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独断と偏見で楽しむイタリア芸術

独断と偏見で楽しむイタリア芸術>掲示板

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  • from: シニョレッリさん

    2015年01月25日 10時29分05秒

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    本日、多忙につき休載します

    申し訳ありません。ピアチェンツァの市庁舎です。

    申し訳ありません。

    ピアチェンツァの市庁舎です。

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    from: シニョレッリさん

    2015年01月27日 09時31分38秒

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    cokemomoさん、コメント有難うございます。サン・サヴィーノ教会のクリプタですが、5年ほど前に入ったから、その後、一度も入ったことがありません。身

    from: シニョレッリさん

    2015年01月26日 08時45分16秒

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    ぐら姐さん、コメント有難うございます。モンタニャーナの生ハムは、見た感じの生度?(1年以上の熟成期間があるので生であるはずがありませんが)が高く食欲が

  • from: シニョレッリさん

    2015年01月24日 08時54分02秒

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    ルネサンス画家(68) アレッサンドロ・アルデンティ

    今回は、ルネサンス後期にルッカ、ピサ、ロンバルディア、トリノなどで活動した画家AlessandroArdentiを取り上げます。1539年にファエンツ

    今回は、ルネサンス後期にルッカ、ピサ、ロンバルディア、トリノなどで活動した画家Alessandro Ardentiを取り上げます。

    1539年にファエンツァ生まれというのが有力ですが、ルッカで生まれたという説もあり、生年と生地についての確実な記録が残されていません。

    現在、ルッカのサン・パオリーノ教会にある「聖母子と聖人たち」と同じルッカのサン・サルヴァトーレ教会にある「慈悲の聖母」の二作品が、彼の署名と制作年1565年が記された最初のものとなっています。

    生まれてから、その1565年の間、アレッサンドロに関する記録が一切残されておらず、修行と画風形成の過程が不明です。

    1572年までにルッカを離れ、恐らくピサに暫く滞在してから、サヴォイア家のEmanuele Filiberto伯爵から招聘され、トリノにある伯爵から与えられた家に1572年に移住しました。宮廷画家として数多くの肖像画を手掛けたとされています。

    1583年に結婚しました。
    1595年8月20日、トリノで死去しました。彼の死後、残された妻と子供に対して、サヴォイア家から遺族年金が支給されていた記録が毎年残されていたことから、アレッサンドロは可なり重用されていたことが分かります。

    彼の画風ですが、ルッカ時代は明らかにマニエリスム様式でしたが、トリノに移住後、次第にローマ・スタイルの古典風に転じていきました。

    トリノ時代の肖像画などの作品の殆どがトリノの国立図書館に残されていましたが、1904年の火災によって失われ、現存していません。

    では、彼の作品を見てみましょう。

    「羊飼いの礼拝」(会社蔵)

    「三位一体と聖フランチェスコと聖ジロラモ」 ルッカのサンタ・マリア・フォリスポルタム教会(写真下)にあります。

    これ以上、作品画像が見つかりません。

    アレッサンドロは、現在、殆ど忘れられた存在です。でも、私が彼に興味を持ったのは、ルッカで活躍中の画家が何故、トリノのサヴォイア家の目に留まり、宮廷画家として招聘されたのか、それに彼の死後、彼の遺族に年金が支給された事実を考えると、大した画家ではないと切り捨てられないと思うようになりました。
    そのようになってから、改めて彼の作品に接すると「かなり、いいね」と思う昨今です。

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  • from: シニョレッリさん

    2015年01月21日 09時54分25秒

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    街歩き(85) キオッジャ

    この時のキオッジャは秋の嵐で、街歩きどころではありませんでした。題名はいつも通りとしましたが、今回に限っては不適で「秋嵐の中のキオッジャ」が相応しかっ

    この時のキオッジャは秋の嵐で、街歩きどころではありませんでした。題名はいつも通りとしましたが、今回に限っては不適で「秋嵐の中のキオッジャ」が相応しかったと思います。

    ロヴィーゴからキオッジャまでFSの支線が走ってます。この時は、ロヴィーゴからキオッジャに向かいました。

    綺麗な新型車両に乗車しました。乗客は殆どおらず、ガラガラの車内でした。
    晴天ならば、アドリアに途中下車して大聖堂を見たかったのですが、かなりの降りだったので断念しました。

    終点キオッジャで降りたのは私一人でした。

    駅舎です。
    バールでも開いていれば、タクシーを待つ間、そこで一服と考えていましたが、バールは開いておらず、タクシーを呼ぼうにも電話番号の表示が一切なしでした。
    バスでもあれば、と思いましたが、停留所も見当たりません。
    どうやら歩く以外になさそうです。
    キオッジャには何回も来たことがありますが、何時もヴェネツィアからでした。勝手が分からなかったのは、その為です。

    駅前に教会があり、扉が開いていたので拝観することに。
    調べましたが、教会の名称が分からない!

    祭壇と後陣

    後陣のフレスコ画

    雨音が大きくなりました。教会内で暫く雨宿りをしました。

    雨音が小さくなったので、チェントロに向かうことにしました。

    地図に拠れば1.5㎞ほどありそうです。

    長い橋を渡ります。

    橋の上は風が強く、雨が横殴りに降ってきました。

    貝の養殖用の桟橋?

    大聖堂が見えてきました。

    もう一つ、橋を渡りました。

    この門の先がチェントロです。

    この日のお宿に行って、荷物を預けました。

    街歩きに出発しました。空が暗いですが、この時は雨風はそれほど強くありませんでした。
    (つづく)

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    from: シニョレッリさん

    2015年01月23日 09時46分47秒

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    街歩き(85)キオッジャ(その3最終回)聖堂内に殆ど人がいなくなったので、ゆっくりと拝観できました。拝観が終わって扉を開けたら、外は嵐でした。暫く雨宿

    from: シニョレッリさん

    2015年01月22日 09時46分05秒

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    街歩き(85)キオッジャ(その2)市立博物館に行くことにしました。写真のほぼ中央の茶色の建物が市立博物館です。この時は、歩けるほどの雨と風でした。Mu

  • from: シニョレッリさん

    2015年01月18日 08時07分10秒

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    ルネサンス芸術家(67) ジロラモ・アリブランディ別称ラッファエッロ・ダ・メッシーナ

    今の所、次回の旅でメッシーナに行く予定なので、久し振りにジロラモ・アリブランディの作品と再会できそうです。GirolamoAlibrandinotea

    今の所、次回の旅でメッシーナに行く予定なので、久し振りにジロラモ・アリブランディの作品と再会できそうです。

    Girolamo Alibrandi note anche come Raffaello da Messina(1470年頃メッシーナ生まれ~1524年頃メッシーナで没):
    盛期ルネサンスにメッシーナ、ヴェネツィア、ミラノ、ローマ、パルマなどで活動した画家です。

    メッシーナの無名画家に画家としての手ほどきを受け、その画家の工房で修業中に、当時、ヴェネツィアで活躍していた、生まれ故郷の先輩画家アントネッロ・ダ・メッシーナから誘いを受けて、ヴェネツィアに渡り、アントネッロに師事しました。
    また、アントネッロがヴェネツィアにいることを知ったジロラモがアントネッロを頼ってヴェネツィアに渡ったという説もあります。
    アントネッロに師事して、その修業中にジョルジョーネと知り合ったようです。

    その後、ミラノに赴きレオナルド・ダ・ヴィンチ工房で修業するようになり、レオナルド工房でチェーザレ・ダ・セストと知り合いになりました。
    何時頃ミラノ行ったのか、何故アントネッロの下を去りレオナルドに師事したのか、詳しいことは分からないようです。
    レオナルドの絵画上の主な弟子であるマルコ・ドッジョルノやベルナルディーノ・ルイーニらは、レオナルドの二回目のミラノ滞在である1506年から1507年に弟子となったことから、ジロラモがレオナルドに師事したのは、恐らくこの時ではないでしょうか。レオナルドがイル・モーロに仕えた一回目のミラノ滞在では絵画の弟子を採らなかったようです。

    しかしながら、私はこれらの説に対して疑問を持ってます。
    何故ならば、アントネッロのヴェネツィア滞在は1475年から1476年とされており、1470年頃に生まれたジロラモがヴェネツィアに赴いたのは僅か5歳か6歳の時となるので、俄かには信じられないのです。
    ただ、一時期、ジロラモの画風がチェーザレ・ダ・セストの模倣者であったことは確かなようですから、レオナルドに師事した可能性が高いと思います。

    短期間に終わったミラノ滞在の後、古典主義を学ぶためにローマに赴きました。ローマにおける滞在の期間中に、ラッファエッロの作品から強い影響を受けて、次第に画風をラッファエッロ・スタイルに転じるようになりました。「ラッファエッロ・ダ・メッシーナ」の名称はそれが由来となっています。

    ローマから一時期パルマに居住した後、生まれ故郷のメッシーナに戻りました。シチリア各地で仕事するため、メッシーナを離れることがありましたが、それを除けば終生メッシーナに留まりました。

    メッシーナを中心にシチリア各地で多くの仕事に従事しましたが、彼の作品の殆ど、特にフレスコ画は後のエトナ火山の噴火や地震によって失われてしましました。

    1524年頃、当時メッシーナで流行していたペストに罹患して死去しました。

    では、彼の作品を見てみましょう。現存する作品の多くがメッシーナのシチリア州立美術館で展示されてます。

    「玉座の聖母子」 シチリア州立美術館(メッシーナ)

    「最後の審判」 シチリア州立美術館(メッシーナ)

    「割礼」 シチリア州立美術館(メッシーナ)
    シチリア州立美術館はパレルモにもあるので、区別する必要があります。

    「アレッサンドリアの聖女カテリーナ」 シチリア州立美術館(メッシーナ)

    「聖ピエトロ」 シチリア州立美術館(メッシーナ)

    「聖パオロ」 シチリア州立美術館(メッシーナ)

    「キリストの教会への出現」 シチリア州立美術館(メッシーナ)

    「ジャルディーニの聖母」(1515-16) メッシーナ、Parrocchia di Santa Maria dei Giardiniにあります。
    この他にモディカ大聖堂の多翼祭壇画がありますが、これが現存する作品の中での最高傑作だと思います。(画像なし)

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    from: シニョレッリさん

    2015年01月19日 06時41分20秒

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    にょん太さん、コメント有難うございます。美術館や教会に行けば、資料でもあれば必ず入手することにしています。それらを読むと、往々にして辻褄が合わない記述

    from: にょん太さん

    2015年01月18日 15時51分18秒

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    シニョレッリさん、>アントネッロのヴェネツィア滞在は1475年から1476年とされており、1470年頃に生まれたジロラモがヴェネツィアに赴いたのは僅か

  • from: シニョレッリさん

    2015年01月17日 07時16分59秒

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    ルネサンス芸術家(66) トゥリーノ・ヴァンニ・ダ・リゴリ

    今回は、14世紀後半から15世紀前半にピサ、ジェノヴァ、サヴォーナなどで活躍した画家トゥリーノ・ヴァンニ・ダ・リゴリを取り上げます。TurinoVan

    今回は、14世紀後半から15世紀前半にピサ、ジェノヴァ、サヴォーナなどで活躍した画家トゥリーノ・ヴァンニ・ダ・リゴリを取り上げます。

    Turino Vanni da Rigoli(1348Rigoli-1438Pisa):1348年にピサ近くのリゴリ(現在のコムーネはサン・ジュリアーノ・テルメ)で生まれ、1438年またはそれ以降にピサで没しました。

    シエナ派の影響が強く認められる画風でしたが、修行時代や画風形成の過程が全く分かっていません。
    初期の作品は、タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ1362-1422)の模倣者に他ならなかったことから、タッデオに師事したか、タッデオ工房の協力者だったという説が出されています。
    また、バルナーバ・ダ・モデナ(モデナ1328c-1386c)の存在がトゥリーノの画風形成に資したとの説があります。この根拠は、恐らく、トゥリーノが1419年ピサ納骨堂のフレスコ画を修復した記録が残されており、その際、バルナーバが同じピサ納骨堂に作品を残しているので、それを目にして、或いはバルナーバの作品を修復した可能性があるからでしょう。
    ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニ(1368から活動記録ありー1415フィレンツェで没)と一緒に仕事をした記録があるそうです。
    現在、パレルモのシチリア州立美術館で展示されている「聖母子と大天使と音楽天使たち」(1380c)とルーブル美術館にある「聖母と天使たち」(元々パレルモの修道院にあったもの)の2作品がパレルモにあった理由が謎とされているようです。

    1438年に活動記録があり、長命で、死去は1438年か、それ以降でした。

    当然のことながら、宗教画が得意でした。(宗教画しか注文がない時代でしたから)
    では、彼の作品を見てみましょう。

    「聖女マルゲリータの祭壇画」(ヴァチカン美術館蔵)
    「玉座の聖母子と大天使たちと音楽天使たち」(ピサ、サン・フレディアーノ・ア・セッティーモ教会)

    「聖ブリジーダの幻視と誕生」(ピサ、サン・マッテオ美術館蔵)
    ピサで活動した画家と言うこともあって、ピサの国立サン・マッテオ美術館には幾つかの作品が残されています。(「聖母子と天使たち」「磔刑」「四聖人」「聖母子」「多翼祭壇画」「栄光のキリスト」「聖アントニオ・アバーテ」「聖アゴスティーノ」などの作品)

    ルネサンス期以前の作品が大好きな私にとっては、トゥリーノの作品は貴重な存在で、彼の作品がある場所は必ず訪れることにしています。

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  • from: シニョレッリさん

    2015年01月07日 14時33分54秒

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    イタリアって面白い

    イタリアって面白いですね。又もや、やってくれましたね。ローマの警察官の8割が大晦日にずる休み?したらしいですね。こんなの、我がニッポンでは考えられませ

    イタリアって面白いですね。
    又もや、やってくれましたね。

    ローマの警察官の8割が大晦日にずる休み?したらしいですね。こんなの、我がニッポンでは考えられませんね。警官の8割がいなくても支障がなかったそうですから、人員整理が可能と見るのは早計でしょうか。

    タイムカードを他人に押して貰って、その間、子供の送り迎えや買い物の精を出す地方公務員なんて、昨年報道されましたよね。

    私がよく経験する市立博物館、市立美術館などの臨時休館って、ひょっとして同じサボりの範疇?
    そう勘ぐりたくもなってきています。

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    from: にょん太さん

    2015年01月08日 13時14分35秒

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    ぐら姐さん、シニョレッリさん、観光でイタリアに行っている場合、このようなサボタージュに遭遇しても「また、例のイタリア流か」と思いながらも実害がなければ

    from: シニョレッリさん

    2015年01月08日 09時52分01秒

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    ぐら姐さん、コメント有難うございます。リミニのバス会社の話も酷いですね。毎年同じと言うことは、皆さんの周知のことなんでしょうね。それが通ってしまうとこ

  • from: シニョレッリさん

    2015年01月05日 09時48分02秒

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    美術館・教会巡り(353) アルバ、サン・ジュゼッペ教会

    さながら美術館のような教会と言われてきましたが、その目ぼしい作品の殆どが盗まれてしまったそうです。それらの代わりとして、寄贈された作品が祭壇を飾ってい

    さながら美術館のような教会と言われてきましたが、その目ぼしい作品の殆どが盗まれてしまったそうです。それらの代わりとして、寄贈された作品が祭壇を飾っています。

    初めに鐘楼に上るつもりでした。

    扉が閉まっていました。

    ファサード側に回りましたが、こちらも開いていませんでした。

    現在の建物は1656年に完成したバロック様式のもので、二代目に当たります。最初の教会は14-15世紀に建てられました。

    他を回って、教会の開く時間を待ちました。

    今度はどうでしょうか? 鐘楼は初代に建てられたものです。
    鐘楼の上り口は教会の内部にあると書いてあったので、ファサード側に回りました。

    今度は扉が開いていました。

    ファサードに向こうの空に黒い雲が。やがて稲妻が光り、雷鳴が。

    この写真は誰でしょうか?

    単廊式、バロック様式、ラテン十字形の内部です。

    身廊天井の装飾はCarlo PosteriaとVittore de Nicola di Locanoの二人によって18世紀に行われたそうです。


    主祭壇

    Carlo Posteriaによって装飾されたクーポラ(18世紀)

    こちらの「磔刑」は作者不明です。新しそうな作品なので、盗難後に寄贈されたものでしょうか?

    こちらも作者不明

    ジロラモ・ペスチェの「磔刑」

    Caterina Bergeseの作品だそうです。初めて聞く画家で、全然知りません。

    礼拝堂の名称が出ていました。

    作者不明

    サン・ピエトロ・エ・パオロ礼拝堂

    Vittore de Nicola di Locanoによるフレスコ画(18世紀)


    作者不明

    Maurizio Rinaudoの「ピエタ」
    これは現代の作品だと思います。

    これも作者不明
    時間が無くなりました。ここで一旦切ることにします。
    (つづく)

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    from: シニョレッリさん

    2015年01月06日 10時07分45秒

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    美術館・教会巡り(353)アルバ、サン・ジュゼッペ教会続きこれは立派な礼拝堂です。礼拝堂の左右の壁に祭壇画が幾つかありました。何となく新しい感じがする

  • from: シニョレッリさん

    2015年01月01日 11時19分50秒

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    ルネサンス芸術家(65) ソドマ

    皆様、新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。さて、今回のソドマですが、どなたがお書きになったのか分かりませんが、日本

    皆様、
    新年、明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願い申し上げます。

    さて、今回のソドマですが、どなたがお書きになったのか分かりませんが、日本語のウィキペディアに過不足ない優れた記述があるので、素人の私がこう書くのは僭越なのですが、そちらをご参照していただきたいと存じます。

    参照するのは面倒な方もいらっしゃると思いますので、簡単に書いておきましょう。

    Giovanni Antonio Bazzi, detto il Sodoma(1477ヴェルチェッリ生まれ-1549シエナで没):
    ピエモンテの画家Giovanni Martino Spanzotti(Casale Monferrato1455c-Chivasso1528c)(ザネット・ブガットとヴィンチェンツォ・フォッパの影響を受けた画風で、弟子にソドマのほかにデフェデンテ・フェッラーリがいます)に手ほどきを受けた後、当時ミラノで活躍していたGerolamo Giovenone(1486-1555)に師事しました。
    二度にわたるローマ滞在を除けば、生涯のほとんどをシエナで過ごし、シエナ共和国政府の付属画家として活躍しました。
    ミラノで修業した彼は、1503年ころ、シエナに移住しましたが、その理由は不明とされているものの、シエナの有力貴族から要請を受けたという説があります。
    伝統的なシエナ派様式を基調に、おそらくミラノにおける修行中に受けたレオナルド・だ・ヴィンチの影響を受けながら、16世紀ローマの世紀ルネサンス様式を付加させた手法で描いて、シエナにおける世紀ルネサンスからマニエリスムへの移行に大きく貢献をしたとされています。
    初期にはレオナルド・ダ・ヴィンチの強い影響を受けた画風で、彼の作品がレオナルドの作品とされた時期もあったほどでしたが、二度のローマ滞在中に次第にラッファエッロに傾倒して、最終的にラッファエッロ風の画風となりました。
    では、彼の作品をいくつか紹介しましょう。


    シエナ派絵画の殿堂、シエナ国立美術館です。

    「獄中のキリスト」(フレスコ)
    シエナ国立美術館にありますが、元々はシエナのサンタゴスティーノ教会にあったものです。

    「ゲッセマネ園で祈りキリスト」(フレスコ) シエナ国立美術館にありますが、これもサンタ・ゴスティーノ教会から移されたものです。

    「十字架降下」(1510) シエナ国立美術館蔵

    「ご誕生」(1504-05) シエナ国立美術館蔵

    「荊刑のキリスト」 シエナ国立美術館蔵

    「シエナの聖女カテリーナ」 シエナ国立美術館蔵

    シエナ市庁舎の市立美術館にも彼の作品があります。

    「聖家族と聖レオナルド」(1530c) シエナ市立美術館蔵

    アシャーノの参事会教会にも彼の作品があります。

    「玉座の聖母子と2大天使」(フレスコ)

    ミラノのブレラ絵画館にもソドマの作品があります。

    「捕縛されたキリスト」 ブレラ絵画館蔵
    有名美術館にもソドマの作品が展示されています。

    ウフィッツィ美術館にある「荊刑のキリスト」

    フィレンツェ、パラティーナ美術館にある「聖セバスティアーノ」(1525)

    ローマ、ボルゲーゼ美術館にある「ピエタ」(1540c)

    ローマの国立古典絵画館に2点の作品があります。これは、そのうちの一つである「サビーネ女たちの略奪」(1506-07)

    「聖女カテリーナの神秘な結婚」(1539-40) ローマ国立古典絵画館蔵
    以上の作品のどれもが彼の傑作や秀作ですが、代表作となると、やはりシエナのサン・ドメニコ聖堂のフレスコ画とアシャーノ郊外のモンテオリヴェート・マッジョーレ修道院にフレスコ画を挙げないわけにはいきません。

    シエナのサン・ドメニコ聖堂

    サン・ドメニコ聖堂のサンタ・カテリーナ礼拝堂です。

    サンタ・カテリーナ礼拝堂に描かれた「聖二コラの斬首」

    同礼拝堂の「聖痕を受けた聖女カテリーナ」

    テーマは「聖ベネデットの生涯」で、ソドマは17場面を担当しました。私が大好きなルカ・シニョレッリも、この修道院回廊に描きました。

    この他にもヴァチカン、ファルネジーナ荘などの傑作がありますが、写真を探すのが大変なので、この辺で作品紹介を終わりたいと思います。

    さて、ソドマについては、ヴァザーリの「列伝」でソドマの日ごろの行いを非難しています。これについては、ソドマが「列伝」を愚弄したことへの、ヴァザーリの仕返しと言う説が有力ですが、あながち根拠が全くないとは言い切れず、怠惰と浪費癖によって蓄えが全くなく、赤貧のうちに救護院で死んだとされているようです。

    モンテオリヴェート・マッジョーレのサン・ベネデット修道院のフレスコ画がある限り、ソドマの名前は後世に残り続けるだろうと思います。そして、私の大好きな画家の一人です。

    皆さんにはおかれましては、彼の作品を一瞥すれば、直ぐにソドマの作品だとお分かりになって欲しいものだと祈念して已みません。

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