新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

SIG 市民の討論広場

SIG 市民の討論広場>掲示板

公開 メンバー数:8人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: 一久さん

    2009年03月31日 20時03分44秒

    icon

    教育改革が失敗し続ける理由

    受験改革が失敗しつづける理由

     すでに戦前から、大学入試の技巧化は問題とされており、それを改革すべく様々な試みがなされてきた。が、いまに至るも、ひとつとして成功した改革はない。国が改革をすればするほど、入試はより技巧化し、受験生や中高生を蝕んでいく。受験政策というものはすべて改悪であったと言わざるをえない。

    なぜこんなことになるのかというと、政策を立案する者も、世間一般の人々も、共に大きな錯誤をしているからである。それは、「客観的な試験によって、人の能力が計測できる」という神話であり、これを信じている限り、受験制度改革は必ず事態の悪化をまねく。

     これはなにも、知識至上主義をのみ批判しているのではない。むしろ、面接や小論文を重視せよという人々を指して批判しているのである。この人々は、面接や小論文でなら「まともな」入試ができるのだというのだが、入試が客観的な判定を求められる以上、面接や小論文による試験も、技巧的に対応可能である。現に、予備校はそれを売り物にしているではないか。面接や小論文が増えた結果、入試はより技巧的になってしまったのである。

     試験というものは、知識や技巧しか判定することはできない。完璧に近い客観的な試験ほど、そうである。試験はしょせん試験であり、そんなもので人間の価値を表すことなどできはしないのだ、ということをまず認めることから始めなければ、入試制度改革は絶対に成功することはない。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月31日 20時02分43秒

    icon

    教育論


    「教育論」 序文

    教育は国の大事なり。

    国が興隆するも貧窮するも、国民の労働と判断に負っているのが民主主義社会というものである以上、国民の教育こそが国家盛衰最大の因であると知らねばならない。福沢諭吉いわく、天は人の上に人を作らず、しかれども、学ぶと学ばざるによりて貧富・潔卑の差、無限に大なり、と。

    アダムスミスいわく、国富は国民の労働によりて生じる、と。しからば、労働をする国民の質、その知識・技量・分別を高めることこそ、国富を増やす手段であること明白である。

    ゆえに、教育は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。


    【青が赤くないといって責める】

    古今東西、教育論議は断えない。しかし、その多くは論議自体が噛み合っておらぬ。それはなぜなのか。それは、教育といってもその内容や目的が決してひとつではないからであり、多くの論者はそのことをも知らぬからである。

    例えば、イギリスが衰退したのは大学の居心地がよくて学界に優秀な人材が居残るようになってしまったからであるという説がある。学者にとってのイギリスの教育は最高ということだろう。アメリカからは日本よりもはるかに多くのノーベル賞受賞者が出ている。ならばアメリカの教育こそが最高なのか?北朝鮮や中国では、洗脳教育によって国民を「みごとに」統制している。これこそが最高の教育なのかもしれない。

    このように、教育とひとことでいっても、実は同じものを意味していない。絵画は様々な色で作り上げられているのに、個々の色について分析を行なわず、自分が見ている色だけについて主義主張を述べあっているのが現代日本の教育論議である。

    青を指さして「赤くないからイカン!」と言っているようなものだ。

    これからシリーズで教育について述べようと思う。

    教育という言葉は、多数の異なった「教育」の混濁物である。まずはその構成物質を解きあかして、ひとつずつに検討を加える。その成果を以て、現状の構成を分析し、どこがどう問題なのかを解明する。最後に、理想的な構成はどういうものなのか、そしてその実現の為にはなにをすればよいのか、具体的な施策を考える。



    シリーズ 教育 その1 一久


    【分割して考える】

    「群盲、像を撫でる」という。 細かく分断して考えるよりも、ひと目見たほうが確かであるということを言っているのであろう。しかし、科学は「群盲像を撫でる」でなければならない。

    なるほど、ひと目「像」を見れば、誰もが像とはこんなものかと納得いく。しかしそれはあくまでも像を見た個人の主観として像という動物を捕らえたにすぎない。

    像を見慣れた人には小像は小さい像だと思えるが、像を見たことのない人にとっては小像でも犬よりもはるかに大きい。像ってこんなにでかいのか、と思うだろう。

    これに対して「群盲」式科学的見方では、体長は何メートル、体重は何キログラム、生後何カ月、爪の形はどう、といった見方をする。誰がみても、3mの像は3mである。客観的事実を共有するためには、このような分析的な見方が必要なのである。


    【「教育」を腑分けする】


    では本題に入ろう。これから、教育という言葉を腑分けする。国家が施す教育には、目的の異なったいくつもの部類が存在する。それらを具体的に指摘することからはじめよう。

    まず、第一に国民はどうあるべきか、人と社会はいかにあるべきかを教えることを目的とする教育、すなわち、道徳教育がある。「いかに生きるべきか」ものごとの是非善悪を教えなければ、社会は決して平穏にはならぬ。決しておろそかにはできないものである。

    第二に、実際に社会で生活するための知識を持たせるという意味での教育がある。いわゆる「読み書きソロバン」である。

    第三に、実社会において成功し地位や富有や名声や熟練の技術を獲得するための教育がある。ホタルの光にいう「♪名を挙げ身を立て夜々励めよ」というやつだ。

    第四に、金や名誉ではなく純粋に学究に打ち込む人を育てるための教育がある。

    以上、「道徳」「生活」「技術・知識」「学究」、少なくとも、この四つの種類を内包しているのが「教育」というものなのである。

    これらの区別を考えにいれずに教育論議をするから、ある人は読み書きソロバンを、といい、あるひとはそれでは国際競争力が低下するといい、あるひとは道徳教育が大事だという。まるで話がかみあわなくなる。けだし、当然のことである。


    シリーズ 教育 2


    【道徳教育】

    人はいかに生きるべきか。それを教えるのが道徳教育である。

    しかし、考えてみればこれほど難しいものはない。なにが人として正しいのか本当のところは誰にも分らないのであるから。

    ゆえにこそ、宗教というものがある。神仏による教えを持ち出して、正しさの根拠にしようとするのである。

    日本人には馴染みのないこの手法だが、ムスリムなどにとっては自明のこととされる。逆に彼らはいう。神の教えでないのだとしたら、その「定め」が正しいかどうかをどうやって判別するというのか? と。

    ここに、日本人の無宗教性を解く鍵があるのかもしれない。日本人は人間の常識によって、「正しいかどうか」を判断できると信じている。

    クルアラーンも、聖書も仏典も論語もブードー教の教えも、すべて人間の常識という量りによって計測され、良きものは取り入れ、そうでないものは排除される。それが日本人の宗教との関わりかたである。

    ゆえに、日本には宗教は根付かず、しかし排除もされず、宗教の百貨店のような状況になる。神が正邪を決めるのではなく、人間が正邪を決めるのである。

    人はいかに生きるべきかは、またその国の歴史・文化によっても変わってくる。時代の要請によっても変化する。

    「道徳の時間」といえば、学校授業の付録みたいな扱いを受けているのが現状であろうけれども、本来これほど重要なものはないといえる。

    例えば、自由の意味、民主主義の意義、平等と不当差別、他人に対する配慮と自己主張の関係etc、授業において考えさせ、自分なりの答えを求めることをさせねばならないものが数多くある。

    歴史の時間にフランス革命について習ったぐらいで、なんで自由や民主主義の意味が分ろうか。道徳教育こそは、大一義的に重要な授業でなければならないのである。

    日本の歴史と伝統・文化に根ざしながら、世界中の哲学・宗教・倫理を加味して「人としてどうあるべきか」を明らかにするテキストを作り教授することが必要なのである。

    江戸時代、武士は庶民から尊敬されていた。武士だけが高い倫理性をもった教育を受けていたからである。


    シリーズ 教育 3


    生活の為の教育

    これは社会生活を送るために必要な教育、いわゆる「読み書きソロバン」である。しかし、現代社会においては、その知識量は単純な「読み書きソロバン」ではすまされない。

    少なくとも、新聞に載っている物事の意味を把握できるぐらいの基礎知識を習得させなければ、生活に必要な知識を与えたとは言えない。
    例えば、ケインズ理論の基礎を知らなければ、経済面の公定歩合がどうのという話を読んでも理解できまい。

    微分・積分を知らなければ、ちょっと高度な試験を受験する気にもならなくなる。英語を全く知らなければ、ダンボールに書かれた外国の社名さえも分らない。

    漢書や古文のいくつかぐらい知らないようでは、ちょっと高尚な話にはついていけなくなる。

    この生活のための教育というものは、このように広範かつ高度なものなのであり、決して安易なものではないのである。


    第二に、人の生活は、現状維持だけではなくて、より以上の生活を目指し改良を求めるという行為も内包している。そのためのキッカケを与えること、及び、より上位の知識・技能を習得する為の基礎知識を習得させることもまた、生活のための教育に含まれるべきなのである。

    ここで教師は肝に命じておくことがある。それは、学校で教え得ることは、あくまでも知識世界の一端にすぎず、真の学習は個々人の興味によって生徒自身が自ら進んで行なうものだということだ。

    教師のすべきことは、できる限り多くの知識を生徒達に触れさせ、興味を持てる対象を見つけ出させること、そして、それを学ぶのに必要な基礎知識を習得させること、なのである


    シリーズ 教育 4


    【技術・知識習得のための教育】

    これは知識を技術を習得して、より高い収入や技量を得ることを目指す人のための教育である。

    国家としては、このような高度な能力を持った人間が増えることは歓迎するべきものであり、そのことによって経済的にも文化的にも発展を期待できる。

    ひとり高度技術者の生活向上のためだけでなく、その人が技術を得たことによる波及効果によって、回りの普通の人々の生活もまた改善されるのである。

    食堂のオバチャンが講習会で新しい接客や料理方法を身につけてきたら、その店は繁盛し彼女の収入もアップすると同時に、その店の客はより美味い飯を喰うことができるようになる。

    国民ひとりひとりの能力が上がれば、社会全体が豊かに、暮らし易くなるのである。これこそが、識技習得のための教育の目的である。

    その対象は、なにも即物的な技術に限るものではない。例えば文芸の知識もその対象となり得る。ありとあらゆる技芸や知識を学習・習得できる環境作りが必要である。

    インターネットの発達は、それを容易にしていくことだろう。

    第一部 総括

    以上、教育とはなにか、その種別について述べてきた。様々な目的を持った教育があり、それぞれになすべきことがあるということが分ったと思う。

    次は、現実の日本の教育について考える。現代日本の教育の問題、それは言うまでもなく「受験」である。教育問題とは受験問題のことだ、と言っても過言ではない。すべてはここから始まり、ここに収束している。

    それぞれに成すべきことがあるはずの多々の教育が、互いにすべきことを出来ないでいる最大の原因もまた、「受験」である。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月30日 09時57分47秒

    icon

    コンビニと共同でイベントを

    バレンタインのチョコレートも、土用丑の日のウナギの蒲焼も、チョコレート業者やうなぎ屋が仕掛けたイベントだということはすでに有名。

    業界が仕掛けたイベント、と言えば聞こえが悪いが、それによって行事が増え、楽しめるのであるならば、結構なことではないか。

    ということで、ひとつ提案を。和菓子もまた、新たにイベントを増やそうではないか。和菓子のイベントといえば、雛祭りのアラレや菱餅(菱餅って、見たことあっても食べたことがないような)、こどもの日の柏餅・ちまき、彼岸のボタモチ・おはぎ、秋の月見ダンゴ、土用餅というのもあったかな。結構、無いようで、あるような。

    で、いっそのこと、和菓子の季節感を強調して、「二十四節気」和菓子という風習を広めることを検討してはどうだろうか。全国の和菓子店が競作で、節気ごとの季節の「菓子」を競うのだ。たとえば、明日から「立春」だから、立春に相応しい菓子をひとつ、それぞれの店が店頭に並べる。最近はコンビニの影響力が大きいから、大手コンビニを説得して、このイベントに参加させることができれば、成功は疑いないだろう。

    二十四もの節気があるのだから、菓子屋は年中イベントをやっていることになり、これだけで商売が成り立つ。また、客のほうも、このイベントによって年々失われていく季節感を取り戻すことができるようになる。日本の風情を残す、いや、新しく感知する、為にもよい企画だと思うのだが。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月30日 09時56分09秒

    icon

    翻訳掲示板を

    【翻訳掲示板ソフトの開発を】

    韓国語と日本語の翻訳掲示板というものがある。例えば、「エンジョイコリア」の中にある、
    http://bbs.enjoykorea.jp/
    がそうだ。

    いまのところ、そこでなされている「討論」は、とうてい友好的とは言えないものが多いが、それは翻訳の精度の悪さに負うところが大きいだろう。翻訳が完璧に近づけば、質の高い参加者が増えることを期待できる。

    政府や議員の発言では、両国民の生の声は伝わりにくいし、第一、その情報量が少な過ぎる。例えば、靖国問題にしても、正式なコメントはあまりにも少ない情報しか韓国・中国の国民に提供していない。そのうえ、両国政府は、そこからさらに都合のいい部分だけを選択して報道するから、どうにもならない。

    翻訳掲示板であれば、それぞれの国民から無制限に近い量の情報が寄せられる。役人や学者にアピール文を作らせるよりも、よっぽど相互理解の為になる。

    中国などは、インターネット自体に規制をかけているが、日本国内だけでも日中翻訳掲示板を設置する価値はある。日本滞在中の中国人が利用できるからだ。帰国後の彼らを通じて、情報は伝わるであろう。

    アメリカやヨーロッパについても、このような翻訳掲示板は有用である。なぜならば、欧米には言論の自由はあるが、日本の情報が「正しく広く」伝わっている訳ではない。そこにはやはり欧米の価値観による偏見が存在している。ゆえに、欧米の言語に対する翻訳掲示板も必要なのである。

    さらに将来的には、マルチリンガルの翻訳掲示板も必要である。日本語で書き込んだら、ドイツのパソコンにはドイツ語で、韓国のパソコンには朝鮮語で、アメリカのパソコンには英語かスペイン語で表示される掲示板である。どの言語で記入されても、すべての言語で読むことができる翻訳掲示板がほしい。

    言語の違いというものは、いま現在もなお、国際関係の大きな障害となっている。だが、統一言語を作ろうとか、英語をそれに代えようとかの案は、無理が大きい。理由は言語は文化であり、文化は生活と密着しているからだ。(長くなりそうなので、この話はまたの機会に)

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月29日 21時43分46秒

    icon

    民主主義とは何か 再び


    【民主主義とは何か 再考】

     自由主義とは何かということの解釈を終えて、改めて
     民主主義とは何かを考え直してみる。

     民主主義とは万民が意見を述べることのできる社会を
     目指す主義である、と先の文で述べたが、この言葉に
     若干の修正が必要なようである。

     ”論敵”の発言の自由を擁護する者だけに、発言の自
     由を与える主義、それが、民主主義である、と。

     万民は身分や知識の有無に関わらず意見を述べる権利
     がある。だが、自分の論敵が発言することを遮る者に
     は、民主主義に参加する資格がない、ということであ
     る。

     そして、他人の意見を邪魔する人間かどうかは、事前
     には分からないのであるから、実際に彼がそのような
     行為に及んだとき、その場にいる人々が彼の行為を非
     難し、撤回謝罪をするか退場するかを迫る社会であら
     ねばならない。

     このような社会的圧力を保持することこそが、民主主
     義と自由主義を維持することに他ならない。


    【民主主義の参加制限】

     民主主義は、生まれや財産や知識によって参加制限を
     しない。

     「民主独裁制」のような、組織図による参加制限もし
     ない。

     民主主義が課す参加制限とは、他人の発言を尊重する
     かどうか、ということだけである。

     これがなければ、「自由な発言」もまた不可能となる。
     なぜならば、他人の発言を尊重しない人間が、自分の
     意見に反対する声を封殺しようとして「自由に」振舞
     うことを許してしまうからである。

     過激な意見を言う者が、反論に対して誠実に回答する
     ことは滅多にない。論説の内容以上に過激な言葉使い
     や挙動をもって、反論者を圧倒しようとすることが常
     である。

     このような「自由」を許せば、他の人々の自由は失わ
     れる。他人の自由を尊重しない利己的自由を許せば、
     全体の自由は失われるのである。

     「君の意見には賛成しないが、君のそう発言する権利
     は死んでも擁護しよう」 ヴォルテール


     まさにこれこそが、民主主義の根幹である。

     翻って、マスコミのTV討論番組はどうか?

     司会者は、参加者各位に相手の反論を尊重する態度を
     要求しているであろうか?

     むしろ、TV的に面白くなることを期待して、罵りあ
     うように仕向けてはいまいか。

     マスコミ自身が、言論の自由を破壊しているのである。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月29日 21時43分04秒

    icon

    理解されていない言論の自由


    【無理解なる自由主義】

     自由主義とは何か?

     「自由主義とは、自由主義を否定する者達に対しても発言の
      自由を認める主義のことである」

     というような話は、およそ政治に関心のある者であれば、誰
     でも知っていると思う。

     だが、それの意味を理解している人がどれだけいるだろうか?
     甚だしく不安である。

     この言葉には、二つの重要な意味が隠されている。

    1、自分と反対の意見を言う者の発言権を守らねばならないと
      いうこと。同様に、相手もまた、彼に反対する人間の発言
      権を守らねばならないということ。

    2、 ゆえに、互いに発言権を守りあうことをしない人間は、こ
      の自由な世界から追放されねばならないということ。

     自由主義とは、互いに相手の発言権を守りあうことであり、そ
     れの出来ない人間を排除する主義であるのだ。


    【誤解される自由】

     だが、多くの人々は、自由主義とは、自分の意見を自由に言う
     主義だと思っているようである。他人が喋っているのをさえぎ
     って、発言する権利が自分にあるのだと。

     詐欺まがいの技法や、恐喝まがいの大声・態度をとって、議論
     の場で重きを得ようとすることが、すなわち発言の自由という
     ことなのだ、と思っていまいか。

     自分を論難する”敵”の発言機会を尊守し、暴力的な言動家が
     彼の口を塞ごうとしたならば、「お前こそ出て行け!」と言え
     る人間がどれだけいるだろうか。

     自分の意見に反対する者の発言を遮り、そのような妄言を言う
     のは、言論の自由をはきちがえているのだ、と罵る輩が大半で
     はないだろうか。

     このものこそ、自由をはきちがえているのである。


    【もしも自由があったなら】

     真の意味での自由な討論であったならば、「妄言」は必ず是正
     される。

     なぜならば、妄言を言う者も、反論する自由を他の論者に与え
     る義務を負っているし、大衆は両者を比べてどちらが正しいか
     を判断する機会を得るからである。

     さすれば、どちらが妄言なのか、自ずと知れるようになろう。

     また、たとえ一時的に真理が詭弁に敗れたとしても、真理は必
     ず再発見される。(jsミル 自由論)

      

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月28日 07時08分48秒

    icon

    民主主義とは何か


    【民主主義とはなにか】

     民主主義最大の特徴は、万民が発言する機会を得るという
     ことにある。

     民主主義以外では、愚者に発言権は無い。あってはならな
     い。

     ゆえに、非民主主義者達は、民主主義は衆愚政治に陥ると
     いう主張を正当化する。

     しかし、愚者と真正の改革者とを、区別することは難しい。
     多くの革新的な技術・方策が、初めて提案されたときには
    「そんな馬鹿なことあるか」として拒絶されてきた。

     ケインズ理論を読んだサムエルソンは、この馬鹿げた論文
     をケチョンケチョンに貶してやろう、として検討したが、
     検討すればするほど、その正しさを確認する結果になった
     という。

     サムエルソンほどの知性ある人でさえ、直感的には真正な
     るものを見極めることが出来なかったのである。見極めた
     のは、彼の知識・技術によってであった。

     ましてや、普通の人間においておや。

     社会に多大な利益をもたらす新規の提案を、馬鹿者の愚論
     として切り捨てる危険が、非民主主義には常に存在する。
     ゆえにこそ、数多くの愚王が存在したのである。

     また、政府に都合の悪い見解も、「妄言である」として排
     除される。韓国でさえ、日本側に都合のいい主張のすべて
     を「妄言だ」として排除しているではないか。

     ましてや、中国や北朝鮮においておや。

     民主主義とは、真正・改革・安泰を求めるならば、自分が
     妄言だと思うものであっても、広く社会全体に知らしめ、
     検討を加える必要がある、という主張である。

     しかし、非民主主義者が言うように、これだけでは「大き
     な声の馬鹿者ども」が社会を威圧する結果になるかもしれ
     ない。

     では、どうするか。

     その方策こそが、自由主義であり、自由主義に対する理解
     こそが、民主主義の命運を決めることになる。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月28日 07時07分56秒

    icon

    逆転の経済

    逆転する経済システム

    ★内容

    読者が直接、記者を雇う次代へ


    例えば、100万人のネットユーザーが、年間一万円の費用を負担して
    報道記者・カメラマンを雇う。平均年俸経費込みで2000万円として
    500人の記者を雇うことができる。

    どの記者にどれだけ払うかは、各記者のパトロンとなるユーザーの数に
    よって決まる。5000人のユーザーに支持される記者は5000万円の報
    酬を得るし、200人にしか支持されない記者は200万円しかもらえ
    ない。

    どの記者に支払った場合でも、すべての記事を読むことができる。
    報道記事だけでなく、小説も漫画も画像も、同様である。

    記者となりたい者は、まず無報酬サイト・コーナーで自分を売り込み、
    出資者を待つ。活動に必要な資金提供者数に達すれば、契約成立だ。

    100万円で内職感覚でスタートする人もいていいし、一億円集まらない
    とできない、という第一線の作家が参加してもいい。

    登山家や冒険家のように、アタックに必要な費用を捻出するために参加
    するのもいいだろう。

    このシステムでは、読者の金銭感覚は、これまでとは逆転していること
    に気が付く。

    いままでは、売られている情報を買うか買わないかだった。このシステム
    は、金を払うに値する情報を得る為に金を払うのである。

    客ではなく、パトロンの側の席に大衆が着くことを意味する。

    社会の為に、その情報を得、流布する、そのこと自体に満足を覚える顧客
    によってこの制度は維持発展する。

    その結果として得られる情報財がどのように売られようと、無償公開され
    ようと、彼らは関心を持たない。むしろ、積極的に無償提供され、より多
    くの人々に見聞きしてもらうことを望むであろう。

    音楽やゲームなどにも、同様のシステムを応用できる。

    「この歌手を世に出したい」という欲望の為に1万円を支払い、出来たア
    ルバムがより多くの人に聞いてもらえるように、ネットで無償提供される
    ことを望む3000人がいれば、この歌手はそれだけで稼業が成り立つ。

    一億、総パトロン時代。これが新しい経済の形というものである。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月27日 07時47分55秒

    icon

    今の民主党はナチスと同じ

    民主党はナチスと同じ

    民主主義とは、どの政党がより良い民主主義を党内にもっている
    かを争点とする選挙によって、政権党を決めることである。

    この視点によって選ばれた政権党であれば、どの政党が権力を
    握っても、国民の声は政党を通じて反映される。

    もしも、政党内民主主義が無い政党が選挙で勝てば、その国の
    民主主義はその時点で終わる。ナチスドイツはまさにそれで
    あった。

    さて、民主党に政党内民主主義が存在するのだろうか?

    政権争いに勝つことには熱心だが、党内における自由な討議を
    促し、政策を見直すこと、財源の裏付けのある政策を編むこと、
    等々、民主党の民主主義が疑われて久しい。

    党首選挙でさえも、政権交代の為に控えるべし、という意見さえ
    も見受けられるではないか。このような政党を、民主主義の政党
    といえるのだろうか。

    民主主義でない政党を、選挙で大勝させることはよくあることだ。
    その結果、民主主義から独裁に移った国は途上国にはいっぱ
    いある。

    ナチスドイツもまた、そのひとつに過ぎない。いまのままの民主
    党が政権を取ることは、平成日本もまた、その仲間入りを意味
    することになりかねない。

    「暴言だ」といきり立つ前に、自らを省みて、政党内民主主義の
    確立をこそ目指すべきだろう。

    民主党の党内民主主義のほうが、自民党のそれよりも優れて
    いる、だから民主党が政権を取るべきだ、と訴えなければなら
    ない。

    単に、政権交代が必要だ、では、それはナチスや225事件の
    将校達と同じである。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: 一久さん

    2009年03月27日 07時46分59秒

    icon

    自暴”多殺”事件とアノミーとネット

    最近の”自暴多殺事件”について

    【あきらかなアノミー症候群】

    加害者達の言動は、あきらかにアノミー症状である。アノミーとは
    無連帯のこと。無連帯とは、誰とも連帯、つまり仲間意識を持たな
    いことである。

    人間が人間であるゆえんは、社会的連帯を持っていることにある。

    善も悪も、結局は社会全体にとって良いことか悪いことかで判断
    される。これは、連帯=人間社会であることを明白に示している。

    何者とも連帯を失った者は、人間社会の範疇に存在しないので
    あるから、道徳的にも法的にも、是非善悪を考えることはしなく
    なる。いわゆる、「無規範」の状態となる。

    一連の事件における加害者達の言動は、まさにこれそのもので
    ある。

    【連帯には権威が必要】

    小室直樹 著 「偏差値が日本を滅ぼす」によると、天皇と軍部
    によってもたらされた近代日本の権威は、敗戦によって崩壊し、
    同時に、強力な無連帯が発生した。

    国家規模の連帯とは、「権威」による全構成員への公平な支配
    によってのみ成立する。天皇であれ、法であれ、神であれ、何
    でもいいから、そのような権威、すなわち「父」的なものが必要
    なのである。

    戦後日本の法的支配機関は、そのような権威を持ち得なかった。

    ゆえに、天皇の権威が崩壊した結果生まれたアノミーは、左翼
    と企業の中にもぐりこんだ。そして、左翼が衰退し、企業が共同
    体的な甘えを捨て去る時代となって、行き場を失ったアノミーが
    今ふたたび表の社会へと、噴出してきたのである。

    【ネットから生まれたのではなく】

    すなわち、昨今の無規範犯罪は、ネットから生まれたものでは
    なく、ネットで防ぎきれなかったアノミーの結果である。

    もしも、ネットというものが無かったとしても、同様の事件は起こ
    ったであろう。

    今のネットは、連帯を発生させる能力を持たない。その原因の
    ひとつは、そこに権威が存在しないからである。

    しかし、アノミーに陥った者達が、最後に頼れる場所もまた、ネ
    ットである。ゆえにもし、ネットに権威を持たせることができれば
    多くの者を救うことができる。

    その為の方法は二つある。ひとつは、権威者となれる者が本腰
    を据えてネット社会に参入することである。例えば、石原慎太郎
    が東京都知事を退職したのち、掲示板の主催者としてネット討
    論に余生を注ぐならば、たとえ実際にはそこを訪れることがない
    者にさえも、連帯感を与えることができるのである。

    もうひとつの方法は、ネットから現実の世界へ影響力をもたらす
    ことが出来るような仕掛けを考え出すことである。たとえば、イ
    ンターネット政党とでもいうべきものを作り、実際に候補者を立て
    て国政選挙に参入する。

    こんなことが実現すれば、末端で政策談義をするだけで、連帯
    感を得ることができるだろう。

    もっと簡単な方法としては、「たのみこむ.com」を発展したよう
    なシステムを作る、とかである。ネット上で注文生産をすれば、
    ほしいものを作ってもらえる、という機構などどうだろうか。

    仕様書と金額をネットに公表し、同士を募り、受注したい企業が
    最低ロット数と金額を提示する。満額に達すれば、生産開始。

    こんな機構があれば、もの作りを通じて、連帯を感じない訳には
    いくまい。資本(製品一個分の小さな資本だが)があれば何でも
    できる。まさにこれこそ「資本主義」というものではないか。

    【連帯と権威】

    連帯は共同して何かができる、という実感により生まれるが、
    その共同は公平性の裏付けなしにはできない。その公平性
    を保障するのが、権威の役割である。

    法や機構がその役目を担えるようになることが理想であるが、
    そうなるまでの間は、ネット外の世界から権威者を移入して
    「父」たる威厳による支配が必要なのである。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

もっと見る icon