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  • from: 一久さん

    2009年07月23日 07時10分07秒

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    国家・政党・議会について

    国家・政党・議会

    ★ 強い国家とは何か


    独裁にせよ民主制にせよ、「強い国家」「優れた国家」とはどのようなものを
    いうのであろうか。ただし、例えばある戦争に勝つといった短期の目的を果た
    すという意味ではなく、何十年の長期にわたる時間単位において。

    過去の為政者の例からみれば、結局は新しい技術や方策を発見し採用した国家
    が繁栄するようである。

    ところで、新しい事を言う者を発見するということは、すなわち、今までかえ
    りみられることのなかった少数者の意見を採り上げるということである。

    少数者や弱者が持っている意見を聞き、その中に未来の国家の方針を発見する
    こと。これによく努める国家こそ強き国家であるといえる。

    強者や多数者の意見は努力せずとも誰もが知りうる。故に、そのなかには新し
    いものはない。少数者や弱者にこそ新しきものが潜在している。それじゃあ、
    現代の評論家などはなんなんだ、と思われるかも知れないが、彼らもまた少数
    者・弱者の類に属する。少数派であるからこそ、そうではない多数大衆に対し
    ていうべき内容を持つのであって、そうでなければ大衆のほうで彼らを見捨て
    るだろう。ごく一部の、陳腐な論調を繰り返すことが職業となってしまった宣
    伝マンのような人を除いて。

    少数意見が採用される可能性のあること、これこそが強い国家の根本的条件で
    ある。これは民主主義だけの話ではない。独裁制においても、封建制において
    もいえることである。(信長・秀吉をみよ)


    ★ 議会における少数意見の尊重

    上のことを現代の議会政治にあてはめれぼどういうことになるか。議会におい
    て決定権を持つ「殿様」は、議会議員の多数決である。しからば、議会政治に
    おいては、「少数意見が(多くの議員に認められて)、多数を制する可能性」
    の存在こそが最も重要なことであるといえる。

    民主制における少数意見の尊重とは、単に少数者が意見を述べる機会があると
    いうだけでは不十分であり、発案者以外の大衆がそれをよきものと認め賛意を
    表する場がなければならない。多数決の存在意義はここにある。多数決なしに
    は、少数意見が多数に支持されたことを現しようがないからである。

    少数意見は少数意見のまま採用されることは有り得ない。多数者に認められて
    初めて採用されるのである。だから採用された少数意見は正しくは「元・少数
    意見」なのである。(少数のまま少数意見が採用されるのは専制政治である)

    この意味において、少数意見の尊重と多数決は矛盾するものではなく、互いに
    必要としあう関係なのである。新しきものを得るために多数決は少数意見に耳
    を傾けることを必要とし、新しきものを採用させるために少数意見は多数決を
    必要とする。


    ★ 議員の自由と政党


    前段の少数意見の尊重を実現するためには、議員個人が自由に考え行動できな
    ければならない。そうでなければ、少数派の意見は絶対に多数派議員の支持を
    得ることはないであろう。

    ここから党議拘束に対する反対論が生まれる。

    各議員個人を政党の拘束から開放し、自由に討議させるべきだということにな
    る。出来うれば、政党自体をも解散・禁止し、ちょうど小学校のクラス会のよ
    うに、議員個人の頭と良識で議会を動かすべきである、となる。

    しかし、私の見るところ、これは無理スジである。

    なぜならば、個人の集まりよりも、徒党を組んだ集団のほうがはるかに強いか
    らである。また、各議員は、個人により重視する政策が違う。自分の軽視する
    議題については議決権を誰かに融通し、引き換えに自分の重視する裁決に協力
    してもらう、というような取り引きが起こらざるを得ない。党議拘束の廃止は、
    よりストレートな野合・利権争いを生むだけなのである。

    ではどうすべきか。

    私の考えでは、結局のところ、そういう行為をしないという盟約を結んだ者達
    の集団、という意味での政党をたてるより他ないと思える。

    武士は食わねど高楊枝、徒党もくまぬ、取り引きもせぬ。もし我をしてその疑
    いあらば何人にてもかまわず我を告発せよ、必ず身の潔白を証明してみせよう。
    万一、潔白を証明できぬときには、罪が立証されずとも、腹かっさばいて異心
    なきことを示さん。

    ....というような盟約のもとに政党を作り、その内部において「自由な討議」
    をする。政党とはかくあらねばならない。かかる稚気を持った人間でなければ
    政治を面白くすることはできない。

    それならば、とおっしゃるかもしれぬ。 国会議員全員に盟約をたてさせよと。

    だがそれは無理である。物理的に。

    なぜならば、全員が盟約した場合、違反者の処分はどうすればいいのだろうか、
    という問題が出てくるからである。まさか議席剥奪というわけにはいくまい。
    また、逆に、違反とする判定自体が間違いである可能性もゼロではない。なの
    にほとんど議会から締め出すような罰を加える権限があるのか、という問題も
    ある。それこそ少数意見の締め出しではないか。

    一政党の盟約であれば、違反者を除籍するという処分が成立する。処分された
    ほうも、比例代表制の議員を除けば国会議員の身分に変わりはなく活動を継続
    できる。自分を除籍した政党のほうが間違っていると信じるならば、自ら新し
    い盟約政党を旗揚げすることもできよう。

    このように、盟約政党はこの政党に属さない議員や、他の政党を必要とする。

    そして盟約政党同士の選挙戦は、どちらの政党が気高い盟約を守っているか、
    どちらがよりよい自由な討議をその内部に持っているかできまる。すなわち、
    政党内民主主義をどれだけ育てているかで決まるのである。

    政党というものは、かかる崇高な精神の盟約と、内部の自由民主を約束するも
    のでるが故に存在価値がある。しかして、我が国の政党やいかに?

    所属議員に気高き精神ありや? 政党内部に民主自由の気風ありや?


    ★ 民主主義のしぶとい強さ


    強い国家とは、新しきものを採り入れることの出来る国家であると述べてきた。
    そしてそれに最も適した政体こそが民主主義(そして資本主義)に他ならない。
    資本主義のほうは、また別の機会に述べることにして、ここでは民主主義の強さ
    について述べる。

    新しきものを採り入れる国家が強い国家だといっても、採り入れた新しきものが
    必ずしも優れたものであるとは限らない。とんでもない誤った選択をすることに
    なる可能性もおおいにある。

    それは馬鹿殿様の思い付きでも、審議を重ねた議会の決定にでも、共にあり得る
    ことである。誰がやっても間違いは必ずあるものだ。

    そんな危険を避けて、伝統的な生活に甘んじていれば安泰かというと、これもま
    た必ずしもそうではない。動くも危険、動かざるも危険、絶対の安寧などどこに
    もありはしない。

    では人はどうすればいいのか?

    正しき答えを予見することはできないが、起こった事態に対して処置をすること
    ならば可能である。そのために、どこへボールが飛んできてもいいように玉拾い
    を配置することは有効な防衛方法である。

    議会において政敵と討論をすること、少数意見に耳を傾けること、こうすること
    によって事態が思わぬ方向へ進んだときに玉を拾える範囲が増える。そういえば
    誰かがこういう事態を予見してたなぁ、ということになる。

    議会制度のもとでなくても、このような意見の収集は可能ではある。しかし、そ
    の場合には往々にして生死のやりとりに発展する恐れを含んでいる。気に食わぬ
    意見をいう人物を殺害すること、こと政治に関しては頻繁におこる。だがこれは
    国力の消耗以外の何ものでもない。

    気に食わぬ政敵も議会の中にプールしておく、これによって国家の後衛は厚みを
    増し、強い国家となることができる。ここにこそ、民主主義の強さの根元がある。

    ということは、たとえ民主主義を名乗っても、政敵を次々葬り去るような議会は
    民主議会本来の強さを持ち得ないことになる。フランス革命後の議会などはその
    例といえよう。もしあんなに殺しあわなければナポレオンの出る幕はなかったか
    もしれない。

    つまりは、民主主義の強さは、「正しい判断が下せる」というところにではなく、
    「間違えたときに修正がしやすい」という点にある。では、とりかえしのつかな
    い大失敗をやったら?

    心配御無用。 国民が存在する限りやりなおしは効く。なんせ国民主権というぐ
    らいで、国民あるところ国家あり、議会あり、やりなおしあり。

    では、国民が滅んだら?

    国民が滅亡してしまえば、そもそも「とりかえし」をつける必要がない。「とり
    かえし」をつけようという国民自体が、死滅してもはや存在しないのだから。

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