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  • from: 一久さん

    2008年10月31日 19時16分33秒

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    小学校からの英語教育

    【小学校から英語教育】

     賛成派にも反対派にも、なにやら小難しい理屈や理念を語る人が多いようだが、所詮は子供の英語ではないか。もっと楽に、”お遊戯”の一種として考えたほうがいいのではないだろうか。

     英語教育といえば、誰もが知っていながら言わない「大問題」があると思う。それはなにかと訪ねたら、

     「英語教師の日本語には、例外なく”英語なまり”がある」


     ということである。いや、本当に「英語なまり」なのかどうかさえ疑わしい、怪しげな「なまり」が彼らにはある。小学校から英語の発音をたたき込むのはいいが、その結果、日本人全員を英語教師のような”ケッタイな英語なまり”にしてしまうことになりはしないか。それぐらいならばまだしも、竹村健一氏のように、”大阪弁の英語”をしゃべったほうがマシなのではなかろうか? 日本語なまりのある外国語を話すことは仕方がないが、外国語なまりの母国語を話すことは植民地人以下の境遇に身を落すことになるのではないか?

    【そんなに悪くない従来の英語教育】

    森一郎氏が「試験に出る英単語」で喝破したことは、日本の大学が受験生に求めている英語とは、英語の学術文献を読むための基礎英語であるということだった。つまり、欧米の先端技術・学問を取り入れるための英語である。海外旅行や外国人の道案内をするための英語ではない。もっと、知的で高度な内容を理解する為の英語なのである。

     大学教授が海外出張先のレストランで英会話が出来ずに腹を空かしていても日本国の損失にはならないが、この教授が学術論文の英語を理解出来なかったら、国家的損失になる。日本の大学や政府が求めた英語とは、まさにこのための英語なのだ。

     ただ、時代は変わり、日本は欧米から輸入するだけではなく、むしろ学術も技術も輸出する時代になってきた。そのために、今度は「論文を発表するための英語」が求められている。ただし、日本がかつて輸入する為の英語習得に励んだように、日本の技術を輸入しようとすれば相手側が日本語を学ぶことが筋である。英語での発表力を向上させるといっても、それほどムキになるようなことではないのだ。そもそも、学術論文の審査で、英語表現の適不適などを考慮していたら、筆が進むまい。日本語での論文が世界で流通するように制度を整えることこそが本筋なのだ。

    【歌でもやってみそ】

     小学校からの英語教育を、どうしてもやってみたいというのであれば、「英語の歌」でもやればいい。戦後まもないころの中学校の英語の授業では、結構、歌もやっていたそうだし、作家の宮城谷昌光氏(英文科卒、雌伏時代は英語塾教師)によると、英語教育は歌から入るのがいいそうだから、案外面白いかもしれない。

     今でも、中学校の教科書の後ろのほうには、英語の歌が載っているはずだが、授業でやっている学校がどれぐらいあるであろうか。

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  • from: 一久さん

    2008年10月31日 19時14分00秒

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    格差社会?

    【格差社会?】

     格差社会、勝ち組・負け組、下流社会。なにやら嬉しくない言葉が流行っているようであるが、そもそも、日本の大衆は、もともと貧乏人であったのではないか。一億総中流社会だとか言っていた時代でも、内心は「庶民」であり「小市民」だと思っていたのではなかったのだろうか。下流社会などというものは、昔からずっと一般庶民の常態だったのだ。

     日本の”貧乏人”というものが、諸外国の貧民と異なっているの点は、日本の貧乏人はプライドが高く、痩せても涸れても、汚職議員や悪徳商人や腐敗官僚なんかよりはずっと高潔であるという自負を持っているという点であろう。貧乏人のほうが道徳的に上だ、と威張っている”不思議の国”なのだ。

     ”下流”庶民が持つ、この道徳的優越感こそが、日本の日本たる所以である。

     中流社会、経済格差の無い社会、などというものは幻想に過ぎない。日本が格差を持たない社会である本当の理由は、経済的な格差が少ないことにあるのではなく、道義的格差が無いということなのである。庶民のほうが金持ちや大臣よりも高潔の士であることが多いという「道義的格差の無さ」こそが格差無き日本社会の正体なのだ。

     自分は道義的に優れている、お天道様に顔向けできないようなことはせず、正直な仕事をし、それなりの趣味・道楽を持って人生を楽しんでいる。そう思っている人間にとって、経済的成功者にも、総理大臣にも、東大卒業者にも、なんの妬みも劣等感も抱くことはない。人生の勝者は俺のほうだ、と思っているかもしれない。

     道義的な優越感を持っている人間は無敵なのだ。そしてそれは誰でもが簡単に手に入れられる。ただ自分を律し、日々正しく生きればよいだけなのだから。自分を厳しく律する者ほど、高いプライドを持つことができる。そのようにしている人間にとって、そうでない金持ちや権力者など、路傍の石にすぎない。

     明治以降、日本の庶民は、江戸下級武士のこのエトスを受け継いで、道義的格差レス世界を築いた。これこそが、「平等社会・日本」なのである。

     だからもし、庶民の側で道義的優越感を捨ててしまったらどうなるか。そうなれば、もはや金持ちや権力者や高学歴者に対抗する術はなくなる。卑劣な手段を使ってでも、彼らと同様の即物的価値を身につけなければならなくなる。そして、それが出来なかった者は、「負け組」と自嘲するほかなくなるのである。

     道義的優越感を持つことは、これほどに大切なことなのである。これがあれば、どのような相手に対しても臆することも妬むこともない。逆にこれが無いと、どんな人間に会っても、妬むか蔑むかしかできなくなる。自分より「上か下か?」と、犬のように順序を決めたがる下衆になりさがるのである。

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  • from: 一久さん

    2008年10月30日 06時44分51秒

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    高校 学区制廃止の好影響について

    学区制廃止の好影響について

     学区制を廃止することによって、地方の公立高校からの東大合格率が上がっているのだそうな。その原因を、優秀な生徒が一部の進学校へ集中するようになったからだとする意見がテレビなどではよくなされるが、私の見解は少し違う。

     地方の公立校が健闘している理由は、優秀な生徒が集中しだしたからではなく、もともと学区内で一二を争うような優秀な高校の教育技術や指導意欲が向上したからであろう。教職員の質と士気とが高まり、教師も生徒も共に努力した結果である。

     なぜ、士気が高まったか、なぜ、これまではそうではなかったのか。

     学区制が存在した時代には、地域一番の高校は、「お山の大勝」でいられた。せいぜい、二位の高校との勝負だけを考えていればよかった。これでは、教育技術の進歩など起こり得ない。

     しかし、学区制がなくなると、「元・地域一番高」は、近隣の「地域一番高」との競争を強いられることになる。これに打ち勝つ為には、これまでの教授法では勝ち抜けない。チャンピオン大会に勝つには、いままで以上の努力が必要なのだ。

     よくテレビ人たちのいう「一部の進学校に優秀な生徒が集中する」という現象にしても、生徒達はなんの理由もなしに”一部進学校”に集中したりはしない。当然のことながら、自分をより高みに導いてくれる高校を選ぶのである。すなわち、教授法や進路指導の改良改善を常に模索する学校、優秀な教師のいる学校を目指すのである。

     ならば、学校側がするべきことは、教職員の質を高め、授業の質的向上を目指すことしかあるまい。その結果として、東大合格者が急増したのである。

     学区制廃止は、公立高校の教師の質を高めたのである。

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  • from: 一久さん

    2008年10月30日 06時43分22秒

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    マニフェスト無用論

    昔から言うように 一久


    【国民が主権者であるのは選挙期間中だけだ】

     昔から、政治家は選挙期間中しか国民の言うことを聞かない
     と言われているが、それは構造上、当然のことだ。

     いかなる公約・マニフェストも、実際に政権を取り、政府を
     運営するようになれば、必ず現実に応じた修正や廃棄が必要と
     なる。

     現実に即して公約を修正すれば、「公約違反だ!」と言われ、公
     約を遵守すれば、現実無視の暴政となる。

     この問題に対する解決策を、マスコミやいわゆる識者・知識人
     は、何も提示してこなかった。

     彼らが言ってきたことは、現実と乖離することのない公約を示
     すことのできるスーパーマンの出現待望論でしかない。

     そして、そのような神がかり的な政治家を国民が選ばないこと
     に問題があるのだ、とご高説を説くのである。

     これではまるで、古代儒者の「聖人君主待望論」ではないか。
     
     マスコミや評論家諸氏がやっていることは、このような子供の
     遊びに等しい。


    【ではどうすればよいか】

     現実を踏まえて公約を改廃することは避けられないのであるから、
     それを前提にして、選挙をするしかない。

     すなわち、公約を改廃するに際して、その政党内部での意志決定
     の過程において、国民の意思を反映したと分かる装置が必要であ
     り、選挙とは、各政党のその装置の出来具合こそを争点とするも
     のでなければならない、ということである。

     それがつまり、政党内民主主義というものである。

     ある公約を改廃しようとしたとき、党内外から出る賛否両論をも
     れなく聞き取り、真剣に吟味を重ね、討議の結果として改廃を決
     める。

     これを、より多数の国民を網羅して行える政党であれば、その討
     議を通じて国民の意思を反映した、と言えよう。

     換言すれば、民主主義の選挙とは、どちらの政党が国民の声をよ
     り広く深く聞き、より賢明な政策を抽出できる体質を持っている
     か、ということをこそ、最大の争点にして行われなければならな
     いものだ、ということである。

     マニフェストの内容など、どうでもいいのである。マニフェスト
     を作る過程において、対立意見をいかに取り入れたか、反対者の
     声を真摯に受け止めたか、自由な討議ができていたか、等々こそ
     が、大事なのである。

     もっと簡単にいえば、党首選挙ぐらいできないようでは、お話に
     ならないということであり、党総裁に対して堂々と異論を唱える
     政治家がいることは結束の乱れなどではなく、高評価の対象であ
     る。

     利権というものを通じてではあるが、自民党には擬似的民主主義
     がある。が、民主党にはそれさえも無い。

     民主党が”民主主義の”政権を取りたいのであれば、まずは党内
     に民主主義を作る努力から始めねばならない。

     民主党よ、汝らいまだ天命を知らず!

     

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  • from: 一久さん

    2008年10月29日 21時12分19秒

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    受験 精神力と精神性の違いについて

    【精神力と精神性】

     受験勉強に邁進することは、精神力を鍛えることにはなる。しかし、それは、必ずしも精神性の向上を意味するのではない。忍耐強く物事にあたれるということと、善事をなすということとは、一組ではない。忍耐強く、悪事を企てる者も少なくないのだ。

     悪事とまではいかなくても、あきらかに倫理的破綻をきたしているにも関わらず、そのことが理解できずに、辛抱強く自説を強弁し続ける人がいる。彼などは、まさに「強い精神力と低い精神性」を併せ持つ人だといえよう。例の永田議員のことである。さすが、東大受験で鍛えられた精神力だ、と驚嘆せざるを得ない。凡人ならば、とっくの昔に議席を放り出しているだろう。しかし、東大では精神性を高めることはできなかったらしい。子供でも分かる引き際が、彼には分からないらしいのだ。

     精神力とは、精神の機械的性能のことだと言ってよかろう。忍耐強さとか記憶量だとか数学的考察とかである。それに対して精神性とは、精神の質的良否のことだといえよう。儒教風に言うならば、仁であり中庸であり思いやりである。

     受験勉強というものは、精神力の鍛練にはなるが、精神性の向上には役立たない。いや、厳密にいうと、勉強には精神性の向上に役立つものと役立たないものがあり、現在の受験勉強は役立ちにくいものが多いということなのだが。

     例えば、高等数学の難問をいくらできるようになっても、精神性は一歩も向上しない。数学的頭脳を得ることはできても、精神性=人間性の向上は何一つない。アンパンマンの一遍でも見ているほうが、よほど人間性の向上には役にたつ。

     では、英語はどうであろうか。英単語を何万語覚えても、人間性の進歩はない。が、教科書の小論文を読んで、少しは心に得るものがあるかもしれない。そのぶんだけ進歩を期待できる。社会科や国語からは、心の栄養になるものを得る可能性はあるが、あまり期待できそうにもないのが受験勉強の現状であろう。

     精神性を向上させるには、「他人」を知りることが必要である。その他人は、歴史上の人物でもいいし、空想上の人でも構わない。その人物が何を考え、なぜそうしたのかを追体験できればそれでいい。その例証が多ければ、自然と他人のことが解るようになり、思いやりも生まれてくるであろう。歴史人物伝を読むのが一番であるが、手っとり早い方法として、マンガを読むというのもアリである。小学生低学年から読ませるのがよい。

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    2008年10月29日 21時11分28秒

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    受験生と思いやり

    【受験生と思いやり】

     新聞の岡田塾の宣伝文の中で、岡田氏が、受験勉強に一生懸命になっている子供は人間的な成長が阻害されるのではないかという風評に対して反論を試みていた。いわく、一生懸命に打ち込んでいるからこそ、それでも不合格になった学友の気持ちが分かるようになるのだ、とかいうものであった。

     しかし私にはそれは、少しく希望観測的であるように思える。なるほど塾の先生の前ではしおらしい態度でいるかもしれないが、本心はどうであろうか。落ちたヤツは、やっぱりどっかサボっていたんだろう、とか、所詮才能がないのさ、運の無いヤツはダメだ、とかいうふうに思っているのではあるまいか。これはなにも彼らの心が卑しいからそう思うのではない。同じ道を進んでいる者であるからこそ、自分がそうなったかもしれない不幸の原因が分かってしまうからなのだ。もしかしたら、自分もそうなっていたかもしれない、という具合に。

     岡田氏の見解とは逆に、受験に賢明でなかった生徒達こそ、不合格になった者に対して同情的になるのではないだろうか。「俺達みたいに遊ばないで、あんなに勉強したのに結果がでなかったとは」という哀れみである。

     他人への思いやりというものは、なにかに打ち込んだかどうかということとは、関係がない。そうではなくて、「他人の行動に注目する」ことによって生まれるものである。注目しないことには、相手がなぜそれをし、どうなったか、など分かるはずもなく、分からなければ同情のしようもない。

     そして、勉強に打ち込まない平凡な生徒達は、受験に挑む一生懸命な生徒に注目している。自分達とは違う他人の存在をそこに見ている。「あんなマネ、できんなぁ」という一種驚嘆の目で見ている。そうであればこそ、悪い結果がでたときにも同情的で有り得る。

     一方、受験勉強に打ち込んでいる生徒は、他の生徒を見ているであろうか。見ていたとしても、羨んだり、蔑んだりしているだけではないだろうか。こういう他人を見る目からは、決して他人への思いやりは生まれない。
                           

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  • from: 一久さん

    2008年10月28日 06時55分10秒

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    電車内でマンガを読む行為について

    【電車でマンガを読む者は】

     電車内やホームでマンガを読んでいる人は、非常に低俗に見える。大の大人が、なんというなさけない姿をさらすのか、と世の識者はいう。私個人は、マンガ自体は低俗なものだとは断定しない(低俗なものもある、高尚なものもある)のであるが、しかし、実際にホームでマンガを読みながら電車を待っている人と、文庫本を読みながら待っている人とでは、やはり「マンガ人」は「なさけない人」に思えてしまうのだ。

     私はマンガに対して偏見を持っていない(と思う)。少なくとも、”識者”諸氏ほどにはマンガを不当差別してはいない。にも関わらず、電車でマンガを読む人に対する嫌悪感は、彼らと同じものを持ってしまう。これはなぜなのだろうか。

     そもそも、マンガと一般書籍との差はどこにあるのだろうか。活字だけの本を読んでいる人を見ても、なんの嫌悪感も催さない。なのに、絵の入っているマンガだと、そうではない。ということは、絵が入っていることにその原因が潜んでいると思われる。

     識者とかいう輩はよく「マンガは想像を限定する」とか言って批判するが、まさにこれこそが嫌悪感の元ではないだろうか。想像を限定するということは、その人が読んでいるマンガは、その瞬間において、その人の脳裏の映像と同じものだということである。それは可逆的にその人が電車内で手に持っているそのマンガ本は、その人の脳裏を映し出しているということでもある。

     つまり、マンガを読むという行為は、マンガ本という”鏡”に自分の脳内を映し出す行為と等しい、ということである。そのようなプライバシーの極致とでもいうものを不特定多数の他人に対して開陳している人、それが「電車でマンガを読む人」の正体である。これは、猥褻物陳列罪に近しい犯罪的行為だと言えよう。

     活字の本の場合、読む者は想像力を働かせて脳裏に映像を結ぶ。その本が見える場所に位置する他の乗客もまた、文字から内容を想像しなければならない。故に、活字の本は、マンガと違って、読む者の脳内を照らし出すような能力を持ち得ない。両者の想像する世界は同じではないからだ。「文字から想像する」という緩衝壁によって、二人の意識は距離を保つことができる。言ってみれば、「マンガ本は全裸、活字本は服を着ている状態」なのである。

     では、写真集はどうであろうか?これはマンガに近いのではないだろうか。しかし、マンガほどには嫌悪感を抱かせない。その訳は、いかなる写真といえども、写真イコール脳裏の映像となることはほとんどないからである。ヘアヌード写真集といえども、それを見る者は自分の感性によってそれぞれの解釈を加えている。横から目にする者も、そのことを知っている。裸体の写真に見入っているからといって、卑猥な想像をしているとは限らない。その人は芸術的に見入っているのであって、それをスケベな人だと思った者こそ卑猥なのかもしれないということを誰もが(子供は別にして)知っている。山岳写真や美術品の写真などになると、さらに想像力を使った観賞を要求されるので、同じ写真を見ても、同じ意識に到達することはない。見ているビジョンは同じでも、その意味がまるで違うのだ。それに対してマンガは、「絵の意味」さえも限定する。マンガの中で描かれた絵は、そのマンガのストーリー上の意味しか持たないのである。

     これらのことから、逆に、マンガというメディアの恐るべき伝達性能の高さが実感できる。活字本も写真集も、著作者がイメージした世界を伝えるという機能において、マンガに遠く及ばないということでもあるからだ。

     伝達性能といえば、テレビこそが最強ではないのか?電車に携帯テレビを持ち込む人間が現れたならば、マンガを読む人間よりも蔑まれるであろうか。どうもそうではないように思える。なぜならば、我々は家庭や職場において、大勢でテレビを見る機会があるが、そのような恥ずかしさを感じることはないからである。言い換えれば、テレビ番組というものは、マンガのように、一瞬でも個人の意識と同化する力はないということである。

     その理由としては、やはり第一に、受動性にある。いかなる人気番組といえども、流れてくるのを見るだけであるということ。ゆえに、いま見ているTV番組とは別に、それを評価する自我が存在している。「テレビと会話するオカン」の存在は、まさにそのことの証明である。時間進行が向こう任せであるという点も、受動的なるが故の特性であろう。ぼけっとしていると見逃したり、聞き逃したりする。その度に、自我を呼び起こされることになる。

     映像とマンガの違いは、時間進行の権限を制作者が持っているか、視聴・読者が持っているかだということができよう。普通一般には、進行をも含めて作品化される映像のほうがグレードが上だと思われているようである。制作者側が支配できる範囲は、確かにこのほうが大きい。だが、見る側の意識を支配できるのは、「時間」を読者任せにしたマンガのほうである。時間を作者が支配することによって、見る側は映像世界から脱落する可能性を持ち、作品世界から離れた視点で見るようになる。時間を支配しないほうが、より完璧な世界観の伝達が可能になるのである。

    【まとめ】

    マンガという手段の恐ろしさ

     マンガは、あらゆる想像を限定する。単に絵だけではなく、ストーリーの展開によってその意味さえも限定する。また、音響も照明も、文字と絵によって支配する。だが、時間は支配しない。時間を支配しないことによって、読む者の自我を支配する。能動的に読んでいるとき、自我は批判的にはなれない。自我が発揮されるのは、破綻を見付けたときか、想像力を求められた場合である。マンガとしての瑕疵がない作品を読む場合、マンガと読者の意識は完全に一致する。そのとき、マンガ本は、その人の脳内を他人にさらけ出す凶器となるのだ。

     マンガにも欠点がある。それは、読まれなければどうにもならないということである。時間を支配しないことの代償がこれである。

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  • from: 一久さん

    2008年10月28日 06時54分18秒

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    DVD・CD教材の問題点

    【これまでのCD/DVD教材とネット講義の違い】

     現在の日本では、CD/DVDの学習教材も、安価で出回るようになっている。それならネット上の講座は必要ないのだろうか。

     そうではない。なるほど英会話ソフトなどは安くなった。だが、その他のマイナーなものはどうだろうか?例えば、「量子力学」に関して大学の講座に匹敵するようなものがあるだろうか。大学には国立大学だけで膨大な数の高度な学問内容の講座が存在する。そのすべてを書店やコンビニのCD/DVDの棚に並べることができるであろうか。市場原理からいっても、それは無理なことだろう。

     もうひとつの問題は、旧来のCD/DVDによる学習ソフトは、学習する人自身の主体的努力を必要とするということである。現実の授業においては、教師が生徒を主導して進行していく。一回の授業において「前回の復習、今回の解説、演習、次回の予告」が”自動的に”なされ、生徒はただ座っていても一応の知識を習得できる。

     だが、CD/DVD教材においてはそうはいかない。その原因は、CD/DVDの記憶容量不足である。CD/DVDソフトには、数十時間もの画像や音声を記憶する能力はない。ゆえに、すべての教材は、ダイジェスト形式とならざるを得ず、現実の授業においては教師がやってくれる「前回の復習や演習」を、自分で繰り返し再生させることによって補わなければならない。そんなことは、よほどマジメで努力家の生徒しかしないものだ。

    「テープがすり切れるほど繰り返し聞いてください」昔の英会話教材のセールスマンがよく言った言葉だそうだが、この言葉自体には嘘はない。だが、それを実行できる人間はほとんどいないのだ。

     ネット上の講義も、現実の授業と同様に、その講座を終了しさえすれば知識が身につくような構成にしなければならない。すなわち、復習や演習を授業の中に数多く取り入れておかなければならない。ダイジェスト版みたいなものでは、絶対にダメなのである。

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    2008年10月27日 19時29分43秒

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    学問の自由

    【学問の自由】

     「誰もが学びたいことを学ぶことのできる世界」、こんな当たり前のことが、いまだに実現できていない。なるほど、江戸時代のような身分による制約はなくなったが、入学制限、金銭、時間、地域、情報等の、格差や偏在による障害は、いぜんとして残っている。

     入試に合格しなければ大学に入れないし、金がなければ進学できない。時間がなければ学校へ行くことができないし、通学可能な地域でなければ時間があっても無意味だ。これらの障害をある程度緩和する処置(例えば奨学金)もあるにはあるが、その情報が必ずしもうまく利用されている訳ではない。進学を諦めねばならない家庭よりも、比較的裕福な家庭のほうが、むしろその種の情報に詳しかったりする。貧乏人は、奨学金の存在を知ってはいても、検討することさえしないで諦めることが少なくない。

     しかし、これらの問題の多くは、ネットで講義を流すことのできる技術が完成した現在、ようやく克服されようとしている。

     無制限の受講生を持ち得るネット上の大学は、入試による人数制限を必要としないし、費用もまた極めて少額となる。国立大学の講座ならば、無料でも構わないはずだ。時間と地域格差も、ネット上からいつでも都合の良い時に受講できる「ビデオ・オン・デマンド」によって解決されている。情報にいたっては、ネットをやる人間ならば誰もが即座にゲットできる。

     ネット上に講義ビデオを置くことによって、学問の自由は初めて実現できる。

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  • from: 一久さん

    2008年10月27日 19時28分36秒

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    国連分担金について

    【国連分担金、日本の陰謀】

     日本の国連分担金割り当てが、あまりにも大き過ぎるうえに、その見返りがあまりにも小さ過ぎることに対して、納得する国民はほとんどいないであろう。しかし、まて。急いては事をし損じる。「潰そうと思う相手は、まず持ち上げろ」それが兵法の鉄則である。

     国連分担金とは別に、日本政府の任意として、なんの見返りも要求しない「国連寄付金」を現在の負担金の三倍ぐらいの額、国連にくれてやろう。これを十年も続ければ、国連機関はどこもかしこも「日本の寄付金」なしには動けなくなるだろう。それが腐敗した組織というものである。

     さて、そのように肥え太ったペキンダックやフォアグラ鳥のようにしてから、「寄付金止めよっかな?」という態度をとればよい。この寄付金は義務ではないのだから、いつでも日本側の意志で中止することができる。文句を言われる筋合いはない。むろん、滞納などと違ってペナルティーをかせられる恐れもない。

    「寄付金」の額は、多ければ多いほどよい。そのほとんどは無駄遣いされるに決まっているけれども、それでもなお、日本が世界各国から良い評価を得ることに貢献する。しかもそれを停止するという「伝家の宝刀」さえ与えてくれる。年間一兆円の寄付金を即座に立て替えることのできる国など、他に存在しないのだから。

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