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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月28日 11時24分56秒

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    生きる意味Ⅱ

    生きる意味を問うのはその個人である。しかしながら、人が生きているというのは、そもそも両親やご先祖という身体的連続性がある。つまり、先ず生きている存在が

    生きる意味を問うのはその個人である。
    しかしながら、人が生きているというのは、そもそも両親やご先祖という
    身体的連続性がある。つまり、先ず生きている存在が生まれるや否や
    それらの他者にとって意味があり、その次の広がりもある。
    ご飯を食べ、寝ているだけという人も、その意味があり価値があるのである。
    ここで問われているのは<身体的連続性の>生きる意味ではなく、
    他者と比較して、<私の人生は意味があり、価値があるのか>ということです。

    自己の価値を精神的成果として比較すること自体に基準を設けるのは
    中々難しいことであるが、世間的道徳では、大きく分けて、
    <人に迷惑をかける。><迷惑が掛かるので人と関わり合わないようにしている。>
    <人と関わり合い迷惑が掛からないように行動している。>
    <迷惑と思われようが積極的に人を助けている。>
    このように例えばですが、「迷惑」という人と人との関わり合いの言葉を
    その関係性において考えると、その人の行動が、他者にとって意味があるのか
    価値があるのかが分かる。同時に、その人の行動の段階も分かる。

    どの分類に自分が入るか、いや、自分の行動をどの意味に持って行くか。
    それは自己の選択であり、自由でしょう。
    しかし、そこに生きる意味を持たせる時に、
    「私は今まで何をしてきたか。」と問うのは、自己自身でしょう。
    犯罪でも犯せば、他者に、「あなたは何をしたのか。」と問われますが、
    逆に、何か他者より優れた結果を残せば、「すごいことをしたじゃないか。」
    と賞賛されるでしょう。その中で、金メダルやノーベル賞、文学賞など
    色々な賞までもらう人もいることでしょう。
    どの段階にしても、<自己がどのように行動するか>ということに
    価値がある。そのことに言葉としての意味まで発見できなくても、
    十分に、生きる意味がある。

    小さいことでもいいのです。
    その積み重ねで、例えば地域社会が良くなったり、悪くなったりする。
    普通の人は休み休みでもいいのではないか。
    少し何かをすれば、少し良くなる。
    それを引き継いで、地域社会が良くなる。

    技術を持った人は、建物を造ったり、車を作ったり、生活が便利になるものを
    作り上げる。十分に自己の生きる意味を残しているではないか。

    弁がたつ人は、人に知識や善いことを教える。
    または、被害にあっている人を助ける。

    このように色々な生きる意味がある。

    生きているだけで生きる意味があるのである。
    ただ、<どれを選んで行動するか?>それはあなた次第です。

    その生きる意味だけでなく、生きてきた意味を問うとなると、
    死の瞬間を待たないといけないだろう。
    途中で十分に生きてきた意味を全うする人もいるでしょうが、
    多くの人は、生きてきた意味を問うとなると、
    死の瞬間を待たないといけない。

    良い死の瞬間を迎えるためにも、生きる意味というのは大事ではないか。
    死したら何の残らないのは身体的な意味だけであり、
    精神的なもの、行動したものは、他者の記憶に残り、
    そこに生きた痕跡を残す場合だってある。
    その影響力が強いほど、後世の歴史に残ることとなる。
    いや、地域に残すだけでもいいではないか。

    そこに自己が生きてきた意味を残すのならば。

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    from: 沙羅さん

    2010年05月10日 05時57分58秒

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    「Re:生きる意味Ⅱ」Jさんに電話をした。明日、病院に戻るという。足に力が入らず、立つ事もままならないので、本人から病院に又戻ると言って来た。「どう?

    from: 沙羅さん

    2010年04月29日 05時54分52秒

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    「Re:Re:生きる意味Ⅱ」めるろ〜さんご紹介された本の表紙だけみても、なんだか、ほんわか〜、、、こちらの、心が軽くなるような感じを受けます。生きると

  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月26日 12時25分11秒

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    仏教とは(哲学的分析)

    ご存知の通り、仏教とは、<自己が仏になる道>のことです。仏典は、その道筋を書いてあります。しかしながら、哲学と同様に、仏典には、自己が世界を感情抜きに

    ご存知の通り、仏教とは、<自己が仏になる道>のことです。
    仏典は、その道筋を書いてあります。
    しかしながら、哲学と同様に、
    仏典には、自己が世界を感情抜きに見る。
    という部分から始まります。
    原始仏教においては、四諦や八正道といった自己が世界を見る見方をどのようにして見るか、その「無常」の様子を「苦」ととらえ、
    因縁(因果関係)と捉えている。
    そういう中で、自己ですら「無我」である。
    (自己の成立は自己に固有のものではなく、因果関係で存立する)
    という認識を持つように書かれている。

    普通、人は、「自己はここに居るではないか。」と思い、
    自己を中心にモノを考えるというのが、別に変なことではなく、
    普通のこととしてある。しかし、仏教では、そういう自己への固執も振り払うべくしないと、「解脱」は出来ないと教える。

    解脱は、「苦」から解き離れることである。

    ここまでが、原始仏教が教えるところである。
    この行すら大変なことでありますが、
    ここからが、菩薩行の域に入ります。

    慈悲(他者救済)と智慧(般若波羅密多)を駆使することが
    出来る、または、他者へ指導することが出来るということですね。

    「菩薩道に発心する」という語と
    「仏教に発心する」という語が交錯する場合がありますが、
    ここでは、「菩薩道に発心する」ということですね。

    これを、三乗の分類で当て嵌めると、
    声聞乗は、師の教えを聞いて悟ること
    独覚乗は、色々な教えを自己の中で実践し悟ること
    ここまでが、自己が世界を観想し、行ずるという部分ですね。

    シャーリプトラ(舎利子)もこの段階の長老として
    『般若波羅密多心経』も扱っている。
    菩薩になって、釈尊と同じ行をして、
    その上で、舎利子に説法する。

    そして、最高の悟りの境地は、般若波羅密多行の上に成り立つと。

    多くの宗派は、この『般若波羅密多心経』を仏教の中心経典として
    取り扱っている。

    浄土系は、そのような厳しい修行ではなく、現在の行いを
    <清らかにすること>で、菩薩や如来が極楽浄土に導く。
    というところに悟りへの道を開いている。

    法華という最高の境地を求めるというのは、
    実は一般人には危うい意味を含んでいる。

    最高を求めるということは決して悪いことではない。
    しかし、最高だけを求めるのは、仏教全体の流れや歴史を含むまでには遠い道である。

    『法華経』は成立から見ても一つの経典ではなく、
    観音経の部分、陀羅尼の部分など、
    発心から悟りを得るまでの道程は結構な道程である。

    「行ずるすべてがお題目を唱えることからである。」
    ということもそういうところからきているのではないか。
    (大変微妙な表現ですが・・・。)

    『法華経』は、『法華経』以外を排除して、
    『法華経』が最高の経典であると書かれているので、
    そこが微妙なのですね。
    釈尊は<そういう対機説法で何を導きたかったのか。>と。

    中国で発展した禅の修業は、三乗をそのまま実践しようと
    するものでしょう。(禅は詳しくないので)

    仏教が人間形成の最終点を示しているのであれば、
    世界の宗教としての意味は十分にあるでしょう。

    しかし、信仰をいうものは、文化や習慣も伴っているので、
    頭でっかちになってもいけない。

    お互いを認め合い、交流する中で洗練されていくのが
    最もいい宗教のあり方ではないか。

    武器を持って、他宗教を迫害するなどは持っての外です。
    どこも自己の信ずる宗教を重んじますし、
    宗教によっては自己の選択の余地が無い場合もあります。

    仏教においては、行ずることを得意とする者も
    行ずることが難しい者も救おうという姿勢が見られます。

    同じ人間であるので、階級も奴隷も存在させてはいけないし、
    思考や思想の違いがあっても、
    共有するものを求めることをやめてはいけない。

    すぐに、相手を否定するのではなく、聞くという
    その因縁を確かめる姿勢が仏教徒には必要です。

    哲学では、真理は自己の頭の中にあるのではなく、
    人と人の間に<共有する認識>を真理と呼ぶのですね。

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    from: めるろ〜001さん

    2010年04月27日 13時35分03秒

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    「Re:Re:仏教とは(哲学的分析)」>沙羅ちゃん分かり易いです。『法華経』が指摘するように、仏教の修行には段階が存在します。世界や宇宙の認識の仕方、

    from: 沙羅さん

    2010年04月26日 17時43分10秒

    icon

    「Re:仏教とは(哲学的分析)」めるろ〜さんわたくしも、最近、色々原始仏教から、大乗があらわれる途上を考えるんですよね〜、、、その途上に存在するのは、

  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月12日 03時51分10秒

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    ○○メッセンジャーというソフト

    >沙羅ちゃんメールが届いたのを知らせるソフトは、○○メッセンジャーか○○メールチェッカーとかの名前になっています。また、ツールバーに組み込まれているも

    >沙羅ちゃん

    メールが届いたのを知らせるソフトは、
    ○○メッセンジャーか
    ○○メールチェッカーとかの
    名前になっています。

    また、ツールバーに組み込まれているもの、
    また、ブラウザ(I.Eなど)のツールバーに
    組み込まれているものもあります。
    使っているメールソフトに付属している場合もあります。

    また、すべてのプログラムを表示して、
    スタートアップというタブをクリックすると、
    メールチェッカーのソフトが表示される場合があります。

    完全に削除したい場合は、
    コントロールパネルから、<プログラムの追加と削除>というのを開き、「このプログラムはメールチェッカーだ。」と
    確信の持てたソフトを削除する。

    以上で、「ぽわ〜〜ん」は無くなります。

    「どれも面倒だ。」と思ったら、
    PCの音声のボリュームを下げるか、消音する。
    という応急処置もあります。

    音楽を聞くときだけ、ボリュームを上げるのです。

    なんと簡単にイライラが解消されますね。

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    from: 沙羅さん

    2010年04月12日 05時31分54秒

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    「Re:○○メッセンジャーというソフト」ハ!めるろ〜さん色々情報どうもありがとうございます。パソコンって便利なんですが〜・・・何というか、パソコンに詳

  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月11日 05時10分02秒

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    真理と時間論

    真理も生と死を扱うようになると摺り込みに拠る信仰が邪魔して真理の言葉ではあるけれど、真理の時間には行かないようです。真理の言葉とは、横糸のようなもので

    真理も生と死を扱うようになると
    摺り込みに拠る信仰が邪魔して
    真理の言葉ではあるけれど、
    真理の時間には行かないようです。

    真理の言葉とは、横糸のようなもので
    真理の時間は縦糸ですね。
    (沙羅ちゃんよりヒント)

    例えば、無知の始まりがゼロ点ならば、どこまで行っても、
    30点の人がゼロ点を見ても70点の人がゼロ点を見ても
    <ゼロ点はゼロ点の地点である>というのは変わらない。

    これを、<人は死したら無になる>という言葉に置き換えても
    同じですね。

    点数が100点分あるのに、ゼロ点だけを取り上げているということですね。
    あとの99点を知らずに、「コレは絶対的真理である。」と
    いい続けることは、そのゼロの地点から抜け出していない
    ということです。

    こういう地点から抜け出すことは
    仏教でいうと「諦観」ということですね。

    この諦観を習得できないから、人間は煩悩の中に居ると
    釈尊は言っています。

    『大日経』では、そういう人間模様を十段階に分けて
    論じています。(それだけではないですが)

    漢字の弱い人なら、避けて行きたい漢字の山の仏教経典ですが、
    現代にも生きているのは、その時間論と存在論をしっかり
    構築しているからですね。

    国訳本も翻訳本、抄訳本も出ていますので、
    挑戦するのもいいでしょう。

    仏教では、空海がいうように、
    経典は縦糸で論書は横糸であるので
    経論書と読んでいくのが、織物を見る方法でしょう。
    織物もいろいろある。
    それが、宗派つまり<涅槃への行き方>ですね。
    正確には、<仏陀に成る仕方>です。
    宗派とは<仏陀に成る方法の考え方>という意味だったのです。
    これが日本風に転換されてきたというべきでしょうね。

    話は逸れましたが、
    <生きている時間は、それぞれの段階で真理がある。>
    というのが時間論の真理でしょう。
    色々分け方もあるとは思います。

    しかしながら、生まれた時間、乳児の時間、幼児の時間、
    小学生の時間、中学生の時間、高校の時間、新社会人の時間、
    壮年の時間、老いた時間、死の時間とまだまだ
    たくさんの時間の区分けは出来るでしょうが、
    死の時間だけの真理に執着していると、
    圧倒的に多くの生きている時間の真理を知らずに過ごすことに
    なります。

    永遠を求めるならば、それぞれの時間の真理を
    こなして行かないといけない。

    ごく一部の死の時間だけを大事にしていても、
    他の真理を知らないで、その<ゼロ点>の真理だけでは
    物事の真理が語れない。

    そういうことです。
    あと99点の時間の真理は知らないで、何かを主張しても
    「ゼロ点の真理だけではねぇ・・・。」となるのは、
    当たり前ですね。

    ゼロ点では最強の真理かもしれません。
    しかし、あと99点の真理はどうするんですか?

    それだけでは何も語っていませんし、
    それどころかそれを過大評価することによって、
    無知のままで留まることを主張するだけですね。

    論理上構築される<永遠>という時間も、
    その人の一部の時間の真理で語られたら、
    「どの辺とどの辺が真理なの?」と子供に
    聞き直されるだけです。

    それでは普遍的真理などには到底いけません。
    「人は死したら無になる。」それだけでは、
    お金のことも、おコメのことも国のことも・・・・
    すべて何も語っていないまま、そのゼロ点に固執したままなのです。
    それって、しがみ付くほど価値があるものなのか?

    いや、何かを説明したのか?
    何にも説明していないし、何の役にも立たない。
    それにしがみ付く価値はあるか?
    やっぱりゼロ点はゼロ点なのですね。

    圧倒的に多い、生きている時間に関して語る方が、
    <永遠の真理に近づく道である>

    永遠の時間は、一つの瞬間の時間の積み重ねであるからですね。
    その時間がどんどん積み重なって、<いつまでも相違ない>と
    なった時に、その言葉は永遠の時間を獲得したといえるのですね。

    ホンの一部の時間を過大評価しても過大評価でしかない。
    そういうことです。

    例えば、そのゼロ点の地点を守り通して、何も生まない人は
    人々の記憶からすぐに消え去るでしょう。
    しかし、居たかどうか分からないイエスしかり、
    ゴーダマ・シッダールタしかり、プラトンしかり、
    ダヴィンチしかりヴィトゲンシュタインしかり、
    アインシュタインしかり、空海しかり・・・

    死したときの時間だけにしがみ付いていたら、
    出現してこない人たちばかりです。

    偉人たちは生きている時間を思考し、結果を残した人たちです。
    別に、寄進して寺や神社に名前が載るだけでも
    <生きている時間を刻み込んだ>といえるでしょう。

    墓碑は、その人の生きている時間を刻み込んだものです。

    そのリレーが本であり仏像であり彫刻や絵画、音楽などですね。
    何を個人から受け取り、何を引き継ぐか。
    引き継がないまでも、何を渡すのか。

    それがゼロ点の地点のものならば、何も引き継いでいないといえる。
    決して、それが最強ではないといえます。
    それどころか最弱です。
    それは、何も生んでいないのですから。

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    from: めるろ〜001さん

    2010年04月11日 05時23分35秒

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    「Re:真理と時間論」これを釈尊流にいうと、「執着から離れなさい。」そう釈尊なら優しくおっしゃるでしょう。我慢しなさいという宗教は多いですが、実際の時

  • from: タカギさん

    2010年04月09日 15時24分16秒

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    地獄について

    1:マタイによる福音書/5章22節しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され

    1:マタイによる福音書 / 5章 22節

    しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。


    2:マタイによる福音書 / 5章 29節

    もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。


    3:マタイによる福音書 / 5章 30節

    もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」


    4:マタイによる福音書 / 10章 28節

    体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。


    5:マタイによる福音書 / 18章 9節

    もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」


    6:マタイによる福音書 / 23章 15節

    律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。


    7:マタイによる福音書 / 23章 33節

    蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。

    1:マルコによる福音書 / 9章 43節

    もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。


    2:マルコによる福音書 / 9章 44節

    <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>

    地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。


    3:マルコによる福音書 / 9章 45節

    もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。


    4:マルコによる福音書 / 9章 46節

    <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>

    地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。


    5:マルコによる福音書 / 9章 47節

    もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。


    6:マルコによる福音書 / 9章 48節

    地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。


    1:ルカによる福音書 / 12章 5節

    だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。

    1:ヤコブの手紙 / 3章 6節

    舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。

    1:ペトロの手紙二 / 2章 4節

    神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。

    1:エズラ記(ラテン語) / 7章 36節

    懲らしめの穴が現れ、その反対側には安息の場所がある。また、地獄のかまどが示され、その反対側には喜びの楽園が見える。

    2:エズラ記(ラテン語) / 8章 53節

    悪の根は、あなたたちに近づかないように封じられ、病は消え去り、死は姿を隠し、地獄は遠ざかり、腐敗は忘れ去られる。

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    from: 沙羅さん

    2010年04月10日 05時32分02秒

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    「Re:Re:地獄について」>うぅぅ〜んっと、>>スレッドが、なんだったかな?>>地獄についてだったかな?>>じゃ、、、わたしが閃くのは、>>これしか

    from: めるろ〜001さん

    2010年04月09日 17時39分01秒

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    「Re:Re:地獄について」>タカギさん今トイレから出てきて、トータリティの話をしようかと思ったら、沙羅ちゃんが少し書いてくださったので、天国の記述の

  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月08日 12時52分23秒

    icon

    以前ご質問のあった購入した本について

    >沙羅ちゃん購入した本は、『卒業式まで死にません』『三論玄義』『ブッダのターミナルケア』『人間仏陀』『ブッダの優しい論理学』石飛道子著『論理のことば』

    >沙羅ちゃん

    購入した本は、
    『卒業式まで死にません』
    『三論玄義』
    『ブッダのターミナルケア』
    『人間仏陀』
    『ブッダの優しい論理学』石飛道子著
    『論理のことば』モークシャーカラグプタ著
    です。
    今回はキリスト教関係は購入していません。
    次回に購入するかもしれません。

    哲学では、
    「キアスムについて」の翻訳を読みきりました。
    依然、疑問が残ったままです。
    もう一つの翻訳を読みながら、
    原書を読んで行きたいと思います。

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    from: 沙羅さん

    2010年04月08日 22時38分44秒

    icon

    「Re:Re:以前ご質問のあった購入した本について」>めるろ〜さん>>拝読しました。いつも思うのですが、わたしには、どうも、このこつこつ・・・という真

  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月07日 11時05分06秒

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    身体の時間、物質の時間、論理の時間

    <物質の時間>は、重力の影響がなければ、刻々と流れる時間です。<身体の時間>は、自己の意識が明確で、内的要素や外的要素に影響され、身体が感じる時間です

    <物質の時間>は、重力の影響がなければ、刻々と流れる時間です。
    <身体の時間>は、自己の意識が明確で、内的要素や外的要素に影響され、身体が感じる時間です。
    <論理の時間>は、数学的に瞬間であるとか、思考として永遠であるとか普遍であるとかの時間です。

    <身体の時間>は、皮膚で感じ、意識でずっと長い時間思考していた。または、すごく短い時間思考していたのに、
    実際の<物質の時間>は、長かった。
    こういうことは日常良くある体験だと思います。

    それに対して、<論理の時間>は、それに取り組まなければ見えてこない時間です。
    神学や哲学などは、この<論理の時間>を尊重し優位に見ている
    節がある。
    それは、数学的手順であるとか『聖書』などの象徴的痕跡を
    取り上げ作り上げることで、瞬間の時間や永遠の時間を想定することが出来るからである。
    しかしながら、この<論理の時間>は、<身体の時間>を越えて
    存在することは不可能なのです。
    身体の時間内でしか思考し得ないのです。
    しかしながら、永遠の時間や死後の時間を限りなく想像させる。
    この無限性が曲者です。

    幾度となく哲学者や神学者や仏教者はこの<論理の時間>に
    挑戦してきた。そういう歴史がある。
    その歴史の上で、今生きている人は、
    「永遠の時間があるじゃないか。」とか「死後にも時間がなかれている」とか「すごく短い瞬間の時間がある」とか想像する。

    これを<身体の時間>の中に納めようとしても、
    収まらない。

    人は<身体の時間>しか感じることは出来ないからである。
    勿論<論理の時間>の中で観測することが出来る時間もありますが、観測できるのと感じることが出来るのとは、
    その中の時間の意味として成立するのは、<身体の時間>しか
    感じることは出来ないのである。

    唯識のようになってきた。。。

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  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月05日 13時34分50秒

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    『狂人三歩手前』一編づつ

    先ず、昨年カトリックの洗礼を受けた奥さんとの揉め事まあ、正直言って、洗礼を受ける前に「俺はカトリックは偽善だと思っている。」と告白し、「洗礼は揉め事を

    先ず、昨年カトリックの洗礼を受けた奥さんとの揉め事

    まあ、正直言って、洗礼を受ける前に
    「俺はカトリックは偽善だと思っている。」と告白し、
    「洗礼は揉め事を起こすからやめろ。」というべきだったでしょうね。放置しておきながら、一緒にウィーンに行って文句を言う。
    これは哲学者のすることでしょうかね。

    ウィーンのクラシック番組が少ない件、
    これも、当然で大衆音楽というものがあり、対比するわけじゃないですが、一つの極にクラシック音楽がある。
    大衆音楽は、ハートビートだったり、激しく16ビートだったり
    そういうリズムにメロディを載せている。

    しかし、クラシックは違って、リズムもメロディも
    楽器それぞれの能力を最大限に理解し、奏でていくものですから
    大衆がコンサートに行ってすべての大衆が喜ぶわけではない。
    そういう複雑さに理解がある人たちが好む音楽なのです。
    番組が少ないのは、他の条件もありますが、
    そういう背景にあるので、当然といえるでしょうね。
    しかし、普遍性をもって音楽を作っているのは
    クラシックの方です。
    ついでに言えば、財を持っている人が多い背景もあって、
    大きな建物、道路、自然に至るまでそこかしこにある。
    それがウィーンという街であるというわけですね。
    中島義道が好もうが嫌おうが、全く関係のないことなのです。
    それが普遍性への音楽というものですね。

    人の感性の普遍性への挑戦、
    それがクラシック音楽であると思います。

    大衆音楽は、多くは感情にうったえていて、
    好悪の差が激しいですね。
    これは普遍性を持たないということです。

    『四季』にしても『運命』にしても
    『惑星』にしてもそれを聞くと、その表現が人種や文化を越えて
    理解される。

    そういう差があると思います。

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