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from: 沙羅さん
2011/01/25 03:10:18
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哲学での形而上学<Meta ta physika>
Metataphysikaメタ、タ、ピュシカBC一世紀頃、アリストテレスの著作を編集した、アンドロ二コスは14巻からなる著作の表題が抜けていたため、
Meta ta physika メタ、タ、ピュシカ
BC一世紀頃、アリストテレスの著作を編集した、アンドロ二コスは
14巻からなる著作の表題が抜けていたため、全集の収録される順序に従い、表示する事にしたそうです。
META TA PHYSIKA という表題
自然学は、ピュシカ<PHYSIKA>、
そして、自然学に関する著作の次(META>にくる著作
これが縮まり、ラテン語メタピュシカ、METAPHYSICA
フランス語は、METAPHYSIQUE メタフィズィック という単語になります。
アリストテレスの論究内容そのものを示すようになったのは、
中世からで研究対象は自然学の対象とは本質的に異なっていた。
自然学の相手とするところとは、別個の次元に立つ事でであり、自然学者がその土台としている感覚的認識を超える、ものの考え方が必要であった。
そこから、メタフィズィック 形而上学とは、<自然の世界、及び、それについて研究する学問の彼方、ないし上にあるもの>と言う意味がこめられるようになって使われた。
そこで定義としていることは、
われわれを取り囲む学問について一応の概念をおくならば、形而上学の役割は、感覚の手の届かない実在に対する認識であること。
まずなにより、魂や神のような非物質的な存在のこと。同時に物質的な存在にかんしても、それを成り立たせている、原理自体は問題となってくる。そのような原理は、感覚に基づく知恵によっては、とらえられないからである。
アリストテレスの時代の場合は、形而上学の対象は、存在であったが、今日一般では領域はかなり広まっている。
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from: 沙羅さん
2011/01/30 17:17:38
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「Re:Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
> ふと思ったのですが > > 人知を超越している神が存在するというのと > ブッダの存在を信じるというのは、 > 根本的に違うと思うのですね。 > > ブッダは人間であり、お腹も空くし、 > 旅もする。その足跡を辿るということが信仰に基づかないでも > 可能ですね。 > > しかし、神の存在は違いますね。 > 「神が存在する」という信が無いと、 > その存在を探求できない。 > > 神の仕業という自然物や創造物が多数存在しますが、 > それが神の仕業であるとは断言できない。 > > 信と真は、 > 信から神は存在するし、 > 真からブッダは存在した。
哲学する上で、この形而上の問題についての議論はある意味、興味深い問題ですが、
どちらにしても、私達は人間であるという肉体を有す、、、
という人間としての立場においての言説を放っている・・・・という実態を意識にとどめておかないと、
それこそ、議論を続けているのを見ていると、日本の議論場でよく感じるのは、「病院に行った方がいいかもしれない・」・・・
と回りの複数他者達が思うような言説を無意識に真剣に放ってしまうようなんですね。
昨日、フランステレビ、9時からの番組で、パトリック、セバスチャンという芸能人で、バラエティー番組の司会をする55歳くらいの男性の方が出ていました。
「僕の場合は、母親が他界した時も一筋も涙を流さなかったんです・・今でもそうですよ。あまりにも、母親が近くにいるのを感じるし、本とに居るんです。お化けの話や幽霊の話をしているんじゃないんですよ。母親が彼女の存在の仕方で、僕にコミュニケートをとって今までの人生の迷いの地点で、助言をしてくるのが、ありありとわかるんです。」
とこの番組の司会者と話していましたが、
これを聞いて、パトリック、セバスチャンの言説をただの妄想と判断するか?それとも、ある心霊世界のコミュニケートを体感できる人には、なるほど・・・・と思わせるエレメントがあるので、彼の体感が、個人的な妄想に過ぎないか?あるいは、ほんとに、なんらかの死者とのコミュニケートであるかの判断は、やはり同体感、類似体験という体験者でしか分らないとおもうのです。
彼が、放った言葉で、
FACONその人独特の流儀、仕方、流儀
DE 〜の
SA MANIERE 彼女のやり方、彼女の特徴がでる仕方
という言葉が放たれる。
これは、言い換えれば、親密な家族関係、生活を共にして初めてわかる、個人的な生活に対する流儀とか癖とかいうものですし、
その個人的な流儀が、どうして、その人にそのような考え方や仕方、立ち振る舞いをさせるか?
という理由を家族は分っているのだと思うのです。
死者が残された、遺族にコミュニケートをとってくるとしたら、やはり、個人的な生前の癖や流儀や立ち振る舞いや、個人的な関係にしか分らない仕方で伝えてくるようなんです。
ですから、そのような事を突然言われた、他者は闇雲に、自分に類似体験がないからと言って、理性的でないとか、信憑性がないとか、つまらないものを、信じて、、、というような唯物論、又は?無神教?的な人たちが持つ価値観を、押し付けたり、個人的な判断を諭すとい野蛮なコミュニケートを取る事は、他者<人間>とのコミュニケートをしようとするその意欲や欲望までも壊すのだと思うのです。この人間の心の接し方にまず、問題があるように思うのです。自分に感じられないから又は、数字に現れないのは全て間違いであるという考え方ではなく、
何故?
そのような体験をするのか?
何故?
予知体験をするのか?
何故?
そのような声が聞こえるのか?
形而上の世界の現象の事を、形而下の世界の思考の仕方で、何かを証明するという事じたいが、もうおかしな話に思えます。
むしろ、最初から、表現は短直ですが
「自分は唯物論者です」・・とはっきり 述べてくれる方が誠実でしょうし、それに対して、議論場での皆の反応も「ア〜そうですか。」ですむのですから、
個人的な価値観がどのようなエレメントにゆだねているのか、
それは個人の問題なのですから、
自分自身で決めればよいと思うのです。そのような事は自分自身で決めるべきに思いますし、他者がそこまで関与するべきでもないように思えます。
それくらい自立した個々の考え、思考を象るものは自己、個人の経験に因るのはごく自然におもうのです。
その個人の発する 言説は個の身体も含む言説であると思えますから、他者への尊重であるとか、他者への存在のあり方を認める・・・・という方向にいくと思うのです。
どちらにしても、平等とか愛といった言葉を放つ以前には、個の自立や個の独立といった、精神的な個への尊重や個の存在性を、存在させる意識が能動的に働かないと、真の個の平等という意識へと展開するべき流れは滞ると思われます。
哲学での形而上世界を議論する場合は、
まず、私達にとって、神とは何か?<信じる、信じないという点に意識を固定させるのではなく>
神の概念の源は何か?(無信仰者の家庭)又は(信仰者の家庭)
神の本質的性格ー>体験によって知る。神秘的霊感者の世界
ー>神の認識と類推によって知る
神の存在証明ー>論理的で古典的証明の方法は、
ア、ポステりオリ(充足理由)
又は、ア、プリオリ(矛盾の原理)という地点から議論を展開できますし、又、出発を世界<宇宙論から>から、又は人間<心理学的>から、ア、ポステりオリ充足理由によって、議論な成すとおもいますし、神そのものから出発する、つまり神の性格の絶対性を明示する何らかの基礎的事実を複数他者達の同一意見から出発する証明は、ア、プリオリ的です。
次に物理的世界から出発
合目的性による証明つまり目的論的論証、また、因果性によってまたは動力因によって・・・・
それから、神の否定
これは無神論<ATHEISME>とは何か?現代の無神論、哲学的意味(例えば、マルクス主義の無視論であり)実存主義の無神論であり、
そして、宗教に関係なく神秘体験を体験される人たちに興味深いのはLE PANTHEISME汎神論でしょうかね?
神の否定と単調に表現しても、それまでになす議論や展開の流れがありますし、、、、、近代汎神論の発展の仕方には、普遍性を見抜くという哲学意識の底辺にあるSENS は多いに触発される問題なんです。
ま!神の存在についても否定についても、やはり個々人の人格が成す、経験や意識そしてその精神が存在する次元というものを察知し、他者との心のネットワークによって、すこしずつ 価値観を共有体感できるか?出来ないか?・・・・・
そのような、複数他者達との間における実践でしかないと思うのです。
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