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独断と偏見で楽しむイタリア芸術

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  • from: シニョレッリさん

    2013年06月30日 10時41分04秒

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    リナッシメント芸術家(39) ジュゼッペ・チェーザリ(ダルピーノ)



    カラヴァッジョを語るとき、カラヴァッジョとの関係で欠かすことが出来ない画家がカラヴァッジョの三歳年上のジュゼッペ・チェーザリ、通称カヴァリエーレ・ダルピーノまたはジュゼッピーノでしょう。

    Guseppe Cesari, detto Cavaliere d'Arpino o Il Giuseppino(1568アルピーノ生まれ~1640ローマで没):16世紀から17世紀前半のローマ絵画界にあって最も主導的な役割を果たしたマニエリスム画家です。
    ローマのマニエリスム画家ニッコロ・ポマランチオに師事して、ポマランチオ工房で修業しました。
    当初、力強いカラフルな画風でしたが、早くも17歳の1585年にはアッカデミア・ディ・サン・ルカのメンバーに選出されました。20歳ころに描いた明るく華やかで装飾性に富んだフレスコ画が注目され、中でも教皇クレメンス8世に気に入られ、22-23歳ころには多くの公的注文を受ける売れっ子画家になり、大聖年1600年に際して行われたサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の壁画装飾はダルピーノの監督下で行われました。
    気難しく怒りっぽい性格でしたが、上の人たちに対するときはその性格を隠して愛されるという、つまり追従が得意だったようです。 
    シクトゥス5世からも寵愛を受け、17世紀の最初の20年間ではローマで最も名声を得ていました。また、アッカデミア・ディ・サン・ルカの初代総裁フェデリーコ・ズッカーリの後を継いでローマ絵画界を牛耳るようになりました。
    しかしながら、1590年台にローマに現れたアンニーバレ・カラッチとカラヴァッジョによる新しい表現は、ローマ絵画界に於ける好みの変化を齎し、ダルピーノの名声は次第に色あせたものとなったのです。
    明るさと華やかさで一時は時代の寵児となりましたが、その作品の多くは繰り返しの空虚なもので、ローマ絵画界の好みの変化に応じたとされる後期の作品も革新性とは無縁の存在でした。
    直接の弟子はムーツィオとベルナルディーノの二人の息子しかいませんでしたが、ダルピーノの繁栄した工房にはカラヴァッジョの他にピア・フランチェスコ・モーラ、フランチェスコ・アッレグリーニ・ダ・グッビオ、グイド・ウバルド・アバティーニ、ヴィンチェンツォ・マネンティ、ベルナルディーノ・パラゾーレらがいました。また、ジョヴァンニ・バリオーネは協力者でした。
    カラヴァッジョとグイド・レーニの才能を早くから見出したのがダルピーノと言われています。(後述します)
    という事で、現在の評価としては、取るに足らない画家に近いというところが適切でしょう。

    さて、カラヴァッジョとの関わりに話を進めましょう。

    ダルピーノ25歳の1593年、カラヴァッジョがダルピーノ工房に加わり、花や果物を描く仕事に従事しました。二人の関係はカラヴァッジョがダルピーノの助手を務めたという説がありますが、実際はダルピーノに入門した格好だと思います。ダルピーノがカラヴァッジョの死後も作品を持っていたこと(ボルゲーゼ美術館の「果物かごを持った少年」や「病めるバッカス」)から、ダルピーノがカラヴァッジョの類稀な才能を見抜いていたことは確かでしょう。
    ダルピーノ工房でカラヴァッジョは画家プロスぺロ・オルシと親友になり(オルシはカラヴァッジョの15歳年上)、オルシの勧めによってダルピーノを僅か8か月で辞めてしまいます。その間、カラヴァッジョは馬に蹴られた怪我治療のため入院するのですが、ダルピーノは一度も見舞いに行かなかったそうです。その為、ダルピーノとカラヴァッジョの関係が悪いとの説があります。また、関係は良好だったという説の二つの説がありますが、真偽はどちらなのでしょうか。

    関係が良好だった説の根拠:
    ①ダルピーノがカラヴァッジョの死後もカラヴァッジョ作品を持っていた。
    ②有名なバリオーネ裁判で、カラヴァッジョは尋問を受けましたが、その尋問で当時ローマで活動した画家のうち、優れた画家5人を挙げていますが、その中に一人がダルピーノでした。
    関係が悪かったら、優れた画家には推さないでしょう。

    関係が悪かった説の根拠:
    これはカルロ・チェーザレ・マルヴァシアCarlo Cesare Malvasia(1616-1693)が著した「グイド・レーニの伝記」が根拠のようです。
    その伝記の中で、「ボルゲーゼ枢機卿が一旦カラヴァッジョに注文することに決めた「聖ペテロの逆さ磔」の話を聞きつけたダルピーノは『レーニならばカラヴァッジョ風に描ける』と枢機卿を説得して、一転してレーニが描くことになった」と述べています。その伝記では「カラヴァッジョはダルピーノの不倶戴天の敵」とか、「そのグイドの作品を見たカラヴァッジョは、レーニが強力な自分の競争相手と見做し、折に触れてカラヴァッジョはレーニを脅した」などと書かれています。
    少し脱線しますが、ここで、そのグイド・レーニの「聖ペテロの逆さ磔」を見てみましょう。

    確かにレーニの作品の中では、カラヴァッジョの影響が最も強くうかがえます。

    では、ダルピーノの作品を幾つか見ることにしましょう。

    ボルゲーゼ美術館にある「キリストの背信」(1596-97)です。

    ボルゲーゼ美術館で展示されている「エジプトへの逃避」(1595)です。これがダルピーノの最も優れた作品だと思います。

    ローマ、国立古典絵画館(バルベリーニ宮)の「ラザロの蘇生」(1592)です。

    ローマ、サンティ・ビアージョ・エ・カルロ・アル・カティナーリ教会の「嘲笑されるキリスト」(1598c)です。

    ローマ、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂パウリネ礼拝堂の天井装飾(フレスコ)(1600c)です。

    ローマ、サンタンジェロ城国立博物館の「プロスぺロ・ファリナッチオの肖像」(1607c)です。

    以上の他に私が観たダルピーノの作品リストを載せて、この項を終わることにしましょう。(最近、私が観た作品を画家別に整理する作業をさぼっているので不完全です)
    ローマ、コルシーニ美術館:「ラザロの蘇生」
    ローマ、カピトリーノ美術館:「サビーネ女の掠奪(フレスコ)」(1635-36)「ホラッティとクリアッティの戦闘(フレスコ)」(1612-13)

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    maria nono ぐら姐

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