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  • from: 一久さん

    2010年10月31日 21時17分43秒

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    言論の自由 その最低線


    【権力者の不正を糾弾できること】

     言論の自由といっても、現実には多くの制限が加わる。言いたくても
     いえないこと、言ってはならないこともある。

     だが、これだけは最低限度保証されねばならないものがある。それが
     侵犯された場合には、言論の自由が失われたといってよいものだ。

     それは、「権力者の不正を批判する自由」である。

     これこそが言論の自由の最根幹といえる。

     逆に考えてみればよく分かるはずだ。もしも、権力者の不正を批判す
     ることができない社会があったとしたら、その国に言論の自由がある
     と認める人はいないであろう。

     たとえポルノが解禁されていようと、どんな馬鹿騒ぎをTVが放映して
     いようとも、権力者の不正を糾す者が特殊警察に逮捕されるような国
     に、自由があるとは誰も言うまい。

     民主党は2008年の衆議院選挙において、小沢・鳩山問題を棚上げ
     したまま選挙戦を行うことを宣言した。このとんでもない行為を国民
     は許容し、民主党に票を投じた。

     これすなわち、言論の自由を国民が放棄したということである。
     ファシズム国家となることを国民が選択したのである。
     選挙とは、民主主義の自殺装置でもあるのだ。

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  • from: 一久さん

    2010年10月30日 06時20分11秒

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    事業仕分け まるで紅衛兵かナチス

    【事業仕分けなる茶番劇】

     ファシズムの特徴のひとつは、専門家や専門知識の徹底的な軽視であり、
     根拠のない自信に裏付けられた、技術者や学者に対する侮蔑と嘲笑である。

     ファシズムの本質からいって、専門知識を刷り合わせて真実を追求する
     という行為は、認め難いものだから、当然のことだと言える。

     自分達こそが真の何々である、として、反論を圧殺する行為がファシズム
     というものであるのだから。

     スーパーコンピューターの開発を見直すというのであれば、その見直す作業
     をする人間をまず見つけ出し、監査するための予算を計上しなければならない。
     必要予算は、減るのではなく、増えるべきものだ、ということになる。

     凍結しても損失にならないとかいう意見もあるが、研究はダムや道路のよう
     な耐久消費財ではない。研究者の人件費を確保できなければ、研究者は他の
     研究へと散っていかざるを得まい。

     凍結が予算ゼロを意味するのであれば、それは事業の廃棄と道義である。

     今現在の日本は、民主主義の国ではない。ファシズム国家である。

     先の衆議院選挙において、政党内民主主義の在る無しを問わずに、民主党に
     投票した人々が多数を占めた結果、日本の民主主義は死滅した。

     ゆえに、紅衛兵やファシストが跋扈しているのである。

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  • from: 一久さん

    2010年10月29日 19時51分56秒

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    仙石イエスどのへ


    【衝突ビデオを全面公開すべき】

     どこやらのゲッペルスもどきの道化師政治家が、日露戦争講和の
     ときの話を持ち出して、国民に知らせないことを正当化しようと
     しているようだが、日露戦争のときと今回の事件とはまるで条件
     がちがっている。

     日露戦争時、日本政府は軍の実情を国民に知らせていなかった。
     否、知らせることができないほど日本軍も政府も疲弊していた。

     その結果としての、”国民世論に反する講和”であった。

     国民が衆愚であったからではなく、政府が情報を開示できない特
     特殊な状況にあったがゆえの騒動であり、政府の反国民世論的な
     決断が許されたゆえんでもある。

     現在の日本に、そのような弱みは何もない。情報を隠蔽すべき正
     当性は、日露戦争のときと違って、どこにもないのだ。

     また、日露戦争講和における、情報隠蔽と国民を欺く政治は、後
     の陸海軍及び大日本帝国のありかたに大きな傷を残した。

     日中戦争、太平洋戦争への進む原動力の一つとなったとさえいえる。


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  • from: 一久さん

    2010年10月29日 06時32分43秒

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    イメージを変えるということ


     イメージを変える


    第二次世界大戦における日本軍の規律の乱れは、日露戦争において我軍が示した
    高い規律の国という世界的評価を決定的に破壊してしまった。

    従軍慰安婦だの、南京大虐殺だのを持ち出すまでもなく、帝国軍人がアジアの各
    地で大小の非道をなしたということは、だれしもが否定しない事実である。ちょ
    っと前の時代までは、人倫にもとる行為をした本人自らがそのことを自慢げに語
    るという光景さえ、そんなにめずらしいものではなかった。

    軍国少年 A:

    「 うそだ、うそだっ! 日本の兵隊さんがそんなことをする訳がない!」

    在郷軍人 B:

    「 なにっ! わしがウソの ”手柄ばなし”をしているというのかっ! 」

    (昔、こういうマンガのシーンがあった)

    ....なんという認識のズレであることか。

    なにゆえに昭和の軍人の認識がかくも歪んだものになったのか、そのことの考察
    は後日に譲るとして、ここではこのような日本軍の行為が世界にあたえてしまっ
    たマイナス・イメージをいかにすれば修正できるのかということを考えてみたい。


    ★ イメージを変える ということ

    戦後の日本は、軍隊そのものを否定した。否定することによって悪辣な日本軍の
    イメージもまた薄れていくことを期待するかのように。

    だが、考えてみたまえ。ひとはいかなるときに相手に対するイメージを変えるの
    であろうか。とくに以前暴力を振るわれた相手に対する心証を、いかなる事態に
    好転させるものであろうか。

    乱暴者が、家に閉じこもりっきりになり、平和、平和とお題目を唱えるアホダラ
    教徒になれば、イメージも好転するだろうか? 否,気持ち悪いやっちゃな、と思
    われるだけだろう。

    では、乱暴者に復讐してこれを打ち倒せば、乱暴者に対する警戒も解けるであろ
    うか? 否、乱暴者の性質が変わったわけではないのだから、再び力を持てばまた
    狼藉をはたらくにちがいないと思われたままである。

    人が相手に対する心証を改めるのは、相手が予想外に良い(悪い)行為をした場
    合である。そのような行為をしない場合には、心証は以前のままに残る。

    日露戦争での捕虜の扱いは、極東の蛮族が西洋式の国際法を遵守するという意外
    な感動を世界に与えた。これによって、日本に対する良いイメージが各国人民に
    植え付けられた。

    だが、前回の戦前・戦中における我国兵士の行為は、先人のイメージをぶち壊し、
    世界に冠たる恥ずべき国という悪いイメージを世界中にあたえた。

    そして戦後の日本は、軍というものにひたすら身を小さくしていることを強制し
    これによって、悪いイメージを世界が忘れてくれることを祈っている。

    ムダである。 そんなことをしても世界は日本軍の暴威を忘れはしない。

    イメージを変えるのは行動である。日本軍の悪いイメージを払拭するためには、
    再び外征の場において明治日本以上の完璧な規律を世界に示さなければならない。
    それができてはじめて、日本は変わったんだ、といえるのである。

    逆に、もし軍隊をまったく持たない国に日本がなったとしても、外国へ派遣され
    た民間会社員たちが現地でふらちな振る舞いをしていたのでは、旧日本軍の残し
    た悪いイメージは、増大されこそすれ薄れることはあるまい。これが現状だろう。


    ★ 結論


    もし旧軍ののこしたマイナス・イメージを払拭したいのであれば、積極的に海外
    派兵を行うべきだということになる。派遣軍が世界中の賞賛を浴びるような規律
    と成果を示したとき、そのときはじめて戦後は終わる。

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  • from: 一久さん

    2010年10月27日 21時03分22秒

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    日中友好のために

    【日中友好のために】 言論の自由こそが第一義である。

    日中友好のために、もっとも必要なことは、言論の自由を中国の国民に与えることである。言論の自由がなければ、いかなる友好的行為も中国政府の見解によって無視されたり、場合によっては反中国的行為だとみなされるからである。

    日中友好を口にする者は、左翼であれ右翼であれ、自民党であれ民主党であれ、社民党であれ日本共産党であれ、その他のNGOであれ、まず第一に、言論の自由を保証することを求める必要がある。

    「日中友好」と「言論の自由」とはセットでなければならない。

    いいかえれば、中国国内の「言論の自由」に言及しない日中友好は欺瞞であるということである。それは友好ではなく媚態であるか、あるいは偽の友好によってなんらかの利益を得ようとしているかのどちらかである。

    言論の自由を要求することこそが、日中友好の第一歩であり、これなしには、いかなる友好関係も成立し得ないのである。

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  • from: 一久さん

    2010年10月26日 06時21分15秒

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    靖国問題と思いやり

    「思いやり」について

     中国・韓国との問題について、「相手をもっと思いやることが必要」とテレビに出て来る識者諸氏はおっしゃるのだが、はたして彼らは「思いやる」ということと「甘やかす」とか「エコヒイキする」とかいうこととの区別がついているのであろうか。

     なるほど「思いやり」は大切である。しかし、思いやりというものは、中庸を得た思いやりであって初めて「思いやり」といえるのであって、中庸から外れた思いやりは、思いやりとはいえない。

     そのような「思いやり」は、思いやる側の損害を招くだけではなく、思いやられる相手側にも多大な被害をもたらし、さらには第三者にも大きな迷惑を与える結果を生む。

     飼い犬のことを考えてみるがよい。「かわいいから」といって躾をせず、好き勝手に遊ばせることは決して思いやりではない。

     このような買い主に育てられた犬は、やがて他人を噛んだり、むやみに吠えたりして近隣に迷惑をかけ、最悪の場合には傷害事件を起し、屠殺されることになるだろう。買い主も、犬も、隣人も、皆、大きな迷惑を被るのである。

     だが、元はといえば、買い主が「思いやり」と甘やかし」の区別ができなかったことが原因である。買い主の馬鹿さ加減が犬を殺し、隣人に傷を負わせたのである。

    【中国・韓国と靖国問題の場合】

     そもそも、日本国内のこと、ましてや宗教の絡む問題に対して、外国がとやかく言う權利はないのだから(内政干渉)、中国・韓国の要求は、すでにこれだけで中庸を外していることになる。もしこの要求を呑めば、靖国問題以外の外交問題に対して、大きな悪影響をもたらすことは確実だろう。

     それとは別に、もし中国・韓国の要求を呑めば、中国人や韓国人の心が安まるのであろうか。ここをこそ、「思いやる」必要があろう。

     残念ながら、心安まることは決してあるまい。今回は参拝しなかったが、次の政権はどうだか分からない、表立って参拝しなくても裏で参拝しているかも。参拝していなくても、心の中で手を合わせているかも。という具合に、彼らは常に日本の顔色を見ていなければならなくなるからである。

     また、日本人の側でも、中国人・韓国人に対する嫌悪感が増大することは避けられない。先祖の祭祀を妨害されて喜ぶ人間は多くはないのだから。これもまた、「思いやる」必要があろう。テレビ識者というものは、なぜかこの日本人のことは「思いやらないでいい」と思っているようだが。

     結局、中国・韓国の要求に沿う形では、日本人も中国人も韓国人も、決して心が安まることはないのである。

     逆に、日本側の主張に沿って、靖国問題なんて我が国は関与しない、と中国・韓国が言ったらどうだろうか。

     まず、日本人の側は、中国・韓国の度量の大きさを認めて慶賀するであろう。(もっとも、そもそもこの要求自体が理不尽な内政干渉なのだから、感謝する必要などないのだが)

     中国人・韓国人はどうか。

     これ以降、日本の顔色を見なくてすむようになる。これだけでも、今までよりもずいぶんましになる。さらに、我が国は度量の大きさをみせて奴らの靖国参拝を許してやっているのだ、という道義的優越感を持つことさえできる。

     結果的に、靖国参拝阻止を叫んでいるよりも、ずっと多くの安寧を得ることができるのである。

     戦争被害者やその遺族の怨みはどうするのか、というかもしれないが、このような怨みに対する「思いやり」と、今生きている万民の安心のための「思いやり」とどちらが大事であるか。怨みの為に現在と未来の安心を放棄することがはたして「仁」と言えるのか。

    また、犠牲となった人々は、子孫が怨みを持ち続けることを、子孫が安心を得ることよりも望んでいるであろうか。

     ということで、靖国参拝問題の「中庸」は、中国・韓国側が参拝を認めることにこそある。互いの国民を思いやった最善の判断がこれである。

     しかし実際には、中国も韓国もこのような政策を採ることはあるまい。なぜならば、彼らの国の為政者は、国民の安寧の為に政治をしているのではないからである。特に対日問題においては、国民の心が安まることよりも、むしろ憎悪をかき立てることを望んでいる。
    自分達の都合よく国民を使う為に。

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  • from: 一久さん

    2010年10月25日 06時31分52秒

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    政党の役割

    政党について

     【鼓腹撃攘】

     政治のひとつの理想は、鼓腹撃攘である。

     人民がなにも考える必要もなく、世の中が平和に繁栄している状態である。実際に、多くの国においては、国民は直接政治に関与することはない。民主主義の国においてさえ、その機会は多くはないし、また、国民自身、それを望むことも多くはない。

     多くの国民が直接政治に関与したいと思うとき、それは政治が末期的状態に至ったときであろう。その正反対の状態こそが鼓腹撃攘である。

     【政党による支配】

     残念ながら、鼓腹撃攘させてくれるような聖天子は、めったに登場しない。ゆえに我々は、為政者を監視し、少しくまともな政治をするように教導しなければならない。

     しかしながら、これもまた骨の折れる行為である。多くの国民は、その労を嫌うであろう。そこで、国民全体に代わって、為政者を監督する組織が必要となる。それが議会であるが、議会自体もまた、為政者として横暴を振るう存在に変身しやすい。

     ゆえに、議会と国民の間に立って、議会議員を監督する存在が必要となる。これが政党である。このような政党こそが民主主義の根幹なのである。

     これまで政党というものは、政党幹部の決定を下位の党員に押しつけ、党員は一般国民を自分達の側につけさせるように運動する。その為のものだと思われてきたようだ。

     だが、それは決定的に間違っていた。そのやり方では、決して国民の声が政治に届くことはなく、政党それ自体が政策を打ち出す能力を持つこともない。国民の信頼は、絶対に政党には集らないのである。

     政党は国民のなかの、政治に関心を持った人々が政治家を監視したり、政治家に助言したりするための装置でなければならない。そういう人々が政党を構成し、つねに全国民に代わって政治家を監視し、国政に関与していると思えばこそ、国民は選挙以外の政治行為に関わることもなく、安心することができる。

    【全体主義の逆説】

     ひとことでいえば、このような政党論は、「全体主義の政党」の逆である。

     全体主義では、国民>シンパ>党員>親衛隊>突撃隊>髑髏隊>幹部>総統

     というふうに、より中枢に近い者が下流の者を支配する。

     民主主義の政党のあるべき姿はまさにこの逆であって、

     総理<大臣<議員<党員<シンパ<国民  となる。

     議員が大臣や総理を突き上げることは、権力闘争の過程で普通に行なわれることであるから、放っておいても実現する。問題は国民やシンパが党員を突き上げ、党員が議員うを突き上げる過程である。この部分が未成熟である。

     これを補強するにはどうすればいいか。その方法は、全体主義に学べばよい。全体主義においては、より上位のグループに属する者は特権を持っていた。それをもって下位の者を支配した。

     一般党員に、民主的に大きな特権を与えればよい。選挙区ごとに「千人会」を作ってもよいだろう。ネット掲示板で討論させてもいいだろう。あるいは、重要法案の多数決を党員全員にさせてもよい。数が多過ぎるというのであれば、ナチスに倣って、精鋭党員グループを作れば、自在に人数を制御できる。

    【政治政党への脱皮】

     政党というものが、利権や教条主義的なイデオロギーの為のものではなく、国家・国民を繁栄させるための真摯に協議する人々の集まりに変わることによって、国民一般は安心して政治のことなど忘れることができる。

     もし、政党の人々に問題があれば、別の政党に票を入れるか、あるいは自分自身が政党員となって政治に関与するかすればよい。

     このような政党が存在しているという前提のもとでしか、選挙によってより良い政党を選ぶことはできないのである。

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  • from: 一久さん

    2010年10月24日 09時48分12秒

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    反・遊就館史観

    遊就館史観はイカン?

     「小泉靖国参拝で何が失われたか」とかいう題名の小冊子を本屋でペラペラと斜め読みした。靖国参拝に反対する人々は、どういう論拠で反対なのか、知りたかったからだ。

     しかし、読んでみて驚いた。傾聴に足る論理がないことに驚いた。ガンコに反対するからには、もう少しもっともらしい論拠を持っているはずだと思っていたが、みごとに期待は裏切られた。これならば、「触らぬ神にたたりなし」式に、中国・韓国を刺激するな、という素朴な「ことなかれ主義」のほうがまだしもマシに思えて来る。

     とくに奇異に思えたのは、「あの戦争によってアジアの植民地が開放された」とする遊就館的史観は、大部分の国民に受け入れられていない、と決めつけている点である。小泉と一部の国民のみがこれを支持し、国政を壟断しているのだという。大多数の国民は、小泉一派の暴挙を諦観しているだけであって、支持してはいない、のだそうだ。

     私の考えは、彼らとは百八十度違っている。大多数の国民は、本音において遊就館のいうことを認めている。認めていないのは、一部の進歩的文化人や左翼政党・宗教家あるいは、エナリ某のような子供であって、それらは現実認識から外れた空論を信奉することから生まれる態度である、と私は思っている。

     思うに、これらの”反軍国派”諸氏は、「事実の検証」を嘲笑し、自分達のイデオロギーに合わせた「事実」を捏造し、事実について語ったり検証したりしようとする者が現れればば、軍国主義だの国粋主義だのというレッテルを貼ることによって社会的抹殺をはかりたいだけなのではないか。こういうのをなんというかご存じか。ファシズムというのである。

     太平洋戦争において、日本軍の進攻は当該植民地に多大な(未曽有のといってもよい)影響を与えた。それは、当該植民地が独立する為にも大きな原因となった。

    これは否定しようのない事実であろう。日本側の意図とは無関係に、宗主国の軍隊をアジア人が撃退する様を見せられたことによる物心両面の影響力は極めて大きかった。

     反軍国派諸氏は、この事実さえも認めないのだろうか。さらには、多くの国民もまた、このような「事実」を認めてはいない、と彼らは言うのだろうか。

     日本軍の「アジア開放」なんて建前で、本音は侵略だ、という指摘は正しい。だが、日本の建前よりも本音よりも、それがもたらした事実、すなわち結果こそが大事なのである。政治は結果主義であるのだからだ。

     ゆえに、侵略こそが真の目的であったとしても、その結果が、独立に寄与することになった場合には、遊就館史観は肯定される。
     
     ようするに、反遊就館史観論者は、「侵略意図」と「結果や事実」を混同しているのである。本音が邪悪な侵略であっても、結果として独立開放を達成することがある、といういことを理解していないのである。

     遊就館史観とは、単にその事実を顕彰しているに過ぎないのであって、「邪悪な侵略」を賛美しているのではない。ヒットラーのように、多民族を抹殺せよ、などと言っているのではない。

    蛇足:加藤某代議士の対談

      同じ小冊子に、加藤某代議士のインタビューも載っていた。これにも驚かされた。

     いわく「こちらが悪いことをしたから」、A級戦犯に泣いてもらうのだそうな。

     こちらが一方的に悪いのかどうか、という事実検証は、昨今盛んになっており、相手側にも相当の問題があるというような研究結果が出つつあるようだが、それは置いておく。

     問題は、このような「泣いてもらう」方式が、一般国民に向けられたらとんでもないことになるということだ。早い話が、北朝鮮に対しても過去に「こちらが悪いことをした」から拉致被害者に泣いてもらうべきだ、ということになる。実際、ついこの前まで、拉致被害者に対してそのような態度をとる政治家・官僚・マスコミは少なくなかったというではないか。

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  • from: 一久さん

    2010年10月23日 21時21分27秒

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    反日デモをあおるべし


    【真の日中友好のために】

     日本側の採るべき対応は、中国を刺激しないようにすること
     ではなくて、むしろ、中国人の反日感情を刺激し、より過激
     な行動を彼らに成さしめるように仕向けることであろう。

     それによって、中国政府が民衆を制御不能になる事態を招き、
     でき得れば独裁政権を打倒させる。

     幕末の勤皇諸藩は尊皇攘夷であった。しかし、幕府を倒した
     新政府は、開国を選んだ。

     その間、イギリス他は、勤皇側に武器を売ったのである。

     今の日本がすべきことも、それと同じであろう。反日を掲げ
     る相手であっても構わない。現在の中国政府にダメージを与
     える者であれば、それを利用せぬ手はない。

     いますべきことは、中国国民を挑発し、デモを起こさせるこ
     とである。

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  • from: 一久さん

    2010年10月22日 06時25分38秒

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    医師の数は重要か?


    【医者の数に意味があるのか】

     日本では、国民千人あたり、医者の数は二人なのだそうな。

     先進国(日本を除く)では、千人当たり三人の医者がいる
     のだそうな。

     また、病院のベッドの数でいうと、ひとりの医者が担当す
     るベッド数は、アメリカは日本の1/5なのだそうな。

     日本の医療は、だから劣悪な状況にあるのだそうな。


    【国民から見れば】

     だが、この数値に対する評価は、すべて医者から見てのもの
     だ。一人の医者で500人の国民を診てやっているという発
     想である。

     だが、国民の側から見れば、500人で一人の医者を養って
     いるのだ、という考え方になる。

     国民の側から見れば、千人で二人の医者を養う国と、千人で
     三人の医者を養う国とでは、一人当たりの負担額は1.5倍と
     なる。

     ならば、医療レベルが同じであるならば、千人に二人の国の
     ほうが、効率がいいということになりそうだ。

     ベッド数で考えれば、さらに問題は大きくなる。

     日本の入院患者は、十人で医者一人分の報酬を分担すればよ
     いが、アメリカの患者は、二人で医者の給料を賄わなければ
     ならないということになる。

     ゆえに、マイケル・ムーアの映画のような事態が起こる。

     それでも、アメリカの医療のほうがマシなのであろうか。


    【近代産業を見よ】

     すべからく、優れた業績とは、低コストで高パフォーマンスで
     あることを要求される。

     ということは、医療も又、一人の医者がより多くの患者に対応
     し、かつ、良い成果をあげることのできる制度こそが、優れて
     いるのだ、と言わねばならない。

     一万人を一人で対応できる状況こそが理想なのだ。

     逆に、百人に一人が医者であっても、全員が薮医者では、話に
     ならない。中国の現状はこれに近いのだそうだが。。。

     医者の数や、ベッドの数、医者一人当たりの患者の数、などは、
     医療を考えるさいの指標としては、不適当なものなのだ。

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