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  • from: クマさんさん

    2011年10月08日 06時37分52秒

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    来たれ デクノボウ

    仕事がひと段落ついた。
    それにしても激動の一週間だった。
    仕事に追われ、焦りを感じ、恐れすら思ったものだ。
    いろいろとあると、やっぱり妄想をしてしまい、変に否定的になることもある。

    それは物の見方や感じ方を変えるだけでスルーできるのだが、
    考え過ぎたり、抱え過ぎている時、心にはそんな余裕がなくなり、アップアップの状態になる。
    「隙間」はいつも必要だし、「遊び」もそこには残しておきたい。
    そして、「まあいいか」という魔法の言葉を弱った心にふりかける。
    「いい加減」にとは、いつものことだが、
    世の中「きつきつ」にやらないと気が済まない、他人にだけは厳しい人が多いのだ。

    そういう人から見たら、私なんぞ存在すら許されない輩のようである。
    仕方ないではないか。これしかできないのだから。
    それは自分に対する慰めの言葉だった。
    しかし、そんな私は、違う世界と違う世の中では評価されている。
    私は、きつきつのコップの中にはまる気が無い。
    それがいけないことなのだとは知りながら、はまる気はないのだった。
    違う世界と違う世の中の人と語っていると、「これでいかった」と安心する。
    この世界に入ると、とても自分がちっぽけに想えて、悲しくなることがある。

    そんな情けない私の心象風景であるが、
    こんな気持ちになっている人は、私だけでないと想っている。
    そこにこうして発信している訳がある。
    「私だけでなかった。」という想いは、とてもとても救いになる想いだった。
    「共感」が、人に生きる力と希望とを与えてくれる。
    人と人とのつながりの基本は、「共感」しかないのだと想う。

    昨日、ある小児病院へ行った。
    そこには重度の肢体不自由な子や知的障がいのある子が治療に通う病院だったる。
    待合室にいたら、車椅子に乗ったままじっとしている幼児や小学生が居た。
    医療者がとても親身になり、温かくその親御さんに接していることが印象的だった。
    ここには、「共感」が存在していた。
    「どうしてあげたらよいか。」
    その子の心や想いの位置まで降りて、医療者と親御さんとが語り合っていた。
    また、障がいのある子どもをもつ親同士の語りの中にも共感は感じられた。

    ぷれジョブのサポーターに、ニートの若者をつけたらどうか。
    そんなことを語り合っていたら、ちょうどそこへニートの若者支援をしている代表が現われた。
    「ぷれジョブのサポーターに、うちの若者たち使ってもらえないでしょうかねぇ。」と言う申し出だった。
    世の中奇跡のようなことは起こるもので、
    「今、ちょうどそのこと話していたとろらて。」と大笑いだった。
    そこには、確かに障がいのある人とニートの若者への「共感」があった。
    だから、どう支援して行ったら良いのか、
    三人の中年男が文殊の知恵を出し合うのである。

    「あれは駄目だ。」「あいつは出来ない。」「何をやっているのだ。」「困ったものだ。」
    他人だけに厳しい人は、人をそう評価して決めつける。
    私は、今の世の中はこうした人を批判したり、評価したりすることばかりで、
    みんな息苦しくなっているのではないだろうかと思っている。
    学校がまさにそうだ。
    勉強の出来る人はOKで、そうでない人は劣等感と自己否定を感ずる。
    指導する教師が「根性論」と「成果主義」だけでは子どもたちは悲惨なものだと想う。
    「駄目でいいねっか。」「出来なくていいて。」「やりたいことをやりなさい。」「楽しく生きようよ。」
    世の中なかなかそうは言わないのだ。
    そうすると私のような「いい加減」な人間が出来ることを恐れているからである。

    私は、「障がいのある人」への共感。
    「ニートの若者」への共感。
    そんな「共感」をもてる人に人を育てたいと願って仕事をしている。
    世の中やっぱり居ても居なくてもいい人は居ていいのだ。
    そんな人を世の中の人は、何の役にも立たない「でくのぼう」と呼ぶ。
    しかし、でくのぼうも人間らしい温かな生き方の一つなのだと、
    私たちは、もっともっと子どもたちや若者たちに教えねばならないのではないだろうか。

    ある意味、「アメニモマケズ」に描かれたデクノボウが世の中に居てくれることで、
    私のような弱虫は、救われ、癒され、勇気をもって生きられるのである。

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