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  • from: 倭寇の末裔さん

    2014年10月13日 07時05分55秒

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    知性と教養とどちらが大事 (5)


    ・教養の意味
     一般的には、博識の人、博学の人を教養ある人と言う。教養は雑学とは違う、雑学は単なるもの物知りで、いろいろ雑事に詳しいが、学問や芸術とは無関係な雑知識だから、物知りとは言っても教養人とは言わない。
     教養はよい印象ばかりではない。「教養をひけらかす」という言葉があるように、虚飾的な見せびらかしをする人も少なくないのだ。ニーチェは、こういう人を「教養の俗物」と言って切り捨てたが、教養のない人がやる行為であると思う。
     という言い方がされるのは、真に教養のある人は、どこか品がよく、ノ-ブレス・オブリッジの振る舞いが期待されているからであろう。
     教養はドイツ語ではbildungという。これに日本で「教養」という熟語を宛てたのである。このドイツ語は、直訳すれば陶冶の意である。つまり人を教育訓練することである。
     ヘ-ゲルは、これを三段階に分けて論じている。
    その第一は「真実なる精神」で個人と全体とが調和した古代ギリシャの人倫の世界に対応するもの。第二は「自己に疎遠になった精神」つまり自己疎外的な精神で、本来人間の所産であった社会が人間に対して疎遠な現実として立ち現れわれるようになった中世から近世にかけての封建社会、君主制社会に対応する。この疎遠な社会で認められるためには、自分の自然のあり方を否定し、普遍的な存在へと自己を変えてゆかねばならない。そういう教養を積むことによって初めて人はそのなかで通用する存在となるのである。
     ヘーゲルはこの時期の欧州社会の本質を教養という概念で捉えている。そういう形でパタ-ンか化されなければ通用しない時代であったのであろう。それはおそらくは、ラテン語を勉強するとか、キリスト教の抹香くさいシルクハットみたいなものであったのであろう。
     
     第三が「自分自身を確信する精神」の段階であるとしている。
     もっともこれはヘーゲル特有の哲学的解釈で、一般には違和感があるから、この説は捨象して、博学、博識を教養と考えることにする。



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