだと思います。

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from: 沙羅さん

2011年01月26日 02時11分38秒

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「Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
MSG977の続き、

なんだか、今977を読み返したら、日本語の文章ではないわね〜と思いながら・・・・
何を述べたいのか?というと、

神の問題なのですが、

J ラシュリエの本に、「心理学と形而上学」1933年

という本があるのですが、

その中に、或るものを知るためには、いわばそのものになり切らなければならない。従ってそのためには、まず自分自身、他のものであってはならない。

という事が書かれているんですね。

これは神の問題だけでなく、

あるものを、知る・・・・という事は、

その人やそのものの、次元に立つ、その人の心域に達する
という意味だと思うのです。
ある人の言説がわかる、例えば、記述、聖書や経典にしてもそうなんですが<経典や聖書は、キリストやお釈迦様の実筆ではないのですが・・・・>それにしてもです。

知るという事は、少なくとも、放った人になり切らなければ、心をはわす、という事がなければ、いつまでも、自分自身独自の解釈に留まると思うのです。
つまり他者を介していない事につながり、普遍性をもたないという問題が付随してくると思うのです。

そのような事を考えると、神の存在を語るというのは・・・・・・・・人間側にとって、いったいこういう事を話そうとしなければ、ならない人間のおこがましさみたいなものだけが、クローズアップされてくるみたいで・・・・・どうにも、積極的に話そうという気持ちが沸かない。

不思議な事は、確かに日常茶飯事に生じるんです。

友人R子と観光していた、観世音寺で、突然知らない田中さんと名乗る男性が話しかけてくる、あれよあれよ・・・・戒壇院の公開してない、昔のお茶室などに通されて<入り口は這うように入る感じだった。よほど昔の人は小さいのでしょうね?156CMのわたしでも天井に頭がつくくらいなんですね。>
空海も入ったのかしら?

空海がお経を読んだら、池のカエルが泣き止んだ、泣かずの池の前で田中さんは、突然わたしのカメラを撮って、池を背景にわたしを撮った、R子は入っていない。

それから、戒壇院の本堂ここも普通は僧尼しか入れない。

田中さんは、結界を仕切ってある棒を外し、階段を登ってと背中を押す。田中氏は、自分は登らず、大日如来<ル遮那仏>の前に腕だけだして、床をドンドン叩く。「ここまで来て、ここまで来て」

とまるで何かにとり付かれたような感じだった。

「ありえない!」・・・・・

何か外界のものがいて、強制的にそのよう展開するようしくまれているように観えるのだ。

・・・・それだけではない・・・田中氏は翌年、急死されてしまう。
それを知ったのは、R子が自分のお誕生日、6月7日に突然弟さんから電話があり、「おねえちゃん、お誕生日だから、どっかにドライブにつれてってあげる」とかかってきてR子自身が、そんな事一言もいわない弟だし、誕生日を覚えて、電話をかけてくる・・という行為にたまげた・・・・から、「どうしたの?雪でも降るのかな?」と弟さんに話したそうなのだ。

6月7日は、わたしはフランスの聖母マリア出現のルルドに居た。

もちろん、R子の誕生日を思い出す事はなかったが、その時、ルルドからR子と、6月15日に他界されたJさんと数人に絵葉書を投函するために、観光局のはす向かいの郵便局に並んで立っていた。
ルルドの郵便局には、窓口に並ぶ時間、飽きるのでテレビのモニターが天井から吊るされている。

だからそれを見ていた。そしたら、見たことのある風景が写った。
SAVOIE県のアルクARC川の渓谷の風景だった。

何故?ルルドで???ARC渓谷の風景を見なければいけない事になっているのかしら?

ルルドはスペインとの国境沿い。

SAVOIE県は対がわ、イタリアとスイスの国境沿いに位置している。

そのテレビは、観光局の発信の画像を流しているらしく、フランスの観光地の画像を流していた。

空間はない!

あの世に空間はないのでしょう?と思わされた実に不思議な経験だった。

それはそうと、その6月7日にR子さんは弟さんの運転するドライブで、大宰府にドライブし、前年に田中さんに連れて頂いた、3人で食べた、自家製蕎麦のお蕎麦屋さんに行ったという。そこで、お蕎麦やのご主人に田中さんの近況を聞かされて、急死された・・と聞かされた・・と後でメイルに書いてきた。

これは困った。

わたしは、次回日本に行ったら、連絡を取るつもりでいた、何故なら、田中さんが翌日も「大宰府を私達に案内したい・・と後ろ髪を引かれる思いを感じながら、わたしは、翌朝早朝関東に帰らないといけなかった。

田中さんを、あそこまでさせるなんらかの、霊的何かの存在を知りたかった。そしたら2月に急死されてしまった。ご家族も急な事で、特に高齢のお母様にとって、大変なショックな事であるらしかった。

そういう事を、R子さんはお蕎麦屋さんのご主人に聞いた・・・とメイルをしてきたのだった。

仕方ないから、3年お会いしていない、博多の霊能者W氏に会って話しを聞いてもらおうと思いそれで、去年日本に滞在中連絡をとった。そしたら、わたしは、田中さんの名刺も忘れ、田中さんのフルネームを覚えていない。

この時、W氏に田中さんの姿が現れないのなら・・知る時期ではなかったのか?それとも、何も意味がない出会いだったのか?

色々考えた。とりあえず、10月16日、翌日は戒壇院の和尚様から2日前に携帯に電話がはいり、「午後自由になるから戒壇院にいらしてください」・・とお声をかけていただいた。

しかし、その時、戒壇院の和尚様と二人で、田中さんの自宅にいきお焼香をしたり、般若心経読まれたり、宝満山の最澄の銅像の前にあるお寺に訪問したり、最後には午後4時なのに、田中さんと行ったお蕎麦屋さんにタクシーを外で待たせて、お蕎麦を和尚様と食べる事になろうなどとは思ってもみなかった。

何処かの檀家でもなんでもないフランスに住むマダムの大宰府の一日だった。しかも娘の誕生日にあたる。

本とに、この宇宙には人間と表現していいのかしら?その人間しか人格をもつ魂の存在はいないのかしら?










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from: 沙羅さん

2011年01月26日 00時04分27秒

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「Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」

msg974の続き、

 しかし、生きるというのは、どの時代に生きても、前に進まないと、前を見ないとならないという意識の姿勢を問われているんでしょうね?

 哲学の形而上学部門の中には、テオディセー神を義とする…神を問う、分野ももちろんなければならない。

何しろ、声 VOIX声、ヴォアというフランス語の単語からして、非常に、神的な言葉なのですね。

 しかも神の声を聞く・・・という超越人も実際存在し、そのような人達が敬虔なキリスト教信者なのか?というとそういう事でもないらしい。
 哲学的にこの神の問題を議論するという事は、かなり微妙な立場の人達がちゃんと公衆や大衆の前で向かって話せるのでしょう・・と思っていた。

何故なら、神を信じる人達が神の存在を説いたり、話したりすることは不思議でもなんでもない。

お釈迦様や仏陀の存在を信じている人が、仏教を説明したり、仏教の教義を説明したり、勉強したり・・・不思議でもなんでもない。

むしろあまりにも当然過ぎて、それがどうかしたのですか?という地点にいる世界の無関心一般人が、幾億も回りに存在するという事実を客観的に見れば、個人個人の言説がたとえ、多少過激な表現に思えても、結局判断が下されるのは、回りの複数他者達の存在にかかっている。

長い目でみれば、何世紀も何世紀も存在感があり、その存在が受け継がれ、忘れない存在で存在し続けるは、何世紀にもわたる他者達の心作用でしょう。
もちろん、この他者には死者の存在も含まれている。そのような手ごたえを実際感じられるのが、超能力者達なのかも知れません。

話がそれましたけど、
久しい間、形而上学の分野においても神の存在は控えめな議題として語られてきたようなのですね。

哲学は智を愛するという途上においての何らかの探求行為なので、

最初から、神は存在している。なぜならば、わたしは神の声を聞く・・・という言説を最初から放たれる・・という場面を懸念してしまうのではないでしょうか?

信仰を持つ・・
又は、何らかの信の意識が、目的として、探求の行為の途上の先に固定されてしまうと、

人々は、興冷めするのですよね。

「真」を探求しているのに、信 の意識は、真そのものではないのですから・・・取り違い行為なのかも知れませんね・・・・

ですから哲学の分野では控えめな議題として存在するのだとおもうのです。

しかしです。そんな事を皆で話していてもまったく前に進みません。
「キリスト教文学は確かに存在します。、ただし、信仰を持たない者達のキリスト教文学が」
というアイロニーなども盛んに聞かれますが、なにしろ、フランスにいると、アイロニーこそが、人々の価値観をなしてるエレメントなのでしょう?と・・・感じる事もある。


個人の言説が、気取りや着飾った上辺の言葉、また立場上、世間体であるとか、そのようなもろもろの感情
例えば他者に、よく思ってもらいたい、
他者に正しいと思ってもらいたがりの心情<これも当たり前すぎてフランス人には興味はわかないらしい>


これこそが、社会的な立場での、自己中心的で、これもつまらん行為と判断するのですね。
大概、そのような光景は、アイロニーとして人々の笑いを誘う、また笑う話題としてユーモリスト達のカッコウの話題になる。

彼らが見抜きたいのは、潜在意識からの言説なんでしょう。

ただ、ここ最近は、哲学も神の取り扱いについては、神は存在するという命題に対し、その是非を論じることはできないのですから、、
そうすると、私達にとって神とは何か?

という視点で話し合わなければならないと思うのですね。

どちらにしても、わたしたちに神を知る事ができないのは、いかなる限界もいかなる無ももっていない・・・しかし私達はこうやってパソコンなど叩いている・・・
いったい、この関連事をどう理解すればいいんでしょうか?

森羅万象がその存在を意味している?
その意味では、神はあらゆる物の中に内在している。実際超能力者は何故?未来を予言したり、パワーや波動や気といった、ものを感じ取るのでしょうか?もちまえの絶対的な性格からすれば、神は世界にたいしても、人間にたいしても、ひとしく超越している。
こういった超越している神の存在の命題論議するのはナンセンスに近い。
それでも、世界や宇宙という世界と個の関係や因果関係の手応えを体感できる人達にとっては、神の存在は無視できないし、明らかに、なんらかとの対話をしているのでしょう・・・というのが、わたしにも体感できる。

ただし、それが、神であるのか?守護霊とか先祖霊なのか?又は、なんらかの人を惑わす、他者を支配したがりのなんらかの霊的な存在の声を無意識にきいているのか?それとも、そのような非科学的な感覚世界の事ではなく、ただ自分中心で他者にちやほやされないと、不安でしょうがないという感じなのか?よくわかりませんが・・・・・
心や魂の霊格というのは、やはり高次になれば高次になるほど、その同次元の波動の人達が自然に集まってくる・・・自然に知らない間に知り合いになる・・という波動の法則は、自然界で動いているようなんですね。

しかし、それだけで満足してても仕方ありませんから、なんとか、彼らが何ゆえに人間以外の被造物にひとつの人格を持っていると信じそれらのものとなんらかのコミュニケートをする内容が、いったい、どのような普遍性をもつのか?やはり探求欲は膨らむ。

既存の字を読んでの認識だけでは全く納得できない自分がいる。
納得できなければ、自己の言説はいつまでたっても疑問形の形でしか放てない。

このような懐疑論者の姿はわたしも含め
フランスにあちこち存在しているらしい。

 しかし〜・・・・超能力者にも色々存在するらしいけど、彼らと接してて興味はつきないのですよね。

うぅぅぅ〜ん・・面白い・・・・・

  世界は色々あって面白い・・・・生きてて面白い。

 

 


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from: めるろ〜001さん

2011年01月25日 21時44分14秒

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「Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
ギリシャ哲学時代の形而上学は
現世の反映としての世界であり
現世と独立さえしていました。
理想郷への道だったのです。

現代の形而上学という語には
フィシュカの意味づけ
つまり「物理現象を意味づける背後の・・・」意味づけを
担っています。

推しては、自然現象、人間関係などの意味づけにも
使われます。

色即是空でいえば、色が自然現象で空がメタフィジカです。
どちらかが欠けても、理解されることのない概念です。

物理現象だけでは意味づけはままならず、
意味づけの言葉だけでは何のことか明確にならない。
切っても切れない仲ですね。
空海流にいえば、
不二の思想ですね。

この現象の二層を確認しながら
それが双方で影響し合っているそういうことが分かれば、
「色即是空、空即是色」の逆転の繰り返しが理解できますね。

色と空は容態は違いますが、互いに影響し合っていて、
切っても切り離せないという意味だったのですね。

色と空が同じと教えられた人は、その存在形態のことを
理解していないものと思います。

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from: 沙羅さん

2011年01月25日 04時47分10秒

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「Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
MSG973の続き

 はじめに対象・・
 これは、まず私達の行う認識が価値があるか否かの問題です。

 個人的な認識に価値がおけるとしたら、複数他者達での観察しかありませんね。例えば、超能力者でも、複数他者の超能力者達が同じ対象を、霊視したりコミュニケートをとり、彼ら同士の意見交換や合致点や合意点がなされてくれないと困りますよね。

 要するに、他者達の存在を介すという事が必ず行われないと、どのような超越された能力をお持ちでも、ひとりで自分だけ、訳のわからない事を述べられても困りますよね。

どちらにしても、どのような能力があろうとなかろうと、複数他者達の存在は、高次の世界であっても低次の世界であっても、必ず必要不可欠なんだと思うのです。

一般の形而上学は、存在一般ないし、存在である限りの存在nついて、取り扱うそうです。アキナスの伝統を継承する現代の、スコラ哲学の圏外では、あまり存在論は陽の目をあびなかったが、実存主義の登場によって息を吹き返すという展開になっていました。

Enfin la méta physique spéciale qui a pour objet les différentes catégories d' êtres non pas sans doute les individus et les espèces qu'étudient les sciences de la nature mais les genres supérieurs entre lesqueles il est classique de les répartir De lé là les trois parties suivantes dans le titre desquelle. .rationnel doit  être compris comme s'opposant à expérimental ou empirique


最後は、形而上学の特殊な形として対象は、もろもろの存在のもつ、さまざまなカテゴリーです。
とはいっても、自然科学の対象とする、個や種、基ではなく、伝統的な概念でもっていうなら、それらの種類を分けることより、より、上位の類が扱われることになる。

ということで、いか、3つの部門が生じてくる。

まず、rationnelle純理的、ラショネルとあるのは、実証的ないし、経験的の反意語として理解されたい。

すなわち

純理的宇宙論<宇宙>cosmologie rationnelleを対象とし、動植物界も含む

純理的心理学phychologie rationnelle人間を対象とし、正確に述べると人間を宇宙の他の存在と区別するもの、、つまり精神です。

最後は、純理的神学Theologie rationnelle ou theodicee つまり神学が啓示に基づいているのに対し、啓示の授けを借りずに、理性によって知り得る<神>を扱う<啓示は事実の次元に属しているから、その意味では、経験的<EMPIRIQUE>アンンピリック

     LA CONNAISSANCE COUR DE PHILOSOPHIE P,FOULQUIE
      認識       哲学講義       フルキエ
                         から、抜粋

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