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カジュアル哲学 (続)

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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月28日 08時53分38秒

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    人はどう生くべきか (2)

    こう書くと、読者は、「それではお前は何をやるんだ」と言う疑問を持つであろう。
     そこで、筆者自身のことを少し書くことにしよう。
     筆者は人生後半のテ-マとして、哲学的思考の本を書くことにしたのである。
     もともと、考えることと書くことが好きで、経営コンサルタント時代から何冊も書物を出していたし、コンサルティングの仕事を終えたら、少し視野を広げてこういう分野の本を書こうと思っていたのである。
     その理由は、哲学をもっと身近なものにできないかということである。
     哲学者は日本にもかなりおられるが、いずれも先人哲学者の哲学説の解説みたいなことに終始しており、哲学が日常生活上何の役にも立っていないことが気に掛かっていた。
     哲学は一口で言えば、物事の真理を模索、探求する学問だから、身辺の事象の根底にある真理を模索、探求するすることも哲学の範疇にあるはずだと思うのである。それをカジュアル哲学と名付けて書き始めたら、年に一冊づつ書くみことになり、それが10年を超えたのである。
     それは独りよがりの独り言であるかも知れないが、この種の本は売れるはずもなく、これで稼ぐつもりもないから、筆者の考えを残すというだけで良いのである。いわば筆者の長い長い遺書である。
     この活動は死ぬまで続けるつもりでいる。これで、死ぬ間際に「おれの人生はこれで良かったのだ」と思うことが出来るつもりではいるのだが。
     これが筆者が人生後半の生き方として選んだ道である。
     どんな生き方を選ぶかは、人様々であって当然であるが、「おれの人生はこれでよかったんだ」と思えるようにしてもらいたいだけである。


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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月26日 10時04分41秒

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    人はどう生くべきか (1)

    「自分らしく生きたい」というような声が多いが、その自分らしくとというのは、「自分が好きなように」ということで、その希望はほとんど叶えられないのが実態のようだ。
     人がこの世に生を受けたということは、有り難いことである。
    この有り難いというのは、「ありがとう」の意味ではなく、父母の結婚と卵子と精子の偶然の結合という偶然の重なりで生まれてきたもので、軌跡に近いという意味である。
     だから、折角もらった命を「どう行生くべきか」を考えることは大切なことだと思う。
     若いうちにそれを考えても、夢を追う妄想みたいなもので終わってしまう。少女が、白馬に跨がった王子様が迎えに来てくれると妄想するのと同じである。
     本気でそれを考えるのは、男の場合では40歳代後半以降、つまり自分の先行きがほぼ見えてきたと感じる頃であり、女の場合は、子育てがほぼ終わった頃であろう。
     それ以降を人生の後半だとすれば、この人生の後半こそが、「自分がどう生くべきか」の舞台になると思う。それまでの人生は自分で決めるというより、自分ではない他の要因で決まってきた人生だからである。
     進学くらいは自分の意思で決められるが、就職、就職先での職場の選択などは自分の希望通りには行かないのが当たり前なのだ。結婚して家庭を持てば、自分の意思を曲げても、家族のために働かねばならなくなる。
     それが前半までの人生の実態なのだ。だから、自分の自由がきき易くなるのは後半の人生からということになるのである。
    さて、この後半の人生で何をしようとするのかは、いままでの人生の延長線上にないものであっても、勿論構わないし、全く新しい方向であってもよい。
     そんなことは考えないで自然に時の経過に任せて生涯を送る人がほとんどであるが、それでもよい。
     また、こうしようと考えていることが、世に害をもたらすよすなことでは困るが、そうでない限り、単なる個人満足や道楽に類することであっても良いと思う。人生の後半は、自遊時間(Time in on your side)として、自由に活用することは許されてよいと思うからである。
     それは何のためにやるのか。一回限りの人生の満足度を高めるためにやるのだ。人生を閉じる間際に「これで良かったんだ。やりたいことはやった」と思えるようにするためにやるのだ。
     


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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月24日 10時08分06秒

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    遊びの真理 (2)

    20世紀に活躍したフランスの哲学者、文芸評論家カイヨワは、「遊び」と言えるには次の条件が必要だと云っている。
     自由、隔離、未確定(結果が初めから決まっていない)、非生産的、規則(ル-ルがある)、虚構(非現実的)の六つである。
     しかし、遊びには当然この六つの属性的要素は揃っているから、遊びの区分とは関係ない。
     筆者は遊びを次の4つに区分している。
     第一は「ものまね」である。
     時実は、子どもの例を挙げていたが、大人の遊びにもある。例えば、「コスプレ」「女装」などがある。
     第二は「勝負事」である。
     碁、将棋、マ-ジャンなど、作戦、駆け引きの面白さと勝ち負けの刺激を楽しむものである。
     第三は、趣味型である。
     山登り、スキ-、テニス、釣り、コレクションなどがある。
     夜のバ-、キャバレ-などの夜遊びもこの分類にはいるであろう。
     第四は芸術型である。
     これも趣味型の一種だが、芸術の匂いの強いものである。絵画、楽器演奏、歌唱などがある。
     同じ事の短サイクルの繰り返しでは、飽きてしまい、つまらなくなり、このような遊びが必要になるのだ。
     これらが繰り返し人生にうんざりすることを回避させる息抜きの手立てになっているが、遊びは気分転換だけでなく、疲労回復の効用もあると思う。これが遊びの真理である。
     遊ぶ暇もなく、働きづくめの人はうつになったり、過労死するというは事実も沢山あるのである。
     働きづくめでもなく、暇があっても遊ばない人もいるが、そういう人は、暇の間に疲労回復をしており、遊びという疲労回復の手段をとることを必要としない人であろう。
     村上新八




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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月23日 10時36分59秒

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    遊びの真理 (1)

    「遊び」という言葉で第一に連想するのは子どもである。
    「あそびをせむとや生まれけん」と述べたのは兼好法師だと思うが、子どもはあそびの天才だ。
     我々も子どもの頃、年上の子からいろいろな遊び方教えてもらったものだ。それは主に外での遊びであった。夕方暗くなるまで遊んでいて、よく親に叱られたものである。ところが、今の子どもは外で外で集団で遊んでいるのは見たことがない。珍しく4,5人で頭を寄せているなと、覗いたら各自がスマホでゲ-ムをやっていた。がっかりした。
     遊びを分析した時実利彦によると、遊びは四つに分類できるという。
     その第一は「模倣」である。
     子どもの遊びの「戦争ごっこ」や「追いかけごっこ」がそれであるという。彼はこれは成長の準備のためで、成長すればやめると云う。が、結果的にはそうなるかも知れないが、子どもはそんな狙いでこの遊びを考えたのではないと思う。男の子にとっては、在り余る子どものエネルギ-を使って動き回るに適している遊びだから自然に戦争ごっこや追いかけごっこになったものであろう。
     第二の遊びは「憂さ晴らし」だという。
     人間の大脳皮質のうち、とりわけ前頭連合野の発達で、理性的な能力が発達し、その下にある大脳周辺部の本能的欲求や情動が抑制され、それがフラストレ-ションをため込むことになる。それを発散させるのが「憂さ晴らしの遊び」であり、「歌唱」や「踊り」がそれであると言う。
     憂さ晴らしといえば、酒を飲むことが第一、女性なら「めちゃ食い」や「めちゃ買い」であろう。憂さ晴らしのために歌を歌ったりダンスをするというのは希だと思う。
     第三の遊びは「代償満足」だという。
     人間は、誰でも負けん気や優越感、権力欲、名誉欲を持っているが、それが叶えられる人は希である。その他の人はその感覚は味わえない。そこで、その代償としてゴルフ、マ-ジャンなどの勝負事で代償満足を得るのであるという。
     この説もやや無理がある。代償満足としてパワ-ハラスメントをやるのはあるだろうが、勝負事をやるというのはこじつけ過ぎる。
     勝負事にのめりこむ人は、駆け引きの面白さと、勝った時の快感が忘れられないからである。それが依存症にもつながるのである。
     第四の遊びは学問、芸術であるという。
     学問、芸術の分野で創造的な仕事をすることは最も人間的であると言う。「人間的」という意味は、人間にしか出来ないという意味であろう。
     しかし、学問、芸術は、仕事であって遊びではない。

     以上、遊びについての時実利彦の説を挙げてみたがどうもピンとこない。筆者の考え方を挙げておこう。

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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月21日 12時37分09秒

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    終活 (2)

     ところで、人生しまい方の準備とは何か。町には「エンディングノ-ト」とか称して、お節介な項目を沢山掲げたノ-トが積まれているが、みるだけでうんざりする。
     しまい方の準備とは、一口で言えば、残された人に負担を掛けないようにしておくということである。
     そのためには、いくつか決めておかねばならないことがある。
     ・遺産の相続争いが起こらないようにする。
      遺産を巡っての相続争いは無残である。それが起こらぬようにするには遺言書をきちんと書いておくのが良い。それに不満を持つ者がいても争いにまではならない。
     ・自分の死後、遺族の生活が円滑にゆくようにしておく
     生前、何でも自分で処理して来た人の場合は、残された妻や家族は忽ちとまどってしまう。
     葬儀や火葬などの手続きは、葬儀屋が代行してくれるからそれに任せればよいが、遺族自身でやらねばならないことも多い。
     
     預金している銀行が分からない、どんな有価証券がどれだけあるのか分からない、保険の請求手続きも分からない、借金の関係も分からない、等々である。
     これを100%なくすことは無理であるが、出来るだけ遺族のとまどいをなくすようにマニュアルを残しておくなどの配慮は必要不可欠である。
     ・書籍や趣味に伴うものの処分
     これはやらねばならないと思っていても、なかなか出来ないものである。そのうちに、そのうちに、と思っていてもやる機会がなくなってしまうのが通常であろう。そうなると意識すれば、思い切ってやる機会き決められるのである。
     とにかく、終活の哲学は、「死者は生者を煩わすべからず」ということであると思う。
     筆者も遺書はとっくに書いて銀行の金庫にしまってあるが、筆者の場合は、法定相続人は妻一人だから簡単である。
     筆者が最大の力を注いだのは、筆者の最後の著書になる「世界と人間をよみ解く」と題した10巻を超えるカジュアル哲学のシリ-ズである。このシリ-ズを書き始めて11年を超えるが死ぬまで書くつもりでいる。
     この手の本は読者はごく限られるが、それは承知にの上で世の中に対する筆者の長い長い遺書のつもりで書いているのである。
     これが筆者の終活である。
     村上新八
      

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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月21日 11時27分01秒

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    終渇 (1)

    「活」という字を頭につけた用語が大分ある。「部活」「就活」「婚活」などである。
     この用語は、中学校で放課後にやる部活動を略した「部活」から始まったもので「就活」は就職活動、「婚活」は結婚の相手探しの活動を意味する。「終活」は人生の締めくくり、つまり死の準備を意味する予後である。
     この用語が流行りだしたのは、高齢社会化が深刻になり始め、高齢者が増えて、人生を閉じる人が急増したからであろう。
     すべての生物にとって、死は当然である。
     「生は死の始まり」とか「人は無の深淵に差し掛けられた存在だ」なとい言葉があるが、人は若いうちは、親族、縁者の死には遭ってはいても、自分が重病でも罹っていない限り、自分の死などということは全く頭の隅にもない時期なのだ。それでよいのである。
     人が長生きするようになった今では、この時期が50歳台半ばくらいまで続くのではないか。人生のしめくくりを考えるのは、定年を過ぎて、生活習慣病が出たり、重い病に罹ったときくらいであろう。
     最近「終わった人」という映画が盛んに宣伝されている。これは定年を迎えたサラリ-マンの話であろうと思う。定年まで仕事一途で働き続け、定年を迎えたときには、家には居場所がないと感じたり、暇をもてあまして、家族からも邪魔にされるようになってしまったというような話ではないかと思う。が、定年が人生のしまい方を考える時期ではないと思う。


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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月14日 11時58分42秒

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    人は何故生きるのか

     「人は何故生きるのか」こんな命題がある。
     人は父母の結びつきと、精子、卵子の全く偶然の結びつきによって生まれる。当然のことながら、自分の意思とは全く無関係である。
     生まれて、乳幼児期から義務教育が終わるまでの15年予は、本人の意思とは無関係に保護者によって生かされている時期である。
     高校、大学の時期になると将来の自分の生き方を考え始めるであろう。
     そのころになると「自分の生き甲斐は何か」を自問することもあろう。それはあくまで「生き甲斐」であって「なぜ生きるか」ではない。何をするために生きるのか、何が生き甲斐なのかである。
     それに対して、直截に「セックスができなければ生きている値打ちはない」とか「彼女と一緒になれなければ生きている価値はない」と思う人もいるであろう。それは生き甲斐を感じるための条件であって、「人は何故生きるのか」ということではない、単に生き方を考えるのだ。パトス的なものであって、ロゴス的なものではないのだ。
     この「生き方」とは世間のどのへんに自分の居場所を見つけるか、ということである。
     自分が生きてゆく居場所を見つけるには、まず生活の資を得る仕事、職業をどうするかである。これはなかなか希望通りにはゆかない。
     自分を雇ってくれるところがあれば、そこでやらされる仕事が職業になる場合が多い。
     こうして、収入のめどがついて職業として身についてくれば、やがて結婚し
    て、家庭を築き、妻子を養わねばならぬことになる。
     そうなると、自分と家族のために生きるという時期に入る。
     こうして定年まで働き、そのあとは年金生活に入り、死ぬまで続くということである。
     これが人の一生である。
     つまり、自分の意思とは無関係にこの世に生まれて、自分の居場所をみつけ、そこで一生を終えるということである。
     「人は何故生きるか」という命題は、「人は何故生まれるのか」という命題と同様にナンセンスな命題である。
     もし哲学的な問いかけをするとすれば、「人はどう生きるべきか」と問うべきであろう。
     村上新八

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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月14日 10時46分03秒

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    パワ-ハラスメント

    筆者が子どもの頃は、職人さんになるために大工や左官などの親方のところへ丁稚奉公をする子が多かった。当時は義務教育が小学校までだったから、12~3歳くらいから丁稚奉公に出されたのであろう。
     年はかない子が町なかで、かんなや金槌の柄で親方に打たれている光景をみて、可哀想だと思った記憶がある。
     その頃は、職人は「技は盗んで覚えろ」という言葉があったように、丁稚は親方の仕事振りを見て、技を覚えるのが当たり前で、間違ったらなぐられるだけ、親方が言葉で教えることはまずなかったようである。これは今様に云えばパワ-ハラスメントそのものであったのだ。
     中学校の教室でも、宿題を忘れたりすると、先生に教科書の背で頭を叩かれた。固い表紙の教科書をたたんだ状態で叩かれるから、結構痛かった記憶がある。当時は、そんなパワ-ハラスメントが当たり前であったのだ。
     ハラスメントにもいろいろある。一番古くて有名なのはセクシャルハラスメントだが、その他にドクタ-ハラスメントもある。しかし、最も件数が多いのはパワ-ハランメントだと言われるが、実際はセクシャルハラスメントが最多であるが、我慢して表に出ないから、というのが実態であろうと思う。
     2018年当時の財務省の事務次官がセクハラ事件を起し、辞任した際に、当時の麻生財務大臣は「セクハラ罪はない」と云って物議をかもしたことがあった。罪にはならないのだからやってもよいというように聞こえたからである。
     確かに、セクハラ罪もパワハラ罪もない。が、これは「へそから下のことは大目にみる」とか「訓練に多少の暴力はやむを得ない」といった日本の伝統によるものであろう。
     しかし、セクハラ行為は自己コントロ-ルできるものであるから、罰則付のセクハラ罪を決めることは良いと思うが、パワハラは、そう簡単ではない。
     自分のポストを笠に着た、人前での過度の威嚇、叱咤、暴行が禁止されるのは当然であろうが、そうではなく、陰湿なパワハラもあるのだ。
     2017-18年に起きた、財務省理財局での公文書の隠匿、廃棄、改ざん事案は、阿倍総理夫妻の森友学園、加計学園問題への係わりをぼかそうとする財務省上層部の思惑で、厭がる部下に強要して渋々やらせたもので、そのために自殺者まで出しているのである。これも外的圧力による立派なパワハラ行為である。
     このような外的圧力によるパワハラ行為は、実行者の正義感が強ければ回避できる行為であるからと云って、当人の責に帰することは酷に過ぎよう。それを拒否すれば左遷に繋がるからである。
     このような問題を完全になくすのは、外的圧力を掛けねばならなくなるような根本原因、すなわち阿倍の親近者優先の不適切行政をなくすことしかないのである。そのためには、この問題をうやむやに終わらせず、阿倍の責任を糾弾し、処分することが求められるのだ。
     村上新八
     

     

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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月08日 14時25分39秒

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    親がここまで残酷になれるのか

     こんなに悲しい事件はない。
     5歳の養女が、両親から食事も十分に与えられず、暖房もない部屋に置き去りにされて衰弱の果て餓死した事件である。
     大変可愛い子で、小学校に入学前にひらがなで、次のようなしっかりした手紙を書いている。
    「パパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりもあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるしてください おねがいします」
    「ほんとうにおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから やめるから もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします」
     何を叱られたのかは分からないが、きちんとした文章になてっいる。頭の良さが分かる。
     しかも、毎日目覚まし時計を自分で掛けて、起床時間をノ-トにつけていたという。起床時間は何と4時半だった。
     まだ5歳で、こんなことが出来る子はいないのではないか。
     こんな可愛い、利口な女の子に何というひどい仕打ちをしたのだろう。足にはしもやけの跡もあったという。屋外のベランダにでも閉め出されていのであろう。
     衰弱しきっていた女の子は病院にも診せなかった。虐待がばれるのが怖かったからだという。死なせたら猶怖いことになるとも思わなかったのであろうか。
     こんな悲しい仕打ちができるのは鬼しかいないのではないか。悲しい、悲しい事件である。
     この子は女の連れ子で、現在の父親は実父ではないというが、子どもを手厚く保護する義務は変わらないはずである。母親は自分の立場が危うくなるのを懼れて黙認していたという。
     この家族は、香川県から東京へ越してきて間もないそうで、香川でも二度ほど児童保護を受けていたことがあったことから、マスコミは、公の児童保護の制度や連携上の不備を批判している。
     本件の場合は、そういう経緯があるのだから、保護連携をもっと丁寧にやれば防げた感があるからそれも問題としなければならぬことは分かる。
     が、子連れ女が再婚の夫選びの間違いが最大の要因であったのだ。これもその女の子どもに対する愛情の希薄さ故なのであろう。そう言う女は子を産む資格がないのだ。
     こうなると、社会全体で子を守る仕組みでも考える必要があるのではないか。
     村上新八
     
     
     

     
     
     
     

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  • from:倭寇の末裔さん

    2018年06月08日 08時56分54秒

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    裁量労働制の妥当性 (2)

     今一つの理由は、いまにして思うのだが、仕事が面白く趣味みたいになっていたから、仕事が苦痛とは全く感じていなかったからであろう。だから、休日になって仕事から解放されてほっと一息というような感じは全く持たなかった。
     朝日新聞に週一回連載されている「仕事力」というコラムがあり、毎回執筆者を変えて掲載されている。筆者はこれを読んだことはない。仕事をするやり方は個人個人によって違う。その仕事の種類とか各個人の特性によって異なるはずだから、他人の真似をしてもだめ、参考にはならないと思うからである。
     最高の仕事力は、仕事に面白みを見つけ出し、仕事をすることが自分の趣味になることである。これが最高の仕事力であって、その結果の善し悪しは別である。こういう心境になれば、残業代もへちまもなくなる。
     それはともかく、裁量労働制で気になるのは、何を目安にして報酬を支払うかである。かっての目標管理制度のように、高すぎる目標を立てて、達成できなかったら評価が低くなるのも良くないし、経営者側の恣意的な裁量で報酬が決められるのは更にまずい。
     その点では、経営コンサルタントの場合は、クライアント先でのコンサルティングの継続期間やコンサルティング規模など恣意的にはなりようがない客観的な目安があるから、報酬の裁量基準は明確であった。
     加重労働にならないようにするとともに、この点をクリア-にしておくことが大切であると思う。
     村上新八


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