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  • from: 一久さん

    2008年06月27日 21時22分53秒

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    大学の数

    大学の数

     旧制の学制を懐かしむ人々の中には、「大学の数をへらすべきだ」とかいう
    人が少なからずいる。

     しかし、私には、大学の数を減らすことは、かえって旧制の有り様から遠ざ
    かることになるであろうと思われる。

     というのは、戦前は確かに大学が少なかったが、それ以上に大学に入りたが
    る人間の数が少なかったのである。

     激烈な競争がある学部もあるにはあったが、それはごく一部のことで、東大
    でさえも、学部を問わなければ誰でも入れた。

     文学部のある教授は、「戦前の東大文学部なんて寝てても入れた」との意見
    にたいして、「私なんかそのクチですよ」と即座に肯定したという。

                  (小室直樹 「偏差値が日本を滅ぼす」より)

     ということになると、旧制の社会に近づけようとすれば、大学の数を減らす
    ことは、間違いであるということになる。

     駅弁大学のほうが、むしろ旧制の実体に近いのである。

     違っているのは、旧制においては一応学問の中身や学歴の価値が等しかった
    が、新制においては、大学間にカースト的な差別主義が登場したことである。

     それならば、成すべきことは明らかであろう。

     つまり、各大学間の学問レベルを共通の試験によって計ればいいのである。
    さらには、大学の枠から飛び出して、一般にその試験を公開すればよい。

     これほどAV技術が進歩した現代である。大学院レベルの講義を、DVD
    で作ることはさほど難しいことではない。

     これによって、誰でもが高度な学問にいつでも触れることができるように
    なる。そして、勉学の成果を試験によって世間に認めさせることもできる。

    「学問は自由に、学位は厳格に」 だ。

    __________________________________

    私見: 東大文学部の死

        前述のように、戦前の東大文学部には誰でも入れた。

        一高出の秀才でなくても入れたのである。ゆえに、戦前の作家や
        歌人には、東大出が多い。

        しかし、新制大学になって、そうではなくなってしまった。

        昔の一高に相当する「東大教養学部」に合格する秀才だけが、東
        大に入れることになった。

        となれば、秀才以外の文学的天才は、東大には入れない。

        戦前の多くの文学者は、現代に生まれたら、決して東大文学部に
        進学することはできないであろう。

        かくして、東大文学部は死んだ。

        旧制から新制に移行することで、いちばん損をしたのは東大文学
        部であろう。
     
        もはや、創造者の家ではなくなり、評論家の学校になったのだ。

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