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  • from: 一久さん

    2009年10月31日 16時54分59秒

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    民主党独裁政権 選挙で党内民主主義を問わなかった当然の結果


    【マニフェストに意味は無い】

     ロシアのような国の”選挙”は別にして、民主主義の国における
     選挙とは、各政党や候補者の「民主度」を問う行為でなければな
     らない。

     すなわち、自分が選ぶ政党(もしくは候補)が、権力を得た後も、
     よく国民の意見を聞き、自説を検討し、改めるべきは改めること
     ができるかどうかということを基準にして投票しなければならな
     いということである。

     そうでないと、選挙のときだけ景気の良い話をして、政権とたっ
     ら増税だ、ということになりかねない。

     ゆえに、マニフェストなどには意味はない。マニフェストを作る
     過程において、政党内でどのような検討をしたのか、マニフェス
     トを実行する際に、いかにして現実的な対応ができるかこそが大
     事なのである。

     TVも新聞も言うではないか、マニフェストが実行されるかどう
     か(大増税なしに)疑問である、と。

     これまさに、すべての政党の政党内民主主義に疑念があるという
     表明に他ならない。

     ただ彼らの困った点は、だから政党内民主主義が大事なのだ!と
     叫ばないということである。まさか、こんな簡単な答えが分から
     ないとは思いたくはないのだが・・・

     どの政党が、より自由な意見交換をし、より厳しく検討を加え、
     反対意見をも万一の失政した場合の為に整備しておく、というよ
     うなことをやっているかどうか、それを報道し投票の基準としな
     ければならない。これこそが、マスコミの真の役割である。

     

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  • from: 一久さん

    2009年10月30日 06時59分23秒

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    民主党 政党内民主主義のない政党の当然の現状

    【政治家と有権者の間に】

     政治家は選挙のときしか有権者の声に耳をかさないとかいう類の言葉は、古今東西ありふれている。また、それでも有権者にできることは投票ぐらいしかないのだから、選挙には必ずいきましょう、とのたまう紳士淑女風の御高説もありふれている。

     彼らの御高説は一見もっともに聞こえる。が、少し落ち着いて考えれば、それはおかしいということに気づくはずである。選挙が有権者の声を政治に反映させる方法として十分でないというのならば、選挙を補完して有権者の声を政治に反映させるシステムを模索すべきではないか。それを怠っておきながら「選挙に行け」と言われても、しらけるばかりである。ゆえに選挙にいかない有権者は半数ちかくにまで達するのだ。

    【ナシオン主権】

     選挙に行けという人々は、選挙のときだけ国民の声を聞き、それ以外は選ばれた議員にすべて任せることになる現在のシステムを、確信的に肯定しているのであろうか? いわゆるナシオン主権というやつだ。しかしそれならば、TV画面に向かって自身の”政策”や”論評”をがなりたてるのはヘンだろう。TVを見ている一般国民を洗脳し、なんらかの行動を起こさせようという行為は、まさにナシオン主権主義に反する。ご自分が知恵者であるというのであれば、為政者にのみアドバイスする、というのがナシオン主権下における知識人の採るべき行動であろう。

    【関与のためのシステム】

     有権者が選挙以外においても政治に関与できるようになるべきであると考えるのであれば、その為には何か今までになかったシステムが必要であるということになる。また、その前提として、どこまで政治に関与すべきなのか、どういう方法ならば適当と言えるのかということについても考えねばならない。例えば、直接民主制は、多くの国民が面倒臭がる恐れがある。といって、現在の選挙のときだけ、という方法が喜悦されているとも思えない。

    【善意の管理者が必要】

     有権者が直接に政治に関与することは現代社会においては不可能に近い。そんな面倒なことはイヤだ、という人のほうが多いだろう。そこで、国民一般に代わって政治を監視するものが必要となる。これがマスコミである。

    【マスコミ 権力の監視者】

     だが、監視者は所詮は部外者にすぎない。監視者には為政者の行為自体への連帯責任がないからだ。ゆえに、マスコミは連日、無責任で煽動的な”報道バラエティー”番組を垂れ流しているのである。監視者は無責任でよい。ゆえにマスコミは無責任ぶりを発露している。別に、マスコミの人間個人が無能だからではなく、構造的に無責任な存在だからなのである。

    【監視ではなく管理が必要】

     無責任なマスコミとは別に、為政者と連体して責任を負うことになる者達による「管理」が必要なのである。「為政者と連帯責任を負う者達」とはなにかといえば、それは政党の党員である。党員こそが政党を管理し、政治を管理する義務を負うべきなのである。

    【新時代の党員】

     党員はその義務として政治への関心と勉強を求められ、その代償として政党の政策への関与権を得る。それによって国民と政権との橋渡し役を演ずるのである。
     
     これまでの党員は、政党に都合よく使われる奴隷であった。思想的奴隷であり、組織の奴隷であり、金銭関係の奴隷であった。上から言われるままに行動することが下っぱの奴隷、もとい党員に求められる資質であった。このような党員では、国民の声を政治家に伝える役割など、勤まるわけもあるまい。

     ここにおいて、党員という言葉の意味は、百八十度転換されねばならない。党員は政党の政策を国民に広げるためにではなく、国民の声を政党に伝えるための存在でなければならない。

     党の為に国民を指導するのではなく、国民の為に党を管理する。それが新時代の党員というものでなければならない。最下層の党員達が上部の党員を管理し、上部の党員は党選出の議員を管理し、政権を管理することになる。

    【党員と国民の関係】

     このように、政治に関する勉強を積んだ党員が政党を管理するという状況が一般的になれば、国民は政治に対して無関心でいながらも、自分達の為の政治を期待することができるようになる。

     一般の国民がすべきことは、政党内部において、国民の声を反映するための討議や意見表明が行なわれているかどうか、ヘンな思想集団に乗っ取られて党全体が偏向していないかを監視することだけとなる。もちろん、自分自身、政治の為に努力する覚悟があるならば、党員になって管理する側になってもよい。

     これを、政党内民主主義という。政党内民主主義が健全に保たれ、そこでは多数の一般党員が真摯に議論して政権を管理しているという状況が確立していれば、国民多数は、実際に政治に関与しなくても痛痒を感じることはないだろう。一般党員は、「我々の側の人間」なのだから。

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  • from: 一久さん

    2009年10月29日 20時08分08秒

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    北方領土問題で一番大事なこと


    【日本国憲法による権利を彼らに】

    北方領土が返還された場合、四島の住人がそこに住み続けることを
    希望するならば、日本国憲法と日本の法律に則った処遇を受けること
    になる、ということを、北方領土の住民に知らせることこそが肝要である。

    日本領になれば、日本の法の下の平等が保障される。

    日本国籍をとることも、ロシア国籍のままで永住権をとることも可能
    であるが、どちらにしても、法治国家である日本政府の行政サービス
    の対象となる。

    日本政府は、スターリンではない。高度に発達した法治国家なのだ。

    ロシア人にとって、日本の法律や行政の実態をしり、それが四島返還
    によって自分たちのものになる、ということを知れば、住民自身が日本
    への帰属を求めるようになるだろう。

    日本政府のすべきことは、現在北方領土に住んでいる人を追放したり
    することはないのだ、ということを彼らにしらせ、日本の法律によって
    彼らの権利は保障されるのだということを認識させることである。


    【 大量の駆け込み移入者が出るかも】

    このような広報がロシア本国にも広まれば、大量の駆け込み移民が
    四島に押し寄せるかもしれない。

    だが、それはむしろ好都合である。

    その人々は、返還支持派そのものだからである。住民投票でも行えば、
    返還賛成に票を投じることになる人々である。



    【 仁を以って暴に報いる 】

    我々はスターリンではない。 北方領土の現住民を不幸にするような
    形での返還ならば、むしろ、せぬほうがよい。

    四島の住民は、日本国へ帰属することによって、人権と平等と自由を
    手に入れることができる。

    そうであるからこそ、北方領土の返還を求めるべきなのだ。

    「仁を以って暴に報いる」 のである。

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  • from: 一久さん

    2009年10月28日 21時04分40秒

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    御堂筋ライトアップ


    【太陽電池付きLEDランタンの奉納】

     WTC移転問題でかすんでしまっているが、橋元知事の熱心だった
     御堂筋をライティングするというやつは、どうなったのだろうか。

     もうすぐ、クリスマス。イルミネーションの時期のはずだが、去年
     と違って、その話が聞こえてこない。


     そこでひとつ、思いつきを提案してみよう。

     ホームセンターで売ってる、太陽電池付き庭用ライトを、府民に奉納
     してもらい、これを御堂筋に付けていけばどうだろうか。

     それ相応のデザインを新たに考えてもよい。

     昔、寺社の瓦を奉納したように、ランタンを府民一人一人が奉納する。
     裏には、願い事でも書けるようにしておくのもいいだろう。

     大阪は庶民の町である。おしきせの華麗なライトアップではなく、奉納
     された色とりどりのランタンが踊る光景こそ、大阪にふさわしい。

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  • from: 一久さん

    2009年10月27日 08時00分27秒

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    PLOとイスラムと

    パレスティナ問題

     PLOについて

     PLOというと、なにか危ないもののような印象があったけれども、エンカルタ
     で調べてみると、かなりちがったものであるようだ。


     「PLOの政治的目標は、「パレスティナ国民憲章」に明記されているように、
      シオニストによってうばわれたパレスティナ地域に独立国家を建設するこ
      とであり、この国家はイスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒の間で差別
      のない世俗的で民主的なものでなければならないとされた。」

     とあるように、ユダヤ教徒をも排除しないことを前提にしているのである。

     そんなものは、口先だけのことだ、というかもしれない。

     しかし、イスラム教国におけるユダヤ教徒・キリスト教徒に対する待遇は、
     歴史的にみて、まさにそのとおりのものであった。

     (参照 : 「日本人のためのイスラム原論」  小室直樹 著 )

     PLOの政治目標は、イスラム教の国においては、歴史的な現実であった。

     イスラムにおいては、他宗を迫害しない。宗教を強制しないのだ。とくに、
     ユダヤ教とキリスト教には寛容であった。

     さて、このことを念頭におくと、「アラブ諸国がイスラエルを滅亡させようとして
     いる」という認識も、かなりちがった意味を持つようになってくる。

     すなわち、たとえアラブがイスラエルを滅亡させたとしても、旧イスラエルの
     国民が、宗教ゆえに迫害されることはあり得ないのである。

     イスラエルという国は許せないが、ユダヤ教徒は許せる、というのがイスラム
     の考え方なのである。 この点、欧米や日本とはまるで異なっている。

     そして、イスラエルとも全く異なっている。

     イスラエルは、国を守るために懸命であるが、その国の内外において、パレ
     スティナの人々を虐待している。

     「国が敗れれば、国民は虐待される」イスラエルも欧米も日本も、この点に
     おいて同じ感覚を持っている。

     しかしそれは、アラブやイスラムの感覚とは全くちがうものなのである。

     我々日本人は、欧米ナイズドされた感覚で「国を滅ぼそうなんて凶悪な」
     と思ってしまうけれども、イスラムにおいては、国を滅ぼすこと=その国民
     を虐待すること、ではない。

     極論すれば、イスラエルは国を放棄したほうが、イスラエルのユダヤ人は
     幸福になれる可能性が強いのである。

     _______________________________

     イスラエルという国家を放棄し、PLOをもとにイスラム主導の国をつくり、
     ユダヤ人はその中で近代社会を築く。

     これが、イスラムにとってもユダヤにとっても、一番よい解決法であるよ
     うに思える。

     しかしこれは、欧米の価値観からは絶対に生まれてこない発想だろう。

     十字軍はエルサレムの開放を目標としていたが、そのエルサレムでは
     イスラムの支配のもと、ユダヤ教徒もキリスト教徒も平穏無事に暮らし
     ていたのである。

     そのことを認めない欧米の指導者には、PLOのもとでユダヤ人が平穏
     に暮らせるという未来を信じることができないのである。

     なんとなれば、彼ら欧米キリスト教徒自身が、彼らの国家のもとでユダヤ
     人を迫害し続けてきたのだからだ。

     人は自分を基準にしてしか、他人のことを計れないのである。

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  • from: 一久さん

    2009年10月26日 21時20分20秒

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    鳩山首相の演説


    【 ハイル・ハトラー 】

     いやー、すごいですねぇw  (ーwー)

     おもわず、「w」を使ってしまった・・・

     「ハトラー総統」と「ハトラーユーゲント」のはしゃぎぶり。

     これが友愛ですかぁ・・・

     野党側がハトラーを追及しようとしたら、ブーイングが起こ
     りそうですなぁ。

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  • from: 一久さん

    2009年10月25日 07時07分05秒

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    大阪府庁 知事だけがWTCに移転すればよい

    【WTC移転で関西がハッテンする?】

     WTCに府庁を移転すること自体には賛成でも反対でもないのだが、
     移転すれば大阪復権の起爆剤になるとか、関西が発展するとかいう
     話には、いまいち、相関関係があるように思えない。

     府庁移転を機会に、鉄道や施設を作るとかいうけれど、それは移転
     と、関係があるのだろうか。バブル時代の甘い見通しと同様の結果
     に終わるのではないだろうか。

     南港は第二の「りんくうタウン」になりかねないのではないか。

     府庁が出来れば、府民が嬉々として南港WTCを訪ねるようになる
     のであろうか?

     そもそも、役所という場所は、一般国民にとって、一生涯行かずに
     すめばそのほうがよい場所ではないだろうか。用事があるからしか
     たなく行く、それが府庁というものだ。

     もっとも、宮崎県の東知事のような例外もあるが・・・

     そうか、知事に会いに来る人が多数存在するならば、地域を活性化
     できるということか。

     ならば、大阪府の場合、橋元知事だけがWTCに移転すればいいと
     いうことになる。

     なにも、WTCすべてを買わずとも、知事室だけ分譲してもらえば
     いい。費用は、1億円もかかるまい。


    【知事だけWTC移転すればいい】

     知事室だけ、WTCに移転すればよい。これならば、府議会の議決
     も必要あるまい。

     知事を囲んで記念写真を撮れるようにすれば、なるほど、地域の活
     性化になろう。カジノを作るのもよかろう。

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  • from: 一久さん

    2009年10月23日 21時50分06秒

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    新聞論調のありかた

    新聞論調と国民性


    問題提起

    欧米の新聞は、それぞれが主義主張をはっきりさせた論調を持っているという。
    そして、国民は複数の新聞を読みくらべる自由をもっているという。

    それを標榜してか、近年、産経新聞では”立場をはっきりさせる”論調がめだ
    ってきた。

    だが、それによって産経新聞の評価があがったとは思えない。むしろ、産経新
    聞なんてイエローペーパーだ、という悪評を増やしたようにおもえるのはなぜ
    だろうか。

    欧米のようなやりかたこそ、”民主的なやりかた”であるならば、当然、産経
    新聞のやりかたは歓迎されねばならないはずなのに。実際、それなりの社会的
    貢献があったとおもうのだが、にもかかわらず、産経新聞のイメージはかえっ
    て悪化したようにおもえる。なぜであろうか。


    考察1

    欧米社会の再検討


    ある調査によると、欧米(調査地域は、アメリカだったと思うが)における一
    般国民は、自分の支持するものに近い論調の新聞のみを読み、自分の意見に反
    する論調を張る新聞の記事を意図的にさけるという結果がでているそうだ。

    つまり、冒頭で述べたような欧米人のスタイルは、一部の階層だけのことであ
    るとかんがえられる。

    では、欧米社会は、日本以上に非民主的であるのか?日本よりも非リベラルで
    あるといえるのであろうか?

    答えは、「NO」であろう。

    以下のように考えてみた。

    欧米人は、自己の主義にあった論調の記事を読み、自己の主義・主張を高める
    ことを第一義とする。そうやって理論武装した自己の主義を、同様の手段で武
    装した他の主義を奉じる相手と戦わせるのである。

    つまり、自己の内において論調を戦わせるのではなく、自己の内においては、
    ゆるぎのない体系を構築することに専念し、論調を戦わせることは、他人との
    論争においておこなうのである。

    この論争の場においてこそ、他の意見を尊重するという態度が生まれることに
    なる。ディベートにおいて、敵の論陣を崩すためには、敵の意見をよく吟味せ
    ねばならないように。

    欧米のリベラリズムは、この”他者との戦い”という次元で保たれているので
    ある。そうであればこそ、一般の国民が違った論調の新聞を読むことは、必ず
    しも必要ではなくなる。

    個人や団体が、非常にかたよった主義・主張のみを信奉することも問題になら
    ない。それらは、他の主義との闘争のなかで練磨され、あるいは淘汰されるの
    であるから。


    考察 2

    日本の場合


    一方、日本人の場合はどうであろうか。

    我々が一般にイメージするところの民主的とかリベラリズムとかいうものは、
    欧米のような、頂上対決とでもいうべきものを意味してはいないのではないか。

    我々のイメージするところのそれは、冒頭の欧米人に対する”麗しき誤解”の
    ごとく、違った意見を尊重し、複数の主義・主張を聞いてよく吟味する知性的
    ・良心的な態度のことであるはずだ。

    つまり、日本人は、自己の内に”よりよきもの”をつくることを第一義として
    いるのである。これは「道」の思想といえよう。

    茶道や花道や柔道や剣道のように、日本人は、「道」を極めようとしているの
    である。だからこそ、「我以外はすべて師なり」とばかりに、欧米のリベラリ
    ズムを誤解する。おお、これは”リベラリズム「道」だな!”と。

    このような求道者たちには、自己の主義のみを強固に主張する者は高く評価さ
    れない。自分と同じような求道者ではなく、慢心者の人騒がせにしか思えない
    からである。

    たとえ、どっちつかずの愚論しかいえない新聞であっても、様々の意見に耳を
    貸そうとする態度をとっていれば、それだけで求道者たちには好評を得る。日
    和見であっても、様々な意見に学ぼうとする態度に好感がもてるからである。

    日本人の主義・主張が、「道」の思想であるとすれば、日本人の議論や論争に
    おける感情的な態度も納得できよう。

    日本人にとって、討論とは、お互いが自分の内で築き上げてきた「道」の境地
    を競うことである。従って、討論に負けるということは、自分の全人格の否定
    となる。

    意見と人格は別だ、などと言っても無駄というものだ。なぜなら、彼らは自己
    の人格にかけて意見を磨いてきたのであるから。その結果到達した意見は、彼
    そのものなのだ。それを否定されるということは、彼の全存在の否定に等しい。

    冒頭の産経新聞の例もまた、その一形体であるといえる。産経新聞の近年の主
    張は、賛成するかどうかは別として、意見としてはそれなりの価値があったと
    思う。だが、人格としてみた場合には、やっぱりサンケイだ、となってしまう。

    逆にノーベル賞などをとると、彼は最高の人格者のひとりということになって
    しまう。業績と人格は別だ、と頭では解っていても、やはりタイシタヤッチャ、
    と思ってしまう。そこにはどうしても人格的なものへの加点がある。


    結論

    冒頭に掲げた問題の答えは、欧米人と日本人との考え方のちがいにあった。そ
    れを無視して欧米のマネをしたところで、「成果」はあげ得ても、「評価」を
    上げることはない。

    余談

    欧米のやりかたは、軍隊的といえよう。一個の軍団として論陣を強固にしたう
    えで、他の軍団と戦うのである。敵の武器が優れていれば、ただちにこれを検
    討し、より優れた兵器を造って逆襲する。実際の戦争でも欧米人の得意とした
    やりかたである。

    日本は、モノマネ上手だといわれるが、戦争の場においてはむしろモノマネは
    へたクソであったようだ。敵の武器・兵制が優れていることを知っても、それ
    をもって自己の改革を推し進めることができなかった。

    日本人のやりかたは、武芸者的といえよう。様々な流派の論を吟味して、自己
    の境地を高め、より優れた人格と論陣を目指すのである。実際の戦闘において、
    敵のほうが優れていた場合、できることは斬死か降伏か逃亡である。

    武芸者の武芸は、軍隊の兵器のような魂のない代物ではないから、相手のほう
    が優れているからといって、おいそれとマネすることはできないのである。

    前大戦においても同様。アメリカのやりかたが優れているとおもっていても、
    陸海軍のやり方には彼らの人格がかかっているから、これを動かすことは不可
    能に近かったのだ。


    提言

    欧米と日本では、国民の気質が違うということが問題の根元にあった。ではど
    うすべきか。欧米社会の有様を絶対として、日本人の気質をそれにあわせるべ
    く努力すべきなのであろうか。それとも、日本人の気質にあった新しい方法を
    生み出すべきなのであろうか。

    私はやはり、日本独自のやりかたを生み出すことこそが本筋であるように思う。
    そうすることによって、歴史に新たな方法を付け加えることになるのであるか
    ら。それこそが、真の意味での国際的貢献にほかならない。

    具体策

    朝日新聞的などっちつかず風の論調ではなく、主張をもち、かつ、他の主義を
    も積極的に掲載する新聞を作らなければならない。

    となると、陳腐な提案ながら、両論掲載主義をとることが望ましい。

    いっそのこと、編集長を二人にして、肯定的・否定的両論を載せるようにすれ
    ば面白い。江戸時代の役職は、大抵複数制だった。現代の新聞社もまた、同様
    であるというのも、よいではないか。

    ただし、「いかがいたそう、御同役」といいあう間柄ではなく、「他社には負
    けても、御同役には負けるな」という間柄だが。

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  • from: 一久さん

    2009年10月22日 06時50分29秒

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    高校の受験戦略?

    私学の経営戦略

     私学の受験者も入学者も減って、困ったので、進学指導を
    強化して受験者集めにも精を出すようになったのだそうな。

    TVの番組でやっていたのだが、はて、あいかわらず高校教師
    の頭の中身は変わっておらぬようだ。

     彼らは、あいも変わらず、進学コースを作って難関大学受験
    者を教え、習熟度別クラスを作ってレベルに合わせた指導をす
    る、ということを売りにしている。

     私に言わせれば、このようなやりかたは馬鹿げているとしか
    いいようがない。

     生徒本人や親にとって重要なことは、その高校から何人東大
    に入るかではない。難関大学に何人合格したかなど、どうでも
    よいことなのだ。

     大事なことは、本人がそこそこの大学に進学できるように、挫
    折せずに順調に伸ばしてくれる指導ができるかどうか、なのだ。

    習熟度別クラスもあってもよい。しかし、それはあくまでも補修の
    ためのものでなければならない。躓いた箇所を丁寧にフォローす
    るためのものでなければならない。

    しかしながら、往々にして習熟度別クラスは、生徒達に目標とす
    る大学のレベルを下げさせる為に存在するものになってしまって
    いる。

     なかには「わが校はこの中級レベルの大学合格者が少ない。こ
    こを強化することを来年度の戦略にしたい」などという進路指導者
    もいる。

    こういうことをいう人の頭の中には、「学校の評判」はあっても、生
    徒個人個人の人生や希望などというものは一かけらも入っていな
    いのである。

     TVに出てきた老舗女子校の戦略も、これと同じ性質のものでし
    かないようだった。自分達が、いかに馬鹿なことを言っているのか
    まったく理解していないのである。

     「お客様」である生徒や親が望んでいることは、あくまでも生徒
    個人に対する教育の質なのである。

     もしも勉強がうまくいかず、落ちこぼれかけても、それを適切に
    フォローして、落ちこぼれさせない為のシステムと教員を持ってい
    るかどうかなのである。

     そういうシステムを作ることは、実はしごく簡単なことである。

    高校の授業は、完全なルーティンワークだからだ。評判の高い問
    題集の一問一問に対して、10ページぐらいの解説を付けるつもり
    で模範解答集を作るだけで、大抵の生徒は救済されることになる。

    こんな解答集は、本屋では売っていない。大部過ぎて出版も不可
    能だ。しかし、職員室に置くことはできる。しかし、そのような資料を
    抱えた高校や教師をみたことはない。怠惰の極みというしかない。

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  • from: 一久さん

    2009年10月21日 08時03分52秒

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    TVの討論番組について

    【TVの政治激論番組について】

     TVの政治討論番組、なかんずく民放各局のそれは、そこに登場する政治家や評論家や学者を揶揄し、視聴者大衆が彼らの属する集団そのものを馬鹿にするように仕向けるものになっているように思える。

     あの番組達を見て、政治家や学者や評論家への尊敬の念を増やす視聴者は多くはあるまい。与党も野党も右翼も左翼もみな馬鹿だ、と蔑む者は増えるであろうけれども。

     大きな声を出して、感情的な”議論”をさせれば、TV的には絵になる「絵力がある」のだろうけれども、それは「討論の質の高さ」とは無関係であるばかりか、そのような討論の内容は質の低いものであろうという先入観をさえ見るものに抱かせる。

     そして、視聴者は最終的にはそのような番組を創り出しているTVやマスコミそれ自体をも蔑み、相手にしなくなる。全能の神のごとく番組を仕切っている司会者諸氏もまた、その番組で怒鳴り散らしているセンセイ方と同様に、視聴者から馬鹿にされているのである。

     ではどういう番組を作ればよいのだろうか。見るものに尊厳を感じさせようと思えば、その番組で語る者が個人の責任で自説を余すことなく語ることができねばならない。下品な合いの手やヤジのような”反論”を入り込ませてはならない。そのうえで、NHKの主張番組のような、「ためになる話だけど、面白くない」ものにしない為には、やはり視聴率を気にしなければならない。

     このふたつのことからいえる結論は、複数の論客に、均一で独占放送タイムを与え、それに対する評価は、その時間帯の視聴率で決めるという方法がベストだということだ。三カ月ほどやらせてみて、最下位の論客は降板させられる。一人持ち時間15分で、四人というところでどうだろうか。

     かつて、このような「番組」をやっていた人間を、一人だけ知っている。竹村健一氏である。いまだ「なんでも反対党」が権威を持ち、ジャーナリズムはなんでもかんでも政府を批判すべきものだという風潮が残っていた時代に、それは違う、とハッキリ言ったのが竹村氏であった。また、NHKで偉い先生方がウヤムニャ言ってたって、国民は誰も聞きもしないじゃないか、と主張し、政治問題をエンターティメント風に報じる手法を作ったのも彼である。

     その竹村式から始まって、現在の「激論番組」に至ったのであるが、あまりにも見せ物的要素が増えすぎて、全体の権威を失墜させるものになってしまった。ここらで初心に帰るべきであろう。

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