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  • from: 一久さん

    2006年01月27日 21時11分52秒

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    「「全体主義」感想、韓国の場合」
    【現代の韓国は全体主義国家か】

    昭和の大日本帝国が全体主義国家だったかどうかということが、ここでのひとつのテーマであったが、この本を読んでいるうちに、それよりももっと全体主義にあてはまる国を思い浮かべてしまった。それは、隣国、韓国である。

    「大韓国」思想とアーリア人種礼賛との類似、先祖にまで遡って「親日家」を探しだし糾弾しようとする現韓国政権と、数世代に渡ってユダヤ人の血が混ざっていないかを調べたナチスとの共通点、反日という「運動」の前では、すべての事実検証や歴史が蔑視され、運動の大儀にそった形で事実が捏造されるという行為。

    韓国との翻訳掲示板で、日本人が不思議に思う韓国人のコミュニケーション能力の無さの原因は、彼らの国がナチス・ドイツに極めて近い全体主義国家であるのだ、という説明によってのみ、日本人を納得させることができるであろう。

    中国や北朝鮮が全体主義国家であると言われても、あまり驚かないが、あれだけの繁栄を得た韓国もまた、全体主義国家であり続けているという事実は、驚きを禁じ得ない。が、ドイツにしても、ナチス当時、すでに相当の近代国家であった。戦争緒戦の破竹の勢いをみれば、むしろ世界に冠たる一等国であった。韓国がそうであっても不思議ではない。


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  • from: 一久さん

    2006年01月27日 21時09分32秒

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    「感想2:二大政党制と多党制」
    全体主義の起原 2 帝国主義 感想

    【二大政党制と多党制】

     英米の二大政党制と、ドイツ・フランスその他のヨーロッパ大陸の多数政党制との違いは、たんなる表面上の制度の違いではなく、政党そのものの性格が違うからだと著者は指摘する。まったくそれは正しいように私も思う。

     二大政党制というものは、単に二つの政党が交代して政権を担当するということではない。それは結果論にすぎないものなのだ。二大政党制の真の意味は、政党がそれ一個で国民全体を代表できるだけの道徳規範をもっていなければならないということにある。そういうものを持つ政党であればこそ、お互いを交代要因として認め得るのである。その結果として、政権交代も可能になるのだ。

    これに対して、多党制では、個々の政党は国民全体の良心を代表する必要はない。ここでは各政党は、国民全体の部分であればよく、ゆえに空想的理想主義からナチズムまでどんな政党でも存在し得る事態となる。そしてその結果は、「全体の一部」にすぎない政党が他の政党を従属させるか、もしくは絶対多数を占めたのちも、他の政党に遠慮して臆病な政策をとるかするしかないということを意味している。一冊全部読めとはいわないが、このことに触れた213ページ二行目から、219ページにかけての記述は、ぜひとも読まれることをお薦めする。

     さて、そうすると、欧米と欧州大陸との選挙制度の違い、つまり、小選挙区制度と比例代表制度の違いは、まさにこの政党の性格によって生まれたものだと言えるのかもしれない。「死票を出さないことが利点」と言われる比例代表制度であるが、それはまさに全体の部分をしか代表することのない政党を生む制度である。逆に、「死票がいっぱいでるからダメだ」と一部「知識人」から評判の悪い小選挙区制度は、まさに国民全体を代表できるだけの広範な度量がなければ勝てない制度だといえる。

    ひとことで言えば、比例代表制度からは、国民全体を代表できる政党は生まれ得ず、当然二大政党制もありえない。また、たとえ比例代表制度が無くなって、小選挙区制度だけになったとしても、国民全体を納得させることのできる政党が現れなければ、二大政党制も政権交代もありえない。「全体の一部」の代表であった旧社会党では、絶対に二大政党制の担い手にはなれないのである。このことは、現代の民主党にもそのまま言える。単に議員の数が多いということだけでは、二大政党制は成立しないのである。

    では、自民党はどうか。自民党もまた、一部の代表という面をもっている。が、同時に全体の代表という意欲ももっている。一部の代表という意識が強かった時期には、野党の顔色をうかがった政治を行い、全体を代表しているんだという誇りを持った時期には大胆に事を運んだ。自民党とて完全な「全体のための政党」ではないが、民主党を含む野党にくらべれば、はるかにマシだといえるだろう。

    最後に、ハンナが注釈として用いているアーサー・ホルコムの言葉をもって締めくくろう。

    「二大政党制においては、両政党の基本方針は、同じものになろうとする傾向がある。もし同じものでなかったならば、敗れた政党が勝った政党に服従することは考えられないであろう」

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  • from: 一久さん

    2006年01月27日 21時07分14秒

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    「全体主義の起原 2 帝国主義 」感想

    「全体主義の起原 2 帝国主義 」 読了

     読み終わりました。これもまた、いまいちよく分かりかねる書物ではあるが、第三巻よりはマシかもしれない。この本の中に書いてあることで、刺激を受けた点について書いてみる。

    【帝国主義と国民国家】

     帝国主義は、国民国家とは相性が悪いのだ、と著者はいう。国民国家は、国民がその国を動かすのであるが、本国以外の、支配される側の領土の「新・国民」にとって、それは本国住民の手前勝手な規範の押しつけとしか思えないからである。むしろ、古代帝国のように、天啓を受けた絶対者が、本国も植民地も関係なく絶対的な法を強制したほうが問題は少なかった。

    本国側が善意であればあるほど、併合された側にとっては押しつけがましい偽善であり、自分達の個性を抹殺するための策略であると映る。むしろ、圧制者として暴力的に支配したほうがまだマシなくらいであった。ハンナ・アーレントは、日本のことについてはほとんど何も述べていないが、このような「善意の植民」の最大の事例は、まさに日本の韓国併合であろう。世界一優しい帝国主義は、世界一憎悪を持たれる結果を生んだのである。

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  • from: 一久さん

    2006年01月25日 20時45分02秒

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    ちょっこっと感想

    【全体主義の起原】 第二巻 帝国主義

    あと、百ページほど残っているが、面白い記述があったので。

    【ボーア人について】

    ボーア戦争、というものについては、中学校の教科書でご存じだろうと思うが、ではボーア人とはどんな人々であったと思っているだろうか。南アフリカに定住した白人というのは教科書にもあると思うが、その生活様式については?

    この本の中に出てくるボーア人は、我々が知らず知らずのうちに想像していたボーア人の概念とはまるで違っている。ヨーロッパの白人であるから、それなりの文明社会を作っていて、その社会があとからきたイギリスという文明と衝突した、我々はそう考えてしまいがちである。

    ところが実際は、ボーア人は文明を作らなかった。逆に、アフリカの未開文化に埋没していったのであった。彼らは原住民から搾取するだけで、文明を持ち込んで改良社会を作ろうとはしなかった。つまり、彼ら自身がアフリカの白い土人になっていった。原住民からみても、ボーア人は(その銃器の保持によって)酋長の上に位置するもの、神に近い支配者としか映っておらず、侵略者というよりも土着酋長の延長でしかなかった。

    ボーア戦争というものも、ダイアモンドと金坑を巡っての文明的な衝突というものではなくて、文明を持ち込もうとするイギリスと、それを嫌うボーア人との紛争であった。ゆえに戦争の結果、鉱山をイギリスにくれてやるかわりに、奥地にいままでと変わらない未開社会をボーア人に保証することになったのは、彼らにとっては政治的勝利以外のなにものでもない。

    教科書は、イギリス人に鉱山を取られ、奥地に追いやられたというのだが、それこそが、ボーア人の本当の望みだったのだ。

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  • from: 一久さん

    2006年01月25日 20時28分40秒

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    「ホリエモン騒動」

    【賢者は語らず】

    いまTVに登場して、ホリエモンやIT長者を批判する役を買って出るほど、愚かな行為はあるまい。そんなことしなくても、マスコミの御用評論家諸氏が勝手にやってくれるのであるから。

    そんなところに政界の名士が出張っていって、ご高説を垂れる。なんとも情けないお姿をさらすのだ。加藤先生よ。これが一度は天下人を夢見た人のすることか。

    手柄とは、五分の勝負にて勝ちを寄せた者か、負けの戦にて殿を全うした者に与えられるものじゃ。ちかごろの戦では、落武者を刈ることが手柄と思われているようだがの。とは大久保彦左衛門の言葉。

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  • from: 一久さん

    2006年01月25日 20時19分43秒

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    歳をとると....

    【歳をとると、一年が速く過ぎるように感じるのはなぜか】

     この問題に対する、もっとも一般的な回答は、いままで活きた年月に対する一年間の比が高齢者ほど小さくなるからであるというものだ。十歳の子供にとって一年は人生の十分の一になるが、百歳の老人にとっては百分の一にしかならないから、一年が短く感じるというのだ。

     だが、私はこの考えは間違っているように思えてならない。というのは、忙しかった一年のほうが、ヒマだった一年よりも、短く感じるものだからである。もしも、上の論が正しいのであれば、新たな経験をすることの多かった一年のほうが、なにも起こらなかった一年よりも長く感じるはずではないか。ところが、我々の経験では、むしろ多忙な一日はあっというまに過ぎるが、ヒマな一日はなかなか終わらないものではないだろうか。

     時間を長く感じるかどうかは、経験の量やその人生に対する比率などではなく、むしろその逆に、「退屈した時間」によって決まるのではないだろうか。

     自分自身の子供のころを思い出してみるがいい。することのない一時間は拷問に等しかったはずだ。ところが、年齢を重ねるにつれて、退屈しないためのアイテムが増えていく。マンガ、ゲーム、勉強、趣味、音楽、自慰、恋愛、居眠り、仕事。

     社会人となった者達には、もはや退屈する余裕すらないのが普通であろう。そんな暇があれば、ゆっくり休息したい、というのが普通の大人というものだ。いや、そんなもったいない。旅行にでもいくワ、というほうが普通なのかもしれないが。

     ようするに、大人になるほど退屈しないようになる。ゆえに、一年が早く過ぎるように感じるのだろう。では、リタイヤした老人はどうなのか、彼らは退屈しているのではないのか。

     子供を一時間じっとさせることは難しいが、老人は二時間でも三時間でも平気でおとなしくしていられる。安息への希求が大きいからでもあるが、過去の記憶を反芻して、時間を潰すことができるということがより大きな理由であろう。逆に、子供にはそのような過去の蓄積がほとんどない。過去の蓄積は、退屈をさせないためのアイテムなのである。

     ここに至って、最初に述べた「一般的にいわれている説明」と私の新説との接点が現れた。すなわち、過去の人生が増えるほど、退屈する時間が減る。ゆえに一年が短く感じられるようになるのである、と。

     そして、こうも言える。一年を長く感じたければ退屈することだ。短く感じるということは、退屈しなかったということ(惰眠を貪っていたのかもしれないが)なのだから、概ね良きことだ、と。

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  • from: 一久さん

    2006年01月19日 21時05分26秒

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    「第3巻、「全体主義」読了。」

    第三巻の、「全体主義」を読了しました。

    正直言って、なにを言っているのか、よく分かんない、です。

    しかし、刺激されるところは、ままあって、これをネタに文章を書けると思えるものが少なくなかった。「なにを言っているのか」というような大上段に構えた論文は期間後半に譲って、前半は、チョボチョボした感想というか思いつきを述べていこうと思う。

    【日本陸軍は強制収容所だった?】

    徴兵制と、軍内部での全体主義的統制、つまり、軍を強くすることへの提案などをしようものなら、古参兵や下士官からこっぴどい目にあわされる、という、現実無視・服従絶対の世界は、まさに強制収容所と同じものではないだろうか。

    その入所基準(年齢、体格)の「客観性」、支配する側に変わりえるという相互支配の構図等、まさに全体主義の要件を満たしている。

    軍は、本来、統制を求められるが、機能を追求するという一点において全体主義と区別される。だが、昭和初期の日本陸軍はそのような機能性重視という軍隊の本質を保っていただろうか?

    日本軍を強制収容所と同類のものだと考えると、司馬遼太郎の示した命題に、説明がつくのである。

    それは、多くの日本軍人を、あの戦争で「太平洋に砂を撒くがごとく」「棄民した」のはなぜか、という氏の怒りに対する回答でもある。

    当時の日本軍は、強制収容所であった。そして同時に、ハンナのいう「運動」の為に犠牲となるべき者でもあった。

    ゆえに、彼らは、「植民地の開放」という「歴史の運動」のための先兵として、太平洋の砂となる必要があったのだ、と。

    ナチスの「運動」は、世界制覇という馬鹿げた夢想であったが、日本の「運動」は、植民地の開放という建前であった。

    ゆえに、ナチスの運動はドイツの敗北によって頓挫するが、日本の建前は、日本軍が敗れ去った後に、却って真実の進展をみせる。現地人の独立意識が高まるとともに、旧支配国の力が弱まるからである。東条秀樹による「運動」は、戰後、すべての植民地が開放されたという事実を持って結実したことになる。

    しかし、このことは、ある意味恐ろしいことだ。全体主義という手法が、建設的な未来を築くこともありえるという結論になってしまうのだから。おそるべき多くの犠牲を覚悟しさえすれば。

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  • from: 一久さん

    2006年01月19日 20時37分09秒

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    読書会 : 「全体主義の起原」 感想

    では、ここに読書会のスレッドを作ります。

    しゃちほこばらずに、ざっくばらんに、しかし、テロル無用で。

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  • from: 一久さん

    2006年01月14日 20時36分02秒

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    【時事問題】

    【金さん、金さん、どこいくの?】

     キムイルソン氏が中国を訪問中とか。さて、なにをしに?

     朝鮮戦争を始める前にも、金日成は毛沢東に会いに行った。スターリンから中国の承認をもらえ、と言われたからだとか。もしかすると、南進作戦があるのかもしれない。

     北朝鮮は、先の朝鮮戦争当時、内応分子が南韓で蜂起して、あっと言う間に統一は完成すると言っていたらしい。だとすると、現在の韓国政府が送っている秋波は、彼らにそれと同じ幻想を持たすことになっているのではあるまいか。

     韓国の資本を強制的に収容する形で統一を果たす。北朝鮮が対面を保ったままで講和できる道はそれしかあるまい。このさい、戦力同士のぶつかり合いではなく、「統一に賛成か反対か」を問う、軍事警察によって韓国を全体主義的に制圧すること、すなわち、特殊部隊による軍首脳の制圧、反抗的市民の大量虐殺と密告社会を現出させることを目指すべきである。

     戦争をするのではない。じかに国民に、統一に賛成かどうかを聞き、反対するものは皆殺しにする。そのための、「ちょっと」過激な行動を取るだけのことなのだ。

     中国に依頼することは、米国の牽制であり、しおれにはすでにロシアの同意も取り付けてあるのではないだろうか。イラクやイランでのアメリカの突出は、ロシアの中国も面白く思ってはいまい。ここらでお灸を据えておきたいところだ。

    中国とロシアが手を組んで、すべての国に局外中立を迫ればアメリカも動きにくくなる。案外、成算はあるのかもしれない。


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  • from: 一久さん

    2006年01月14日 20時17分10秒

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    支出に関する一般理論

    【社会資本主義と個人資本主義】

     これまでの資本主義社会の常識では、人は自分の利益の為に金を使う。自分が所有するために、自分が占有するために対価を支払うこと、それが当然であるとされてきた。それ以外の金の使い方は、慈善や福祉や寄付といった、「普通ではない」行為として、一般的な経済活動とは区分されてきた。

    だが、これは正しい考え方なのか。人は「満足を得る為に支出をする」のであるならば、慈善事業に大金を出すことで精神的満足を得ることのできる人間にとっては、それは我々がパン
    を求めるのと同じ種類の行為ではないのか。かつて、あるボランティア活動家は、なぜボランティアをするのか、と聞かれてこう言った「自己満足です」と。

     自分になんの得もなく、自分が使用することもなく、所有することもない、そういうものであっても、それが社会に存在するようになることによって精神的満足が得られるのであれば、その対価を支払うことに疑問を持たない行為、これは普通の経済活動と同じものだとみなしてよいはずである。「金で満足を買う」という基本は同じなのであるのだから。

     このような「損しかしないのに満足を得る」経済活動を、社会資本主義と仮に定義しよう。これまでの「得を求めて」する経済活動は、個人(法人を含めて)資本主義と言うべきか。

    これまで、人はシャイロック的に、自分が得をすること以外の支出を毛嫌いし、そのようなことをする人間に「嫌悪」とその「裏返しの賞賛」を送ってきた。「なかなかできないことだ、私などには」などと言いつつ。

    しかし、金を支払うという行為の正当な範囲は、我々が思ってきたよりもずっと広かったのだ。自分が決して得や楽を得ることがないものであっても、その支出によって社会に良い影響を与えるのであれば、そのことによって自分も癒される。そういう支出もまた、普通の経済行為として成立するのである。

    ケインズ流にいえば、いままでの経済行為は特殊経済論であり、社会資本主義を含めた新しいとらえ方であるこの見解は、一般経済論である、ということになろう。

     これは、新・社会主義と同じものでもある。

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