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  • from: 一久さん

    2008年03月31日 21時19分03秒

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    教育論

    「教育論」 序文

    教育は国の大事なり。

    国が興隆するも貧窮するも、国民の労働と判断に負っているのが民主主義社会というものである以上、国民の教育こそが国家盛衰最大の因であると知らねばならない。福沢諭吉いわく、天は人の上に人を作らず、しかれども、学ぶと学ばざるによりて貧富・潔卑の差、無限に大なり、と。

    アダムスミスいわく、国富は国民の労働によりて生じる、と。しからば、労働をする国民の質、その知識・技量・分別を高めることこそ、国富を増やす手段であること明白である。

    ゆえに、教育は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。


    【青が赤くないといって責める】

    古今東西、教育論議は断えない。しかし、その多くは論議自体が噛み合っておらぬ。それはなぜなのか。それは、教育といってもその内容や目的が決してひとつではないからであり、多くの論者はそのことをも知らぬからである。

    例えば、イギリスが衰退したのは大学の居心地がよくて学界に優秀な人材が居残るようになってしまったからであるという説がある。学者にとってのイギリスの教育は最高ということだろう。アメリカからは日本よりもはるかに多くのノーベル賞受賞者が出ている。ならばアメリカの教育こそが最高なのか?北朝鮮や中国では、洗脳教育によって国民を「みごとに」統制している。これこそが最高の教育なのかもしれない。

    このように、教育とひとことでいっても、実は同じものを意味していない。絵画は様々な色で作り上げられているのに、個々の色について分析を行なわず、自分が見ている色だけについて主義主張を述べあっているのが現代日本の教育論議である。

    青を指さして「赤くないからイカン!」と言っているようなものだ。

    これからシリーズで教育について述べようと思う。

    教育という言葉は、多数の異なった「教育」の混濁物である。まずはその構成物質を解きあかして、ひとつずつに検討を加える。その成果を以て、現状の構成を分析し、どこがどう問題なのかを解明する。最後に、理想的な構成はどういうものなのか、そしてその実現の為にはなにをすればよいのか、具体的な施策を考える。



    シリーズ 教育 その1 一久


    【分割して考える】

    「群盲、像を撫でる」という。 細かく分断して考えるよりも、ひと目見たほうが確かであるということを言っているのであろう。しかし、科学は「群盲像を撫でる」でなければならない。

    なるほど、ひと目「像」を見れば、誰もが像とはこんなものかと納得いく。しかしそれはあくまでも像を見た個人の主観として像という動物を捕らえたにすぎない。

    像を見慣れた人には小像は小さい像だと思えるが、像を見たことのない人にとっては小像でも犬よりもはるかに大きい。像ってこんなにでかいのか、と思うだろう。

    これに対して「群盲」式科学的見方では、体長は何メートル、体重は何キログラム、生後何カ月、爪の形はどう、といった見方をする。誰がみても、3mの像は3mである。客観的事実を共有するためには、このような分析的な見方が必要なのである。


    【「教育」を腑分けする】


    では本題に入ろう。これから、教育という言葉を腑分けする。国家が施す教育には、目的の異なったいくつもの部類が存在する。それらを具体的に指摘することからはじめよう。

    まず、第一に国民はどうあるべきか、人と社会はいかにあるべきかを教えることを目的とする教育、すなわち、道徳教育がある。「いかに生きるべきか」ものごとの是非善悪を教えなければ、社会は決して平穏にはならぬ。決しておろそかにはできないものである。

    第二に、実際に社会で生活するための知識を持たせるという意味での教育がある。いわゆる「読み書きソロバン」である。

    第三に、実社会において成功し地位や富有や名声や熟練の技術を獲得するための教育がある。ホタルの光にいう「♪名を挙げ身を立て夜々励めよ」というやつだ。

    第四に、金や名誉ではなく純粋に学究に打ち込む人を育てるための教育がある。

    以上、「道徳」「生活」「技術・知識」「学究」、少なくとも、この四つの種類を内包しているのが「教育」というものなのである。

    これらの区別を考えにいれずに教育論議をするから、ある人は読み書きソロバンを、といい、あるひとはそれでは国際競争力が低下するといい、あるひとは道徳教育が大事だという。まるで話がかみあわなくなる。けだし、当然のことである。


    シリーズ 教育 2


    【道徳教育】

    人はいかに生きるべきか。それを教えるのが道徳教育である。

    しかし、考えてみればこれほど難しいものはない。なにが人として正しいのか本当のところは誰にも分らないのであるから。

    ゆえにこそ、宗教というものがある。神仏による教えを持ち出して、正しさの根拠にしようとするのである。

    日本人には馴染みのないこの手法だが、ムスリムなどにとっては自明のこととされる。逆に彼らはいう。神の教えでないのだとしたら、その「定め」が正しいかどうかをどうやって判別するというのか? と。

    ここに、日本人の無宗教性を解く鍵があるのかもしれない。日本人は人間の常識によって、「正しいかどうか」を判断できると信じている。

    クルアラーンも、聖書も仏典も論語もブードー教の教えも、すべて人間の常識という量りによって計測され、良きものは取り入れ、そうでないものは排除される。それが日本人の宗教との関わりかたである。

    ゆえに、日本には宗教は根付かず、しかし排除もされず、宗教の百貨店のような状況になる。神が正邪を決めるのではなく、人間が正邪を決めるのである。

    人はいかに生きるべきかは、またその国の歴史・文化によっても変わってくる。時代の要請によっても変化する。

    「道徳の時間」といえば、学校授業の付録みたいな扱いを受けているのが現状であろうけれども、本来これほど重要なものはないといえる。

    例えば、自由の意味、民主主義の意義、平等と不当差別、他人に対する配慮と自己主張の関係etc、授業において考えさせ、自分なりの答えを求めることをさせねばならないものが数多くある。

    歴史の時間にフランス革命について習ったぐらいで、なんで自由や民主主義の意味が分ろうか。道徳教育こそは、大一義的に重要な授業でなければならないのである。

    日本の歴史と伝統・文化に根ざしながら、世界中の哲学・宗教・倫理を加味して「人としてどうあるべきか」を明らかにするテキストを作り教授することが必要なのである。

    江戸時代、武士は庶民から尊敬されていた。武士だけが高い倫理性をもった教育を受けていたからである。


    シリーズ 教育 3


    生活の為の教育

    これは社会生活を送るために必要な教育、いわゆる「読み書きソロバン」である。しかし、現代社会においては、その知識量は単純な「読み書きソロバン」ではすまされない。

    少なくとも、新聞に載っている物事の意味を把握できるぐらいの基礎知識を習得させなければ、生活に必要な知識を与えたとは言えない。
    例えば、ケインズ理論の基礎を知らなければ、経済面の公定歩合がどうのという話を読んでも理解できまい。

    微分・積分を知らなければ、ちょっと高度な試験を受験する気にもならなくなる。英語を全く知らなければ、ダンボールに書かれた外国の社名さえも分らない。

    漢書や古文のいくつかぐらい知らないようでは、ちょっと高尚な話にはついていけなくなる。

    この生活のための教育というものは、このように広範かつ高度なものなのであり、決して安易なものではないのである。


    第二に、人の生活は、現状維持だけではなくて、より以上の生活を目指し改良を求めるという行為も内包している。そのためのキッカケを与えること、及び、より上位の知識・技能を習得する為の基礎知識を習得させることもまた、生活のための教育に含まれるべきなのである。

    ここで教師は肝に命じておくことがある。それは、学校で教え得ることは、あくまでも知識世界の一端にすぎず、真の学習は個々人の興味によって生徒自身が自ら進んで行なうものだということだ。

    教師のすべきことは、できる限り多くの知識を生徒達に触れさせ、興味を持てる対象を見つけ出させること、そして、それを学ぶのに必要な基礎知識を習得させること、なのである


    シリーズ 教育 4


    【技術・知識習得のための教育】

    これは知識を技術を習得して、より高い収入や技量を得ることを目指す人のための教育である。

    国家としては、このような高度な能力を持った人間が増えることは歓迎するべきものであり、そのことによって経済的にも文化的にも発展を期待できる。

    ひとり高度技術者の生活向上のためだけでなく、その人が技術を得たことによる波及効果によって、回りの普通の人々の生活もまた改善されるのである。

    食堂のオバチャンが講習会で新しい接客や料理方法を身につけてきたら、その店は繁盛し彼女の収入もアップすると同時に、その店の客はより美味い飯を喰うことができるようになる。

    国民ひとりひとりの能力が上がれば、社会全体が豊かに、暮らし易くなるのである。これこそが、識技習得のための教育の目的である。

    その対象は、なにも即物的な技術に限るものではない。例えば文芸の知識もその対象となり得る。ありとあらゆる技芸や知識を学習・習得できる環境作りが必要である。

    インターネットの発達は、それを容易にしていくことだろう。

    第一部 総括

    以上、教育とはなにか、その種別について述べてきた。様々な目的を持った教育があり、それぞれになすべきことがあるということが分ったと思う。

    次は、現実の日本の教育について考える。現代日本の教育の問題、それは言うまでもなく「受験」である。教育問題とは受験問題のことだ、と言っても過言ではない。すべてはここから始まり、ここに収束している。

    それぞれに成すべきことがあるはずの多々の教育が、互いにすべきことを出来ないでいる最大の原因もまた、「受験」である。

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  • from: 一久さん

    2008年03月30日 19時09分34秒

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    全体主義の起原 ハナ・アレント

    ハンナ・アレント 「全体主義の起原」

    恥ずかしながら、ハンナ・アレントという名前さえ知りませんでした。HP検索をかけて、いくつか解説めいたものが出てきたのですが、どうも、その、なにを言っているのやらよく分らない。いや、アンナ女史がではなくて、解説(感想か?)の人の文章が、ですが。政治学部の三回生とかいう人の文もあるが、はて、こんなので論文として通るのか、と心配になるようなものでした。

    それはともかく、ハンナ・アレントと「絶対主義の起源」は、その筋では影響の大きいものであるらしい、ということは分りました。ということで、ひさしぶりの課題図書として、

    「ハンナ・アレント 絶対主義の起源 1・2・3」 みすず書房

    を選定しましょう。大部でもあり、値段も相当お高い(一巻5000円ほど)ので、図書館で借りて読むことになるでしょうけれど。(大阪府立中央図書館には在庫ありと検索ででました。五日以降でないと開館しないのでそれからになりますが)

    期間は、一月から三月末までの三カ月間。読んだ事のある人も再読しましょう。皆さん”全体主義的に” (^^ゞ  参加してくださることを祈っています。


    【解説】

     「市民の討論広場」では、以前、課題図書を決めて参加者各位が読み、感想を述べるという企画をやっていました。あんまり活発な討議にはならなかったが、共通の図書を勉強するというのはそれなりに意義のあるものだったと思っています。少なくとも、自分の私見を強弁するだけの某大掲示板群ではできないことだと思います。

     以前やったものでは、「学問のすすめ」、「孫子」、「大衆の反逆」「忘れられた日本人」「大学」などがあります。残念ながら、今のネット上の文章を読んでも、自己の見解を成長させる糧にはなりにくい。将来的に、すべての文献がネット上で容易に読めるようにならないかぎり、読書なくして見識を高めることは不可能でしょう。昔から言われている言葉に「ネット上の知識で高い見識を得たという人はいない。優れた書き手は、例外なく書物から栄養を得ている」というのがありますが、これほどネットが広く普及した現代においてもなお、この言葉は生きているようです。

    【蛇足】

     「無知の許容」と「無知の居直りの禁止」が「市民の討論広場」のモットーです。

     知らなかったことは恥ではない。知らなかったことに対して、それを知ろうともしないで読みもせずに非難したり、話をすり替えたりすることが、恥なのだ。そういう行為がHP上の掲示板ではあたりまえのように横行しているけれども。

     ということで、この「市民の討論広場」では、「書いてあったことについて調べてみる読んでみる」という態度を奨励しております。ここは、相手を言い負かす場所ではなく、自分を成長させるための場所なのであります。


    * 読 書 感 想 文 *


    【全体主義の起原】

    「Ⅲ 全体主義 」の半分、150ページまで読み終えた。

     ここまでで分ったことというか、感想であるが、ハンナは、同時代の日本のことについてははじめから度外視している。つまり、考察の対象外としている。考察の結果、日本は全体主義ではなかった、と言っているのではなく、単に視野の外においている。

    おそらくは、ハンナには日本に対する知識が乏しく、到底コメントすることができないということを彼女自身が知っていたためであろう。ハンナ自身は、日本が全体主義であったともなかったとも言ってはいない。(ここより後の部分で言うのかもしれないが)

    そうではあるが、ここに記述されているナチス・ドイツのありようには、日本のことを言っているのではないかと思ってしまうようなことも少なくない。とくに、P98 16行目からP99までの全体主義国家が破滅した後のことを書いたこの文章は、まさに戰後の日本そのものの姿である。

     ハンナ自身は日本のことについては何も言ってはいない。日本もハンナのいう全体主義であったか否かは、ハンナを読む者自身によって判定する他はない。

     上述のことから考えて、私には「ハンナのいうところの全体主義国家」のひとつであったと思える。


    【第三巻 「全体主義」を読了】


    正直言って、なにを言っているのか、よく分かんない、です。

    しかし、刺激されるところは、ままあって、これをネタに文章を書けると思えるものが少なくなかった。「なにを言っているのか」というような大上段に構えた論文は期間後半に譲って、前半は、チョボチョボした感想というか思いつきを述べていこうと思う。

    【日本陸軍は強制収容所だった?】

    徴兵制と、軍内部での全体主義的統制、つまり、軍を強くすることへの提案などをしようものなら、古参兵や下士官からこっぴどい目にあわされる、という、現実無視・服従絶対の世界は、まさに強制収容所と同じものではないだろうか。

    その入所基準(年齢、体格)の「客観性」、支配する側に変わりえるという相互支配の構図等、まさに全体主義の要件を満たしている。

    軍は、本来、統制を求められるが、機能を追求するという一点において全体主義と区別される。だが、昭和初期の日本陸軍はそのような機能性重視という軍隊の本質を保っていただろうか?

    日本軍を強制収容所と同類のものだと考えると、司馬遼太郎の示した命題に、説明がつくのである。

    それは、多くの日本軍人を、あの戦争で「太平洋に砂を撒くがごとく」「棄民した」のはなぜか、という氏の怒りに対する回答でもある。

    当時の日本軍は、強制収容所であった。そして同時に、ハンナのいう「運動」の為に犠牲となるべき者でもあった。

    ゆえに、彼らは、「植民地の開放」という「歴史の運動」のための先兵として、太平洋の砂となる必要があったのだ、と。

    ナチスの「運動」は、世界制覇という馬鹿げた夢想であったが、日本の「運動」は、植民地の開放という建前であった。

    ゆえに、ナチスの運動はドイツの敗北によって頓挫するが、日本の建前は、日本軍が敗れ去った後に、却って真実の進展をみせる。現地人の独立意識が高まるとともに、旧支配国の力が弱まるからである。東条秀樹による「運動」は、戰後、すべての植民地が開放されたという事実を持って結実したことになる。

    しかし、このことは、ある意味恐ろしいことだ。全体主義という手法が、建設的な未来を築くこともありえるという結論になってしまうのだから。おそるべき多くの犠牲を覚悟しさえすれば。


    【全体主義の起原】 第二巻 「 帝国主義 」

    あと、百ページほど残っているが、面白い記述があったので。

    【ボーア人について】

    ボーア戦争、というものについては、中学校の教科書でご存じだろうと思うが、ではボーア人とはどんな人々であったと思っているだろうか。南アフリカに定住した白人というのは教科書にもあると思うが、その生活様式については?

    この本の中に出てくるボーア人は、我々が知らず知らずのうちに想像していたボーア人の概念とはまるで違っている。ヨーロッパの白人であるから、それなりの文明社会を作っていて、その社会があとからきたイギリスという文明と衝突した、我々はそう考えてしまいがちである。

    ところが実際は、ボーア人は文明を作らなかった。逆に、アフリカの未開文化に埋没していったのであった。彼らは原住民から搾取するだけで、文明を持ち込んで改良社会を作ろうとはしなかった。つまり、彼ら自身がアフリカの白い土人になっていった。原住民からみても、ボーア人は(その銃器の保持によって)酋長の上に位置するもの、神に近い支配者としか映っておらず、侵略者というよりも土着酋長の延長でしかなかった。

    ボーア戦争というものも、ダイアモンドと金坑を巡っての文明的な衝突というものではなくて、文明を持ち込もうとするイギリスと、それを嫌うボーア人との紛争であった。ゆえに戦争の結果、鉱山をイギリスにくれてやるかわりに、奥地にいままでと変わらない未開社会をボーア人に保証することになったのは、彼らにとっては政治的勝利以外のなにものでもない。

    教科書は、イギリス人に鉱山を取られ、奥地に追いやられたというのだが、それこそが、ボーア人の本当の望みだったのだ。



    【全体主義の起原 2 帝国主義  読了】



     読み終わりました。これもまた、いまいちよく分かりかねる書物ではあるが、第三巻よりはマシかもしれない。この本の中に書いてあることで、刺激を受けた点について書いてみる。

    【帝国主義と国民国家】

     帝国主義は、国民国家とは相性が悪いのだ、と著者はいう。国民国家は、国民がその国を動かすのであるが、本国以外の、支配される側の領土の「新・国民」にとって、それは本国住民の手前勝手な規範の押しつけとしか思えないからである。むしろ、古代帝国のように、天啓を受けた絶対者が、本国も植民地も関係なく絶対的な法を強制したほうが問題は少なかった。

    本国側が善意であればあるほど、併合された側にとっては押しつけがましい偽善であり、自分達の個性を抹殺するための策略であると映る。むしろ、圧制者として暴力的に支配したほうがまだマシなくらいであった。ハンナ・アーレントは、日本のことについてはほとんど何も述べていないが、このような「善意の植民」の最大の事例は、まさに日本の韓国併合であろう。世界一優しい帝国主義は、世界一憎悪を持たれる結果を生んだのである。


    【二大政党制と多党制】


     英米の二大政党制と、ドイツ・フランスその他のヨーロッパ大陸の多数政党制との違いは、たんなる表面上の制度の違いではなく、政党そのものの性格が違うからだと著者は指摘する。まったくそれは正しいように私も思う。

     二大政党制というものは、単に二つの政党が交代して政権を担当するということではない。それは結果論にすぎないものなのだ。二大政党制の真の意味は、政党がそれ一個で国民全体を代表できるだけの道徳規範をもっていなければならないということにある。そういうものを持つ政党であればこそ、お互いを交代要因として認め得るのである。その結果として、政権交代も可能になるのだ。

    これに対して、多党制では、個々の政党は国民全体の良心を代表する必要はない。ここでは各政党は、国民全体の部分であればよく、ゆえに空想的理想主義からナチズムまでどんな政党でも存在し得る事態となる。そしてその結果は、「全体の一部」にすぎない政党が他の政党を従属させるか、もしくは絶対多数を占めたのちも、他の政党に遠慮して臆病な政策をとるかするしかないということを意味している。一冊全部読めとはいわないが、このことに触れた213ページ二行目から、219ページにかけての記述は、ぜひとも読まれることをお薦めする。

     さて、そうすると、欧米と欧州大陸との選挙制度の違い、つまり、小選挙区制度と比例代表制度の違いは、まさにこの政党の性格によって生まれたものだと言えるのかもしれない。「死票を出さないことが利点」と言われる比例代表制度であるが、それはまさに全体の部分をしか代表することのない政党を生む制度である。逆に、「死票がいっぱいでるからダメだ」と一部「知識人」から評判の悪い小選挙区制度は、まさに国民全体を代表できるだけの広範な度量がなければ勝てない制度だといえる。

    ひとことで言えば、比例代表制度からは、国民全体を代表できる政党は生まれ得ず、当然二大政党制もありえない。また、たとえ比例代表制度が無くなって、小選挙区制度だけになったとしても、国民全体を納得させることのできる政党が現れなければ、二大政党制も政権交代もありえない。「全体の一部」の代表であった旧社会党では、絶対に二大政党制の担い手にはなれないのである。このことは、現代の民主党にもそのまま言える。単に議員の数が多いということだけでは、二大政党制は成立しないのである。

    では、自民党はどうか。自民党もまた、一部の代表という面をもっている。が、同時に全体の代表という意欲ももっている。一部の代表という意識が強かった時期には、野党の顔色をうかがった政治を行い、全体を代表しているんだという誇りを持った時期には大胆に事を運んだ。自民党とて完全な「全体のための政党」ではないが、民主党を含む野党にくらべれば、はるかにマシだといえるだろう。

    最後に、ハンナが注釈として用いているアーサー・ホルコムの言葉をもって締めくくろう。

    「二大政党制においては、両政党の基本方針は、同じものになろうとする傾向がある。もし同じものでなかったならば、敗れた政党が勝った政党に服従することは考えられないであろう」



    【現代の韓国は全体主義国家か】


    昭和の大日本帝国が全体主義国家だったかどうかということが、ここでのひとつのテーマであったが、この本を読んでいるうちに、それよりももっと全体主義にあてはまる国を思い浮かべてしまった。それは、隣国、韓国である。

    「大韓国」思想とアーリア人種礼賛との類似、先祖にまで遡って「親日家」を探しだし糾弾しようとする現韓国政権と、数世代に渡ってユダヤ人の血が混ざっていないかを調べたナチスとの共通点、反日という「運動」の前では、すべての事実検証や歴史が蔑視され、運動の大儀にそった形で事実が捏造されるという行為。

    韓国との翻訳掲示板で、日本人が不思議に思う韓国人のコミュニケーション能力の無さの原因は、彼らの国がナチス・ドイツに極めて近い全体主義国家であるのだ、という説明によってのみ、日本人を納得させることができるであろう。

    中国や北朝鮮が全体主義国家であると言われても、あまり驚かないが、あれだけの繁栄を得た韓国もまた、全体主義国家であり続けているという事実は、驚きを禁じ得ない。が、ドイツにしても、ナチス当時、すでに相当の近代国家であった。戦争緒戦の破竹の勢いをみれば、むしろ世界に冠たる一等国であった。韓国がそうであっても不思議ではない。



    【「目的」と「イデオロギー」と「運動」 】

     全体主義は、「運動」が現実に優先される世界である、というのが著者の言いたいことらしい。目的でもイデオロギーでもなく、なぜ運動なのか、少しまとめておこうと思う。

    「目的」という言葉を使うと、目的を達成するためのより正しい方法が組織の下部構成員から提出されるかもしれない。「俺のほうがうまく目的を達成できる」として指導部を批判する人間が出てくることが避けられない。そんなことになれば、内部で分裂を繰り返すか、もしくは民主主義的な話し合いで、より目的合理性のある方策を探すというシステムに変容してしまうであろう。それはもはや全体主義ではない。

    「イデオロギー」の場合は、その実効性の弱さが目立ってしまう。いわば、大義名分でしかないので、それを実行しなかったとしても、別に大きな問題にされることがない。ナチス以外のドイツ国民は、ヒットラーの言っていることは「イデオロギー」でありその宣伝であると、まさにそう思っていたのであった。もしもそうであったならば、どんなにか良かったであろうか。政権を取った後は、過激な行動を謹んで、徐々に温和化していけたであろう。

    だが、実際にヒットラーが目指したものは「運動」であった。運動それ自体を欲するのであるから、政権を掌握した後こそ、より徹底した過激行動を取ることができる。たとえいかなる非合理的な行動であっても、目的達成の為ではないので批判を受け付ける必要もない。運動の実行、それが誰にも掣肘されることなく行なわれるということだけが大事なのである。

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  • from: 一久さん

    2008年03月29日 20時12分08秒

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    正月に亀甲占いを


    【正月の占い】


     正月といえば、「今年一年を占う」などという企画が新聞や週刊誌に載ることが多いようだが、日本国として公式に占いをやってみるのも面白いのではないか。

    「亀甲占い」というやつを、内外の占い師に参加呼びかけをして行なうのだ。易に使う筮竹は本来小事を占うものであって、大事は亀甲で行なうのが慣例であった。戦を占ったとき、亀甲が「凶」で、筮竹が「吉」ならば、「戦は負けるが王や主将は生還できる」となる。

    だから本来、国の一年を占うには亀甲でしなければならない。だが、亀甲占いは、経済的負担の大きさや、社会的に手に入りづらいといった理由から、今や個人の力では行なえない(昔から国家行事だったのかもしれない)。「カメさん」が手に入りにくいからだ。

    だが、国家が一年に一度だけ行なう、というのであれば、現代社会でもなんとか決行可能だろう。亀甲占いに使われた甲羅の現物や写真資料は公開し、すべての占い師がこれを使って占断することができるようにする。

    新しい年中行事として、定着すれば、ちょっとしたイベントになるだろう。

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  • from: 一久さん

    2008年03月29日 20時10分32秒

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    コンビニからの文化復興

    【和菓子の二十四節気】

     今日は節分。節分は立春の前日。立春は24節気のひとつ。節分といえば、ちかごろ流行りの「巻き寿司のまるかぶり」。寿司屋か海苔屋だったかが仕掛けたイベントだそうだ。

    バレンタインのチョコレートも、土用丑の日のウナギの蒲焼も、チョコレート業者やうなぎ屋が仕掛けたイベントだということはすでに有名。

    業界が仕掛けたイベント、と言えば聞こえが悪いが、それによって行事が増え、楽しめるのであるならば、結構なことではないか。

    ということで、ひとつ提案を。和菓子もまた、新たにイベントを増やそうではないか。和菓子のイベントといえば、雛祭りのアラレや菱餅(菱餅って、見たことあっても食べたことがないような)、こどもの日の柏餅・ちまき、彼岸のボタモチ・おはぎ、秋の月見ダンゴ、土用餅というのもあったかな。結構、無いようで、あるような。

    で、いっそのこと、和菓子の季節感を強調して、「二十四節気」和菓子という風習を広めることを検討してはどうだろうか。全国の和菓子店が競作で、節気ごとの季節の「菓子」を競うのだ。たとえば、明日から「立春」だから、立春に相応しい菓子をひとつ、それぞれの店が店頭に並べる。最近はコンビニの影響力が大きいから、大手コンビニを説得して、このイベントに参加させることができれば、成功は疑いないだろう。

    二十四もの節気があるのだから、菓子屋は年中イベントをやっていることになり、これだけで商売が成り立つ。また、客のほうも、このイベントによって年々失われていく季節感を取り戻すことができるようになる。日本の風情を残す、いや、新しく感知する、為にもよい企画だと思うのだが。

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  • from: 一久さん

    2008年03月28日 07時06分23秒

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    翻訳掲示板を

    【中国・韓国との友好関係増進に関する提案】

    国会議員同士によるサッカーの親善試合で友好が増すというのは、確かにマンガチックな期待ではある。とはいうものの、意外にそんな一見低俗なところから友好は始まるのかもしれないが。

    【翻訳掲示板ソフトの開発を】

    韓国語と日本語の翻訳掲示板というものがある。例えば、「エンジョイコリア」の中にある、
    http://bbs.enjoykorea.jp/
    がそうだ。

    いまのところ、そこでなされている「討論」は、とうてい友好的とは言えないものが多いが、それは翻訳の精度の悪さに負うところが大きいだろう。翻訳が完璧に近づけば、質の高い参加者が増えることを期待できる。

    政府や議員の発言では、両国民の生の声は伝わりにくいし、第一、その情報量が少な過ぎる。例えば、靖国問題にしても、正式なコメントはあまりにも少ない情報しか韓国・中国の国民に提供していない。そのうえ、両国政府は、そこからさらに都合のいい部分だけを選択して報道するから、どうにもならない。

    翻訳掲示板であれば、それぞれの国民から無制限に近い量の情報が寄せられる。役人や学者にアピール文を作らせるよりも、よっぽど相互理解の為になる。

    中国などは、インターネット自体に規制をかけているが、日本国内だけでも日中翻訳掲示板を設置する価値はある。日本滞在中の中国人が利用できるからだ。帰国後の彼らを通じて、情報は伝わるであろう。

    アメリカやヨーロッパについても、このような翻訳掲示板は有用である。なぜならば、欧米には言論の自由はあるが、日本の情報が「正しく広く」伝わっている訳ではない。そこにはやはり欧米の価値観による偏見が存在している。ゆえに、欧米の言語に対する翻訳掲示板も必要なのである。

    さらに将来的には、マルチリンガルの翻訳掲示板も必要である。日本語で書き込んだら、ドイツのパソコンにはドイツ語で、韓国のパソコンには朝鮮語で、アメリカのパソコンには英語かスペイン語で表示される掲示板である。どの言語で記入されても、すべての言語で読むことができる翻訳掲示板がほしい。

    言語の違いというものは、いま現在もなお、国際関係の大きな障害となっている。だが、統一言語を作ろうとか、英語をそれに代えようとかの案は、無理が大きい。理由は言語は文化であり、文化は生活と密着しているからだ。(長くなりそうなので、この話はまたの機会に)

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  • from: 一久さん

    2008年03月28日 07時05分11秒

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    日本の労働生産性は低いのだそうな


    【労働生産性は無意味な数字】

    労働生産性という数字は、無意味で空虚なものだと思う。

    その理由は、生産された物やサービスの質というものを無視
    した数値だからである。

    例えば、百万円の自動車は、米国車でも日本車でも、同じ車
    と看做される。そして、アメリカのほうが掛かった労働力がす
    くなければ、アメリカの生産性が高いということになる。

    しかしだ、そのアメリカ車は毎年一回以上故障し、日本者は
    五年間以上、故障しなかったとしたらどうなるか。

    当然、消費者は日本製の自動車を買うようになる。ゆえに、
    日本は貿易黒字を出し続けている。

    同じことは、サービスにも言えることだ。

    「まだまだまともな日本」という、ドイツに帰国した教授の本に、 
    日本の引越し業者や幼稚園の先生は、ドイツとは比べ物に
    ならないほど優秀だという話が出てくる。

    しかし、労働生産性からいえば、ドイツも日本も同じか、むしろ
    ドイツのほうが良いはずだ。(つまり、少数で多くの客を持って
    いる)

    けれども、顧客満足度からいえば、ドイツ人のこの教授でさえ
    も、ドイツのそれは、日本の足元にも及ばないというのだ。

    言い換えれば、労働生産性というものは、質の高い財は、当
    然に価格も高いはずである、という思い込みを前提にしない
    と成立しない概念であるということだ。

    ところが、日本人は、買うほうも売るほうも、同じ値段でより良
    い質のモノ(やサービス)を求める習性がある。

    同業他社よりも、隣の同僚よりも、向かえの店よりも、同じ値
    段ならば、より品質の良いモノやサービスを提供して、自慢し
    たい、という欲求を、日本人は抑えることができない。

    そうであればこそ、日本製品は売れるようになったのである。


    こういう者に対して、労働生産性は意味を持たない。

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  • from: 一久さん

    2008年03月27日 20時14分21秒

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    コーラとマクドをボイコット


    【政治決定と良心は別】

    日本政府が北京オリンピックを(現時点で)ボイコットしないと
    いう政治決定をすることと、個々の日本国民が虐殺を許すま
    じという良心を見せることとは、別物である。

    良心の自由は、政治的決定から守られねばならない。それこ
    そが、自由民主主義というものの根幹である。

    政府がオリンピックに選手を派遣しても、国民はオリンピク協
    賛企業の製品をボイコットする権利と自由がある。

    政府が良しとしても、国民個々は、不可とする行動を法律の
    範囲内で行うことができる。それが自由というものだ。

     とりあえず、コカコーラとマクドナルドをボイコットしよう。

     マクドナルドでハンバーガーを食べ、コーラを飲む人よ。
     貴方達の口の中にあるものは、チベット人の肉と血なのだ。


    【良心があるならば】

    チベット問題での中国の対応を非とするならば、オリンピック
    協賛企業の製品をボイコットすることは個人の自由である。

    逆に、チベット人弾圧を支持したいのであれば、その企業の
    製品を買えばよい。どちらを選ぶかは、貴方の自由である。

    良心の自由こそは、すべての自由の根幹なのだから。


    【マスコミは当てにできない】

    今回の件について、マスコミがボイコットに協力することは、
    ありえない。そのような期待はするだけ無駄である。

    なぜならば、マスコミはスポンサーからの広告費で成り立って
    いるのだから。そして、オリンピック協賛企業は、多くの場合、
    業界のトップ企業であり、マスコミにとっても稼がせてくれる
    大事なお客様であるのだから。

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  • from: 一久さん

    2008年03月27日 20時13分35秒

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    校庭芝生化は寄付金で


    【校庭の芝生化】

    橋下現府知事の提唱する、校庭の芝生化であるが、この問題
    は、知事自身が言っているように、たぶんに個人的感傷の問題
    であって、「公私の区別」で言えば、「私」である。

    橋下氏の個人的な好みでしかない。

    むろん、そのような個人的見解を府民に提示すること自体は
    悪くない。自分が良いと思うことを、府民にも勧めてみることは
    よいことだろう。

    だが、それを公金でやるべきかどうかは、別の問題である。

    最初に述べたように、芝生がいいかどうか、ということは、多分
    に個人の嗜好の問題である。ならばこれを政治支出によって行
    うことは、間違っている。

    好みの問題であるのだから、それを好む者達による、浄財に
    よってこそ成すべきものであろう。

    ある小学校の地域住民が、芝生の校庭ができたら嬉しいな、
    と思ったならば、資金を募ってそれをする。

    資金が集まれば、住民がそれを望んでいるということであり、
    集まらなければ、望まれていないということである。

    これが、資本主義であり、町人民主主義である。

    行政がすべきことは、資金が調達されたにも関わらず「土の
    ままのほうがいい」という風変わりな意見の持ち主に対しての
    説得、もしくは強制執行だけである。

    芝生化および、維持管理の費用や手間は、地域住民が自主的
    に用意するべきものなのだ。

    そうでないと、単に橋下氏のおせっかいで芝生はできたが、誰
    もそれに愛着を持たないという結果になりかねない。「お上」の
    お仕着せになってしまうのである。

    大阪の伝統的精神とは、お上のお仕着せを蔑視し、必要な物
    は金を出し合って作るという道頓堀精神なのである。

    ゆえにこそ、戦後の法律によって、「お上」と町人の区別があ
    やふやになった”民主主義”の下で、大阪の伝統民主主義は
    壊滅的打撃を受けたのである。

    戦前の関一市長は、典型的な「名お上」であった。

    「お上」として、独裁的に御堂筋をつくる一方、町人主導で大阪
    城の再建資金を募った。自身と大阪町人をよく弁えていたのだろう。

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  • from: 一久さん

    2008年03月26日 06時46分42秒

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    代行総裁が頑張ればよい

    代行日銀総裁こそ、活を入れよ


    【代行でもなんでも、日銀総裁は総裁】

    「困ったちゃん民主党」の駄々っ子作戦によって、日銀総裁
    が不在という馬鹿げた事態になった、と馬鹿騒ぎしている。

    確かに困ったことではあるが、今は世界経済にとって非常時
    である。非常時において責任者が不在である場合、代行者には
    平時の総裁以上の指揮権が付与されたとみなすべきであろう。

    すなわち、代行総裁であれども、いや、非常時における代行
    であればこそ、平時の正規総裁よりも積極的に日銀を動かすこ
    とが期待されているのである。

    激闘の戦場において、総指揮官が死亡した場合、代行指揮官
    はおとなしく兵を引くだけでよいのだろうか。撤退が可能な
    状況であればそれでもよい。

    だが、今の日本と世界経済が置かれている状況は、おとなし
    く撤退できるような状況ではない。代行指揮官は、戦死した
    総帥以上の闘将であることが求められる。

    代行であればこそ、むしろ、より積極的な指揮を求められて
    いるのである。

    代行という名前に拘る必要はない。

    むしろ、政治が馬鹿でこういう事態になったのであるから、
    「俺が日本経済を支えるのだ」という気概を持たねばならない。

    代行総裁は、総裁以上に総裁的に振舞え!!

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  • from: 一久さん

    2008年03月26日 06時45分38秒

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    科学興隆 なすべきこと


     【アメリカのガレージ】

     エジソンが学校を退学して、母親の与えた実験設備で学習を
     続けたことは有名であるが、アメリカ全般において、納屋や
     ガレージから生まれた技術や産業は少なくない。

     アップルやマイクロソフトも似たようなものだったではないか。

     アメリカの創造性はガレージから生まれる、とかいう言葉も
     あるのだそうな。

     日本においても、トヨタの創始者、ドクター・ナカマツ、日
     清の安藤百福氏、等々、納屋からその発想を生んだ人は少な
     くない。


     【現代版・納屋政策を】

     要するに、実際に研究できる境遇にまで到達できるのであれば、
     誰も科学者になることを諦めない。

     問題は、日本の行政も教育者もマスコミも、研究者になる為に
     勉強すればいい、と言うことしかできないという点にある。

     この主張は一見正しく見えるけれども、実際には、研究者にな
     る為には膨大な競争があり、それは椅子取りゲームのごとく、
     パイの限られた不毛な戦いである。

     高校生達は、マスコミや世間の大人達よりは、当事者であるが
     ゆえに現状を良く知っている。だから、そんな無駄なことに参
     加する気にはなれないのだ。

     ならばどうすればよいのか。それが、現代版・納屋政策である。


    【高校生を研究者にしてしまえ】

     研究活動ができるのであれば、理科離れは起こらない。

     受験競争を経なくても、研究者として生活できるか、生活でき
     ないまでも、趣味で研究を続けられるのであれば、誰もそれを
     手放したりはしない。

     受験勉強の為に、興味のある対象から離れなければならない、
     しかも、そこへ受験競争の勝者として帰ってこれる可能性は
     極めて低い、という現況だからこそ、諦めるのである。

     ならば話は簡単で、高校生のときから研究活動ができるように
     してしまえばよい。一部の特別な高校ではすでに行っているこ
     とだ。

     だがそれを、すべての高校ですることは無理であろう。また、
     今のやりかたでは、高校に依存しているだけに、所詮は高級な
     クラブ活動に過ぎず、卒業と共に失われてしまいかねない。

     そこで、ネットとパソコンの活用である。

     ネットとパソコンを通じて、あらゆる分野の研究活動ができる
     ようにすればよい。

     それぞれの分野で研究活動に必要な知識を教授し、ソフトを配
     布し、研究成果を発表する場を作る。

     実験を必要とする分野については手薄になるが、これについて
     は、設備の集約化で対応しよう。ネットを通じて設備の使用状
     況を調整し、ひとつの設備の回転率を上げる。また、重複する
     実験を減らす。

     昔から、物理や数学は、紙と鉛筆さえあれば研究活動ほできる
     と言われてきた。パソコンとネットは、それを広範囲の科学に
     おいても可能にする方法である。

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