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  • from: 一久さん

    2010年01月26日 19時29分16秒

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    鳩山民主党は衆愚政治そのもの

    衆愚政治について 


    衆愚政治とはなにか。これについて考えてみよう。


     そもそも、衆愚の「衆」とはなにか? 何人以上ならば「衆」なのか?

     衆なるがゆえに愚である、とするならば、小数ならば賢であるのか? そんな
     ことはない。小数でも愚かな決定がなされることは少なくないし、これでいけ
     ば独裁者は常に正しいことになる。

     小数ならコミュニケーションが楽だから、賢で有り得るというのだろうか?
     そうともいえまい。小数でもデス・コミュニケーションに陥ることは少なくな
     い。むしろ、多数のほうが容易に解りあえることもある。例えば、小数であれ
     ば好悪の情が入る。多数のほうがまだしもそれは薄いだろう。

     賢者は小数であり、愚者は多数だからか? しかし、賢者が正しいという保証
     はどこにもない。第一、政治とは何が正しいか解らない物事について社会のゆ
     くべき道を決定する行為である。賢者とてなにが正しいのか判るものではない。

     もし判るのなら、政治はいらない。卑弥呼の時代のように一番の賢者の御神託
     に、すべてを任せればいい。

     現代日本の官僚達は、少なくとも偏差値という価値からみれば明らかに賢者で
     あろう。だが、彼らの政治が最高か? あるいは、戦前の軍官僚は東大出以上
     の秀才の集まりである(一番が陸海、二番が一高、だったそうだ)。彼らのやっ
     たことは賢者の行為であろうか。

     そもそも、「賢」とはなんなのか、「愚」とはなにを意味するのか?

     政治は何が正しいか解らないことについての決断をする行為であると先に述べ
     た。ならば、誰がやっても必ず失政は生まれる。失政こそが政治の本質なのだ。

     政治とは、判った風な顔をして御託をならべる行為ではなく、失政の痛手にの
     たうち廻りながら真理への道を模索する行動そのものなのである。

     ならば、失政をすることをもって愚であるとすることはできない。

     また、政治は結果論である。民衆が愚劣な言い合いをして出した結論でも、そ
     の結果が賢者達の出した結論を上回ることも有り得る。討議の質など無関係な
     のである。

     このように、政治においては、失政は愚ではないし、小数賢者も失政を犯す。
     しからば、衆愚政治という言葉には中身がないことになってしまう。

     衆愚政治は有名無実の虚構だったのである。


    * * *

     真の衆愚政治

     失政をもって愚とすることは出来ないと述べた。では何かもって愚とすること
     のできるものがあろうか?

     ある。それは、「政治を否定する行為」である。といってもそれはアナーキズ
     ムのような積極的な否定を意味するのではない。

     社会の行くべき道を決定するという政治の本分を見失った者達のことを愚とい
     う。すなわち、物事を決定できない人物や集団のことである。

     政治は決定の為にあるのに、決定ができないのであれば、それは愚であるとい
     うしかあるまい。

     すなわち、衆愚政治とは、衆である為に政治的決定のできない政治(もはや政
     治とはいえないが)のことである。

     しかし、考えてみたまえ。小数であっても決定の出来ない集団はいくらでもあ
     る。優柔不断な君主など、はいて捨てるほど存在した。これらは皆、衆愚であ
     る。

     それでは、直接民主による多数決はどうか。これほど愚から遠いものはない。
     必ず決定がなされるが故に。

     面白いことに、「衆愚政治」呼ばわりされる直接民主が実は最も衆愚政治から
     遠く、小数賢者による政治にこそその危険が高いことが明らかになった。


     そういえば、戦前の政府も、決断できないままに開戦に追い込まれたのであっ
     たし、旧社会党も決断できぬ状態で村山総理による独裁を迎えたのであった。
     ともに、衆愚政治の好例といえる。

     衆愚政治の最後は、独裁によるバンジージャンプである。決断できない状態は
     独裁に抵抗する能力をも奪い去る。どうにでもしてくれ、という気になる。

     現在の官僚達もまた、同様に衆愚と化しているのではないか。つまり、彼ら自
     身が、立て割り行政の弊害に毒されて、大胆な政策を決定できないのであろう。
     「省利庁役」に囚われて衆愚と化しているのである。

     ----------------------------------

    余論

     理想的な学者の世界は、典型的な衆愚政治である。

     学者が自由に研究することが出来るということは、つまりは政治的な決定を必
     要としないということを意味する。

     彼らは自らの学説を他と闘わせることはあっても、他を説得する必要はない。
     なにがしかの決定を導き出す必要はないのだ。

     彼らがする決定は、ただ自分の研究の内容についてだけである。

     かかる衆愚政治的状態においては、百家繚乱のごとくに様々な学説が花と咲く
     に違いない。理想的な研究環境である。

     もっとも実際には、彼らも政治をしなければならない。予算を取らなければな
     らないし、そのためには学内での地位も得なければならない。しかし、本質的
     に学者は衆愚である。衆愚願望こそが学者の本質である。

     ゆえに、学者を政治の世界に迎えるには注意が必要となる。

     もちろん、中には「政治学者」もいるが....梅さお忠夫氏は、「政治学者」と
     呼ばれた。衆愚ではなく、数々の予算獲得に辣腕を振るったからだ。
                        (本職は動物学・民族学)

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