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  • from: 一久さん

    2005年11月22日 21時04分37秒

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    儒者めいて候

    「一言にして終身これを行なうべきもの有りや」
    「それ如(思いやり)なるか」 論語

    ブッダのなぞかけ「人は雨に降られても天を恨まないが、他人に水をかけられると、相手を憎む。なぜか」「天は平等だからだ」という有名な言葉がある。けれども、平等ならば水をかけれても人は怒らないものだろうか。少なくとも現代社会ではそうではないようだ。

    もし、公平に何十人にも水をかけて回る男がいたら、雨に降られたように人はそれを受け入れるであろうか。そんなことはあるまい。ひとりだけ水をかけられるよりも大問題になるだろう。相手の男に悪意や犯意を明確に感じるからである。

    では、相手になんの悪意もないことが明らかであればどうだろうか。例えばスプリンクラーを過失で壊してしまって水が吹き出し、大勢の人が濡れた場合である。この場合、わざとかけられるよりは怒りが少ないかもしれないが、だからといって壊した人間が無罪放免される訳ではないだろう。やはり非難を受けることになるはずだ。

    公平で、悪意もない、なのに人がやったというだけで、雨に降られたようには納得できないのが人間というものである。なぜ納得できないのであろうか。

    それは、人間は人間に期待しているからである。なにを期待しているのかといえば、自分に対して「思いやり」をもってくれることを期待しているのである。スプリンクラーの近くにいる者は、過失でこれを破壊して水を吹き出したりしないように「気配り」することを期待されているのである。

    犬猫には感情がないという。人間だけが感情を持っているという。その感情の根源は、まさにこれであろう。つまり、「思いやり」である。

    思いやりを持つから人間である。思いやりを持ち、社会に貢献することが種としての繁栄を得ることになる、と理解できるだけの頭脳をもった唯一の生物だといえよう。

    いや、そんなのは一部の上等な人間だけであって、ほとんどの人間は自己主張はすれども思いやりなんて少ししかもたないだろう、というかもしれない。たぶんその通りだろう。しかし、そのような下等な人間はなにを要求しているのかといえば、要するに「俺のことを思いやってくれ」と言っているのである。

    上等な人間は他人を思いやり、下等な人間は他人に思いやってもらうことを要求する。正負の方向は逆でも、どちらも「思いやり」を重視していることに変わりはないのである。

    思いやってもらえた、と思えたとき愛情を感じ、思いやってもらっていないと思えたとき怒りをいだく。思いやりこそが感情の根源なのである。



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