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「哲学〜真理〜探求について」

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  • from: アナンさん

    2011年11月22日 21時57分26秒

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    真言密教、真言八祖八代の空海、弘法大師

     弘法大師・空海は、774年(宝亀5年)6月15日讃岐国(さぬきノくに、香川県)多度郡(たどノごおり)屏風浦(びょうぶがうら)の「善通寺(ぜんつうじ)」で生まれ、父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通(よしみち)、母は阿刀(あと)氏の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、兄二人は幼少に他界し、三男空海は幼少の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家)の跡取として育てられ、幼名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。なお、6月15日は密経経典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六祖「不空(ふくう)三蔵」が入滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。

    777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳頃の空海は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国の時に遭難死しました。
     780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思います。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。

     781年(天応元年)空海8歳の春、4月15日平城京で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わり、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王が立太子に立ちました。

     784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(≒12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると3町(≒327m)の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として記載されていますが、この頃、平城京からの遷都(せんと)が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。

     785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親が同じ夢を見、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生まれた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄(さいちょう)19歳が東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が山城国(やましろノくに、京都府長岡京市)「乙訓寺(おとくにでら、現在ボタンの名所)」へ幽閉され、自ら食を断ち、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋付近で餓死しました。

     788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃(かんばつ)が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社に黒駒を奉じて祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あとノおおたり)に論語・孝経・史伝などの漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めていました。
     
     791年(延暦11年)空海18歳は、当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学びましたが、また、ある沙門(しゃもん)の一人から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう、もし人がここに示した修法によりこの真言を百万遍誦ずれば一切の教法文義を暗記する事ができると書かれている)を授けられ、大学を退学して、私度僧になり、阿波(徳島)の太瀧嶽(だいりょうだけ)などで求聞持法を行じ、土佐(高知)室戸岬の洞窟で、夜を徹して一心不乱に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の真言(しんごん、悟りを得る一種の呪文)を唱えていたら、夜明け前に太平洋の彼方から明星(みょうじょう、虚空蔵菩薩の化身)が飛来し、阿(あ)と叫ぶと、口より体内に飛び込みました。なお、吉野の大峯山や、伊予(愛媛)の石鎚山(いしづちさん)などでも修行をしましたが、いずれも何故だか水銀や金、銀、銅などが産出する地で、また、「弘法穴」と云えば、炭窯の煙を出す穴のことで、空海が考案しました。


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