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  • from: 一久さん

    2010年06月30日 07時51分19秒

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    近代国家

    近代国家と民主主義


    「正しい」とはなにか?

    近代国家の一つの大きな特徴は、中性国家たることにある。

    引用:現代政治の思想と行動 丸山真男 著 未来社 増補版 P13/7-9

    それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的な立場をとり、
    そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)
    乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値
    から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。

    引用終わり

    さて、あるひとが、自分の考えている政策を正しいと信じることは、ある真理
    や道徳を正しいと信じることと、どれほどの違いがあるだろうか。いかに科学
    的根拠を並べ立てたところで、その政策が実際の場において検証されることが
    ないかぎり、それは真理や道徳と同じく、内容的価値の部類に属するものでし
    かないのである。

    そして、近代国家は、その主権の基礎をかかる内容的価値のうえには置かない
    ものであり、純粋に形式的なるものの上に置いているのである。

    このように見てくると、大衆の能力云々を直接民主制導入のためのネックとし
    て考えること自体がナンセンスであることがわかるだろう。審議の内容それ自
    体はどうでもいいことなのである。極論すれば、いやしなくとも、チラとテレ
    ビでみて裁決に参入するというだけの直接参加でも構わないのである。

    なにが正しいのかは、誰にもわからないのだから。

    例えば「音速を超える飛行機は作れない」というような命題が、つい数十年前
    までは、科学的常識として正しいとされていた。科学においてさえこのような
    ありさまである。ましてや社会関係の命題においておや。

    いかに俊才・英才が審議を尽くしたところで、正しい答えなどは見つかるもの
    ではない。だが、我々は決断をしなければならない。だからこそ政治が必要に
    なる。逆に、決断よりも真理の追究を優先するならば、その人は学者であって
    政治家ではない。

    プラトンの生きた時代の民主主義というものは、このような近代社会以降のそ
    れとは別物である。彼らは、あくまでもアテネ的正義の中に住んでいた。この
    ようにひとつの価値感のなかに安住することができるのであれば、民主主義は
    あまりよいものとはいえまい。全員がアテネ的正義を高いレベルで保持してい
    ることが前提となるからであり、もっとも優れた頭脳であるプラトンからすれ
    ば、自分よりレベルの低い大衆が価値あるものをぶちこわしにする、との反感
    を持つことはむしろ自然である。

    だが、現代においては、このようなひとつの価値観に社会正義を求めることは
    不可能である。我々は、他の価値観を持った世界と付き合わねばならないし、
    日々発達し開発される工業技術と新規開拓産業は、否応なく我々に価値観の変
    遷を迫るからである。

    西洋では「神は人間を飛ぶようには造らなかった」といって飛行機を否定する
    宗教があったそうな。これにたいして反論するものは、「じゃあ、神は人間を
    あんなにも速く走るようには造らなかったのに、我々は汽車にのって速く走る
    じゃないか、これもいかんはずだ」といったそうな。

    ★★★

    「正しいもの」はどこにもない。では何を基準として政治はなされるべきであ
    るのか。

    ひとつは、国民の命を基準にとる、直接民主の考え方であり、もうひとつは、
    動物的繁殖本能を基とする弱肉強食の考え方である。

    前者は、政治の責任は、結局は国民がその責めを負うのであるから、彼らが自
    ら判断することを絶対としなければならないという考えかたである。

    例えば、私がなんらかの政策を国民に提示して、それが否決されたとしよう。
    私はその提案によって明らかによい社会を作ることができると確信しているの
    であるが、国民多数がそれを否決した以上はどうしようもない。他日あるを期
    して再度啓蒙につとめるのみである。なぜならば、私の提案が図にあたって利
    益を得るのも、予期に反して失敗し損害を受けるのも、国民大衆だからである。
    神ならぬ私は、自分が正しいと思っているからといって、かよわき羊達を導く
    わけにはいかないのである。

    後者は、種・民族・国家の発展・興隆という自然界の摂理を判断の基準にする
    ことを意味する。種の保存、自然淘汰、弱い個の犠牲による種族の生き残り、
    優良遺伝子の確保と彼らによる指導・指揮による集団の繁栄。これらは、動物
    界においてはごく自然に存在する方式である。

    この考えに従えば、強いものが「かよわき羊達」を強引に引っ張っていけばい
    いことになる。強い者が、集団を引っ張る。これは、有史以来、ごく自然な統
    治形態であるといえよう。

    この方式の問題は、複雑化した現代社会において、なにをもって強いといえる
    のか、それが明白ではないということである。


    このふたつの考え方は、しかし、必ずしも反駁するものではない。

    真に強者たらんとすれば、大衆を味方にせねばならないし、大衆と一口にいっ
    ても、実際に影響力のあるのは彼らのなかの強い大衆だけだからだ。

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