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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月31日 10時16分23秒

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    無思慮への警告 (6)

     仮に、アイヒマンがその職務執行を拒んだとしたらどうなったであろうか。この仮説こそア-レントの望むところであったであろうが、アイヒマンは、命令反抗の罪で左遷されるだけでなく、まかり間違えば、アウシュビッツにぶち込まれたかもしれないのだ。
     
     アイヒマンがいなくても、ヒットラ-の確固たる信念であった、ユダヤ人絶滅計画は、他の推進責任者を据えて遂行されたことは間違いないのである。
     アーレントが評価するであろう話は、日本にもあったのだ。
     それは、1940年当時、バルト海の小国リトワニアの日本領事館の領事、杉原千畝の行った人道的行為である。
     当時、日本外務省は、同盟国ドイツとの関係で、ユダヤ人には冷たく、日本の外国公館に対しては、ユダヤ人に対するビザ発行は禁止していた。
     ところが、リトワニアの日本領事館に、ナチスの牙を逃れた沢山のユダヤ人がビザの発行を求めて押し寄せたのだ。
     事情を知っている杉原は、外務省の訓令を無視して、領事館退去までの2,3日の間に日に夜をついでビザを発給し続け、転勤のための列車が発車するまでビザ発行作業をし、6000人ものユダヤ人の命を救ったのである。
     その後、杉原はブルガリアやチェコの領事館に勤務し、敗戦で47年に日本に帰国したが、抗命理由で外務省から強制的に退職させられたのである。
     この杉原の場合は、多数のユダヤ人の命を救ったという効果があったから、、その後の杉原の不遇も報いられたが、ホロコ-ストの場合はそうはゆかなかったことは確かである。

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月30日 08時58分12秒

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    無思慮への警告 (5)

    正論ではあるが、これだけでは問題が残る。
     これは、そのような命令が、人間の尊厳を踏みにじるものであることを受命者が独自で判断してよいかという点である。
     この命令を下す上司に対して、違法であるということを訴えても、承服されることはないであろう。上司が一旦下した命令を撤回するようなことはまず考えられないからである。
     特に、絶対に混乱させてはならない軍命令であれば、それを裁判に掛けて当否を争うようなことは許されないであろう。とすると、命令を拒否する場合には、下命者が職位を賭してやるということになるのだ。
     しかし、命令の内容によっては、それが人権蹂躙の犯罪的命令であるかどうか、を容易に認識できるものもある。その場合に、それを認識しながら、上司の命令に服従するのだから、その命令遂行の責任は問われまいと思って、執行した場合には執行者の責任追及は免れないことになる。
     ユタヤ人に対するナチスのホロコ-ストは、まさにその事例であると思う。
     アイヒマンか゛「上からの命令に従ったまでだから、無罪だ」という主張には、その前に、彼は言ったかどうかは別として、人権蹂躙の悪法であるという認識は持ってはいたが、という言葉が付くのである。

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月28日 08時00分56秒

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    無思慮への警告? (4)


    ・違法命令と行為者の責任
     公務員による公務執行は、法令に基づいて自分が実施する場合と、上司の命令に服従して執行する場合があるが、いずれも法令に準拠したものであるから、違法性を阻却する。
     これは「行政の統一性の維持」とか「官庁組織統一の維持」の理由に基くものであると言われる。
     しかし、こんな理屈を振り回さなくても、組織体がものごとをやる場合に「上意下達」が途中で途切れてしまったら、ものごとが遂行されず、管理が出来なくなるから、下命への服従は当然のことである。
     しかし、この考え方を厳格に貫けば、上司からの下命あるいは、法令そのものが違法あるいは不当と認める場合にも命令への服従を拒むことが出来ないということになる。
     アイヒマン裁判で、彼があくまで無罪を主張したのも、この考え方を盾にしたのである。
     ここで、違法あるいは不当というのは、職務権限を逸脱している命令とか、その形式手続きに瑕疵がある命令(この場合には服従する必要はない)ということではなく、ジェノサイドのように、人権無視とか人倫に悖るような命令ないしは法令の場合である。
     
     この点について、西ドイツの防衛刑法では、人間の尊厳を侵害するような命令が遵守されない場合には、不服従は無存在しない旨が規定されているという。これが正論である。

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月27日 08時25分02秒

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    無思慮への警告? (3)

    官民を問わずこのような事例はある。
     このアイヒマン裁判の判決に対するア-レントの所見は次のようなものであった。
     「君が大量虐殺の道具となったのは、ひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお大量虐殺の政策を敢行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治というの子どもの遊びではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族およびいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む-あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み、誰が住んではならないかを決める権利を持っているかのように-政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、即ち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ、しかもその唯一の理由である」
     ひどい悪文だか、言わんとしていることは分かるし、このような立場に置かれたら、誰もがアイヒマンと同じ行動をとるであろうと推察するア-レントの考え方も分かる。
     
     また、アイヒマンが、何の罪とがもない何百万人ものユダヤ人の虐殺を指揮した責任者として断罪されたのは当然である

     このようなジェノサイトが「陳腐な悪」なのか「無思慮の結果」なのかは、後で論じることにして、その前に、法令あるいは上官の下命の下に行われた受命者の反人道的な犯罪の執行についてどう考えるべきかの問題がある。

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月26日 08時38分07秒

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    無思慮への警告 (2)

     この種の裁判の被告人弁明と同じく、アイヒマンは、「自分は上司の命令に従っただけだから無罪である」と幾度も主張したに違いない。それをアーレントは、機械的に上司の下命に対応するだけの凡庸な無思慮の男と断定し、その行為を「陳腐な悪」と決め付けたのである。
     
    ・「悪の陳腐さ」という警告
     この警告は、誰でも普通の人がアイヒマンの立場に置かれたら、彼と同じような罪を犯すであろう。そのような立場に置かれると、思考停止のに陥ってしまい、倫理に反することであると感じてはいても、その内なる良心の声には耳を塞いで、その下命に盲従してしまう過ちを犯すであろうことを指摘しているのである。
     官民を問わず、組織体に所属する人は法令や規則、上司の指揮、命令には、従わざるを得ないことは当然である。
     特に軍隊の場合は、それは絶対的な義務である。軍国主義時代の日本軍隊のバイブルとも言うべき「戦陣訓」にも「上官の命は朕が命と心得べし」と書かれていたのである。つまり上官の命令は天皇陛下の命令と同じく、絶対的なものとして受け取れというのである。
     これは分かる。一秒を争う戦闘の場で、上官の命令に反論したり、疑義を唱えて議論する余裕はなく、即対応しなければならないから、平素から上官の命令は絶対的なものとして徹底させておかねばならないからである。
     アーレントの言う思考停止とは、この規律に盲従することを言うのであろう。が、その上官からの命令が、一般倫理に悖るものであれば、その命令に盲従してそれを執行したとすれば、それは誰もが犯しうる陳腐に罪なのだと警告しているのである。

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月24日 08時20分49秒

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    無思慮への警告? (1)

    ユダヤ系ドイツ人でアメリカに亡命した哲学者、アンナ・ア-レントが説いた「陳腐な悪」という考え方が、今見直されている。
     これは、彼女がナチスのユダヤ人絶滅計画の推進者であったアイヒマンの裁判を傍聴した所見から考え出された思想で、昨今頻発している,上からの命令でなされる非人道行為に対する警告として見直されているのである。その考え方を紹介し、検討してみよう。
     ・アレン・ア-レントのアイヒマン裁判の印象
     ナチスドイツの親衛隊の将校で、第二次大戦中に、保安本部秘密警察局ユダヤ人絶滅計画の実行責任者として、ユダヤ人数百万人の虐殺を指揮した男がいた。アイヒマンである。
     彼はドイツ敗戦後アルゼンチンに潜伏していたが、1960年にイスラエルの特務部門に発見され、エルサレムでま裁判で有罪となり絞首刑を執行された。
     この裁判を傍聴したア-レントは、それの報告記事を雑誌に発表した。
     そのなかで、ア-レントは、アイヒマンについて、この男は世間で言うような悪魔的な男ではなく、上からの命令に機械的に服従するだけの平凡な男だったと喝破し、そのような悪を「悪の陳腐さ」と名付けた。
     この彼女の判断は、ナチスを擁護するものだと非難されたが、そうは思わない。この裁判を傍聴した人は誰でも同様な印象を持ったであろうと思うからである。

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月19日 06時51分57秒

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    孤高の居心地 (11)

     特定の人が創案した技術、技法であっても、そのやり方が分かれば他の人でも出来るものであれば、それが普及することになるから、その創案者は、尊敬されても、孤高の立場になることはない。
     しかし、それが属人性が高い、つまり創案者でなければ、簡単に真似も出来ない技術、技法であれば、他に普及することもないから、その創案者は、孤高化されることになる。
     ところで、その由来を異にする二つの孤高では、その当事者の感じ方も異なる。
     自分が択んでそうなることを決めた孤高の場合は、当人は一国一城の主、お山の大将のような気分で、自由な創作環境に満足しているであろう。その悦びで、孤独感などは消し飛ばされてしまっているであろう。
     それに対して、自然発生的に孤高の立場に立たされた当人は、クライアントにも上層部にも評価されているやり方を継続するしかないから、孤高の立場は変わらず継続されることになろう。
     しかし、こういう人は、周囲からの陰口や嫉妬含みの憎まれ口にも恬淡としているから、表立った反目や争いは起こらず、平穏な環境で推移していくであろう。
     言うなれば、「孤高の空」とも言うべき心境なのである。


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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月16日 13時51分33秒

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    孤高の居心地 (10)

    ・孤高の居心地
     孤高は孤立して単独で居る状態であるが、 孤高といっても、他から弾かれて隔離状態になっているとか、社会的に疎まれてなって疎外状態になっているのでもなく、単に、他人との距離を置いているのが、孤高である。
     この状態になる経緯は二通りある。
     その一つは、前もにも述べたが、芸術家などが、仲間社会に容れられない独自の作風を守りたいなどの事情がある場合に、他の同業との距離ををとって過ごす場合である。
     いま一つは、自然発生的ににそういう状態になっている場合である。
     ある人が独特の能力と機能を持って、業績を上げたとする。彼の上司はこぞってそれを評価するが、彼とコンペチ関係にある人たちからは敬遠されることになる場合がある。その技能を他の人には真似できない場合などにはそうなる場合が多い。
     それは、彼が変人だとか、不快であるからという理由ではない単に、嫉妬とか羨望によるものだ。
     彼自身は、そのような事情を知らない場合が多いから、普通に振舞っているし、いろいろ陰口を叩かれても、そんなことには関心がないから彼の耳には届かないのである。
     たとえ知ったとしても、彼としてはその姿勢を変えようがないのだ。



     
     

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月14日 08時11分50秒

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    孤高の居心地 (9)

    しかし、この小説の主人公の登山家加藤を「孤高の人」と言うのは妥当ではないと思う。
     加藤は登山家だが、単独登山こそ本当の登山だとか、チ-ムを組んで他人の援けを借りる必要はないとか、何が独自の登山哲学みたいなものがあって、登山仲間を造らなかったのではなく、登山チ-ムにも入る気持ちも充分あったのだが、仲間としての仁義を切らなかったため、拒否されたのである。そのためやむを得ず単独登山を余儀なくされていたという感じである。
     それが珍しいから「単独行動の加藤」などというニックネ-ムを付けられたことになったのだ。
     その意味で、彼は孤独の登山家とは言えるが孤高の登山家とは言えないと思う。
     最後に自分を尊敬してやまない青年登山家のたつての願いに応じて、初めてチ-ムを組んで登山し、遭難したのは、単独では登山を見合わせたであろう、厳しい気象条件の下での登山を敢行したためではないだろうか。
     それは青年の期待に応えるためであったのか、彼が自分の技量を青年に誇示するために引き受けたのかは分からない。
    いずれにせよ、この小説の題名は、妥当とは言えないと思う。
     

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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年07月13日 09時57分33秒

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    孤高の居心地 (8)

    ・新田次郎の小説「孤高の人」
     作家新田次郎の小説に「孤高の人」というのがある。
     孤高というテ-マを取上げているからには、この有名な小説に触れないわけにはゆかない。
     この小説は、実在の登山家、加藤文太郎をモデルに書かれたものである。
    加藤は学歴は高等小学校を経て、県立工業学校の夜間部卒ながら、当時は大学卒しかなれなかった、三菱重工の前身である神戸内燃機製造会社で技師にまで登用されるほどの優秀なエンジニアであった。
     新田次郎の「孤高の人」のあらましは次の通りである。
     山に登ることで心の安らぎを得ていた少年、加藤は造船所に入社後も登山は続けていた。やがて彼は、雪山に挑戦するようになったが、他の登山者とは打ち解ける解けるのが苦手で、彼を受け容れてくれる他のパ-ティもなかった。
     彼はその孤独に立ち向うように、単独で雪山に挑戦し、「単独行動の加藤」という不動の名をものにした。
     30歳を過ぎて、両親が整えた結婚をし、人が変わったように愛想よくなった加藤は、生まれて初めて人生の楽しみを知ったのであった。
     その加藤を尊敬する青年のたっての願いで、彼は生まれて初めて二人のパ-ティを組んで登山し遭難死するのである。
     これが小説のあらましである。


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