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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: めるろ〜001さん

    2011年02月21日 12時19分42秒

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    仏教は苦を学ぶ教えか?

    仏教の教えというと、
    苦が最初に出くわす。

    教科書がそうなっているからだろう。

    しかし、仏教で苦を知ることは縁起を知ることと同じで、
    自然現象を知ることと同じである。

    仏教の場合はその苦を知ることによって、安寧の地、
    極楽の地、大楽の地を知るすべとすることが重要なのですね。

    坐禅や瞑想は、目を閉じて、現象の時間を止めることによって
    思考の世界に入ることが大事なのです。

    坐禅や瞑想を繰り返しするのは、現象に変化が起きているからです。
    この実に当たり前のことが、体感として苦という言葉に集約しているのです。

    この身体感覚が大事なのですね。

    「今日」といった時に、明日の時間になって「今日」というのは
    言葉は同じでも、内容は違います。

    この内容を知ることが実に重要なのですね。

    自然現象の中で、救うべきは他者が苦としていることです。
    そういう意味でも、苦を知るということは大事でしょう。

    繰り返し瞑想し、自分自身が悩むという苦もあるでしょう。
    しかし、その苦を知らないと、
    苦を乗り越えることを知ることは出来ない。

    そういう意味での「苦」の位置づけは、
    実に、自然なことで、仏教が智慧と救済の教えである所以です。

    最初に苦があるなどと書かれていると、
    随分誤解してしまいますね。

    しかし、その修行の深度によっては、苦行になることも
    あるでしょう。
    それは自らが次のステップへと自らを導くためのものですね。

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コメント: 全3件

from: 沙羅さん

2011年02月23日 18時16分35秒

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「Re:Re:Re:仏教は苦を学ぶ教えか?」

  苦しい という 音 を放つ

  楽しい  という 音 を放つ


 世界の人ビトは、どのように 解釈したり 理解したり
 するのでしょうか?

 いったい、どのような感情をもつと、 PEINE 苦しい

 という音を放つのか?

 いったい、どのような 感情をもつと、人は、
 AGREABLEアグリアーブル、JOYEUX ジョワイユ 楽しい
 という音を放つのでしょうか?

 どうもおもうに、記号というのは、簡単になればなるほど、

 その記号が含む ニュアンスは断定的で、しかも抽象性が全くなくなる、、、、

 例えば、

 楽

 と

 楽しい

 では意味が違いませんか?

 哲学的解釈、つまり高次の世界への考え方は

 楽しい という感情の探究だと思うのです。

 何故なら、 他者の存在を含みませんか?

 高次というのは、自分と違う どれだけ他者を含む世界を創りあげる事ができるのか?
他者達との一体の世界に他ならないと思うのです。

 他者にはもちろん、死者の魂も含まれますから、、、

 ですから、生きてる人、他者達の心や魂を読み取れないという事は、
 だいたい、その人の存在の仕方はすでに何らかの閉塞的な世界を現していると思うのですね。

 去年の6月に、フランスにあるラスコーの洞窟を主人と見学しにいった。
フランスのミディ、ピレネ地方、スペインに近い地方は、豊富な歴史産物建築物があるのです。
また、自然も豊富で、外観をいっさい変えない観光場所の開発は、
人間の進化の縮小図を観ている感じがする。

ラスコーの洞窟は、保存の為に一般人は入れないのですが
本物とほとんど同じ、レプリカが洞窟を掘って、隣に存在している。
時間が区切られ、一回に入れる 人数も限られている、レプリカといえども、わたし達は、息をするので、無意識に二酸化炭素を吐いている、洞窟の壁画は、人間の吐く息や、外界からの細菌や微生物が壁画に付着し、少しづつ傷んでいくそうなのですね。

そんな訳で、入場券を買っても、すぐ入れるのではなく、入場できる時間の予約という感じなのです。

そういえば、ミラノのダヴィンチの、最後の晩餐を見る時もそうだった。

前前日に教会まで足を運んで、見学できる、日にちと時間を予約しないとならなかった。

滞在型のバカンスの仕方のヨーロッパらしい。

何か、鑑賞のみの目的とする行動は、どうしても時間の短縮は避けられず、市場主義絶対重視のような、時間をドンドン切り捨て生活をするようになるんでしょうね?

無駄な時間にこそ、真実と思える姿を見せると思うのですけど、、
ま、それは良いのですが、、、、

旅にも色々ありますが、インデックスばかり作る人生より、その場所で誰に逢い、どういう事を感じたか?というような自己体験内観の発達が重要だと思うのです。
数年後、数十年後で人生の途上で出会う人びと、逢わされる意味や不思議な出来事の繋がりが、心模様を通して他者との関係が観えて来る。
人生は、楽 ではなく、人生はやはり楽しいのでしょう、、、と思うのです。


ラスコーの洞窟は、クロマニヨン人達が、15000年前に、
SANCTUAIREサンクテゥエー聖域とされる
祈りの場を造ったのですね。何十メートルの壁には、牛や鹿や草食動物の走る絵が描かれているんです。

すごいですよ。皆さん、、こんな昔から、
人間は、何か、目に見えないもの触れないものの、存在を信じ一体感やコミュニケートを望まなくてはいられないのでしょうね。

それが 生きる という事なんでしょうね。

 生きる<生かされる> 希求運動が、種火のように消えることなく あるのでしょうね?

 まず、その感触を 感じる事が大事だと思うのですね。

 
 写真は、空海の室戸岬の洞窟です。

 



 
 

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from: めるろ〜001さん

2011年02月23日 12時55分20秒

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「Re:Re:仏教は苦を学ぶ教えか?」
苦というのは自分自身が他者との違いや自分の境遇などを
発見する時に用いられるものですね。

楽は、自己の存在を少し後ろに置き、
楽という境遇に行きつきます。

行為を楽しむ。
楽を楽しむ。

ただし、宗教がこうすると楽しいよ。
という風に教えるわけにはいかないと思うのですね。

こうすると楽しいという境地にいけるよ。
という未来形何だと思うのです。

遊びだと、すぐに楽しみがある。
宗教や哲学だとすぐに楽しみがあるなどというのは
イベントでもない限り難しいと思うのです。

イベントというのは教えるものではないので
詳しい教義も出てきませんね。

ただ、楽しいのだと思います。

真理という境遇に至るのに、すぐに楽しくなります。
などと言えないのが現状でしょう。

空海は悟りとは「大楽にあり」と言っています。
しかし、自らは厳しい修行に打ち込みました。
これは、キリスト教でもそうだと思います。
理神論は難しいですし、汎神論も一筋縄ではいきません。

楽しいと大楽には、温度差がありそうですね。

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from: 沙羅さん

2011年02月23日 01時12分04秒

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「Re:仏教は苦を学ぶ教えか?」

あぁぁ〜そういえば、仏教の世界の話しや現れ方を注意していると、
 苦 という音素がよく空に放たれますね?

 他の国の民族と話しを日常会話をしますよね。
 、その国の宗教感は、日常生活すれば、その土地の信仰があるなしに関わらず、言葉や根ざす宗教観が、そこ地に住む民族を導いているだろう感覚はつかめるんですね。

全体的に人間を把握するという感覚ですね。


そうすると、 苦 PEINE という音素を、頻繁に説く というのは、どのような 言語環境に 身を置くのかしら?

とか色々考えるんです。

苦?

KU?
KOU? 
COU ?
CU ?
QUE ?

苦と言う字は、 古いという字の上に草冠をつけるのですよね。

古いは、十字の 口ですし、

この草冠って、書く事でどのような意味をなしているんでしょうね?

古いに草冠がついて、苦しいになるらしいんですね。何故?
そのような字になるのでしょうね?

古いと苦しいの関係らしいです。

新しいと楽なんでしょうか?

よく分かりませんが、

書き順って大変大事だと思うのです。

印を空に切ってるみたいですよね?

だからやたらに、印を切ってはいけないと言われるのかしら。?

でも、いきなり 苦がある、、と言われてもですねぇぇ、?、

まず考えるのは、

苦ってなんですか?

と問いたくなるわたしがいますので、

同じ肉体的なハンディーを背負っても、おなじ環境にそだっても、
片方の方はいつも苦痛を感じる
もう片方の方は、全然苦痛を感じない人もいる。

何故?

この受け止め方の違いがでるのか?
という事が、最初の疑問になる
スタートだと思うのですね。

いきなり、
わたしは、苦しいから
わたしは、死にそうだから
わたしは、縁にめぐまれないから
わたしは、ひとりぼっちだから
わたしは、誰も自分の事をわかってくれないと思っているから
等々、、、、、、

思う前に

何故?

そのような事を 思わされるか?

と考えると思うのです。

宗教や信仰は人を苦から救う為にある、、という存在の仕方ではなく、

宗教や信仰は、人を幸せに導く為に生まれた、、という現れ方の方が、大衆の間にあって普遍化しやすいと思うのですね。

        沙羅のひとり言でした。

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