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from: ぐら姐さん
3時間前
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ラツィオの4.はチヴィタ・ディ・バーニョレージョです。
’09年12月にローマから日帰りで行きました。
ローマからオルヴィエートへ行き、オルヴィエート〜バーニョレージョのバスに乗ろうと思っていたのですが、日曜は運行無し、平日でも学校のない日は少ない、ということが事前にわかっていたので、オルヴィエートの駅に着いたらまずタクシーでバーニョレージョへ行くつもりでした。
ところが駅に待機しているタクシーは5人乗れるワゴンタイプのものがなくて、2台だと結構高くつくので、いずれにしろオルヴィエートのまちには行くつもりだったので、バスでまちへ行き、インフォメーションで5人が乗れる車を手配してもらいました。(私はイプさん、ペコさんとローマに滞在中で、Gina夫妻と部分合流していたのです)
チヴィタには車では行かれないので、例の橋の入り口あの辺りで下車。
まずは写真撮影会。
この当時は入村料のようなものはありませんでしたので、そのまま橋を渡りました。
見上げると、門が見えてきました。
この門からまちに入りました。
チヴィタは、少なくとも2,500年以上前にエトルリア人によって築かれたとされ、かつては5つの港を結ぶ交易の街として栄えたと言われているそうです。
自然の浸食によって集落の佇む丘は徐々に削られ、追い打ちをかけるように発生した三度に及ぶ地震が村に壊滅的な被害をもたらました。
特に1794年に起きた2回目の地震によって生じた土砂崩れは、村を結んでいた自然の橋を巻き込み、ほとんどの住民は丘の麓の街へと避難せざるを得ませんでした。
1965年にようやく鉄筋コンクリートの橋が架けられ、今のような姿になったのだそうですが、’21年現在で住人は11人だそうです。
まちを散歩
教会もありました。
ブルスケッタの店に入りました。
暖炉の炭火でパンを焼くのでした。
香ばしくてとても美味しかった!
このまちには古いまち並みがそのまま残っていますが、あまり生活臭を感じません。近くのまちから、ここへ通っている人が多いように感じました。(多いと言っても、何十人もいるわけではないでしょうが)。
ここに住んで生活を維持することは、かなり厳しいことなのだと思います。
観光客向けの食事処や土産物屋などがちらほらあり、それで何とか成り立っているような。それでも仕方がないのだろうなぁ、それでもいいからこのまちが滅びることなく存続してほしいと思いました。icon
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from: ぐら姐さん
2024年04月22日 15時34分29秒
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ラツィオの3.は、タルクィーニアです。
'12年1月に行きました。
ローマから所要1時間15分ほどなので、日帰りで見に行く人が多いようですが、そのまちの夜の顔も朝の顔も見てのんびりしたいと思ったので1泊しました。
エトルリアの墳墓群があるところで、チェルヴェテリとセットで世界遺産に指定されています。
エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群で、古代ギリシアとは異なる独自の文化を持っていたそうです。
当時としては高い建築技術を持ち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされたとか。
その墳墓群は、翌朝観に行くことにして、初日は国立博物館を観ました。
墳墓群から見つかった棺などが多数展示されています。
棺の上にはその亡くなった人の彫刻。
棺の側面には、人となりを表す彫刻や絵がついています。
ここの一番の見ものが「戦車を牽く有翼の馬」
紀元前4〜3世紀の優れたテラコッタ彫刻だそうです。
アクロポリスに近いアーラ・デッラ・レジーナ神殿の破風を飾っていたと推定されています。
朝、エトルリアの地下墳墓、ネクローポリを目指しました。
街から2kmほどの距離と書いてありましたが、実際に歩くともっと近く感じました。
思いのほか海も近くて。
これがネクローポリの入り口。
チケットを買って入ると、ひろーい敷地が目の前に広がっています。
この、小さな家のようなものが、墓の入り口です。
墳墓の入り口を入ると階段があります。
降りていくと、墓の中には入れないようにガラス張りの扉に鍵がかけてられていて
横にあるボタンを押すと中のライトが灯り、ガラス越しに見るようになっています。
うわあ・・・
二千数百年前の墓の絵が、こんなに鮮やかに残っているなんて・・・
地下だからなのでしょうね。
あちこち壁は剥がれ落ちているものの、描かれているものはかなり見えます。
階段は2人並ぶのがやっとぐらいの幅なので、
混んでいる時期や時間帯だと見るのがとてもたいへんそうです。
お陰様で、冬なのによい天気だし、朝イチで行ったのでほとんど人はいないし、
このガラス越しの鑑賞を独り占めできました。
特に見事だったのが「LEOPARDOの墓」
色鮮やかに正面にも側面にも隅にも、見事な絵が残っているのです。
階段を下りては観て、また上り、少し歩いて他の墳墓の階段をまた下りて・・・を何度も繰り返し、たっぷりと楽しんで街へと戻りました。
街の門です。
そして城壁。
街に戻ると、この日は市が立っていました。
宿の近くの街並み。
市庁舎(初日の夕方に撮りました)
遠くに海が見えます。
このまちのイルミネーションは、まあるい形。
まちもなかなか趣があって楽しめるところでした。icon
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from: ぐら姐さん
2024年04月21日 11時23分41秒
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ラツィオの2.はオスティア・アンティーカです。
'14年8月に1度だけ行きました。
全部は見ていなくて、続きは今度また、と思ってその「また」がまだ来ていません。
この時は、イプさんとペコさん夫妻と4人で訪れました。
ローマ、ピラーミデから電車に乗って7つ目。
入り口に立ったときは、青空の遺跡日和。
この日のローマの予想最高気温は34℃。
遺跡には青空が似合うのですが、夏の青空はじりじりと肌を焼き、水分を奪い・・・なわけで。
と思ったら、なんと海風が爽やかで(この日はひんやりした風だったのです!)、
しかもときどき曇ってはときどき太陽が顔を出す状態で、最高の遺跡日和となったのでした。
ローマ市の公式ページによると、
「オスティア・アンティーカ(古代オスティア)Ostia Anticaの起源は、紀元前7世紀中庸に生きたローマの第四代王アンクス・マルティウスがテヴェレ川河口にローマ最初の港を建設したことに始まるといわれています。
ローマへの河川からの出入りを統括するための城塞都市として誕生したオスティアは
その後の5世紀の間に堂々たる都市規模に達しました。
しかし、まもなくオスティア港はテヴェレ川からの砂で埋ってしまい港湾機能を果たせなくなったため、クラウディオ帝(紀元1世紀中頃)の時代にオスティアの北に新港が建設されました。
しかしながら、オスティアが最盛期を迎えるのはトラヤヌス帝がクラオディオ帝の港のそば、現在のフィウミチーノ空港付近に新たな港を建設した時代です。
実際、オスティアは新港を運営する行政・商業機能の中核となったのです。
オスティアは当初はローマと同様に、その後はローマ以上に「コスモポリタン」的性格を持つ都市でした。
オスティアには、人種や文化の異なる人々が共存し、
言語や宗教の異なる住民が、職業別に同業組合を形成して居住していたのです。
紀元1世紀から3世紀にいたる繁栄の時代の後、帝政後期には危機そして後退の段階が続きます。
ローマの歴史と密接に結びついたオスティアは、紀元4世紀から5世紀の間にだんだんと衰退し9世紀には完全に見捨てられた都市と化します。」
現在は、ポンペイのような古代ローマの都市の遺跡が見られるます。
特に遺跡好きなわけではないので、その程度の気持ちで見に行きました。
メインストリートであるデクマーノ・マッシモは、長さが2キロにも及ぶ通りです。
2000年も前からある石畳を、テルマエ・ロマエに出てくるようなローマ人が通って行く、そんな様子を想像しながら歩きました。
ネプトウヌス(海の神)の浴場。
これはハドリヌアス帝によるもので、オスティアの公共浴場の一つだったそうです。
建物の上にのぼって、高いところから見られるようになっていました。
この遺跡の中でいちばん大きく、美しいと言われているネプトゥヌスのモザイク。
4頭立ての海馬の馬車に乗っているのがネプトゥヌス。
上の写真の手前に見えている半人半魚はトリトンだそうです。
海老や魚はアクイレイアで見たものと似ています。
アクイレイアのようにカラフルではありませんが、こうやって上から眺めることができ、教会の椅子のような邪魔なものがあるわけでもなくてなかなか楽しめました。
その裏にある「消防士の宿舎」
フォンターナ。ここから水を汲んでいたのでしょうか。
テアトロです。
劇場の向かい側に、交易人組合の広場があります。
広場の3辺にモザイクがたくさんあります。
高いところから見ることができないのでちょっと見難いし、この日は風があり、松葉が被さっていて、でも立ち入り禁止なので手も出せず。
交易人組合の広場よりもう少し先に行ったところにこういうものがありました。
どうやらここはロムルスとレムルスの祭壇のある礼拝堂の跡のようです。
ローマ誕生の物語が描かれています。
左下に、狼から乳を飲んでいる双子が彫られているのが見えるでしょうか。
右下に寝そべっているのがテヴェレ川の精、上は、成人したロムルスとレムルスなのだそうです。
さらに奥に行くと、居酒屋があります。
けっこう壁や炉が残っていて、当時の居酒屋の雰囲気を感じることができました。
すぐ前の建物の上に上ることができ、周囲を見下ろしてみることができました。
オスティア・アンティーカは、河の氾濫で消滅したまちで、土台と壁の一部だけが残っているところがほとんどなのですが、このフォーロの中心部分はこんなに残っていて、予備知識ゼロで行ったのでびっくりというか、感動ものでした。
この辺りで止めてローマに戻ったので、続きはいつか行ってみたいと思います。icon
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from: ぐら姐さん
2024年04月20日 20時12分51秒
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ヴィテルボの続きを載せます。
16年1月に行った時に、こんなパレードに遭遇しました。
この小さなパレードの後に、別な場所でもうちょっと大人っぽい、でも同じ地区の人たちにパレードにも出くわしました。
この日は、最低ではなく、最高気温が0℃という本当に寒い日で、このパレードの衣装では寒かっただろうと思います。
昨日もちょっと載せましたが、噴水がこんなに凍っていたのですから。
ライオンに長い顎髭があるみたいでしょ。
きっと教会だろうと思って下の道に下りて見に行って、入口側に回ってみたのですが、残念ながらしまっていました。
とても素敵なのに本当に残念...
まち歩きを続けました。
宿の近くにあった昔の洗濯場
いわゆる名所を見るのも、人々の生活の雰囲気を感じられるエリアを歩くのも楽しめるまちです。icon
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from: ぐら姐さん
2024年04月19日 16時50分37秒
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from: ぐら姐さん
2024年04月18日 11時36分40秒
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ラツィオの1.はヴィテルボです。
’11年8月と’17年1月に行きました。
最初はローマから日帰りで、2度目は帰国直前、ローマの宿にスーツケースを預け1泊分の荷物を持参して。
やはり泊まった方が夜も朝もまち歩きを楽しめてよかったです。
ローマから70キロ、ラツィオ州の北部に位置し、遅い電車で2時間ほどのところにあるまちです。
かつてのエトルリア文明が繁栄した土地の中心地で、その歴史は紀元前にさかのぼり、中世には多くの教皇がローマを離れてこの町に移り、『教皇の町』として著しい発展を遂げたのだそうです。
城壁のほか、塔、貴族の邸宅、広場を飾る華麗な噴水など、町の保存状態の良さはヨーロッパでも屈指、と書かれていて、とにかく見てみたいと思ったのです。
ヴィテルボにはローマ門とフィオレンティーナ門と2つの入り口があり、ローマから列車でヴィテルボ駅に着くとローマ門までは歩いて数分です。
門をくぐると、いきなりタイムスリップしたように世界が変わります。
Piazza Fontana Grande、日本語だと大噴水広場(安易な名前がイタリアらしい)。
それにしては小さいかな。
1月に行った日はとても寒い日で、この噴水が凍っていました。
町で最も古く最も大きいゴシック様式のこの噴水は、イタリア国内でも名高い美しい噴水の一つなのだそうです。
細部がかなり私の好みです。
まちのどこを見ても素敵です。
プレビシート広場
このヴィテルボには、教皇の宮殿があります。
コンクラーベ(教皇選出会議)発祥の地なのだそうで。
コンクラーベ(Conclave)とはラテン語に由来していて「鍵のかかった(con clavis)」という意味だそうです。
教皇クレメンス4世がヴィテルボで没し、新教皇選出の有権者は18人でしたが、意見が分かれ3年間教皇不在の期間が続きました。
何ヶ月も新しい教皇が決まらないのは、枢機卿たちが自由に出歩き、外部と接触しているのが原因と考えたヴィテルボの住人が怒りを爆発させ、選挙会場である司教館に枢機卿たちを鍵を掛けて閉じ込めたのだそうです。
外部との接触を絶たせ、食料もパンと水だけを差し入れ、さらには食事量も減らしていきました。
そしてついに1271年9月、6人の枢機卿の妥協によって、イタリア人の教皇グレゴリオ10世が選ばれただそうです。
教皇宮殿
広場に椅子が並んでいるのは、夏のなにかしらのイベントがあるからだと思います。
その手前にあるドゥオーモ
ドゥオーモの横にオフィスらしきところがあるのが見つかりました。
教皇宮殿のチケットはどこで売っているか聞いたら、
「ガイド付きのツアーしかやっていないので、時間にならないと始まりません。
残念ながら英語のツアーは、今日はもうありません」と言うのです。
イタリア語で大丈夫ですと言うと、なんと3分後にスタートするというのでほとんど待ち時間無しでガイド付きツアーのスタート。
教皇宮殿のガイド付きのツアーは、ドゥオーモの、通常は鍵が掛かっていて見られない部分と教皇宮殿を見るものでした。
ドゥオーモを見た後で、教皇宮殿に入りました。
中は結構な広さがあります。
長くなったの今日はここまでにします。icon
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from: ぐら姐さん
2024年04月17日 16時36分02秒
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ラツィオの(小さな)まち
気が付けばロンバルディーアは10まで進んでいました。
全部で16なので一気に最後まで書いてもいいのでしょうが、それは後半に回すことにして、20州の20番目にラツィオ州について書きます。
とは言え、ロンバルディーアも多くないですが、ラツィオはもっとずっと少ないのです。
ミラノやローマは出入国の際に滞在して、すぐ列車や飛行機に乗って他の州に行ってしまうことが多いからなのかしら。
ひとまずラツィオの訪れたところを挙げてみます。
1.ヴィテルボ
2.オスティア・アンティーカ
3.タルクィーニア
4.チヴィタ・ディ・バーニョレージョ
5.トゥスカーニア
6.パレストリーナ
7.フィウミチーノ
8.フラスカーティ
9.ローマ
ローマは数えきれないほど行っています。
州都というか首都なので、州別シリーズ完結後の州都シリーズでたっぷり扱いたいと思います。
明日から始めますが、今日は’17年のローマの写真を少しだけ載せますね。
朝のサン・ピエトロ広場
こんなに人の少ないこの広場は早朝ぐらいかも。
塩野七生さんの作品によく登場する笠松ごしのサンタンジェロ城
トリオンファーレ市場の一角
7月に泊まる家予定の宿もこの市場に近いところを予約したのでここで買い物をしていろいろ作って食べるのが楽しみです。 -
from: ぐら姐さん
2024年04月16日 15時34分04秒
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from: ぐら姐さん
2024年04月15日 21時03分38秒
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ロンバルディーアの10.はパヴィーアです。
先日も書きましたがチェルトーザ・ディ・パヴィーアとは近いですが違うコムーネです。
そのことを長い間知らずにいて、パヴィーアにcokemomoさんが行かれたことでちゃんと認識し、ロマネスクの建築がたくさんあり、まち並みも素敵らしいと分かって是非とも見てみたいと思ったのです。
'18年1月にミラノから日帰りで行きました。
駅から中心部の方へと歩くとすぐにミネルヴァの像がありました。
エディコラで見かけた可愛いワンちゃん。
ドゥオーモです。
ここはとりあえず見ただけなので、目当てにしていたところをメインにざっと載せます。
サン・テオドーロ聖堂
12世紀に創建され、1887年~1909年に修復されました。
またの名をサンタニェーゼ聖堂ともいい、1525年に描かれたフレスコ画があります。
主祭壇は少し高いところにあって、その周りの装飾が素敵です。
クリプタです。
柱頭彫刻いろいろ。
主祭壇のあるところへの階段を上りました。
両の側壁一面にフレスコ画が描かれています。
もう出ようと思って入り口へと向かったら、入り口近くの床が一部ガラス張りになっ出入り口付近には古いフレスコ画が。
鉄の小さな螺旋階段が床に落とす影も美しくて。
ここ一つを見ただけでも、パヴィーアに来てよかった、と思えるのでした。
次に訪れたのは、サン・ミケーレ聖堂です。
見たいと思っていた主祭壇は見られませんでした。
高いところにある主祭壇の周りの壁がきれいです。
手すりのところの透かし彫りも。
円柱も。
全部素敵でもっともっと載せたくなるのですが、きりがないので、興味がある方はこちらをどうぞ。
https://www.beach.jp/circleboard/ac48590/topic/1100204945761?sortList%5BsortType%5D=2
まち歩き写真は次回載せます。icon
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from: ぐら姐さん
2024年04月15日 16時47分26秒