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  • from: 一久さん

    2008年04月30日 21時25分21秒

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    教育と入試の根本的問題点

    教育問題


     日本の教育問題、特に受験に関するものにおける根源的な問題点は、多くの人
    が試験によって人の能力を判定できると思い込んでいるという点にある。

     これはなにも、ペーパーテスト賛美主義者のことだけを言っているのではない。

     小論文や面接を重視せよ、と主張している人々も、これに含まれるのである。

     なぜならば、彼らの意見は結局は、ペーパーテストではダメだが、小論文や面接
    でなら、より正確な判定ができるというものであるに過ぎないのであるから。

     逆にいえば、もしも彼らの主張が私のいうようなものでないのであるならば、
    誤字脱字だらけだがキラリと光る私見を持った受験生を採用し、論文として完璧だが
    ただそれだけという人間は採用しなくてよいはずである。

     面接態度がむちゃくちゃ(ジュラシック・パークのマルコムのように)であっても、
    天才的なひらめきを持つものをこそ受け入れねばならないことになる。

     そんなことが日本の大学であったであろうか。将来的にも、あり得ることだろうか。

     さらにいうと、「キラリと光る」とか「天才的なひらめき」などというものは、見
    る側の主観にすぎない。飛びぬけていればいるほど、試験官には受験生の才能が理解
    できないという事態が起こる。

     極限すれば、凡庸な学者程度に理解できるようでは、天才ではない、と言える。

     往時のフランスの学界は、ガロアを理解できなかったではないか。

     天才的学者だけが天才的受験生を理解できる。とすればそれは、天才ではない世間
    一般の人々からみれば、不公正な採用であるとしか理解のしようがない。

    しかしこうでなければ小論文や面接を行う意味がないのだ。早い話が、面接や小論文
    による入試は、エコヒイキによる採用を認めないのであれば、やる価値がないのだ。

     このような入学試験を、日本の社会が受け入れることができようか?

    ______________________________________

     もちろん、そんなことはできない。

     するとどうなるか。

     小論文も面接も、客観的な判断基準による採点によって当落を決めねばならなくなる。

     客観的な判断基準があるのであれば、それに答える答弁術が開発されるのは必定であ
    る。結果として、入学試験は小論文や面接の重視によって、より技巧的なものになって
    いく。

     小論文が重視される以前において、予備校では日陰の存在であった国語の教師が、一
    躍花形講師にのし上がったことでもそれがわかるだろう。

     政府は一貫して技巧的な入学試験を排する、という方針をとってきたが、制度をいじ
    ればいじるほど、入試は技巧的なものになっていった。その原因はまさにここにある。

     「いかなる試験によっても、人間を客観的に評価することはできない」

     この単純な真理を認めないからである。

     試験によって人間を客観的に評価できると信じているからである。

     問題があるのは、試験の方法が悪いからなのだ、と。

    ______________________________________

     試験にできることは、その人の知識・技術を客観的に評価することだけなのだ。
     
    「人間を」客観的に評価することは不可能なのだ。

     それ以上のことを試験に期待するからおかしくなるのである。
     

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  • from: 一久さん

    2008年04月30日 21時22分38秒

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    核融合炉開発を


    結局のところ、核融合炉の実用化こそが、日本の安全を保証する唯一の手段であると思う。

    別に核融合でなくても、無限・無制限に手に入るエネルギーならばなんでもよいのだが、太陽電池だの風力発電だのは、無限ではあるが無制限ではないのでこの役にはたたない。

    核武装をするにしても、それによって発生する各国との亀裂に対処する策を持たねばならない。もっとも、左翼系の人々が言うほどには大きな問題にはならないであろうと私は思っているけれども。

    なぜならば、日本に対して制裁を課せば、その報復(というか当然の結果として)中国に対しては投資がストップするし、アメリカに対しても国債購入他の資金の流入と、日本からの資材(日本でしか作ることのできない部品を多く含む)がストップすることになる。さらには、日本という巨大な市場をも失うことになる。ハリウッド映画が受ける被害だけでも、相当のものになるだろう。

    故に、中国もアメリカも、日本に対して本気で制裁などできようはずもない。世界から孤立する、などというのは妄言としかいいようがない。

    とは言うものの、やはり(幻想ではあるが)”孤立”したらどうするかを考えておかねば空想的平和主義左翼の人々は承知いたしますまい。

    孤立して困ることといえば、第一に、輸入エネルギーが無くなることだろう。これは核融合炉が実用化すれば、解消される問題だということは誰でも分かるであろう。むしろ、化石燃料による社会を変革する契機となる。

    次に問題なのは、食料自給率の低さであろう。けれどもこれも無制限の電力があればなんとでもなる問題である。早い話が、ビルの中で畑を作り、牛を飼っても構わないのである。現在、そんな馬鹿なことをする人間がいないのは、ビルの中で農業をするためのコストが高いからである。無制限の電力が使い放題であれば、その問題は解決する。

    最後に、資源の問題であるが、これもまた、コストの問題にすぎず、加工に要するエネルギーが無尽蔵に提供されることで解決される問題である。リサイクルも代替物資の開発も、最大のネックはコスト、すなわちそのために使用するエネルギーだからである。

    核融合炉開発のための資金であるが、これは全額赤字国債
    で賄えばよい。年間一兆円の巨費を投じたとしても、五十
    年間でたったの50兆円にしかならない。

    50年後の国民は、50兆も借金を増やしやがって、など
    とは言うまい。むしろ、50年前の英断に感謝するはずだ。

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  • from: 一久さん

    2008年04月29日 20時01分52秒

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    東京オリンピック誘致に反対


    東京オリンピック誘致は、止めるべきである。なぜならば、それは日本という国の国是に反するからである。

    日本の国是とはなにか。

    それはペリー以来、西洋列強によってもたらされた世界規模の不公平を正し、すべての国が対等公平に付き合える世界を作ることである。

    戦前の富国強兵も、戦後の経済発展政策も、文化立国政策も、すべてはこの国是の為の方法論にすぎない。日本という国が富栄えることは、公平な国際社会を作る為の条件であって、目的ではない。

    日本の繁栄のみを目的としてしまったら、日本の富強の為には、世界の公正さを損なってもよいという観念にとりつかれてしまう。これこそ、先の戦争へと暴走してしまった根本原因ではないか。

    日本は、すでに相当な強国となった。今の我々は、日本に利することが、国際社会にとって公正や正義を失う結果を生まないかどうかということに敏感でなければならない。

    「オリンピックの五つの輪が集る」

    と、歌にあるように、アフリカや南米の誘致候補の応援をすることこそが日本の国是に適う行為なのであって、アメリカ合衆国のマネをして、大国であるから二度も三度もオリンピックを開く資格があるなどと嘯くことは、軍備に奢って戦争を選んだ人々と同じである。

    「日本の底力を示す」という"小欲"のために、公平な国際社会を作るという日本の大儀が捨てられようとしている。

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  • from: 一久さん

    2008年04月29日 20時00分34秒

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    日中友好のために

    【日中友好のために】 言論の自由こそが第一義である。

    日中友好のために、もっとも必要なことは、言論の自由を中国の国民に与えることである。言論の自由がねければ、いかなる友好的行為も中国政府の見解によって無視されたり、場合によっては反中国的行為だとみなされるからである。

    日中友好を口にする者は、左翼であれ右翼であれ、自民党であれ民主党であれ、社民党であれ日本共産党であれ、その他のNGOであれ、まず第一に、言論の自由を保証することを求める必要がある。

    「日中友好」と「言論の自由」とはセットでなければならない。

    いいかえれば、中国国内の「言論の自由」に言及しない日中友好は欺瞞であるということである。それは友好ではなく媚態であるか、あるいは偽の友好によってなんらかの利益を得ようとしているかのどちらかである。

    言論の自由を要求することこそが、日中友好の第一歩であり、これなしには、いかなる友好関係も成立し得ないのである。

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  • from: 一久さん

    2008年04月28日 07時08分21秒

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    イラクの治安は悪化している

    【味噌も糞も一緒の話】

     へんな頭をした評論家(?)らしき人物が、TVでヘンなことをしゃべっていた。

     いわく、「イラク戦争以後、イラクの治安は以前よりも却って悪化した」のだそうな。この人物だけではなく、平気でこのような論を吐く人が少なくないのだから困ったものだ。

     いわゆる、「クソミソ」である。味噌も糞も一緒くたにして恥じない連中である。


    【北朝鮮とアメリカ、治安の悪いのはどっち?】

     分かり易く言ってしまえば、イラク戦争以前のイラクの治安の良さは、北朝鮮の治安の良さと同類のものである。

     反抗するもの、気に入らないもの、政敵、ライバル、その他なんでも、権力を握る者が、そうでないものを粛清できる社会である。
     
     言い換えれば、官憲や政府が国民を正当に扱うことを義務として持っていない社会である。いつ権力者や官吏の不評を買って、牢獄送りになるか、わからない社会である。

     対して、戦後のイラクや、アメリカの場合は、(一応は)官吏や政府に正義を期待することができる社会である。

     言い換えれば、悪者だけが官憲に追われる社会ということである。そうであればこそ、治安を良くすることが難しい。罪を立証せずに「疑わしきを罰する」訳にはいかないからだ。

     【住みたいのはどっち?】

     さて、皆さんは、どちらの世界に住みたいだろうか。

     北朝鮮のような、すばらしく治安はいいが、いつ無実の罪で投獄されるかわからない社会か、それとも、アメリカのように、治安は悪いが、一応は頼ることのできる官憲や裁判所のある社会か。

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  • from: 一久さん

    2008年04月28日 07時06分56秒

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    政党について

    政党について

     【鼓腹撃攘】

     政治のひとつの理想は、鼓腹撃攘である。

     人民がなにも考える必要もなく、世の中が平和に繁栄している状態である。実際に、多くの国においては、国民は直接政治に関与することはない。民主主義の国においてさえ、その機会は多くはないし、また、国民自身、それを望むことも多くはない。

     多くの国民が直接政治に関与したいと思うとき、それは政治が末期的状態に至ったときであろう。その正反対の状態こそが鼓腹撃攘である。

     【政党による支配】

     残念ながら、鼓腹撃攘させてくれるような聖天子は、めったに登場しない。ゆえに我々は、為政者を監視し、少しくまともな政治をするように教導しなければならない。

     しかしながら、これもまた骨の折れる行為である。多くの国民は、その労を嫌うであろう。そこで、国民全体に代わって、為政者を監督する組織が必要となる。それが議会であるが、議会自体もまた、為政者として横暴を振るう存在に変身しやすい。

     ゆえに、議会と国民の間に立って、議会議員を監督する存在が必要となる。これが政党である。このような政党こそが民主主義の根幹なのである。

     これまで政党というものは、政党幹部の決定を下位の党員に押しつけ、党員は一般国民を自分達の側につけさせるように運動する。その為のものだと思われてきたようだ。

     だが、それは決定的に間違っていた。そのやり方では、決して国民の声が政治に届くことはなく、政党それ自体が政策を打ち出す能力を持つこともない。国民の信頼は、絶対に政党には集らないのである。

     政党は国民のなかの、政治に関心を持った人々が政治家を監視したり、政治家に助言したりするための装置でなければならない。そういう人々が政党を構成し、つねに全国民に代わって政治家を監視し、国政に関与していると思えばこそ、国民は選挙以外の政治行為に関わることもなく、安心することができる。

    【全体主義の逆説】

     ひとことでいえば、このような政党論は、「全体主義の政党」の逆である。

     全体主義では、国民>シンパ>党員>親衛隊>突撃隊>髑髏隊>幹部>総統

     というふうに、より中枢に近い者が下流の者を支配する。

     民主主義の政党のあるべき姿はまさにこの逆であって、

     総理<大臣<議員<党員<シンパ<国民  となる。

     議員が大臣や総理を突き上げることは、権力闘争の過程で普通に行なわれることであるから、放っておいても実現する。問題は国民やシンパが党員を突き上げ、党員が議員うを突き上げる過程である。この部分が未成熟である。

     これを補強するにはどうすればいいか。その方法は、全体主義に学べばよい。全体主義においては、より上位のグループに属する者は特権を持っていた。それをもって下位の者を支配した。

     一般党員に、民主的に大きな特権を与えればよい。選挙区ごとに「千人会」を作ってもよいだろう。ネット掲示板で討論させてもいいだろう。あるいは、重要法案の多数決を党員全員にさせてもよい。数が多過ぎるというのであれば、ナチスに倣って、精鋭党員グループを作れば、自在に人数を制御できる。

    【政治政党への脱皮】

     政党というものが、利権や教条主義的なイデオロギーの為のものではなく、国家・国民を繁栄させるための真摯に協議する人々の集まりに変わることによって、国民一般は安心して政治のことなど忘れることができる。

     もし、政党の人々に問題があれば、別の政党に票を入れるか、あるいは自分自身が政党員となって政治に関与するかすればよい。

     このような政党が存在しているという前提のもとでしか、選挙によってより良い政党を選ぶことはできないのである。

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  • from: 一久さん

    2008年04月27日 20時08分28秒

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    教育とは、観念の植え付けである


    【教育とは観念・思想の植えつけである】

     社会的教育とは、観念の植えつけであるという意見は、正しいと思われる。だが、だからといって、そのような植えつけの無い世界が、よりマシな世界であるかというとそうではない。むしろそのような世界は野獣の世界であり、「教育のある世界」よりも安楽な暮らしからは遠い世界となるであろう。

     人間が社会的な動物である以上、教育による観念の植えつけは必要なものなのである。それはなにも近代国家に限ったことではなくて、例えばブッシュマンやエスキモーの世界においてさえいえることなのである。彼らにも彼らなりの掟があり先祖伝来の継承すべき観念が存在している。であればこそ、彼らもまた人類でありえる。

     問題は、「観念を植えつけること」それ自体にあるのではなくて、どのような観念を植えつけるべきかというところにある。その「どのような」という内容は、それぞれの国家の歴史・文化によって左右されるものである。ブッシュマンの観念を日本人に適用することは無理無体というものであろうし、逆に、現代日本の教育をブッシュマンに強制したら彼らの文化は壊滅的に破壊されるであろう。

     では、日本という国は、どのような観念をその国民に植えつけるべきなのか。戦後教育の間違いの元は、この点を誤ったことによる。否、考察を放棄したことにある。日本の文化や伝統からくる観念を無視・卑下し、そのような「軍国主義的な観念を植えつけないこと」を目論んだ。その一方で、個々の教師や日教組は、自分達の信奉する「思想の植えつけ」には必ずしも反抗しなかった。そのような状態を放置したのであるから、ヘンになるのは当たり前のことである。

     では日本の伝統からくる「植えつけるべき観念」とは何か?日本人とはいかにあるべきか。それを述べていこう。

     日本の伝統・歴史・文化からくる「継承すべき観念」とは、「中庸」である。日本人があらゆる宗教を許容し、かつすべての宗教にのめり込むことがないのは中庸という観念がそれら諸宗教に優越して潜在しているからであろう。

     中庸とは「最も適切妥当なること」であり、同時に「平凡な当たり前のこと」でもある。ゆえに、なにが「その時その場において」中庸であるのかはなかなかに分かり難いものではあるが、広く知識を求め、異見を闘わせれば、自ずと「当たり前の」結論を得ることができるであろう。

     このような中庸の精神は、自由民主主義の精神とピタリと一致している。言論の自由のもと、広く所言を得て初めて知性が生まれる。ゆえに、韓国・中国のように、日本の政治的美点を述べることを許されない国家の民に、知性を期待することはできない。

     広く知識・異見を得て知性を育み、そこから誠のある意見を得、そうしてようやく心を正すことができる。心が正しくなって、行動も修正される。これをこれ、「修身」という。(「大学」より)

     我々日本人が子弟に植えつけるべき、あるいは自身が身につけるべき観念とは、まさにこれである。

     言論の自由のもと、多くの知識と様々な意見を知り、より広い視野を持った知性を得、誠意ある討議や検討をへて最も適切妥当な判断はなにかを常に探求する心を育て、行動するのが人間というものなのだ、という観念である。

    日本の教育が国民に「植えつける」べき観念はこれである。

    【蛇足】

     ひるがえって、戦後、日教組や個々の教師達のとってきた対応は、このような中庸を持っていたであろうか。彼らは戦前の軍国主義的教育を忌避することで、自分の私見を絶対化してきただけではなかっただろうか。広く異見を求め、真実を求め、もって中庸を明らかにしようとしてきた訳ではない。残念ながら。むしろ、ヒステリックに反対意見を弾圧してきたのではないか。これは一種のファシズムに他ならないのである。

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  • from: 一久さん

    2008年04月27日 20時03分40秒

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    リヴァイアサンからみた、日本・韓国・中国

    リヴァイアサンから見る 日本と中韓との関係

     第十一章 「マナーズ(態度)の相違」に曰く

    【引用】
     自分が対等であると思っている相手から、こちらが報いることができる以上に大きな恩赦を受けたばあい、私たちはにせの愛、いや実際には、ひそかな憎悪をいだきがちである。
    (中略)
     もはやけっして会うことのない場所に債権者がいってしまうことを心ひそかに願うのである。というのは、恩赦は債務であり、債務は束縛である。そして返済不可能な債務は永遠の束縛である。相手が対等である場合にはそれは憎悪の対象となる。【引用終わり】

    また、ホッブスは、こうも言う。

    【引用】

     ある人にたいして、自分がつぐないうる以上の、またはつぐなう意志を超えた害を与えてしまったばあい、加害者は被害者を憎みがちである。というのは、彼は復讐または緩徐を期待しなければならず、それはいずれもいまわしいものだからである。【引用終わり】

    このふたつの感情こそ、日本と中国・韓国の関係を説明するのに有用である。

     日本は、中国・韓国に対して、”遺憾な過去”を持っている。そのことを否定する者は、右翼・左翼を問わず存在するまい。実際には、日本側には相当の善意があったということを差し引いても、支配したという事実、それ自体が互いにとって良くないことだったという認識では誰もが一致しているはずである。「もういちど、中国・韓国を軍事侵略せよ」などという主張は、まじめな討論のなかでは聞いたことがない。

     一方で、戦後の日本が膨大な援助を中国・韓国に行い、その経済成長に極めて大きな貢献をしたこともまた、万人の認めるところである。中国・や韓国のように、言論が統制されている国に住んでいる人々はそれを知らないかもしれないが。日本に住む日本人で、戦後日本の貢献を知らない人はいまい。

     つまり日本は、中国・韓国に対して、「償い得ない害」と「返済不可能な恩赦」の両方を与えた国なのである。

     日本人が中国・韓国を憎悪しないようになる為には、戦後の援助が過去の償いに値する大きなものであったという評価を中国・韓国から得ることが必要である。その為に、左派も右派も、日中友好を叫んできたのであった。いまに至っても、そのように主張する”知識人”は数多い。

     だが、このような「援助による贖罪作戦」は絶対に奏功しない。そのことは、上の引用から構造的に明らかであろう。

     つまり、日本側の思惑のように、「援助」によって「過去」が清算できるのだとしたら、そのとき中国・韓国は”返済不可能な恩赦”を負わされた思うことになる。援助が過去を上回らなければ、相殺することはできはないが、援助が上回ったと認めることは即座に、債務者に転落したことを意味する。

     中国も韓国も、すでに多大な”害恩の債務超過”に転じていると思えるのだが、それを認めることは、彼らが返済不可能な恩赦を背負い込むことを意味する。

     ましてや、中華思想の昔から、対等どころか蛮族扱いしてきた相手から膨大な恩赦を得ているなどということを認めることなどできる訳もない。ゆえに、彼らは、贖罪は終わっていない、不十分であると、ことあるごとに主張する。

     しかしそれは、日本側にとって、「償い得ない過去」を想起させることになるのであるから、ホッブスに従えば、被害者を憎悪する結果を生むことになる。ゆえに、反中・反韓気運が作られることになる。

     つまり、中国・韓国にとっては、過去をいうことによってしか現在受けている「恩赦による苦痛」を紛らわすことはできないのである。だが、日本は過去を言われることによって「罪からの憎悪」をかきたてられることになる。

    そして、援助によって過去を消そうと日本が努力すればするほど、中国・韓国は声高に”日本の過去”を叫ばなければならない。援助が増えれば増えるほど、精神的債務は増えることになるのだから。すでに債務超過だ、などということは決して国民に知られてはならないのである。
     
    【解決策】

     では、どのようにすればこの煩瑣な状況を打開できるであろうか。

    最良の方法は、中国・韓国がすでに日本の贖罪は十分であると認めることである。債務超過であることは明白だが、その点については日本側に”理解を求め”て、プラマイゼロだ、ということにしてもらう。日本政府はこれに応じるだろう。

     だがこの方法は、現実性がない。中国・韓国にそのような度量を期待することはできないからである。

    次善の策は、日本側が一方的に過去の清算は済んだ、と宣言することである。現時点以降、いかなる過去の”悪事”が明らかになっても、もはや政治上の保証や謝罪は行なわない。それはすでに時効である、と宣言する。戦後の援助は、すでに贖罪として十分すぎるほど大きなものであると明言する。

     中国・韓国は猛反発するであろうけれども、そうすることによって彼らの面子は保たれる。ただし、日本人の中国・韓国に対する侮蔑感はさらに高まるであろうけれども。

     じつはこの次善の策というものは、現状とあまりかわりはない。ただし、贖罪援助方式では問題は絶対に解決しないのだ、ということをアピールする効果はあるだろう。

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  • from: 一久さん

    2008年04月26日 06時44分10秒

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    靖国問題と思いやり

    「思いやり」について

     中国・韓国との問題について、「相手をもっと思いやることが必要」とテレビに出て来る識者諸氏はおっしゃるのだが、はたして彼らは「思いやる」ということと「甘やかす」とか「エコヒイキする」とかいうこととの区別がついているのであろうか。

     なるほど「思いやり」は大切である。しかし、思いやりというものは、中庸を得た思いやりであって初めて「思いやり」といえるのであって、中庸から外れた思いやりは、思いやりとはいえない。

     そのような「思いやり」は、思いやる側の損害を招くだけではなく、思いやられる相手側にも多大な被害をもたらし、さらには第三者にも大きな迷惑を与える結果を生む。

     飼い犬のことを考えてみるがよい。「かわいいから」といって躾をせず、好き勝手に遊ばせることは決して思いやりではない。

     このような買い主に育てられた犬は、やがて他人を噛んだり、むやみに吠えたりして近隣に迷惑をかけ、最悪の場合には傷害事件を起し、屠殺されることになるだろう。買い主も、犬も、隣人も、皆、大きな迷惑を被るのである。

     だが、元はといえば、買い主が「思いやり」と甘やかし」の区別ができなかったことが原因である。買い主の馬鹿さ加減が犬を殺し、隣人に傷を負わせたのである。

    【中国・韓国と靖国問題の場合】

     そもそも、日本国内のこと、ましてや宗教の絡む問題に対して、外国がとやかく言う權利はないのだから(内政干渉)、中国・韓国の要求は、すでにこれだけで中庸を外していることになる。もしこの要求を呑めば、靖国問題以外の外交問題に対して、大きな悪影響をもたらすことは確実だろう。

     それとは別に、もし中国・韓国の要求を呑めば、中国人や韓国人の心が安まるのであろうか。ここをこそ、「思いやる」必要があろう。

     残念ながら、心安まることは決してあるまい。今回は参拝しなかったが、次の政権はどうだか分からない、表立って参拝しなくても裏で参拝しているかも。参拝していなくても、心の中で手を合わせているかも。という具合に、彼らは常に日本の顔色を見ていなければならなくなるからである。

     また、日本人の側でも、中国人・韓国人に対する嫌悪感が増大することは避けられない。先祖の祭祀を妨害されて喜ぶ人間は多くはないのだから。これもまた、「思いやる」必要があろう。テレビ識者というものは、なぜかこの日本人のことは「思いやらないでいい」と思っているようだが。

     結局、中国・韓国の要求に沿う形では、日本人も中国人も韓国人も、決して心が安まることはないのである。

     逆に、日本側の主張に沿って、靖国問題なんて我が国は関与しない、と中国・韓国が言ったらどうだろうか。

     まず、日本人の側は、中国・韓国の度量の大きさを認めて慶賀するであろう。(もっとも、そもそもこの要求自体が理不尽な内政干渉なのだから、感謝する必要などないのだが)

     中国人・韓国人はどうか。

     これ以降、日本の顔色を見なくてすむようになる。これだけでも、今までよりもずいぶんましになる。さらに、我が国は度量の大きさをみせて奴らの靖国参拝を許してやっているのだ、という道義的優越感を持つことさえできる。

     結果的に、靖国参拝阻止を叫んでいるよりも、ずっと多くの安寧を得ることができるのである。

     戦争被害者やその遺族の怨みはどうするのか、というかもしれないが、このような怨みに対する「思いやり」と、今生きている万民の安心のための「思いやり」とどちらが大事であるか。怨みの為に現在と未来の安心を放棄することがはたして「仁」と言えるのか。

    また、犠牲となった人々は、子孫が怨みを持ち続けることを、子孫が安心を得ることよりも望んでいるであろうか。

     ということで、靖国参拝問題の「中庸」は、中国・韓国側が参拝を認めることにこそある。互いの国民を思いやった最善の判断がこれである。

     しかし実際には、中国も韓国もこのような政策を採ることはあるまい。なぜならば、彼らの国の為政者は、国民の安寧の為に政治をしているのではないからである。特に対日問題においては、国民の心が安まることよりも、むしろ憎悪をかき立てることを望んでいる。
    自分達の都合よく国民を使う為に。

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  • from: 一久さん

    2008年04月26日 06時42分59秒

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    遊就館史観はイカン?

    遊就館史観はイカン?

     「小泉靖国参拝で何が失われたか」とかいう題名の小冊子を本屋でペラペラと斜め読みした。靖国参拝に反対する人々は、どういう論拠で反対なのか、知りたかったからだ。

     しかし、読んでみて驚いた。傾聴に足る論理がないことに驚いた。ガンコに反対するからには、もう少しもっともらしい論拠を持っているはずだと思っていたが、みごとに期待は裏切られた。これならば、「触らぬ神にたたりなし」式に、中国・韓国を刺激するな、という素朴な「ことなかれ主義」のほうがまだしもマシに思えて来る。

     とくに奇異に思えたのは、「あの戦争によってアジアの植民地が開放された」とする遊就館的史観は、大部分の国民に受け入れられていない、と決めつけている点である。小泉と一部の国民のみがこれを支持し、国政を壟断しているのだという。大多数の国民は、小泉一派の暴挙を諦観しているだけであって、支持してはいない、のだそうだ。

     私の考えは、彼らとは百八十度違っている。大多数の国民は、本音において遊就館のいうことを認めている。認めていないのは、一部の進歩的文化人や左翼政党・宗教家あるいは、エナリ某のような子供であって、それらは現実認識から外れた空論を信奉することから生まれる態度である、と私は思っている。

     思うに、これらの”反軍国派”諸氏は、「事実の検証」を嘲笑し、自分達のイデオロギーに合わせた「事実」を捏造し、事実について語ったり検証したりしようとする者が現れればば、軍国主義だの国粋主義だのというレッテルを貼ることによって社会的抹殺をはかりたいだけなのではないか。こういうのをなんというかご存じか。ファシズムというのである。

     太平洋戦争において、日本軍の進攻は当該植民地に多大な(未曽有のといってもよい)影響を与えた。それは、当該植民地が独立する為にも大きな原因となった。

    これは否定しようのない事実であろう。日本側の意図とは無関係に、宗主国の軍隊をアジア人が撃退する様を見せられたことによる物心両面の影響力は極めて大きかった。

     反軍国派諸氏は、この事実さえも認めないのだろうか。さらには、多くの国民もまた、このような「事実」を認めてはいない、と彼らは言うのだろうか。

     日本軍の「アジア開放」なんて建前で、本音は侵略だ、という指摘は正しい。だが、日本の建前よりも本音よりも、それがもたらした事実、すなわち結果こそが大事なのである。政治は結果主義であるのだからだ。

     ゆえに、侵略こそが真の目的であったとしても、その結果が、独立に寄与することになった場合には、遊就館史観は肯定される。
     
     ようするに、反遊就館史観論者は、「侵略意図」と「結果や事実」を混同しているのである。本音が邪悪な侵略であっても、結果として独立開放を達成することがある、といういことを理解していないのである。

     遊就館史観とは、単にその事実を顕彰しているに過ぎないのであって、「邪悪な侵略」を賛美しているのではない。ヒットラーのように、多民族を抹殺せよ、などと言っているのではない。

    蛇足:加藤某代議士の対談

      同じ小冊子に、加藤某代議士のインタビューも載っていた。これにも驚かされた。

     いわく「こちらが悪いことをしたから」、A級戦犯に泣いてもらうのだそうな。

     こちらが一方的に悪いのかどうか、という事実検証は、昨今盛んになっており、相手側にも相当の問題があるというような研究結果が出つつあるようだが、それは置いておく。

     問題は、このような「泣いてもらう」方式が、一般国民に向けられたらとんでもないことになるということだ。早い話が、北朝鮮に対しても過去に「こちらが悪いことをした」から拉致被害者に泣いてもらうべきだ、ということになる。実際、ついこの前まで、拉致被害者に対してそのような態度をとる政治家・官僚・マスコミは少なくなかったというではないか。

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