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  • from: 倭寇の末裔さん

    2017年07月27日 11時01分57秒

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    哲学がない

     思想でも活動でも、「哲学がない」というようなことがよく言われる。
     この場合の哲学とは、物事の真理という意味ではなく、その考え方なり、活動なりを根底から支える不変の信念、心棒、核心みたいなものを云うのである。
     たとえば、診療の哲学は、「生命だけは平等だ」というようなことになろうし、怪我や病で損なった身体機能を回復させるリハビリテ-ションの哲学は「寝たきりを造らない」ということになろう。
     この考え方が心棒にあれば、貧富の差や膚の色の差に関係なく診療を施さなくてはならないということになろうし、リハビリテ-ションでは全力を挙げて損なわれている身体機能の回復に務めねばならないということになるのである。
     この意味の哲学は、それが正しいか否かを当ものではない。その正否は別として、この理念、精神で貫いてゆこうということがはっきりしておれば良いのである。
     政治の場合には、「都民ファ-スト」も「アメリカファ-スト」も哲学である。
     このような意味での哲学がないと、活動がふらついたり、偏ったり、違う方向へ走るということにもなりかねないから、これを防ぐためにも哲学が必要なのである。
     因みに筆者の人生哲学は、「死ぬ間際に、おれの人生はこれで良かったと思えるようにすること」である。
     北朝鮮の政治哲学は「金正恩体制の維持」ということであろうが、この哲学が誤りであることは云うまてもあるまい。
     この意味の哲学は不変のものである必要はなく、しょっちゅう変わるのは困るが、状況の変化に応じて変わることは差し支えないと思う。
     この意味の哲学を明確にすることは、「日常の哲学」を考える上での第三のプロセスであると思う。それをいろいろな日常生活事象について模索してみよう。
     以下に述べる、日常事象についての哲学は、あくまで筆者がそう思うということであるから、読者が反対であっても構わないし、読者なりの哲学を確立してもらえば良いのである。


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