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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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from: 沙羅さん

2011/01/25 03:10:18

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哲学での形而上学<Meta ta physika>

Metataphysikaメタ、タ、ピュシカBC一世紀頃、アリストテレスの著作を編集した、アンドロ二コスは14巻からなる著作の表題が抜けていたため、

Meta ta physika メタ、タ、ピュシカ

BC一世紀頃、アリストテレスの著作を編集した、アンドロ二コスは
14巻からなる著作の表題が抜けていたため、全集の収録される順序に従い、表示する事にしたそうです。

META TA PHYSIKA という表題

自然学は、ピュシカ<PHYSIKA>、
そして、自然学に関する著作の次(META>にくる著作

これが縮まり、ラテン語メタピュシカ、METAPHYSICA

フランス語は、METAPHYSIQUE メタフィズィック という単語になります。
アリストテレスの論究内容そのものを示すようになったのは、
中世からで研究対象は自然学の対象とは本質的に異なっていた。

自然学の相手とするところとは、別個の次元に立つ事でであり、自然学者がその土台としている感覚的認識を超える、ものの考え方が必要であった。

そこから、メタフィズィック 形而上学とは、<自然の世界、及び、それについて研究する学問の彼方、ないし上にあるもの>と言う意味がこめられるようになって使われた。

そこで定義としていることは、

われわれを取り囲む学問について一応の概念をおくならば、形而上学の役割は、感覚の手の届かない実在に対する認識であること。

まずなにより、魂や神のような非物質的な存在のこと。同時に物質的な存在にかんしても、それを成り立たせている、原理自体は問題となってくる。そのような原理は、感覚に基づく知恵によっては、とらえられないからである。

アリストテレスの時代の場合は、形而上学の対象は、存在であったが、今日一般では領域はかなり広まっている。

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from: 沙羅さん

2011/02/06 05:20:11

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「Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」

 META TA PHYSIKA メタ タ ピュシカ
 MSG973に前記しましたが
 自然学を相手とするところとは、
 別の次元に立つ
 その別の次元に立つことでの探究が必要だったんでしょう。
 それが
 形而上学的認識と言う事だったと思うのです。

 なんでも思うのですが、何かを探究する時には自分の立つ次元を変えないと、自分が観るべき対象や相手を感じたり観たりする事ができないと思うのです。

 あらゆる方面から観るという事だと思うのです。
 形而上学的認識を、形而下の次元に立って話すと言う事もあるかも知れませんが、
 しかし、自分の立つ次元を変えないとあらゆる他者の言説の意味もわかりませんし、何を言おうとしているのか?
という理解は、やはり次元を変えながら他者とのコミュニケートをしないと、特に形而上の問題は、議論にならないのではないか?と思うのです。という事は、ある程度の感覚体験も必要になってくると思われます。

 高校哲学のカリキュラムの組み立ても、
 認識として、

  認識の心理学(意識、無意識、論理的、理性的な認識、
         思考と言語)

  科学(数学、物理、人文科学、生物学、、、)

  形而上学(神、精神、世界、真理)

  ですので、

  哲学するということで、形而上学的認識は、唯物論的思考が云々というのではなく、ちゃんと科学とは別個の分野として
 なりたち、教えられているので、

 派生的な事にいきなり執着すると、議論の途上で、なにもかも一緒にして結果結論だしたがるし、早急に他者の判断をしてしまわれる。

 挙句の果てに唯物論に批判的ですね?・と、紋切り型の言説を放つのですよね。

 哲学は層が大変あついので、まず、全体、総体把握が必要に思うのです。
 
 哲学の形而上学目的は、
 感覚の手の届かない、実在の認識という名目定義ですが、

 精神的世界での、厳密な意味において解釈をするとすると、
 その特性を余すところなく現実のものとしているのは神のみであるという定義になりますね。
なぜなら、神こそ本性からいえば、超越者であるほかになりませんから、、
 または、精神も形而上学的認識の対象と考えられるのですが、精神は外的な感覚によっては知覚されず、精神活動をとらえるのは意識ですが、それも精神そのものを掴みとることは出来ないです。
最後に物質世界も感覚によって知覚されるとは言うものの、やはり認識の対象の一環に他ならないですね。
感覚は主観的な印象だけに留めておくことは出来ないですね。その印象の源である、客観的実在の本性については、なんらかの教えを感じる事はないと思うのです。

そして今度は実在的定義の探究の仕方として、ここで、直観がクローズアップされてきますね。

 デカルトは、「真理の確実な認識に達する為に人間に開かれた途は明白な直観と必然的演繹に他にない」と精神指導の規則に書いてあります。

ですから、神秘的な世界、形而上世界に感覚的に近づくのに、必ずなんらかの信仰や宗教を持たないと決して、体験できないのだ!という事はないのですよね。

もちろん信仰や宗教を手段にするのと大変類似な体験をなさるのですよね。でも絶対、何々信仰だけ、、、、とか、何々宗教だけ、、、という事はないと思います。

哲学の醍醐味ですね。それだけ、幅広いですし、何かの対象をターゲットにしているのではなく、普遍性を観ながらの探究ですから、他者不在という事はないのだと思うのです。しかし、範囲が広すぎて大変ですね。  最後は愚痴でした。


 

 

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