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  • from: 一久さん

    2006年03月28日 20時38分28秒

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    格差社会?

    【格差社会?】

     格差社会、勝ち組・負け組、下流社会。なにやら嬉しくない言葉が流行っているようであるが、そもそも、日本の大衆は、もともと貧乏人であったのではないか。一億総中流社会だとか言っていた時代でも、内心は「庶民」であり「小市民」だと思っていたのではなかったのだろうか。下流社会などというものは、昔からずっと一般庶民の常態だったのだ。

     日本の”貧乏人”というものが、諸外国の貧民と異なっているの点は、日本の貧乏人はプライドが高く、痩せても涸れても、汚職議員や悪徳商人や腐敗官僚なんかよりはずっと高潔であるという自負を持っているという点であろう。貧乏人のほうが道徳的に上だ、と威張っている”不思議の国”なのだ。

     ”下流”庶民が持つ、この道徳的優越感こそが、日本の日本たる所以である。

     中流社会、経済格差の無い社会、などというものは幻想に過ぎない。日本が格差を持たない社会である本当の理由は、経済的な格差が少ないことにあるのではなく、道義的格差が無いということなのである。庶民のほうが金持ちや大臣よりも高潔の士であることが多いという「道義的格差の無さ」こそが格差無き日本社会の正体なのだ。

     自分は道義的に優れている、お天道様に顔向けできないようなことはせず、正直な仕事をし、それなりの趣味・道楽を持って人生を楽しんでいる。そう思っている人間にとって、経済的成功者にも、総理大臣にも、東大卒業者にも、なんの妬みも劣等感も抱くことはない。人生の勝者は俺のほうだ、と思っているかもしれない。

     道義的な優越感を持っている人間は無敵なのだ。そしてそれは誰でもが簡単に手に入れられる。ただ自分を律し、日々正しく生きればよいだけなのだから。自分を厳しく律する者ほど、高いプライドを持つことができる。そのようにしている人間にとって、そうでない金持ちや権力者など、路傍の石にすぎない。

     明治以降、日本の庶民は、江戸下級武士のこのエトスを受け継いで、道義的格差レス世界を築いた。これこそが、「平等社会・日本」なのである。

     だからもし、庶民の側で道義的優越感を捨ててしまったらどうなるか。そうなれば、もはや金持ちや権力者や高学歴者に対抗する術はなくなる。卑劣な手段を使ってでも、彼らと同様の即物的価値を身につけなければならなくなる。そして、それが出来なかった者は、「負け組」と自嘲するほかなくなるのである。

     道義的優越感を持つことは、これほどに大切なことなのである。これがあれば、どのような相手に対しても臆することも妬むこともない。逆にこれが無いと、どんな人間に会っても、妬むか蔑むかしかできなくなる。自分より「上か下か?」と、犬のように順序を決めたがる下衆になりさがるのである。

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  • from: 一久さん

    2006年03月25日 21時41分27秒

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    受験生と思いやり

    【受験生と思いやり】

     新聞の岡田塾の宣伝文の中で、岡田氏が、受験勉強に一生懸命になっている子供は人間的な成長が阻害されるのではないかという風評に対して反論を試みていた。いわく、一生懸命に打ち込んでいるからこそ、それでも不合格になった学友の気持ちが分かるようになるのだ、とかいうものであった。

     しかし私にはそれは、少しく希望観測的であるように思える。なるほど塾の先生の前ではしおらしい態度でいるかもしれないが、本心はどうであろうか。落ちたヤツは、やっぱりどっかサボっていたんだろう、とか、所詮才能がないのさ、運の無いヤツはダメだ、とかいうふうに思っているのではあるまいか。これはなにも彼らの心が卑しいからそう思うのではない。同じ道を進んでいる者であるからこそ、自分がそうなったかもしれない不幸の原因が分かってしまうからなのだ。もしかしたら、自分もそうなっていたかもしれない、という具合に。

     岡田氏の見解とは逆に、受験に賢明でなかった生徒達こそ、不合格になった者に対して同情的になるのではないだろうか。「俺達みたいに遊ばないで、あんなに勉強したのに結果がでなかったとは」という哀れみである。

     他人への思いやりというものは、なにかに打ち込んだかどうかということとは、関係がない。そうではなくて、「他人の行動に注目する」ことによって生まれるものである。注目しないことには、相手がなぜそれをし、どうなったか、など分かるはずもなく、分からなければ同情のしようもない。

     そして、勉強に打ち込まない平凡な生徒達は、受験に挑む一生懸命な生徒に注目している。自分達とは違う他人の存在をそこに見ている。「あんなマネ、できんなぁ」という一種驚嘆の目で見ている。そうであればこそ、悪い結果がでたときにも同情的で有り得る。

     一方、受験勉強に打ち込んでいる生徒は、他の生徒を見ているであろうか。見ていたとしても、羨んだり、蔑んだりしているだけではないだろうか。こういう他人を見る目からは、決して他人への思いやりは生まれない。

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  • from: 一久さん

    2006年03月25日 21時40分46秒

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    受験勉強と精神力と精神性

    【精神力と精神性】

     受験勉強に邁進することは、精神力を鍛えることにはなる。しかし、それは、必ずしも精神性の向上を意味するのではない。忍耐強く物事にあたれるということと、善事をなすということとは、一組ではない。忍耐強く、悪事を企てる者も少なくないのだ。

     悪事とまではいかなくても、あきらかに倫理的破綻をきたしているにも関わらず、そのことが理解できずに、辛抱強く自説を強弁し続ける人がいる。彼などは、まさに「強い精神力と低い精神性」を併せ持つ人だといえよう。例の永田議員のことである。さすが、東大受験で鍛えられた精神力だ、と驚嘆せざるを得ない。凡人ならば、とっくの昔に議席を放り出しているだろう。しかし、東大では精神性を高めることはできなかったらしい。子供でも分かる引き際が、彼には分からないらしいのだ。

     精神力とは、精神の機械的性能のことだと言ってよかろう。忍耐強さとか記憶量だとか数学的考察とかである。それに対して精神性とは、精神の質的良否のことだといえよう。儒教風に言うならば、仁であり中庸であり思いやりである。

     受験勉強というものは、精神力の鍛練にはなるが、精神性の向上には役立たない。いや、厳密にいうと、勉強には精神性の向上に役立つものと役立たないものがあり、現在の受験勉強は役立ちにくいものが多いということなのだが。

     例えば、高等数学の難問をいくらできるようになっても、精神性は一歩も向上しない。数学的頭脳を得ることはできても、精神性=人間性の向上は何一つない。アンパンマンの一遍でも見ているほうが、よほど人間性の向上には役にたつ。

     では、英語はどうであろうか。英単語を何万語覚えても、人間性の進歩はない。が、教科書の小論文を読んで、少しは心に得るものがあるかもしれない。そのぶんだけ進歩を期待できる。社会科や国語からは、心の栄養になるものを得る可能性はあるが、あまり期待できそうにもないのが受験勉強の現状であろう。

     精神性を向上させるには、「他人」を知りることが必要である。その他人は、歴史上の人物でもいいし、空想上の人でも構わない。その人物が何を考え、なぜそうしたのかを追体験できればそれでいい。その例証が多ければ、自然と他人のことが解るようになり、思いやりも生まれてくるであろう。歴史人物伝を読むのが一番であるが、手っとり早い方法として、マンガを読むというのもアリである。小学生低学年から読ませるのがよい。


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  • from: 一久さん

    2006年03月23日 20時31分20秒

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    「中国とハンア・アレント」
    「全体主義の起原」の時点では、中国の文化大革命が始まったばかりのころだった。ゆえに、ハンナ・アーレントは中国の運動が全体主義かどうか、まだなんとも言えないようなことを言っている。

    が、「毛沢東の真実」等の最近の刊行物をみれば、まったく全体主義的である。ハンナの著述は、中国のことを言っているのではないか、と錯覚してしまうほどだ。

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  • from: 一久さん

    2006年03月22日 20時49分08秒

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    学区制廃止の好影響

    学区制廃止の好影響について

     学区制を廃止することによって、地方の公立高校からの東大合格率が上がっているのだそうな。その原因を、優秀な生徒が一部の進学校へ集中するようになったからだとする意見がテレビなどではよくなされるが、私の見解は少し違う。

     地方の公立校が健闘している理由は、優秀な生徒が集中しだしたからではなく、もともと学区内で一二を争うような優秀な高校の教育技術や指導意欲が向上したからであろう。教職員の質と士気とが高まり、教師も生徒も共に努力した結果である。

     なぜ、士気が高まったか、なぜ、これまではそうではなかったのか。

     学区制が存在した時代には、地域一番の高校は、「お山の大勝」でいられた。せいぜい、二位の高校との勝負だけを考えていればよかった。これでは、教育技術の進歩など起こり得ない。

     しかし、学区制がなくなると、「元・地域一番高」は、近隣の「地域一番高」との競争を強いられることになる。これに打ち勝つ為には、これまでの教授法では勝ち抜けない。チャンピオン大会に勝つには、いままで以上の努力が必要なのだ。

     よくテレビ人たちのいう「一部の進学校に優秀な生徒が集中する」という現象にしても、生徒達はなんの理由もなしに”一部進学校”に集中したりはしない。当然のことながら、自分をより高みに導いてくれる高校を選ぶのである。すなわち、教授法や進路指導の改良改善を常に模索する学校、優秀な教師のいる学校を目指すのである。

     ならば、学校側がするべきことは、教職員の質を高め、授業の質的向上を目指すことしかあるまい。その結果として、東大合格者が急増したのである。

     学区制廃止は、公立高校の教師の質を高めたのである。

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  • from: 一久さん

    2006年03月22日 20時48分18秒

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    「全体主義の起原」まとめに代えて

    【まとめに代えて】

     ハンナ・アーレント「全体主義の起原」読書会

     そのまとめに代えて、我々はいかにすべきか、ということについて述べてみよう。

     まず、孤立した個人はどんなに大勢であっても政治的に無力であるということ。我々がプログや掲示板でいかに多くの政策を語ろうとも、それは本質的に無力である。階級にも団体にも所属しない意見は、結局のところ酔っぱらいのグチと同じである。

     ゆえに、政治に対してなんらかの影響力を国民個人が持ちたいと思うのであれば(それが民主主義だが)、そのための団体に所属しなければならない。どこかに所属しない人間は、政治的に存在しない、ということだ。では、どんな団体(政党)に所属すべきであるのだろうか。

     多党制の政党のように、「一部の国民」を代表するような政党では、政権を得ることはできない。今現在、発見されている政党で、十分な活躍を期待できるのは、国民全体を代表する政党だけである。すべての問題について、党内に贊否両論を持ち、常に討議を繰り返しながらも、ある時点においての決断をすることができる政党である。これこそが、二大政党制の政党であるが、この条件を持っているのならば、三党でも四党でも構わない。

     さて、全体を代表する政党とはいっても、その討議の仕方はどのようであればいいのだろうか。これを考えるにはまず、我々はどのような仕方で政治的決定がなされることを望んでいるのかを、まず考えねばならない。

     例えば、討議を聞いていた「指導者」が、「よし、A案でいく」と独裁的絶対的に決めるようなやり方でいいのか。もしくは、「力のある」人物に都合のよい案ばかりが党議を通っていくようなものでいいのか。あるいは、官僚達に利するようになんの改定も実質無効になる政治でよいのか。そうではあるまい。我々の望む政治とは、「無理が通って道理がへっこむ」ようなものではないはずだ。

     まずは道理が通っていること。そして現実的であること。また、もし間違っていたら、すばやく修正できること。中庸を得ていること、常識的であること、一見非常識な提案でもこれに耳を傾け、吟味する姿勢を忘れないこと。我々が政治的決定に望むことは、このようなものであろう。これらの示すことはつまり、「言論によって正しきを得る」ための前提条件である。

     さて、ではそのような政党はどうすれば作ることができるであろうか。単に我々が意見を述べることのできる場所というだけでは、決して政治力として機能することはない。やはり誰かが法案という形で取りまとめをしなければならない。しかし、そうやって出てきた案が政党の首脳部によって決定されたり廃棄されたりすれば、我々はもはや政党に対する信頼を失うことになるだろう。そのような行いは、結局は今の自民党や民主党と同じではないか、党内の有力者が都合よく政治を私しているだけではないか、と思われてしまうのだ。

     個々の意見を述べることは個人でもできるが、法案をまとめる作業は党組織が無ければ不可能である。このことによって、党員と党組織は深刻な相剋関係に陥らざるを得ないのである。党組織の行なう法案作成という行為は、党員個人の意見から遊離するのではないかという疑惑を常に持たれる。ゆえに、多くの党員は党を信用しない。政党が政党員に信用されていないのである。党員でさえもそうなのだから、国民は全く政党を信用しない。それが現状である。

     法案をまとめる党組織と、意見を述べることしかできない一般党員との間に、なんらかの交渉手段を作り、法案を作ったのは党組織だが、自分達もその制定作業に参加したのだ、という意識を党員が持てるようにしなければならない。それなしには、政党というものが党員や国民に信頼されることはありえない。

    では、どのような手段があるだろうか。私案であるが、すべての法案について、党員に贊否投票をさせるようにする、ということも考えられる。そうなれば、党組織も法案を分かり易く説明する必要が生じ、結果的に国民全体にも理解を促すことができるようになる。

     投票させられる党員のほうは、有難迷惑の感があるが、逆にいえばそれは党員としての「名誉の重責」である。その重責に耐え得る党員だけが真の党員であり、彼らはその任を全うすることによって党を通じて政治に参加しているという実感を得るであろう。また、党員でない国民も、そのような大勢の政党員によって政党が監視されていることによる安心感を党に対して持つであろう。

     党員が党組織の行為を判定し評価を下すシステムを作ること、それが党員に自分自身の存在を自覚させる唯一の方法である。所属するということは、このように、自分がその組織においてなにがしかの役目を負っているという自覚を持つことなのだ。


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  • from: 一久さん

    2006年03月21日 21時43分27秒

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    電車でマンガを読む者は

    【電車でマンガを読む者は】

     電車内やホームでマンガを読んでいる人は、非常に低俗に見える。大の大人が、なんというなさけない姿をさらすのか、と世の識者はいう。私個人は、マンガ自体は低俗なものだとは断定しない(低俗なものもある、高尚なものもある)のであるが、しかし、実際にホームでマンガを読みながら電車を待っている人と、文庫本を読みながら待っている人とでは、やはり「マンガ人」は「なさけない人」に思えてしまうのだ。

     私はマンガに対して偏見を持っていない(と思う)。少なくとも、”識者”諸氏ほどにはマンガを不当差別してはいない。にも関わらず、電車でマンガを読む人に対する嫌悪感は、彼らと同じものを持ってしまう。これはなぜなのだろうか。

     そもそも、マンガと一般書籍との差はどこにあるのだろうか。活字だけの本を読んでいる人を見ても、なんの嫌悪感も催さない。なのに、絵の入っているマンガだと、そうではない。ということは、絵が入っていることにその原因が潜んでいると思われる。

     識者とかいう輩はよく「マンガは想像を限定する」とか言って批判するが、まさにこれこそが嫌悪感の元ではないだろうか。想像を限定するということは、その人が読んでいるマンガは、その瞬間において、その人の脳裏の映像と同じものだということである。それは可逆的にその人が電車内で手に持っているそのマンガ本は、その人の脳裏を映し出しているということでもある。

     つまり、マンガを読むという行為は、マンガ本という”鏡”に自分の脳内を映し出す行為と等しい、ということである。そのようなプライバシーの極致とでもいうものを不特定多数の他人に対して開陳している人、それが「電車でマンガを読む人」の正体である。これは、猥褻物陳列罪に近しい犯罪的行為だと言えよう。

     活字の本の場合、読む者は想像力を働かせて脳裏に映像を結ぶ。その本が見える場所に位置する他の乗客もまた、文字から内容を想像しなければならない。故に、活字の本は、マンガと違って、読む者の脳内を照らし出すような能力を持ち得ない。両者の想像する世界は同じではないからだ。「文字から想像する」という緩衝壁によって、二人の意識は距離を保つことができる。言ってみれば、「マンガ本は全裸、活字本は服を着ている状態」なのである。

     では、写真集はどうであろうか?これはマンガに近いのではないだろうか。しかし、マンガほどには嫌悪感を抱かせない。その訳は、いかなる写真といえども、写真イコール脳裏の映像となることはほとんどないからである。ヘアヌード写真集といえども、それを見る者は自分の感性によってそれぞれの解釈を加えている。横から目にする者も、そのことを知っている。裸体の写真に見入っているからといって、卑猥な想像をしているとは限らない。その人は芸術的に見入っているのであって、それをスケベな人だと思った者こそ卑猥なのかもしれないということを誰もが(子供は別にして)知っている。山岳写真や美術品の写真などになると、さらに想像力を使った観賞を要求されるので、同じ写真を見ても、同じ意識に到達することはない。見ているビジョンは同じでも、その意味がまるで違うのだ。それに対してマンガは、「絵の意味」さえも限定する。マンガの中で描かれた絵は、そのマンガのストーリー上の意味しか持たないのである。

     これらのことから、逆に、マンガというメディアの恐るべき伝達性能の高さが実感できる。活字本も写真集も、著作者がイメージした世界を伝えるという機能において、マンガに遠く及ばないということでもあるからだ。

     伝達性能といえば、テレビこそが最強ではないのか?電車に携帯テレビを持ち込む人間が現れたならば、マンガを読む人間よりも蔑まれるであろうか。どうもそうではないように思える。なぜならば、我々は家庭や職場において、大勢でテレビを見る機会があるが、そのような恥ずかしさを感じることはないからである。言い換えれば、テレビ番組というものは、マンガのように、一瞬でも個人の意識と同化する力はないということである。

     その理由としては、やはり第一に、受動性にある。いかなる人気番組といえども、流れてくるのを見るだけであるということ。ゆえに、いま見ているTV番組とは別に、それを評価する自我が存在している。「テレビと会話するオカン」の存在は、まさにそのことの証明である。時間進行が向こう任せであるという点も、受動的なるが故の特性であろう。ぼけっとしていると見逃したり、聞き逃したりする。その度に、自我を呼び起こされることになる。

     映像とマンガの違いは、時間進行の権限を制作者が持っているか、視聴・読者が持っているかだということができよう。普通一般には、進行をも含めて作品化される映像のほうがグレードが上だと思われているようである。制作者側が支配できる範囲は、確かにこのほうが大きい。だが、見る側の意識を支配できるのは、「時間」を読者任せにしたマンガのほうである。時間を作者が支配することによって、見る側は映像世界から脱落する可能性を持ち、作品世界から離れた視点で見るようになる。時間を支配しないほうが、より完璧な世界観の伝達が可能になるのである。

    【まとめ】

    マンガという手段の恐ろしさ

     マンガは、あらゆる想像を限定する。単に絵だけではなく、ストーリーの展開によってその意味さえも限定する。また、音響も照明も、文字と絵によって支配する。だが、時間は支配しない。時間を支配しないことによって、読む者の自我を支配する。能動的に読んでいるとき、自我は批判的にはなれない。自我が発揮されるのは、破綻を見付けたときか、想像力を求められた場合である。マンガとしての瑕疵がない作品を読む場合、マンガと読者の意識は完全に一致する。そのとき、マンガ本は、その人の脳内を他人にさらけ出す凶器となるのだ。

     マンガにも欠点がある。それは、読まれなければどうにもならないということである。時間を支配しないことの代償がこれである。

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  • from: 一久さん

    2006年03月16日 20時58分34秒

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    DVD教材とネット講義

    【これまでのCD/DVD教材とネット講義の違い】

     現在の日本では、CD/DVDの学習教材も、安価で出回るようになっている。それならネット上の講座は必要ないのだろうか。

     そうではない。なるほど英会話ソフトなどは安くなった。だが、その他のマイナーなものはどうだろうか?例えば、「量子力学」に関して大学の講座に匹敵するようなものがあるだろうか。大学には国立大学だけで膨大な数の高度な学問内容の講座が存在する。そのすべてを書店やコンビニのCD/DVDの棚に並べることができるであろうか。市場原理からいっても、それは無理なことだろう。

     もうひとつの問題は、旧来のCD/DVDによる学習ソフトは、学習する人自身の主体的努力を必要とするということである。現実の授業においては、教師が生徒を主導して進行していく。一回の授業において「前回の復習、今回の解説、演習、次回の予告」が”自動的に”なされ、生徒はただ座っていても一応の知識を習得できる。

     だが、CD/DVD教材においてはそうはいかない。その原因は、CD/DVDの記憶容量不足である。CD/DVDソフトには、数十時間もの画像や音声を記憶する能力はない。ゆえに、すべての教材は、ダイジェスト形式とならざるを得ず、現実の授業においては教師がやってくれる「前回の復習や演習」を、自分で繰り返し再生させることによって補わなければならない。そんなことは、よほどマジメで努力家の生徒しかしないものだ。

    「テープがすり切れるほど繰り返し聞いてください」昔の英会話教材のセールスマンがよく言った言葉だそうだが、この言葉自体には嘘はない。だが、それを実行できる人間はほとんどいないのだ。

     ネット上の講義も、現実の授業と同様に、その講座を終了しさえすれば知識が身につくような構成にしなければならない。すなわち、復習や演習を授業の中に数多く取り入れておかなければならない。ダイジェスト版みたいなものでは、絶対にダメなのである。

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    2006年03月16日 20時57分47秒

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    学問の自由

    【学問の自由】

     「誰もが学びたいことを学ぶことのできる世界」、こんな当たり前のことが、いまだに実現できていない。なるほど、江戸時代のような身分による制約はなくなったが、入学制限、金銭、時間、地域、情報等の、格差や偏在による障害は、いぜんとして残っている。

     入試に合格しなければ大学に入れないし、金がなければ進学できない。時間がなければ学校へ行くことができないし、通学可能な地域でなければ時間があっても無意味だ。これらの障害をある程度緩和する処置(例えば奨学金)もあるにはあるが、その情報が必ずしもうまく利用されている訳ではない。進学を諦めねばならない家庭よりも、比較的裕福な家庭のほうが、むしろその種の情報に詳しかったりする。貧乏人は、奨学金の存在を知ってはいても、検討することさえしないで諦めることが少なくない。

     しかし、これらの問題の多くは、ネットで講義を流すことのできる技術が完成した現在、ようやく克服されようとしている。

     無制限の受講生を持ち得るネット上の大学は、入試による人数制限を必要としないし、費用もまた極めて少額となる。国立大学の講座ならば、無料でも構わないはずだ。時間と地域格差も、ネット上からいつでも都合の良い時に受講できる「ビデオ・オン・デマンド」によって解決されている。情報にいたっては、ネットをやる人間ならば誰もが即座にゲットできる。

     ネット上に講義ビデオを置くことによって、学問の自由は初めて実現できる。

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    2006年03月14日 20時48分58秒

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    全体主義・中国の恐怖

    【全体主義・中国の恐怖】

     全人代において、中国政府に汚職が蔓延していることが報告された。そんなことは誰でも以前からよく知っていることであったけれども。しかし、汚職が頻繁に起こっているということは実はたいした問題ではない。

     本当の恐怖は、そのような多くの汚職があるにも関わらず、その摘発によって社会的混乱が起こっていないということにこそある。「摘発されないこと」が問題なのではない。「告発があっても騒ぎにならない」ことが問題なのである。

     日本のことを考えてみればよい。民主党の武部氏にたいする嫌疑は、追求する側のあまりの不手際によって頓挫するという前代未聞の醜態となったけれども、それでもあれだけの騒ぎとなった。防衛施設庁の問題などもそうである。

     これに比べて、中国の政界が汚職問題で大騒ぎした、という話はとんと聞かない。これはつまり、運悪く摘発された者達は、公開の裁判すら受けることも許されずに、闇に葬られたということなのだろうか。こちらのほうが、よほど恐ろしい事態である。もっとも、全体主義の世界においては、普通のことなのだろうけれど。

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