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「哲学〜真理〜探求について」

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  • from: アナンさん

    2011年11月14日 21時23分48秒

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    空海と徳一

     奈良仏教を代表する法相宗(ほっそうしゅう)の徳一と真言宗の空海とは25才の開きがあり、空海がまだ若くて虚空蔵求聞寺法修行中、徳一からかなりの啓発を受けたとされている。空海は、入唐(802年、29才)に際し東大寺戒壇院で元興寺の泰信によって具足戒を受けたとさているが、それ以前においても、奈良で勉学と修行にいそしんでいた場所というのは、奈良7大寺のうちでもとりわけ東大寺が中心であったと考えられている。810年、唐から帰った空海は、早々と東大寺別当に任じられている。空海は東大寺との縁がことのほか深い。

     

     最澄は徳一とは宗論で渡り合いともに相ゆずらなかったが、空海は奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようだ。当然だろう。815年、空海42才の時、会津は磐梯恵日寺(えにちじ)にいた徳一に対し、空海は、名香ひとつと包みを添えて、お経分の書写を頼んでいる。その手紙の一部を次に紹介しておく。

     「聞くなら徳一菩薩は戒珠玉の如く智海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重。」

     

     空海と徳一とは気脈の通ずるものがあり、霊妙不思議な法力と二人の庶民性とが相寄るものがあったのだろう。常陸から会津にわたる徳一の関係の寺院のほとんどが空海の開創、徳一の初住と記録して研究家を迷わせているが、これも二人の関わり合いを現していて面白い。

     

    820年、空海47才の時、空海が東国を教化巡錫していたところ、徳一大師の誘引により大山寺に上り、大山第三世となる。山頂阿夫利神社の名を石尊大権現と名付ける。これより徳一は、富士浅間社の神とご親戚(神縁)の大山祇神(おおやまずみのかみ)を大山に招来した。これは大山の古代からの伝承である。

     

    空海は、当時極めて多忙で高雄にゆっくりおれないほどであったが、813年、藤原氏の菩提寺である興福寺に南円堂(なんえんどう)を建てるのにも奔走した。一族が競いすぎて勢力が衰え気味の藤原氏にあって、北家を継ぐ冬継がどうすれば家運が上向くかを問うてきたのである。これに対して空海は南円堂の建立を進めたのだ。空海の尽力によりその年の終わりには八角宝形(はっかくほうぎょう)の御堂ができ立派な観音像を納めて落慶したのだが、その記念に大灯篭が納められることになり、銘文は空海が選んで橘逸勢が筆をとった。

     また、834年の二月の初め、空海は、東大寺で三日間、般若心経の講演ををした。聴衆は一杯で会場の真言院に入り切れなかったという。

     

     徳一は、晩年、東大寺の僧正を引き受けるのであるが、以上述べたように、空海と徳一との縁は並々ならぬものがある。良弁と徳一とは、同じ藤原一族であり、興福寺を通じて密接な間柄にある。良弁も、徳一と同様、若い頃学んだところは、興福寺である。興福寺は藤原氏の菩提寺であり、そのことは必然といえば必然のことであろう。良弁はいうまでもなく東大寺の初代大僧正であり、空海が帰朝後直ちに東大寺別当を任じられたことの意味は極めて大きい。良弁と徳一と空海、その延長線上に華厳哲学があり、明恵がいる。

     

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