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  • from: 一久さん

    2009年08月30日 20時31分31秒

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    教育論 序


    「教育論」 序文

    教育は国の大事なり。

    国が興隆するも貧窮するも、国民の労働と判断に負っているのが民主主義社会というものである以上、国民の教育こそが国家盛衰最大の因であると知らねばならない。福沢諭吉いわく、天は人の上に人を作らず、しかれども、学ぶと学ばざるによりて貧富・潔卑の差、無限に大なり、と。

    アダムスミスいわく、国富は国民の労働によりて生じる、と。しからば、労働をする国民の質、その知識・技量・分別を高めることこそ、国富を増やす手段であること明白である。

    ゆえに、教育は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。


    【青が赤くないといって責める】

    古今東西、教育論議は断えない。しかし、その多くは論議自体が噛み合っておらぬ。それはなぜなのか。それは、教育といってもその内容や目的が決してひとつではないからであり、多くの論者はそのことをも知らぬからである。

    例えば、イギリスが衰退したのは大学の居心地がよくて学界に優秀な人材が居残るようになってしまったからであるという説がある。学者にとってのイギリスの教育は最高ということだろう。アメリカからは日本よりもはるかに多くのノーベル賞受賞者が出ている。ならばアメリカの教育こそが最高なのか?北朝鮮や中国では、洗脳教育によって国民を「みごとに」統制している。これこそが最高の教育なのかもしれない。

    このように、教育とひとことでいっても、実は同じものを意味していない。絵画は様々な色で作り上げられているのに、個々の色について分析を行なわず、自分が見ている色だけについて主義主張を述べあっているのが現代日本の教育論議である。

    青を指さして「赤くないからイカン!」と言っているようなものだ。

    これからシリーズで教育について述べようと思う。

    教育という言葉は、多数の異なった「教育」の混濁物である。まずはその構成物質を解きあかして、ひとつずつに検討を加える。その成果を以て、現状の構成を分析し、どこがどう問題なのかを解明する。最後に、理想的な構成はどういうものなのか、そしてその実現の為にはなにをすればよいのか、具体的な施策を考える。



    シリーズ 教育 その1 一久


    【分割して考える】

    「群盲、像を撫でる」という。 細かく分断して考えるよりも、ひと目見たほうが確かであるということを言っているのであろう。しかし、科学は「群盲像を撫でる」でなければならない。

    なるほど、ひと目「像」を見れば、誰もが像とはこんなものかと納得いく。しかしそれはあくまでも像を見た個人の主観として像という動物を捕らえたにすぎない。

    像を見慣れた人には小像は小さい像だと思えるが、像を見たことのない人にとっては小像でも犬よりもはるかに大きい。像ってこんなにでかいのか、と思うだろう。

    これに対して「群盲」式科学的見方では、体長は何メートル、体重は何キログラム、生後何カ月、爪の形はどう、といった見方をする。誰がみても、3mの像は3mである。客観的事実を共有するためには、このような分析的な見方が必要なのである。


    【「教育」を腑分けする】


    では本題に入ろう。これから、教育という言葉を腑分けする。国家が施す教育には、目的の異なったいくつもの部類が存在する。それらを具体的に指摘することからはじめよう。

    まず、第一に国民はどうあるべきか、人と社会はいかにあるべきかを教えることを目的とする教育、すなわち、道徳教育がある。「いかに生きるべきか」ものごとの是非善悪を教えなければ、社会は決して平穏にはならぬ。決しておろそかにはできないものである。

    第二に、実際に社会で生活するための知識を持たせるという意味での教育がある。いわゆる「読み書きソロバン」である。

    第三に、実社会において成功し地位や富有や名声や熟練の技術を獲得するための教育がある。ホタルの光にいう「♪名を挙げ身を立て夜々励めよ」というやつだ。

    第四に、金や名誉ではなく純粋に学究に打ち込む人を育てるための教育がある。

    以上、「道徳」「生活」「技術・知識」「学究」、少なくとも、この四つの種類を内包しているのが「教育」というものなのである。

    これらの区別を考えにいれずに教育論議をするから、ある人は読み書きソロバンを、といい、あるひとはそれでは国際競争力が低下するといい、あるひとは道徳教育が大事だという。まるで話がかみあわなくなる。けだし、当然のことである。


    シリーズ 教育 2


    【道徳教育】

    人はいかに生きるべきか。それを教えるのが道徳教育である。

    しかし、考えてみればこれほど難しいものはない。なにが人として正しいのか本当のところは誰にも分らないのであるから。

    ゆえにこそ、宗教というものがある。神仏による教えを持ち出して、正しさの根拠にしようとするのである。

    日本人には馴染みのないこの手法だが、ムスリムなどにとっては自明のこととされる。逆に彼らはいう。神の教えでないのだとしたら、その「定め」が正しいかどうかをどうやって判別するというのか? と。

    ここに、日本人の無宗教性を解く鍵があるのかもしれない。日本人は人間の常識によって、「正しいかどうか」を判断できると信じている。

    クルアラーンも、聖書も仏典も論語もブードー教の教えも、すべて人間の常識という量りによって計測され、良きものは取り入れ、そうでないものは排除される。それが日本人の宗教との関わりかたである。

    ゆえに、日本には宗教は根付かず、しかし排除もされず、宗教の百貨店のような状況になる。神が正邪を決めるのではなく、人間が正邪を決めるのである。

    人はいかに生きるべきかは、またその国の歴史・文化によっても変わってくる。時代の要請によっても変化する。

    「道徳の時間」といえば、学校授業の付録みたいな扱いを受けているのが現状であろうけれども、本来これほど重要なものはないといえる。

    例えば、自由の意味、民主主義の意義、平等と不当差別、他人に対する配慮と自己主張の関係etc、授業において考えさせ、自分なりの答えを求めることをさせねばならないものが数多くある。

    歴史の時間にフランス革命について習ったぐらいで、なんで自由や民主主義の意味が分ろうか。道徳教育こそは、大一義的に重要な授業でなければならないのである。

    日本の歴史と伝統・文化に根ざしながら、世界中の哲学・宗教・倫理を加味して「人としてどうあるべきか」を明らかにするテキストを作り教授することが必要なのである。

    江戸時代、武士は庶民から尊敬されていた。武士だけが高い倫理性をもった教育を受けていたからである。


    シリーズ 教育 3


    生活の為の教育

    これは社会生活を送るために必要な教育、いわゆる「読み書きソロバン」である。しかし、現代社会においては、その知識量は単純な「読み書きソロバン」ではすまされない。

    少なくとも、新聞に載っている物事の意味を把握できるぐらいの基礎知識を習得させなければ、生活に必要な知識を与えたとは言えない。
    例えば、ケインズ理論の基礎を知らなければ、経済面の公定歩合がどうのという話を読んでも理解できまい。

    微分・積分を知らなければ、ちょっと高度な試験を受験する気にもならなくなる。英語を全く知らなければ、ダンボールに書かれた外国の社名さえも分らない。

    漢書や古文のいくつかぐらい知らないようでは、ちょっと高尚な話にはついていけなくなる。

    この生活のための教育というものは、このように広範かつ高度なものなのであり、決して安易なものではないのである。


    第二に、人の生活は、現状維持だけではなくて、より以上の生活を目指し改良を求めるという行為も内包している。そのためのキッカケを与えること、及び、より上位の知識・技能を習得する為の基礎知識を習得させることもまた、生活のための教育に含まれるべきなのである。

    ここで教師は肝に命じておくことがある。それは、学校で教え得ることは、あくまでも知識世界の一端にすぎず、真の学習は個々人の興味によって生徒自身が自ら進んで行なうものだということだ。

    教師のすべきことは、できる限り多くの知識を生徒達に触れさせ、興味を持てる対象を見つけ出させること、そして、それを学ぶのに必要な基礎知識を習得させること、なのである


    シリーズ 教育 4


    【技術・知識習得のための教育】

    これは知識を技術を習得して、より高い収入や技量を得ることを目指す人のための教育である。

    国家としては、このような高度な能力を持った人間が増えることは歓迎するべきものであり、そのことによって経済的にも文化的にも発展を期待できる。

    ひとり高度技術者の生活向上のためだけでなく、その人が技術を得たことによる波及効果によって、回りの普通の人々の生活もまた改善されるのである。

    食堂のオバチャンが講習会で新しい接客や料理方法を身につけてきたら、その店は繁盛し彼女の収入もアップすると同時に、その店の客はより美味い飯を喰うことができるようになる。

    国民ひとりひとりの能力が上がれば、社会全体が豊かに、暮らし易くなるのである。これこそが、識技習得のための教育の目的である。

    その対象は、なにも即物的な技術に限るものではない。例えば文芸の知識もその対象となり得る。ありとあらゆる技芸や知識を学習・習得できる環境作りが必要である。

    インターネットの発達は、それを容易にしていくことだろう。

    第一部 総括

    以上、教育とはなにか、その種別について述べてきた。様々な目的を持った教育があり、それぞれになすべきことがあるということが分ったと思う。

    次は、現実の日本の教育について考える。現代日本の教育の問題、それは言うまでもなく「受験」である。教育問題とは受験問題のことだ、と言っても過言ではない。すべてはここから始まり、ここに収束している。

    それぞれに成すべきことがあるはずの多々の教育が、互いにすべきことを出来ないでいる最大の原因もまた、「受験」である。

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