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  • from: 倭寇の末裔さん

    2011年10月09日 07時32分23秒

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    未曾有の異才、天才快男児 (14)

    このような8年に亘る努力が報いられ、1923年、実に関東大震災の翌日、第二次山本内閣が成立し、村上は居を内閣書記官長官邸に移して、山本伯の一大手腕発揮を補佐していたが、12月27日、帝国議会開院式に向かう途中の裕仁摂政殿下が難波大助に狙撃された「虎ノ門事件」発生の責任を取って、翌1月6日内閣は総辞職した。
    ・「勝手連」元祖の村上貞一
     戦後の話であるが、かって北海道知事に立候補し、当選を果たした横道節夫を勝手に応援する会なるものが結成され、勝手に選挙応援をしたことがあった。新聞はこれに「勝手連」というニックネ-ムを付けた。
     村上の権兵衛担ぎの大運動は、まさにこの「勝手連」の元祖とも言うべきものであった。ただ、違うのは、たった一人の「勝手連」であったという点である。
     前述のように、山本伯支援のネットワ-ク造りに命を懸けて活動した村上だが、その経過を逐一山本に報告することもなかったであろう。伯も村上が勝手にやっていることだし、自分は進んで政権を取ろうという気もなかったのだから、「どうなっているか」などと、聞きもしなかったであろうと思う。
     ただ、頻繁には会っていたようだから、誰と会い、政治、経済、外交、軍事に関してどのように言っていたかくらいの対談は密にやっていたであろう。。それが、また、何とも言えぬ、面白い二人の関係なのである。
     こういう、朝から晩までの権兵衛担ぎのネットワ-ク造りの活動だから、当然それに専念するために、朝日新聞記者は辞めていたのであろう。

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