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  • from: 一久さん

    2008年10月28日 06時55分10秒

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    電車内でマンガを読む行為について

    【電車でマンガを読む者は】

     電車内やホームでマンガを読んでいる人は、非常に低俗に見える。大の大人が、なんというなさけない姿をさらすのか、と世の識者はいう。私個人は、マンガ自体は低俗なものだとは断定しない(低俗なものもある、高尚なものもある)のであるが、しかし、実際にホームでマンガを読みながら電車を待っている人と、文庫本を読みながら待っている人とでは、やはり「マンガ人」は「なさけない人」に思えてしまうのだ。

     私はマンガに対して偏見を持っていない(と思う)。少なくとも、”識者”諸氏ほどにはマンガを不当差別してはいない。にも関わらず、電車でマンガを読む人に対する嫌悪感は、彼らと同じものを持ってしまう。これはなぜなのだろうか。

     そもそも、マンガと一般書籍との差はどこにあるのだろうか。活字だけの本を読んでいる人を見ても、なんの嫌悪感も催さない。なのに、絵の入っているマンガだと、そうではない。ということは、絵が入っていることにその原因が潜んでいると思われる。

     識者とかいう輩はよく「マンガは想像を限定する」とか言って批判するが、まさにこれこそが嫌悪感の元ではないだろうか。想像を限定するということは、その人が読んでいるマンガは、その瞬間において、その人の脳裏の映像と同じものだということである。それは可逆的にその人が電車内で手に持っているそのマンガ本は、その人の脳裏を映し出しているということでもある。

     つまり、マンガを読むという行為は、マンガ本という”鏡”に自分の脳内を映し出す行為と等しい、ということである。そのようなプライバシーの極致とでもいうものを不特定多数の他人に対して開陳している人、それが「電車でマンガを読む人」の正体である。これは、猥褻物陳列罪に近しい犯罪的行為だと言えよう。

     活字の本の場合、読む者は想像力を働かせて脳裏に映像を結ぶ。その本が見える場所に位置する他の乗客もまた、文字から内容を想像しなければならない。故に、活字の本は、マンガと違って、読む者の脳内を照らし出すような能力を持ち得ない。両者の想像する世界は同じではないからだ。「文字から想像する」という緩衝壁によって、二人の意識は距離を保つことができる。言ってみれば、「マンガ本は全裸、活字本は服を着ている状態」なのである。

     では、写真集はどうであろうか?これはマンガに近いのではないだろうか。しかし、マンガほどには嫌悪感を抱かせない。その訳は、いかなる写真といえども、写真イコール脳裏の映像となることはほとんどないからである。ヘアヌード写真集といえども、それを見る者は自分の感性によってそれぞれの解釈を加えている。横から目にする者も、そのことを知っている。裸体の写真に見入っているからといって、卑猥な想像をしているとは限らない。その人は芸術的に見入っているのであって、それをスケベな人だと思った者こそ卑猥なのかもしれないということを誰もが(子供は別にして)知っている。山岳写真や美術品の写真などになると、さらに想像力を使った観賞を要求されるので、同じ写真を見ても、同じ意識に到達することはない。見ているビジョンは同じでも、その意味がまるで違うのだ。それに対してマンガは、「絵の意味」さえも限定する。マンガの中で描かれた絵は、そのマンガのストーリー上の意味しか持たないのである。

     これらのことから、逆に、マンガというメディアの恐るべき伝達性能の高さが実感できる。活字本も写真集も、著作者がイメージした世界を伝えるという機能において、マンガに遠く及ばないということでもあるからだ。

     伝達性能といえば、テレビこそが最強ではないのか?電車に携帯テレビを持ち込む人間が現れたならば、マンガを読む人間よりも蔑まれるであろうか。どうもそうではないように思える。なぜならば、我々は家庭や職場において、大勢でテレビを見る機会があるが、そのような恥ずかしさを感じることはないからである。言い換えれば、テレビ番組というものは、マンガのように、一瞬でも個人の意識と同化する力はないということである。

     その理由としては、やはり第一に、受動性にある。いかなる人気番組といえども、流れてくるのを見るだけであるということ。ゆえに、いま見ているTV番組とは別に、それを評価する自我が存在している。「テレビと会話するオカン」の存在は、まさにそのことの証明である。時間進行が向こう任せであるという点も、受動的なるが故の特性であろう。ぼけっとしていると見逃したり、聞き逃したりする。その度に、自我を呼び起こされることになる。

     映像とマンガの違いは、時間進行の権限を制作者が持っているか、視聴・読者が持っているかだということができよう。普通一般には、進行をも含めて作品化される映像のほうがグレードが上だと思われているようである。制作者側が支配できる範囲は、確かにこのほうが大きい。だが、見る側の意識を支配できるのは、「時間」を読者任せにしたマンガのほうである。時間を作者が支配することによって、見る側は映像世界から脱落する可能性を持ち、作品世界から離れた視点で見るようになる。時間を支配しないほうが、より完璧な世界観の伝達が可能になるのである。

    【まとめ】

    マンガという手段の恐ろしさ

     マンガは、あらゆる想像を限定する。単に絵だけではなく、ストーリーの展開によってその意味さえも限定する。また、音響も照明も、文字と絵によって支配する。だが、時間は支配しない。時間を支配しないことによって、読む者の自我を支配する。能動的に読んでいるとき、自我は批判的にはなれない。自我が発揮されるのは、破綻を見付けたときか、想像力を求められた場合である。マンガとしての瑕疵がない作品を読む場合、マンガと読者の意識は完全に一致する。そのとき、マンガ本は、その人の脳内を他人にさらけ出す凶器となるのだ。

     マンガにも欠点がある。それは、読まれなければどうにもならないということである。時間を支配しないことの代償がこれである。

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