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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: アナンさん

    2011年10月18日 23時58分35秒

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    はじめまして

    アナンと申します。

    宜しくお願いします。

    敬具。

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コメント: 全8件

from: 沙羅さん

2011年10月24日 18時37分30秒

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「Re:Re::はじめまして」
人と話す時、
コミュニケートする次元の層がいくつかありますでしょう?

たとえば、信仰や宗教をもっている人たちには、その信じている宗教や信仰云々 又信仰心云々についてあまり指摘したり、批判的な事を 語るのはやはり、やさしくないでしょう?

人にやさしくないと思う事は 言わない、、話さない ただそれだけに思えます。
それは自分が違う信仰をもつからとか、決まった信仰をもっていないから、、とか、、そのような問題では全くなく、

人との接し方、心の接し方、、ただそれだけの問題でしょう。

経験上、何か信じている人達、何がしかの一つの信仰に向けて 批判するとますます、その信じている何がしかの信仰に 拘りますし、守ります。つまり 自己保存しなければ生きていけないのですから、そのような 立場、自己保存しないといかない立場に 追いやる 立場に立たせてしまう事は避けないとならないでしょう?なぜなら?
恐怖、不安といった 心理現象が、何かに頼る事で その人の精神状態の平行感覚を保っているという状態は、

高次へ向けての 意識改革は難しいのではないか?と思うのです。依存関係から生じる意識は、なぜか?マイナス要因を含むような気がするのです。純粋な意識になるたけちかづく、、そのような無垢の意識というのでしょうか、、、

それが いけないと述べているのではなく、もともと宗教や信仰がうまれる土壌の質は、そのような依存関係が主流だったにちがいないと思うのですね。

ですから、人が聞いて、嬉しくないと思う事は 話さない、、
ただそれだけの事でしょう。。。と思います。

しかし、色々見ていて思いますが、、、、 自分も他者も なにもないと思うのですよね。

西洋も東洋もないと思うのですね、、

宗教団体がいくつあるとか、そのような事も あまり重要な事でもなく、すべては 形而下の 肉体を有す 心の問題に思えます。

宇宙の全ての中の 一つ 自分ですけど、、、

宇宙と、繋がっている
という体感は、

何も、聖書を解読したり、難しい経典を紐解くという事とは、全く 別の次元の事に思えます。

ですから、話す時は、どうしても、相手の位置する次元や コミュニケート出来る層を ちゃんと見抜く。

実践は、人の心を観る、
という感覚の手応えを感じながら、話を進めていける人と、
全く 相手の心を感じようとしないで、一人でしゃべる方とか、大変多いのですが、、、

普遍性を持つ存在の仕方、、という存在、、、、

これだけ、心の病気が多い世界の中で、やはり必要な視差に思えます。

今回、智ちゃんが東寺に一緒にきたいというので、一緒に行ったのですが、東寺高校<洛南>の校訓は、
自己を尊重せよ、が最初に来る言葉で、次が、真理を探究せよ、社会に献身せよ、、、という並びらしい、、

この自己を尊重せよ、、が一番先に来るというのが、何でもかんでも、他者に優しい、他者を救うという犠牲的精神が、あまりにも美化し過ぎ、肝心の自己への尊重心が ないがしろに扱われているアンバランスが、なんとなく アジアの国にいると気になった。


だから、「自己を尊重せよ」 という言葉が一番最初に来る、、という位置づけがわたしの心の中にストンと落ちる。

なぜなら、自己を尊重しなければ、他者を尊重できないし、自分を尊重してくれる他者により、他者も自分によって尊重出来る、、

両者の心が、上向きに次元を向上する途上で、何らかの働きかけや、交わりがある方が、人間関係の質は内的に力は向かない。外へ向かうと思うのですね。

外的、未来に向かう 人間関係は、あらゆる世界の人々を対象にせざるをえないでしょうから、流動的だと思うのですね。

なにも、国民全員が、コスモポリタン的な意識になるというのではなく、少し 思考や考え方を、流動的に自由に、視野を広げ、世界の面白さを自分で体験する事も少しは必要に思えるのです。
自由は何も、自分の我侭を通すという意味ではなく、人間が持たされる苦悩から、精神が自由になるという事だと思うのですね。

社会に献身するというのは、自己と社会のあり方を示しているのだと思うのですね。人間が、自と他という分別
にとどまるかぎり、社会のために働くと言ってみたところで、せいぜい、自分の利益に反しない範囲で両立するに過ぎないでしょう。。。という事が、東寺の謎という本<三浦俊良>に書かれているのです。

自由の定義が、日本だと 自由はいけない、、、という価値観があるでしょう?なぜなら、我慢することがあまりにも美意識扱いされ、
他者がもし、自分の為に 我慢して何かを祈ったり 助けたり、自分に尽くしてくれる、、、という精神は、なぜか凄く好まれるらしい、、、
なんだか、タイタニックの恋愛ものより、やっぱり、なにや節の 犠牲的精神の愛情関係が 好きなのよ、、、という方向に向いてしまっているのを、感じるのだけど、、同じ美意識といっても、やはり根ざす 土壌の質が違うとおもう。

話が、「何を 言いたいの?沙羅ちゃん」、、という質問が出る流れになっているのだけど、

日本に来て、話すとかなりわたしの 意識の変革を求められて、話す、、という現れ方になっている。

別に求められてもいいのだけど、結局 本来の自分とは違うので、対話者に 矛先を向けると、まず同じ目の高さになって話す

そして、なぜ?

そのような考えが生まれるのか?

という事を話すと、家族、生まれた場所、仕事、人間関係、色々な体験が、そのような人間の個性が作られる要因になっている。

結局、哲学は、人を知る。人間を知る、、という事に尽きるのではないか?と思ったりする。

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from: アナンさん

2011年10月22日 18時14分24秒

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「Re::はじめまして」
> こんにちは > > 日本列島 遊泳中の 沙羅でございます。 > > 時間があまりないので、少しだけ、、、 > > どのような 経典にも書かれている事を理解する、租借できる > > という事は > 書かれてある内容を 自分自身納得し、意味、内容が 自分のみの解釈だけに留まらず<ここが一番大事>、  > > 自己体験または、自分自身の体験そして、他者との共感といった 体験 が 必ずなければ、その人自身の 存在性は普遍化しません。 > > つまり留まるところ、どのような 難しい言葉を 自分自身それなりに解釈されても、 > 今度は、他者との伝達 他者との間に共通の感覚を共感できる,、といった経験が、無ければ、すべて 独りよがり、、という解釈に、落ち着いてしまうと思われます。 > > 他者不在の 言説は 孤立してしまう、、という 普遍性を持たない 言説 となってしまわれます。 > > 難しい 言葉や表記は必要ありません。

 沙羅さん、宜しくお願いします。

全く、その通りだと思います。

我が国における主な宗教団体数は、約227,000あるそうです。

つまり、それらの宗教団体が宗教について異なった解釈をしているのでしょう。

http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r3-1.htm

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from: 沙羅さん

2011年10月22日 14時25分17秒

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「:はじめまして」
こんにちは

日本列島 遊泳中の 沙羅でございます。

時間があまりないので、少しだけ、、、

どのような 経典にも書かれている事を理解する、租借できる

という事は
書かれてある内容を 自分自身納得し、意味、内容が 自分のみの解釈だけに留まらず<ここが一番大事>、 

自己体験または、自分自身の体験そして、他者との共感といった 体験 が 必ずなければ、その人自身の 存在性は普遍化しません。

つまり留まるところ、どのような 難しい言葉を 自分自身それなりに解釈されても、
今度は、他者との伝達 他者との間に共通の感覚を共感できる,、といった経験が、無ければ、すべて 独りよがり、、という解釈に、落ち着いてしまうと思われます。

他者不在の 言説は 孤立してしまう、、という 普遍性を持たない 言説 となってしまわれます。

難しい 言葉や表記は必要ありません。

体験者の 心ある 言葉は、意外に 心にストンとくる共感を ともなうものです。

般若心経の 理解を、頭の中だけの 認識にとどめておくことは、それなりに可能ですけど、記号 文字重視の世界 対峙世界の 応答でしかないと思われます。

心、感じる心は、 観る 心へと つながります。

つまり、難しい記号表記をされても、

心、揺れる心、感じる心、癒される心、安心する心、人に優しい心、人を敬う心、ただ、感じるだけでなく、人間としての人間らしい高貴な 心や感情や 意識といった 高次世界に 目指しが向いていなければ、外界の 心や魂の 助けは得られません<共感できない>
後ろ向きの意識というのは、地上の 魂や心の存在と、共感、体感するという事に思えます。
何故なら、それは 簡単ですし、仲間<徒党?>意識を強めるのに、一番簡単でしょう?

なぜなら、人間は弱い、、という地点で 共鳴したり、共感したり、ちかづいてくる仲間は、あなた達に安心させるでしょう?

人間の弱点を ついたり、利用したり、そのような意識は 次元が低い意識ですよね?

安易な場所、人に優しくされるのを求める事は、自分も人にやさしくありたいと思うでしょ?

その次元に安住することは、結局 依存関係を、他者と結ぶ事を求めているのでしょう?

つまり、信仰以前の問題になるのでしょう?

もちろん、その信仰が良いとか悪いの問題でもなく、その人個人の意識レベルが一番問題なのではないでしょうか?

人間は弱いのではなく、人間は強いのです。

何故なら?

人を救えるという立場に立てる人は、必ず 他者に優しくできるつまり、自分自身に強いはずです。
強いから、人に優しくできるという立場に、自然と次元が上昇するのでしょう?

もういちど、よおく ご自分自身を見つめ、自分という心を見つめ考えていただきたい。

そして、自分の周りにいるすべての他者との関係が、スムーズに、意思や感情の交流がスムーズに流れているか?もいちど 考えていただきたい。

般若心経は、体験されている方達にとっては、本当に、身の回りに起こる 不思議な現象の事でしょう。
不思議と思われるのは、時空のある世界で生かされているのにもかかわらず、知らないはずの人たちにより、色々な事が、一貫性を帯び 観えてくる。

その、しらない人たち、無関係と見える存在が、宇宙では繋がっている、、、という感覚を、私達に観せてくれる。

人生は、生きる価値が必ずあり、ひとり、ひとり、その人の存在性を求められ この世に生まれてくる。

ひとり、一人 価値観がちがうのは当たり前であり、ひとり、ひとり、違うのは 当然の事。

魂や、心が 自立<孤立ではなく>でき、そして自由であり、どの魂も平等である事、、

そのような ごく当然と思える、魂の存在の在り方を 他者との間に共感や体感がなされ、弱い人には 無意識に 優しくできる、声をかけてあげられる、、、

そのような実践が出来る 方達がこれからどんどん 求められ、増えていくでしょう。






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from: アナンさん

2011年10月20日 20時50分55秒

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「Re:Re::Re:はじめまして」
> > >大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。 > > > >  例えば、大乗仏教の代表的な経典=般若心経は、八正道を否定しています。 > > 当然ながら、四諦も否定しています。 > > 従い、大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。 > > > > 般若心経は八正道も四諦も否定はしていないと考えています。ただ、それを超越していると考えています。 > > 在るものは在るがそれにとらわれてはならないといったところでしょうか?

大乗以前の仏教における認識論を否定する『般若心経』

 『般若心経』では、「無」ということばが多用され、全部で二十一回登場するが、その最初の部分では、「是故空中無色 無受想行識」と述べられている。「是故空中無色」とは、「このために、実体のない状態においては、物質的現象は無い」ということを意味している。「色」は、五つの集まりを意味する仏教の概念「五蘊」に含まれるもので、あとの四つがその後に出てくる受想行識である。
五蘊は人間の認識活動をとらえたもので、「色」という物質的な現象に接することで、「受」はそれを刺激として受け止めること、「想」はそこからイメージを思い描くこと、「行」はそれによって生じる心の動きをとらえること、「識」して、「識」はそれを知識や認識として定着させることを意味している。
これは大乗以前の仏教における認識論の基本になるものだが、『般若心経』は、すべてが空であるという立場から、五蘊には実体が伴っていないととらえ、それを一挙に否定してしまっている。すでにそれは、冒頭の「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」の部分に示されており、ここは、「求道者である観音菩薩は、深遠な知恵の完成をめざして、その実践をしていたとき、すべての存在を構成している五つの要素がみな実体のないものであることを認識した」という意味になる。
空という考え方を知らない者がいて、それ以前の仏教における認識論の立場に立っていたとしたら、『般若心経』との出会いは衝撃的なものであったに違いない。すべてが空である以上、実体を伴ったものなど存在しない。目の前にあり、あたかも実体を伴っているかのように見えるさまざまな現象は、実は空であり、その現象と接することで起こる人間個人の側の認識の働きも、やはり空だというのである。
 しかも、『般若心経』は、大乗以前の仏教の基本的な考え方を次々に否定していく。「眼耳鼻舌身意」からなる「六根」も、「色声香味触法」からなる「六境」も、そして、「眼界」から「意識界」へと至る「六識」も否定される。五蘊に、六根と六境からなる「十二処」、さらにそれに「六識」を加えた「十八界」から構成される「五蘊十二処十八界」は「三科」と呼ばれ、大乗以前に有力だった「説一切有部」における存在論だが、それも真っ向から否定される。
 さらに、「無無明亦 無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」の部分では、「無明」から「老死」という苦が生み出されてくるプロセスを示した「十二縁起(あるいは十二因縁)」が否定され、「無苦集滅道」の部分では、釈迦の悟りの核心にあったともされる、苦から脱していくための方法である「四諦」までが否定されている。四諦は、実践として「八正道」を伴うが、『般若心経』はそれさえ否定している。
 空という立場に立つならば、あらゆるものは実体を伴わないことになる。それは、物質的な現象や出来事だけではなく、釈迦の悟り自体についても当てはまる。それでなければ、「皆空」という主張は成り立たない。すべては空であり、大乗以前の仏教での主張や理論は、実体のないものをあると誤解した過ちにほかならないとされるのである。


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from: アナンさん

2011年10月20日 20時00分22秒

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「Re:Re::Re:はじめまして」
> > >大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。 > > > >  例えば、大乗仏教の代表的な経典=般若心経は、八正道を否定しています。 > > 当然ながら、四諦も否定しています。 > > 従い、大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。 > > > > 般若心経は八正道も四諦も否定はしていないと考えています。ただ、それを超越していると考えています。 > > 在るものは在るがそれにとらわれてはならないといったところでしょうか?

『般若心経』の前半部分と後半部分の間にある差異

 もう一つ、『般若心経』の本質的な特徴として指摘する必要があるのが、前半部分と後半部分のあいだに
ある差異である。
 ここで言う前半は、冒頭から「三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提」までが相当する。
その次の「故知般若波羅蜜多」からが後半である。前半のほうがはるかに量が多いが、主張のうえで、
前半と後半では根本的な違いがある。
 ここまで見てきたように、前半では、空の考え方を中心に大乗仏教の思想が語られる。大乗の価値を
高めるために、それ以前の仏教の思想が根本から否定されている。
 それに対して、後半の部分では、「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」という真言が
登場する。そして、その前の部分では、般若波羅蜜多こそが最高の「呪」であるとされる。ここで言う
呪とは真言のことである。
 つまり、『般若心経』の前半では、空の思想を中心とした大乗仏教の顕教の教えが説かれ、後半では
真言を中心に密教の教えが説かれていることになる。
『般若心経』が初めて漢訳されたのは、テキスト自体は現存しないが、三国時代の支謙によって二二三年
頃のことだとされる。鳩摩羅什訳も五世紀の初めである。一般に『大日経』や『金剛頂経』といった密教の
経典が作られるのは七世紀になってからのことで、そこから本格的な密教の体系化が図られることになる。
 しかし、密教は、大乗仏教がインドの土着宗教を吸収することで成立したもので、七世紀よりも前からその
萌芽は見られた。たとえば、『理趣経』は男女の性行為に修行的な意味を見出す密教経典だが、『般若理趣経』
ともいわれ、『般若経』の経典群のなかに含まれる。それは、玄奘が訳した『大般若経』六百巻のなかの
「理趣分」を祖型とするものである。玄奘は七世紀の人物だが、インドではそれ以前に密教的な思想が形成
されていたことになる。
 密教と顕教との違いは、物質、現象についてそれを実体を伴ったものとみるか、みないかにある。顕教では、
空の思想に示されているように、あらゆるものが実体を伴っていないとする。
それに対して、密教では、インドの土着の宗教思想の影響から、我(アートマン)を実在としてとらえる傾向が
あり、無我という立場をとらない。
『般若心経』の後半部においても、「真実不虚」ということばが登場する。これは真言について言われている
もので、真言は真実であり決して虚しいものではないというのだ。真実で虚しくないものとは実体を伴った
ものである。それは、明らかに、前半の空の思想とは対立している。
『般若心経』は、前半では空の思想を強調し、一切が空である以上、大乗以前の仏教の教えは成り立たない
ことを強調する。ところが、後半になると、真言の価値を強調しようとして、むしろ空の思想を否定する方向に
向かっていく。それは、『般若心経』が根本的な矛盾をはらんでいることを意味する。

 これは、宗教学者=島田裕己氏の論文です。

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from: yeshangさん

2011年10月20日 00時38分18秒

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「Re::Re:はじめまして」

>大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。
>
>  例えば、大乗仏教の代表的な経典=般若心経は、八正道を否定しています。
> 当然ながら、四諦も否定しています。
> 従い、大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。
>

般若心経は八正道も四諦も否定はしていないと考えています。ただ、それを超越していると考えています。

在るものは在るがそれにとらわれてはならないといったところでしょうか?

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from: アナンさん

2011年10月19日 21時21分03秒

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「:Re:はじめまして」
> > はじめまして、アナンさん。 > > 私は無門居士と申します。 > > よろしくどうぞ > > 無門居士さん、私こそ、宜しくお願いします。 > > アナンは、釈尊の十大弟子です。 > > 従い、私は初期仏教を信じます。大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。

 例えば、大乗仏教の代表的な経典=般若心経は、八正道を否定しています。
当然ながら、四諦も否定しています。
従い、大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。

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from: アナンさん

2011年10月19日 20時18分11秒

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「Re:Re:はじめまして」
> はじめまして、アナンさん。 > > 私は無門居士と申します。 > > よろしくどうぞ

無門居士さん、私こそ、宜しくお願いします。

アナンは、釈尊の十大弟子です。

従い、私は初期仏教を信じます。大乗仏教は釈尊の教えに非ずです。

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