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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

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  • from: yeshangさん

    2011年05月31日 11時55分37秒

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    「自利利他」について想うこと

     企業の目的はまず利益を出すことで、理念としてお客染ま・株主・従業員を大切にすることがよく言われます。
     しかし、従業員を大切にしない企業では成長も将来の利益・展望もないわけで、株主にも還元できず、ましてお客様へのサービスもままなりません。

     従って、私は企業は外向きにはお客様第一、株主様さま、従業員はは仕事をさせていただいていると言いますが、本当は従業員第一、利益を出して株主にもお客様にも十分な満足をしていただくことと考えています。更に余剰が出れば社会貢献・奉仕にも回せます。そのためにも利益がきちっと出る会社にすることが大切でしょう。

     さて、「自利利他」ですが、このまま読むと「自らが利を得、そして他を利す」、つまり自分の利益が他の人を利すことと読めます。自利是利他、自利=利他です。

     「世のため、人のためそして自分のため」でなく「自分のため、人のため、そして世のため」なのです。

     しかし、この場合企業と違って順序はどちらからでもよく、「世のため」から始めてもよく「自分のため」から始めてもいいでしょう。自分にとって行動するに元気の出るほうから進めればよいと思います。

     自分があってこの世があり、この世があって自分があることをよく考えて行動すればよいのではないかと。
     

     

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コメント: 全8件

from: 沙羅さん

2011年06月24日 17時43分36秒

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「Re:「自利利他」について想うこと」
ジャック,アタリ という名前のフランス人の政治家がいるのですが、
福島の原発について以下の論文を発表しているのですね。

http://genpatsu.wordpress.com/2011/04/05/jacques-attali-slate/
http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/666.html
http://blogs.yahoo.co.jp/pphhiiloo/3488733.html
まぁぁ、色々な人達によってweb界の反応が色々書かれていますが、、、。

思う事

言説 放つ行為
誰かの言説の翻訳し、そして放つ、
又自己本来の言説を放つ、、、
色々あります、

まず、どの位置に立ち 放つか?<放っているのか?>
という事<位置、層、次元>を見抜く、という力<洞察力?読解力 ?>は違うものに思うのですね。

何が?書かれているか?

という事と、 放っている本人は、 どの位置<層、次元>に立ち放っているか?

という事の理解は違うと思うのです。




でも、放つ時点

どの人のどのような翻訳を、どの方向に捉えるのも自由なのですが、、
しかし読むと

結局、その人の 心模様、 心の状態、何を観ようとしているか?全て写してしまっている、、、

何が?書かれているか?
という意識は 記号を読むという行為なので、そこには、情動をなびかせる事しか、書かれていないのではないか?と思うのですね。

立つ位置、、というのは、大変重要ですし、世間の人は 立つ位置を見て判断するのが普通ですよね?

応答や呼応だけを読んでも、、

「そういう意味で、この人は、放ったり、書き込んではいないでしょう???」


というちぐはぐ、、つまり、コミュニケートが一方通行に思える 人達が沢山存在している感じをうけるのですよね。

病的に思える、明らかに病気の範囲として健康を心配するという事もありますし、

心身健康であるというのは、他者達とのコミュニケートや他者達との感情交流がやはりスムーズに経験された上で、哲学的な事を述べる、意見を交換しあう、、、という場でないと、
存在しようとする意味が観えなくなってくると思うのですね。

 

例えばですが、
ある宗教人、またはある信仰を持つ方が、どのような真実っぽい事を語ったも、

世間《読むほう》は、発信者、その人を、

結局その人が帰属する政党や 信仰や宗派や、個人情報の影響が大きいというふうに、 人間を知る、、という事が大事だと思います。


人間を知る、、という事が、自分のオピニオンを放ったり、自分の信じてる宗派の考えや意識を放つより重要に思えます。

人間を知る、、というのは、他を知るでしょうし、他を知りながら自分という人間を知る事になるので、、

自分が他者に分かってもらえないという地点で悶々と悩むのではなく、

人間を知る、、という行為や経験がまず必要に思うのです。

それには、大いに、人間と話し、恋愛も何回でもし、友人を沢山つくり、喧嘩し、仲直りし、、と言った、人間らしい経験が不可欠に思いますけど、、、人間の感情や人間が、こういう言葉を放つとこういう風に感じるんという事が分からない、、、で一方的に放つ、、、という事は、
普遍性を持つ存在の仕方にはとても思えません。





何か、問題が起きた時は、内部の人間達だけで、解決しようとしても、動かないと思うのです。解決に向わないと思うのです。何故なら、無意識の欠点を見抜くのは、やはりその内部に居る人達ではないからだと思う。
それに内部で 話し合っても
個人が帰属するなんらかの団体や 派や、党派、地域、、といった存在させてる因果関係全てに影響していると思うのです。

スタンスを長く、30年単位くらいで遠方を見ようとしても、
何かが、ゆっくりと動く
稼動する、前進するという方向性を観たくても、 止っているのですから、、観えないのですよね?


哲学的思考<意識>は結局 方向をセンスを観るのでしょう?
貸借対照表の 数字 を分析するだけ、、というような思考ではないと思うのです。

どうも、流れ、、柔軟な流れを感じないというのが、日本の上空に感じるのです、、なんでしょう?


今までのメディアの動きを見ていて、思う事
自分の中に「、がんばろう !日本」と、放ってみる、、
なんだか、、、哀れさ、、、が  漂うんです

全然、頑張る、、という本来の、 稼動させる雰囲気や力を感じない、、
必死の状態で、仕方なく、言葉は、頑張ろう、、しか見つけられない、、、という感じなのです。

自発的、自由意志による選択による 言葉<音>ではなく、
それしかない、、、というか、、


私個人は、この  頑張ろう!という音素を、自分から放つ事が出来ない、、
それは、 頑張りたくない、、、という意味では決してなく、
本来、 ganbalu という 音素には、もっと違うポジティブな意味を含んでいたのじゃないか?という感じがするのです。


ですから、無意識に なんでも、かんでも「、頑張ってくださ〜い、」、と放つ 世界にどっぷりつかってしまう事は日頃からしない。
ように心がける、、というのでしょうか?

というか、頑張る必要性を感じない、、自然体でいいと思うので人にもそのような言葉は、安易にかけない。

本当に、ここ一番にしか頑張れない時はあると思うけど、頻繁にはないでしょう?と思う。

忍耐モノの漫画が昔いっ時流行ったけど、

自分達が普通自然にしている事なら流行る事もないでしょう。、

なんでもそうですが、流行、何か流行る現象は、結局 何かその時代に生きる人達に欠けてるものへの共感か?
それとも、その反対、、自己の生き方の価値観の合致点を、流行の小説や漫画や、流行り言葉、、といった感覚的なものと簡単に呼応するのでしょうね。

外国に行くと、日本で通じていた同じ笑いの種になった事話しても、 期待した反応得られない事沢山ありますし、、、反対に不愉快に思われたり、、もちろん反対もあるんですね。

価値観の違いというのも、やはり自分の外の人達との摩擦を経験しないと、身につかないと思うのですけど、違います?

何度か、がんばろう!
と放つのを聴く時、

本当の人間が生きる、生き抜く、、という、底力の頑張り、、、に 気つかせる、、心に響かない、、上滑り状態のような気がする時が多いのです。
きっと
あまりにも、トラウマ的な悲惨な現状状況を見せられ、、
安易に、「 頑張ろう、日本!」、、とエールをかけあう気持ちになれない、、という感じでしょうか?


この頑張りコールを、かける人達は、「 被災者、被害者じゃないのね、」、的な 実際被害者達の 心の声が聞こえてきそうだ、、自と他、 被害者と 被害に遭わなかった人達、、、という境界線が 浮き彫りにされてしまうのが、

「この頑張ろう、、日本!」の 他人事のように聴こえてしまう 音なのだと思う。
むしろ、、わたしは、youtubeで見た、津波の瓦礫のしたで、一週間救助を待って、助け出された、高齢のおじいさんが、助け出された瞬間 に放つ、第一声、、「又、やり直しましょう!」と

放つ声(音)に こそ人々に訴える何か、天空のモノたちを動かす、何らか他者達の心が揺さぶられる何かあると思うのです。

そのおじいさんの言葉は、「頑張ろう!日本!」のような、事前に 用意された言葉 ではないからだと思う。

それとも、何日も死の恐怖を味わって過ごした日々からの救出に、

出会わせた時、あまりにも多い、報道陣の数にたじろいでしまった?
かと 色々考えましたけど、、、

あの報道陣という存在は実に自然ではないんですよね?

時たま、真実を暴く、、という意識の姿勢というか横暴性を感じるのです。
同じ行為にも、その人の持つ人間性の高さって、やはり人生を誘導する示唆を示していると思うのですね。



それで、、、「、頑張ろう、」、という言葉


事前に用意されたという事は、結局、その個人が 帰属している団体や宗派や信仰や、国、土地や家といった、目に見える実態の上に依存しながら、生きよう、存在しようとしているからだと思うのですね。
事前に用意された言葉というのは、無意識に放っても、意識的に放っても、結局、受信する側の心には共感を得ないのだと思います。


どうせ、あの人は、oo教だし、、
どうせ、あの人は、 右派<左派>だし
どうせ、あの人のしている行為は、 oo信仰の布教行為だし、 
どうせあの人のしている事は一種の売名行為だし
、どうせあの人の言説は、 我田引水、偽善行為、、だし、、、、 etc

このように感じている人達。多いと思います。

このような事全て、フランス語で、remuer移動する、、動かす、かき混ぜる、心をうごかす、動揺させる、という語で現すのです、、

たとえば、コミュニティーとか書き込みといったサイト、この世界も、この部類の世界だと思います、

数人達でremuerかき混ぜている、、、という世界の現われなので、そこには、 外部の人達の 共感(コミュニケート)を得るのは難しいです、、



落とされた記号についてコピペするという事事態が時間を後から追いかけるという位置ですから、、おなじ対峙世界であるなら、相手が記号を落とす前に立つ位置が求められると思うのですけど、ちがいますか?


でもなんというのでしょうね、、

すべて、、、あの人(個、対象)に向かう個の判断を抜け切れない世界の事に思えるのですよね。


言説が 個から放たれる、、という 個<対象>から放つ事しか出来ない、、という世界が問題なんでしょうか?
話ズレましたけど、、、

それで
以下の仏文を読みましたけど、
アタリ氏は、状況が起きた位置に立って放っているんじゃないのですよね。

地球全体の汚染として、フランスにも流れてくるんです。深刻度は地球レベルなんですよね。ですから、日本側の情報と、フランス側の情報には、

明らかな違いがありました。

わたしが述べる違いという意味は、

情報が間違っている、間違っていない、、という違いでは全くなく、


どの位置に立ち、情報を放つ事が出来るか?
という意味です。


それで、日本側にいると、なんだかちぐはぐな感情を起こさせる情報を目にするんですよね?

例えば、このようなアタリの言説を読んだ、日本側からの情報記事です。

外国から責められてる、、という受動態の意識の反応で捉えている言説を度々目にする、、これは、外国の発信の元、、つまり、他と自の区別を 自分達が境界線を引いているのじゃないか?と思うのですけど、ちがいますか?

ですから、アレバという会社<対象>に又同じように、薀蓄云わないと、気がすまない、、、という位置に立って放っている、、という層に存在しているんじゃないでしょうか?


対象<個>に 意識を、fix しないと、自己行為の目的がなく、路頭に迷うという事はなんだか変に思うのですよ。行為の目的はやはり、fix 固定視は出来ないと思いませんか?
この三次元の世界にいるかぎり、抽象的な捉え方でしか捉える事が出来ず、そこには流動的な空気<自分と違う他者達>が流れ 真実の輪郭を感じる、、、という事でしか、前進出来ないと思うのですけど、そう、思いません?

ダヴィンチの、お墓の写真でも貼ろうかな?


ジャック、アタリの批判点
・経済効率優先で、建ててはいけないところに建てた
・これまで提言されていた安全対策をしてこなかった
・事故にたいする対応に失敗した
・初動からの他国の協力を受けなかった
・世間への情報開示が少なすぎた
・各国の対応(特に仏米)も遠慮がちだった
Branle-bas de combat pour sauver Fukushima et l'humanité

L'heure est très grave. Un scénario mettant en cause l'intégrité à moyen terme de l'humanité ne peut plus être exclu. Si les cuves ou les piscines stockant les combustibles irradiés des réacteurs de Fukushima cèdent sous l'effet de la chaleur, d'une explosion ou d'une réplique sismique, on verra se dégager, sous forme liquide ou gazeuse, dans la mer, dans l'air ou en sous-sol, des quantités immenses de matériaux radioactifs. Et même, s'il s'agit de l'enceinte de confinement du troisième réacteur, des quantités considérables de plutonium. Avec, alors, des conséquences certaines sur la contamination d'une partie du Japon, devenant largement inhabitable; et avec d'autres implications, moins certaines, sur la contamination de la planète entière.

Tout cela parce que les autorités nucléaires japonaises ont, pour des raisons de pure rentabilité financière, construit cette centrale là où il ne le fallait pas et refusé d'y installer toutes les sécurités qui leur avaient été proposées. Et parce que, depuis le début de la catastrophe, ces mêmes autorités ont accumulé erreur sur erreur dans la gestion des secours, laissant des jours durant les réacteurs sans refroidissement, causant des dommages irréparables aux systèmes de protection encore intacts et, par un mélange d'orgueil et de goût du secret, refusant longtemps l'aide internationale et ne communiquant pas la réalité de ce qu'ils savaient sans doute être, depuis le début, une catastrophe méritant une mobilisation planétaire.

En agissant ainsi, ces autorités ont d'abord mis en danger le magnifique peuple japonais, qu'ils ont sous-informé; et en particulier des travailleurs, mal payés, employés à des tâches extrêmement dangereuses, pour lesquelles ils n'étaient pas formés. Désormais, afin de ne pas avouer qu'ils ont menti, ces mêmes responsables refusent la coopération des spécialistes étrangers; et c'est la planète tout entière qu'ils mettent en danger.

Il est ahurissant que la «communauté internationale», désormais (et c'est heureux) si prompte à réagir, à s'indigner à la moindre violation des droits de l'homme, reste, dans ce cas, totalement impavide: on demande poliment aux responsables japonais ce qu'ils font; on n'insiste pas lorsqu'ils refusent notre aide; on évacue nos ressortissants; o

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from: めるろ〜001さん

2011年06月02日 13時18分55秒

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「Re:Re:Re:Re:「自利利他」について想うこと」
>沙羅ちゃん

今回の震災と原発問題は、多くの税金が使われます。
お金のあるところに群がる政治家の姿が見え隠れするのです。

最近国会で法案審議している感覚がないのです。
法案審議しない国会は仕事を放棄していますね。

全く残念です。

自利しか求めないのですかね。

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from: 沙羅さん

2011年06月01日 17時00分00秒

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「Re:Re:Re:「自利利他」について想うこと」


 めるろ〜さん

 政府人には何も観えないのではないですか?

 ただ目先に、生じる事しか、網膜に写る事しか?

 その網膜に写るまで、何も分からないのじゃないですか?

 自分の利権取得や、自分が居やすい様に、、

 ただそれだけ、、、

 自分の事だけで精一杯で、

 そのままでは、どのような事、数年後導くのか?

 むしろ、何ヶ月後の先も観じようともせず、明日の事も観じらない、、、

 その場だけ、、、という、動物的な感覚というか、

 先見の目がない人達だけの集まりなのではないでしょうか?

 国民達の心は冷めてしまってますよ。

 どちらにしても、政治まで対峙<胎児>世界のやりとりを見せられては国民も堪らないでしょう。

 他者<対立政党>を排除すれば、いいという問題ではなく、排除したり、対峙政党を批判しからと言っても必ず、
自分たちも、同じ因果応報が回ってきますから、他者から排除させられる恐怖感ばかり持ちながら、いつまでも同じ事の繰り返しなのではないでしょうか?

 全体、総体を観る、長いスタンスを観る事は必要に思えます、

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from: めるろ〜001さん

2011年06月01日 06時24分07秒

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「Re:Re:「自利利他」について想うこと」
yeshangさん

「自利利他」を論理学的にみると
「自利利他」と書いてあり、「自利他利」とは書いてない。

自分の利益を他者の利益へと転換できる(等価)と読むのか
自分の利益の残りを他者へと分ける(余剰)のか
自分の利益を他者へ分けなさい(命令)なのか
自分の利益を他者へ分けよう(譲渡)なのか

等価の場合は、親子や夫婦恋人などの関係で、
親密度が一番強いですね。

自分の利益ゆえに、減価償却などをした残りを
他者へ転換する余剰は、通常の商行為ですね。
通常の人間関係にも適応できますね。

命令の場合は、第三者が命令しているという
自分は本意ではないというニュアンスが含まれますね。

自分の利益を捨てて、他者へ分け与える譲渡は
自発的な愛が感じられます。
その道を指し示すのが神様や仏様になると思います。

自分の利益を他者から分け与えてもらうという
他力の場合も考えられますね。
絶対他力、他力本願と言ってもそこに到達するのは
自分でしかないのですけどね。

果報は寝て待てになった時には少し情けないですよね。
積極的に果報を待つ姿勢でありたいですよね。

ふと、社会状況を思い出しました。
生活保護受給者比率が大きいから国に全額支援して欲しいと
言っていた大阪市長。
自分の利益を他者から奪い取ろうという気でしょうか?
地方自治という自分ではどうしようもないから
国に補って欲しいというのは理解できるんですが
全額となるとね。
他の自治体との兼ね合いもある。

本当に生活保護が必要なのか?
単に”仕事がない”という人もいるように思います。

施しの習慣が薄れている日本社会で生きて行くには
生活保護は大事でしょう。
大阪市の場合は制度運営がまずいのではないかと思うのですね。

そういえば議員さんは利他で動いているはずですが
自分の主張が通らないと不信任という自利だけで動いているように見える議員さんが多くなったように思います。

国会も内閣しか法案を出せないような口ぶりで
攻撃している議員さんもいます。
国会は議員さんが立法するところじゃなかったでしたっけ?
それをしないで首相の粗探しばかりしている。

そいう議員さんは職務怠慢で議員給料を減額しないといけませんね。本来の仕事をしていないのですから。
内閣が法案を出す前に自分たちで法案を出しなさい。

今の国会審議を見ていると、
自分の怠慢を内閣に押し付けているようにしか見えないです。

原発って自民党が推進した国策だったはずです。
放射能の風上への退避行動の指針も
自民党と東電の癒着構造も既に出来上がっていたものです。
原発から同心円に避難する。
そこも自民党は自分たちが作ったのに、
それを実行した民主党政権を責める。

正に自分たちは利益を得て、残った負の遺産を
現政権にぶつけてますね。

どういった神経なのでしょうか?

と愚痴を言ってみました。(笑)

菅直人は期待はずれだったことは明白です。
しかし、今決断するのは菅直人です。
ポピュリズムに走っているのは菅直人も野党も同じです。

衆議院選挙でどこに向かうことを選択したのか、
参議院選挙で何を選択するのを拒否されたか。

利他であるはずの議員さんは良く考えるべきですね。



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from: 沙羅さん

2011年05月31日 22時13分22秒

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「Re:Re:「自利利他」について想うこと」
皆、自分で努力しながら、他の人を引き上げ援けていて、そして自分も他の人に引き上げられ援けられてれている。 > >  山の頂上で道や方角を示したり人々を引き上げ、援けているのは神様か仏様なのだと。 >

そうかも知れません。
時間の途上に生じている事に一生懸命ですので、気がつかない、、というの事のようです。

後から、よくよく 考えると、、、目に見えない何者かの存在の 力添えというか、介添えというか、、、

そのような抽象的な存在が確かに あったらしい、、

よって、「自分は 本当は ひとりっぽっちじゃなかったんだ」

何ものかに守られているというか、見守られているというか、、

そのような、何ともはっきり言えない抽象的な存在がなければ、今の自分の存在がこのような 存在の仕方になっていないはず、、、

という事を疑いだす、、というのは変ですが、、

第三者達<複数?>の存在が確かに手応えとして感じる事が出来ると思うのです。それまで、自分一人というか、生きてる人達だけの助言や自分の考えだけで決めてきた人生だと思い込んでいるのだけど、
そうではなかったんだ!という驚きと云うか、なんと言うのでしょうか〜、、なんとも言えない 今までの何百年も又それ以前からの、、とてつもない時の重さというか、自己の中に、ある驚嘆といったものが感じられるんです。

それをご先祖様と表現したり、亡くなった家族であったり仏さまであったr、、神様であったり、守護霊であったり、、、、、と人、民族、あるいは宗教によって、色々な表現の仕方があるように思えますが、


結局尽きるところ 他者(宇宙)とのコミュニケートなんでしょうと思えます。


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from: yeshangさん

2011年05月31日 20時47分41秒

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「Re:「自利利他」について想うこと」
 それ以前に考えていた自利利他は

 ちょうど登山を集団でするように、自らも自分の足で努力して登るが、後に続く人にも手を貸して引き上げてやる。そして気がつけば、前を行く人が手を差し伸べて自分を引き上げてくれている。

 皆、自分で努力しながら、他の人を引き上げ援けていて、そして自分も他の人に引き上げられ援けられてれている。

 山の頂上で道や方角を示したり人々を引き上げ、援けているのは神様か仏様なのだと。

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from: 沙羅さん

2011年05月31日 18時01分03秒

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「Re:Re:「自利利他」について想うこと」
MSG345 訂正お願い

 言語や思考ではなく、言語は思考 でした。

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from: 沙羅さん

2011年05月31日 17時58分58秒

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「Re:「自利利他」について想うこと」

 うまく説明できるかしらん?

 と思いながら、、、

 自分 という 個 から、何かを発信する場合、、、

 普遍性を観ながら

 言説を放とうとする。

 どうしても、個<部分> ------------->全体、総体 宇宙

 という表現の仕方になってしまうのだと思うのです。

 しかし、もし、自分<個>

 が、 宇宙、全体、 総体 を成してる 一部分だと、、体感、実感 手応え を得ている 人達の、

 言説の内容を分析していると、違いが見得るんです。


 他も自もない というか、、、

 もともと一つのものだったのを、

 どうして、 他 とか 自という記号に分け

 何らかの 意味を 伝えないとならないのか?

 という位置に立って放つ人達との違いです。

 この位置に立てる人達の次元と、

 「皆さん、戦争はいけません、争いはいけません、仲良くしましょう、

 世界の人達は 平和を目指そうではありませんか!」
と放つ次元、、

 つまり、「諍いや争いは、ただいけません」と放つ

 戦争=悪、、という判断する人達は、結果に意識をFIXしてしまっているのだと思うのですね。

 これは、実践ではないです。

 ただの結果報告というか、記号の照合合せを提示する、、という事に思えます。

 世界は、その地点ではもう、満足していないでしょう。

 宗教や信仰離れを促してさせてしまっているのは、

 人々に納得させる事のできる、

 人々の心に、ストン と共感できる 他者との共感を得る

 という言説が、放つ事が出来ないから、、と思うのです。

 しかし、これはコミュニケートの問題なので、

 少し横に置いときたい 問題に思うのです。


 例えばですが、、、

 日本語で、 寂しい、、という気持ちを表現する時

 アルファベットの言語は、

 欠ける という 単語を放つ事で、自分は<主体>、貴方がいなくて寂しい、、、と云う意味を伝える言語のしくみ

を考えると、、、

 ややこしいですが、、

 寂しい、、という気持ちにさせるのは


 何かが 足りない 欠けている 何かが、自分に足りない、、

 そのように 感じるから、 わたしは、寂しい、、だから<他>を求める

 という感じだと思うのです。

 フランス語というのは、良く出来てる言語のしくみと思うのは、

 非常に心理学が発達する言語のつくりになっているんです。

 貴方がいなくて寂しい

 は

 わたしには、貴方の存在が 欠けている<足りない>

 という単語を放ち、わたしは、寂しい、、という主体発信になっているんです。


 貴方という対象

 でなく、

 何かが、自分の 心中に足りない、 自分の奥に欠けている

 神にしても、誰かという人間にしても、信仰という抽象的なものにしても、、、

 自分が完全な状態、自分に充足感を与えるのには、何かが足りない、何かが欠けている、、、

 だから、足りないモノを求めるのだと思うのですね。

決して、救ってもらう為に、求める、、、という意識ではないと思うのです。

この救ってもらう為に、、、という意識は、すでに、誰に?すくってもらうのか?というと、自分以外の誰か<神、信仰、愛する人、ETC>、、、という、自と他の境界線が引かれてしまっているのだと思うのです。

どうして、この違いがでるのかは、やはり話す言語のしくみかもしれません。
よって、哲学では、言語や思考 と考えますから、、、、

 そうすると、、出発地点に又戻るのですが、、、(笑)

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