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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2016年11月30日 06時18分45秒

    icon

    この「自分」

    ふっと、今朝、目覚めてから本を読んでいたら感じた。
    夜中の3時半だった。
    この時刻でも本を読めるということを、私は、入院で学んだ。
    あの頃は、「ラジオ深夜便」だった。
    このラジオ番組のことは、知っていた。
    でも、まさか、私がこの年代で聴くことになろうとは想わなかった。

    4時から「明日への言葉」をイヤホーンで聴くことが楽しみだった。
    時には、語るその人の言葉に感動して、涙を流すこともあった。
    ベッドの中での私に、その人は語りかけてくれた。
    その一言一言が、心に沁みた。
    言葉とは、不思議な力をもっていた。
    ラジオは、音と言葉とで語りかける。
    私の心は、それを受け止め、心で感じて、心で表す。
    「リアル」という感覚を学んだのも、この入院生活だった。

    5時になるとベッドから降りて、床に立つ。
    丁度今頃の季節だった。
    白山駅周辺の街の灯りがきらきらと静かに輝いていた。
    人が生きているその営みの息遣いが、始まろうとする時刻だった。
    私は、ふらふらの身体を手摺で支えて、ストレッチを始めた。
    イヤホーンで「弾き語りフォー・ユー」を聴きながらだった。

    カーテンの向こうに眠る同室の人たちに迷惑にならないように、
    音も立てずにストレッチのローテーションを行う。
    身体が動く、腕を伸ばせる。膝を曲げられる。
    そんな何でもない動き一つ一つが在り難く感じた。
    その後は、ベッドの上で半跏を組んでの瞑想だった。
    あのカーテンの中で、病院の匂いの中での瞑想が懐かしい。
    私は、時間を惜しむことなく、急ぐことなく、
    ただゆったりとそこで生きられたあの入院生活が懐かしいことがある。

    あれからもう1年たってしまった。
    何とも何とも激動成る1年間だった。
    3回の手術、3度の入院。1回はご臨終間際まで行った。
    実は、そんな激動は、私の人生のここ5年間は続いていたのだ。
    いろいろとあった。本当にいろいろとあり過ぎた。
    こんなことがまさか私の人生に起ころうとは、夢にも思わぬことばかりだった。
    想定外が、人生そのものだと、よくよく感じた。

    しかし、そのことを誰も知らない。
    実は、私もすっかり忘れていこともあるから、
    そして、たまたま思い出した場面しかこの心には存在しないから、
    そんなものはどこにもないんだとも、言えるのだった。

    過去とは、どこにも存在しないものの呼び名だ。
    私はあれをした。これをやった。私はだから偉いんだ、と言う人を好きになれない。
    私もそうだったなぁと自戒を込めて、苦い思いでそう想う。

    どこにも無い。
    ふと、父と母のことを思い出した。
    その時は、確かに父と母は、私の記憶の中にだけは現れる。
    しかし、全てではなく、ほんの微かなる断片だ。
    それも、何とも定かではなく、おぼろげな幻だ。
    私が消えたら、その記憶も消える。
    いや、私が記憶しているだけで、父と母は本当に存在していたのかは、
    思い出してくれる人にだけ通用するリアルだと感ずる。

    私の過去と呼ばれるこの激動の出来事もそうだった。
    あれがあり、これがあり、その最中では苦悩と苦痛と猛省と後悔の日々。
    どうにもならない私を、しっかと見つめて、認識できた日々である。
    これがなかったら、確かに「今、ここ」に居る私は居ない。
    この私であるということは、その激動があったという証明でもある。
    でも、過去は、どうでもいいことだ。

    忘れる。
    こだわらない。
    どうでもいい。

    ただ、そこで学んだ魂は、ここにその魂として存在している。
    その激動の中で「問い」、「求め」、「探した」その答えは、
    決して失われることなく、
    私の魂の糧として、今を生きている私のことを育て、養ってくれている。
    その「リアル」は、絶対に消えないリアルで、
    それは、私がこの世から消えても、決して消えることのないリアルだった。

    過去は、どうでもいいこと。
    でも、この激動が私に教えてくれた言葉は、
    こうして「今、ここ」の私を生かしてくれている。
    実は、本当に確かに存在するのは、いつまでも消えてなくならないものとは、
    この自らの経験を通してだけ与えられる、言葉そのものだけなんだ。

    言葉だって、忘れるものだ。
    それはそうなんだが、どうもこの魂に刻まれている言葉は、
    忘れたように感じながらも、決して忘れようのない言葉であるのだった。
    何故なら、私の魂は、言葉だから。
    その言葉が、私で生まれて来たからだ。
    私が、私である限り、その言葉からは逃れられない。
    その言葉は、きっといつまでもいつまでも、「弾き語りフォー・ユー」だ。

    語るのは私ではない。
    語るのは、言葉だ。
    その言葉とは、過去を悔やみ、過去にこだわり、自分を否定する言葉ではない。
    その言葉は、「今、ここ」に生きる私を喜びをもって生かしてくれる言葉だった。
    その言葉を、信ずる。
    そんな生き方に目覚めるために、この5年間の激動はあったようだ。

    その言葉とは、「明日への言葉」だった。
    さて、この言葉が不思議なのは、ラジオがいらないことだった。
    ただし、やっぱり波長はちゃんと調整して、魂のダイアルを合わせる必要がある。
    周波数は自動で発見されず
    、それぞれがそれぞれの人生で試行錯誤しなければ発見できない周波数だ。

    この言葉は、統一された「ひとつ」であるが、
    人それぞれにその魂の周波数は、人生が違うのだから、違うことが当たり前だ。
    自分の周波数は、ちゃんと自分で発見すること。
    つまり、「問い」、「求め」、「探す」ことだ。
    そして、人生の震災や、激動や、不条理の中で呻吟する時、
    ふと、ある瞬間、その周波数が一致して、微かに言葉が聴こえてくるのだ。

    その言葉と、出会うために、人は、人生の旅をする。
    不思議なんだが、この言葉は、
    実は、ずっとずっとここに鳴っていた言葉なんだ。
    そのことが、分かると、「自ずから分かる」「自分」に還れるんだ。

    今、聴こえるのは外に吹く風の音ばかりだ。
    しかし、ここには、音で溢れているはずなんだ。
    私が、ラジオのスイッチを押し、FMの周波数を合わすだけで、
    バッハも、ヘンデルも、モーッアルトも、マーラーも鳴っているはずだ。
    渓声山色。
    まさに、露らして堂々。

    そうすると、「今、ここ」でいいんだなぁと、
    やっとやっと想える自分に還ることができる。
    まさに、無限の宇宙の円環運動の始点に還ることなんだ。

    言葉は、ここにある。
    ただ、見つけられることを待っている。
    今、ここに、これを書き終わることの不思議を一番感じているのは、
    この「自分」だ。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月29日 06時18分51秒

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    一石

    さてさて、いかに新しいものとは理解されないものなのか、
    そんな場面に昨日は出くわした。

    自力解決をせずに、すぐに集団思考に入る。
    いつものならば自力解決の時間をとり、
    そこで自分なりに課題に対する考え方をまとめ、
    それを持ち寄っての集団思考となる。

    でも、あえてそうしなかった。
    その初めて見る集団思考の姿を見て、やっぱり人は違和感を覚える。
    自分がやって来たこと。そうだと信じていること。
    つまり、自分がやったことのないものに対しては、人はやっぱり疑問をもつ。

    新しいこととは、知らないこと。
    自分が全く経験すらしたことのないこと。
    それと出会った時、面白いと感じて、やってみようと感ずるか。
    やっぱりこれは無理がある。ここがおかしい。これだとできないと感ずるか。
    大部分の人は、保守的に、いつものものように、いつもの価値観から判断する。
    新しいものを提案する人は、その抵抗勢力の大きいことをいつも感ずる。

    いい加減なものは許さない。
    これは、こうで、そんなやり方は信じられない。
    みんなはそうしている。
    これが世の中の常識だ。
    私は、この方法でやって来た。
    そうではないものは、私には認められない方法だ。

    柔軟であり、変化するということは、
    真面目な人たちにとっては許しがたいことだった。
    世の中の大部分の人たちが真面目な人たちだった。
    ほんの僅か百分の数パーセントに私のようないい加減な人が居る。
    私がいつも否定的に、批判的に見られるのは、
    このいい加減さのおかげだった。

    その代わり、人がやっていなかったものをやることができた。
    世の中がそうでも、そうではない方法を見つけ出し、実験することができた。
    いつか必ずそうなることが常識だと信じたことをやり続けられた。
    それは、いい加減な人の特権的な生き方かもしれない。

    「あなたは、言ったことがすぐに変わる」と、妻からよく叱られる。
    確かにそんなことばかりのようだ。
    「今、ここで」気付いたことは、すぐにやりたい。
    「そうか、やっぱりそうだったんだ」と感じたことは、すぐにでも実験したい。
    そして、こうして感じたままを、ここにはいつも記録したい。

    でも、やっぱり真面目な人から見たら、変わっている。
    真面目な人から見たら、そんな考え方や生き方は、
    その人の考え方や生き方から逸脱した、間違った考え方や生き方となるからだ。
    その人たちは、間違わないように、ちゃんとそのある道を歩いた。
    その道からはみ出してはいけない。
    他の道を勝手にこさえて歩いてはいけない。
    この道を歩く。この道だけを行く。それでいい。それしかない。

    でも、私は、道からはすぐにはみ出してしまう。
    いや、私の道からは、これまではみ出したことはないのだが・・・・。
    とにかくいろいろと面白そうな道を探して、冒険する。
    そのために、どれだけやっつけられて、痛い目にあったことだろう・・・・・

    昨日、新しいことを提案した。
    予想通り、「そうかなぁ」「それではうまくないのでは」と、批判を受けた。
    しかし、私は、その新しいことを提案て来たことが満足だった。
    その新しい提案は、一人一人の心に大きな一石を投じたからだ。
    「あれ、私も、ちょっとやってみようかなぁ」と、
    そんな想いをもった人が一人でもいたら、それでいい。
    きっとその小さな「波紋」は広がり、大きな「波紋」となるからだ。

    そうやって、新しいもの、まだ誰も見たこともないもの、経験したことのないものが、
    人から人へと繋がって行くはずだ。

    「波紋」は、一石を投ずる人がいない限り、決して起きないものだ。
    私は、だから、その百分の数パーセントでもいいから、
    そんな人に、私はなりたいのだ。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月28日 06時23分00秒

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    今、ここに

    山の仲間の集まりだった。
    はんばぎぬぎ?と言う。
    今年一年の山行の無事と、来年への期待とを込めての飲み会だ。
    嬉しいなぁと、いつも想う。
    関川の雲母温泉までの道は、ずっと今度の課題曲を歌いっぱなしだった。
    懐かしい人たち。
    その人たちが居てくれる。
    それで、何だか生きていてよかったなぁと感じられる。

    先輩方は、既に60代から70代だった。
    27年前になるか、みんなが山を始めたのは。
    この会で毎年毎年山行を計画して登って来た。
    もうすぐ200山になるそうだ。
    大した道のりだと、その記録を見て改めて感じた。

    亡くなった先輩が、3名だった。
    人は、いつか必ずこの死を迎える。
    でも、その人たちの人生に登山との出会いがあったことは、
    仲間の一人として、とてもありがたく感じている。
    山がなかったら、決して出会うことのなかった人たちだったからだ。
    その時の、「今、ここ」で、心を一つに山に登った仲間たちだった。

    親との死別をした人も多い。
    私は、両親を亡くした。
    Oさんは大事な大事なお母さんを亡くされた。
    別れも必定。
    いつか必ず別れは、私たちには訪れる。
    そのことを想いつつ、「今、ここ」を生きる。
    Oさんはそうして心を尽くし、お母さんに孝行した人だった。

    認知になった母親を、夫婦で介護している仲間もいる。
    一週間に三日はディサービスに行き、
    普段の生活は、自宅で共にしている。
    認知がまた軽度だからこうした生活ができるのだろうが、
    これからの二人の負担は、並々ならぬものがある。
    私の父がそうだったが、彼は、施設で死ぬことを自分で決め、
    絶対に我が家には帰ろうとはしなかった。
    願わくば、私も父のようにして、家族の世話にならず、潔く逝きたいものだ。

    子どもの将来についての不安もあった。
    嫁姑もあることだろう。
    まだまだ自立できずに、どうしたもんじゃろうと困っている親もいる。
    海外で結婚して、そこで孫が産まれたとの話も聞いた。
    人それぞれの家庭であるが、やっぱり何も無い家庭は存在しないんだ。
    みんな親として、それぞれに悩みを抱えている。
    それが親としての「今、ここ」なのだろう。

    Kさんは、難病と言う病にかかり、参加できなかった。
    毎年、この会に参加することを楽しみにしていた彼は、
    今は、杖が無くては歩けなくなり、食べることも自力では難しくなったそうだ。
    温泉に一緒に入り、Kさんの元気な声を聴けないことがとてもとても寂しかった。
    先輩たちと私との年の差は、出会った時から変わらない。
    その当たり前の現実が、何とも寂しく感じられた。

    関川からの帰りに、海老ケ瀬のKさん宅に寄った。
    独り彼が玄関に立って迎えてくれた。
    何も言えない。何と言ってあげてもそれだけだ。
    私も長い長い入院生活を経験した。
    彼の痛みと苦悩とは、私にはきっと感ずることもできないことだろう。
    でも、一緒にたくさんの山に登れてよかったなぁと、
    73歳になったKさんの顔を見ながらそう感じた。

    さてさて、自然から学び、山から学んだ。
    その学んだこととは、生きるということだった。
    私たちはそれぞれが置かれた場所で、人生と言う時間が平等に流れて行った。
    確かにみんな年をとった。
    体力も衰え、気力もそれなりに萎えてきているかもしれない。
    家族が亡くなり、自分自身の死すら考える年代となった。
    介護の問題。家族の問題。経済的な問題。
    考えたらなかなかどうして、生きて行くことの難しさを感じてしまう。

    それでもどっこう生きている。
    そのそれぞれの「今、ここ」をどうにかこうにかやり切って生きる知恵が、
    何だか我が先輩たちには感じられる。
    ここにあるものをどう受け入れて生きるか。
    それは、私だけの問題ではないのだ。
    みんな私もそうであったようにして、悩んでいるし、途方に暮れていたりする。
    しかし、考えてもどうにもならないものは、
    そのまま、「まぁ、いいか」と、受け入れて、悩まないことにする。

    何だか、そうやってほっておくことも、
    自分や家族に対する愛情ではないかと、ふと感じた。
    老いのために参加できなかった仲間もいる。
    やっと山の事故の怪我から回復した仲間もいる。
    それぞれがそれぞれの道程をてくてくと歩き、時には休み、時には振り返り、
    それでもそんな与えられた人生を、やっぱり今日も生きている。

    山の仲間のはんばぎぬぎは、山行の無事と来年度の期待をもって行うものだ。
    私たちのはんばぎぬぎは、よく今年も生きて来れたね。
    来年もきっといろいろとあるけど、
    がんばろよ、また会おうよ、のはんばぎぬぎだった。

    人生を長いサイクルで考えることもあるだろう。
    しかし、年を取って見ると、来年は言えないことがよく分かる。
    だから、まず、「今、ここ」でどう生きたら幸せを感じられるか、
    そんなささやかだが、確かなる生きる知恵を、
    先輩たちは実に付け、日々の生活で実践していた。

    今日一日だけ生きる。
    今、ここで、生きる。
    それが老いに向かう人たちが見つけた生きる知恵なのだと改めて感じた。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月26日 08時31分44秒

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    朝、ふと想った。

    さてさて、映画「樋口一葉」の結末で読まれた日記だそうだ。

    「我は人の世に病苦と失望とを慰めんために産まれ来つる詩の神の子なり・・・
     我が血をもりし此のふくろの破れざる限り、我はこの美をのこすべく、
     しかしてこの世ほろびざる限り、我が詩は人の命となりぬべきなり」。

    また、この本には次の記述もあった。

    「彼もまた自分の学問を実存的に生きる人だった」と。

    また、同じ書で若松英輔さんはこう書いている。

    「人は何を願うか、それを自由に決めているのではない。
     悲願が人間をつかむものである。悲願とは自己の願いではない。
     その人物に付与される人生における根源的な意味、
     意味的実在といったほうが正確かもしれない」と。

    朝、目覚めるとすぐにスタンドをつけて腹這いのまま本を読む。
    「井筒俊彦 叡知の哲学」 若松英輔著
    難解で難解で、その意味の大部分は理解できないでいる。
    だから、ただこだわらずに読み進めている。
    作者の語りたいことがよく分からなくても、
    そこに在るものを信じて、その言葉を味わい、ただそこを通過している。
    きっといつしか「ああ、そうだった」と分かる日が来ると思うからだ。

    「今は、分からない」
    「でも、分からないということが、よく分かった」
    「だから、知りたい。だから、問いたい。だから、教えてもらいたい」
    しかし、その答えは既に私自身には与えられているはずだった。
    そのことを信ずればそれでいい。
    私の苦難と絶望とが、きっと私の殻を脱ぎ捨てさせ、
    はっと気づく時が来るだろうと想うからだ。

    この言葉を、もっともっと若かった私には、絶対に理解できなかったと想う。
    いや、今でもこの言葉の入り口にも入っていないのかもしれない。
    その宿命を受け入れ、それをそのまま引き受けるということは、
    至極、熾烈なる生き方を課すこととなるはずだからだ。

    実は、私がこの旅の途中で出会いたいと願っている人たちには、
    既に、ここで出会っている。
    その言葉は、「かく生きよ」と、明確に生きる道を指示している。
    ただし、それは、指し示す指であって、その道そのものではない。
    その道は、あの登山道のように私が荷をしょって登ってこそ、
    初めて「これがこの山の道だった」と分かるしろものでもあった。

    「在る」のに、「知らない」。
    「自分である」のに、「自分を探す」。

    ただ、池田晶子さんや、若松英輔さんの言葉を読むたびに想うことは、
    「一つがあるだけ」だ、とうことなのかも知れない。
    そのことを「そうだ」と腑に落ちるために、今、ここを、生かされている。
    それが、私と言う人間に与えられた「生きるの意味」ではないだろうか。

    「生きることに何の意味があるのでしょうか」と、問うことは間違いだ。
    「意味があるから、こうして生かされているのです」と、そう言えることこそ、
    生きるを実感と喜びとをもって生きている人なのだ。

    その一つが、私の人生の様々な場面を通して、呼びかけてくれた。
    それは、成功や得意や自慢の時にでは絶対になかった。
    その反対の、失敗や失意や絶望の闇の中で、初めて出会う言葉であった。
    言葉は、在り続けている。
    ずっとずっと昔から。
    ずっとずっとこれからも。
    それは、始めもなく、終わりもなく、ただ、今、ここに在るだけのものだ。

    感ずる感性がある人は、その言葉を日々、感じて生かされている。
    何故なら、その言葉を語っていないものは、この世には一つも存在しないからだ。
    在るとということは、それ自体で意味が在るということだ。
    その意味だけは、ずっとずっと変わらずにここに在り続ける。
    まさに、傍らに居てくれる、あのモーッアルトの天使だった。

    いかに難解で、理解できない言葉であろうとも、
    その言葉が現している「在るもの」には、全く何も変わりがないのだ。
    どうして、自分のことを語ってくれているのに、
    私は、その自分を現した言葉を理解できないのだろう。
    実に、言葉とは私でありながら、私を超えて存在している。
    この朝日に溢れ輝く暖かな世界は、この言葉に満ちている。

    無になるということは、その言葉そのものになるということだ。
    自分と言うしがらみ、誤謬、迷い、傲慢、欲望、怒り、迷妄、妄信。
    それがすーっと消え去った後に、ここに立っているのが、
    本来の自分・私なのではないだろうか。

    無と言うものが存在するわけはないと、池田さんは言っている。
    言葉とは、存在するものにだけつけられるものだからだ。
    無は、在る。
    ただし、その在り方を、有から想い測っても全く無理なことだった。
    その想い測るそのものを死ぬこと。

    結局、私たちの行きつく先は、
    「人の病苦と失望を慰むるために産まれ来る・・・・」であり、

    それをそのまま「実存的に生きる人」であり、

    その「悲願を生きる人となる」ことだと、「一つ」のことは言葉を語る。

    さてさて、そう生きることのみが、生きる意味的実存なんだ。

    今朝は、そのことを自分自身に言って、聴かせている。
    今、瞬間、朝日が雲から顔を出した。
    その瞬間、輝きに包まれた。

    つまり、お日様は、いつも、ずっと、ここに、居たのだ。

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    2016年11月25日 06時11分13秒

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    夢のたわごと

    また夢を見た。

    夢の主人公は、私でありながらも、私でもなかった。
    重たいカバンを二つ肩からぶらさげて歩いていた。
    前をあるく若い女性に声をかける。
    決して美しい人でもなく、ごくごく平凡な容姿の20代前半の女性だ。
    その女性が言った。
    「お姉さん、私、この人と一緒に行きます」と。
    姉は、突然の妹の言葉にひどく怒った。
    何よりもその男性の年齢と容姿が・・・・だった。

    肥満体でパンパンのワイシャツを着ていた。
    その汗臭い肥満体の上に頭の髪の毛が斎藤さんだった。
    そんな彼が勇気を出して声をかけたら、想わぬ返事に有頂天だった。
    さっそく私は、彼女を連れて我が部屋に向かった。

    ところが、ここから私は、その彼に話しかけている。
    「おい、大丈夫なんか?部屋に入れて?」
    彼は、私の忠告など聞かずに、階段を上がった。
    三畳二間のこの部屋に、二枚の布団が敷かれてあった。
    「昨日、友達の〇〇が泊まったんさ」と、彼はその大きな布団をたたみ始めた。

    さてさて、私は、この彼女と彼とに初めて出会った。
    初めは、私が私だったはずなのに、
    いつの間にか、その彼に話しかけている私になっていた。
    彼の下宿にも初めて訪ねた。
    でも、一瞬にしてその部屋の細部まで記憶されている。
    今はもう思い出されないが、
    その布団の模様まですでに知っている私でもあった。

    その後の彼と彼女とのことは私は知らない。
    しかし、どうしてこんな夢を見てしまったのかも分からない。

    夜中に起きることが多くなった。
    ついさっきまで、そこに居た。
    それは果たして異界の世界だったろう。
    確かにそこで私は、ある人たちと出会っている。
    目が覚めた瞬間、「あっ、そうだったなぁ」と、思い出すこともある。
    しかし、反芻しないと、すっかりと記憶の深い深い淵に沈む。
    もうすっかりとどこにも存在しないものとなる。

    夢は、経験ではないだろうか。
    確かに、私はこの夢の世界では生きて、何かを考え、感じ、行動している。
    時には、哀しくて涙を流し、時には憤怒に堪えぬと怒っていた。
    涙を流していたために、朝、自分の顔を見ると、瞼がすっかり腫れている。
    身体は確かにここにあるが、
    いったい魂としての私はどこへ旅をしているのだろうか。

    「夢は枯野の旅をする」
    そこにはどんな意味が存在するかは定かではない。
    ただし、私は、夢は在るなぁと、想えるようになった。

    私は、目に見える、触れる、味わえる、この形のある世界だけを、
    世界なのだと考えてはいない。
    その現実の世界に接している異界に、
    こうして私は毎夜毎夜訪ねているのではないだろうか。

    人は、やはり霊性を持っている。
    魂は、その霊性の現れである。
    その異界を認めることで、全ての説明がつくような気がする。
    物語を通してしか、感じられない真実がある。
    私は、その真実を理解するための感性のトレーニングを、
    こうして毎夜毎夜夢の枯野を彷徨って行っているのかもしれない。

    まず、異界を認める。
    霊性を感ずる。
    ここからなんだ。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月23日 09時40分33秒

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    きっとそこに生きていた

    あのまま目が覚めなかったとしたら、私はどうしていたのだろう。
    今でも思い出すのは、ICUで覚醒した瞬間だった。
    微睡むとでもいうのだろうか、うつらうつらと私は意識を取り戻した。
    薄暗い部屋の中で、無機質な機械の音だけが聴こえて来た。
    口の中には筒が入っていた。
    くわえさせられていたと言った方が適切な表現かもしれない。

    腕が、足が、身体が微動だにもしなかった。
    痰が突然のように絡み、息が苦しくなってしまった。
    しかし、そのことを私の足の方で座っている看護師さんには伝えられない。
    動かせるのは、目玉だけだった。
    声は出せても言葉にもならなかった。
    私は、まるで死体だった。

    手術は10時間以上かかったらしい。
    そして、たった今、麻酔から覚めるまで私は深く深く眠りの中だった。
    では、私は、どこに居たのか。
    私としての意識は、もし、あのままだったとしたら、
    きっと目覚めず、どこでどうしていたのだろうか。
    肉体と言う身体に戻った私は、同時に痛みと苦しみとを感じた。

    確かに感ずる私になった。
    では、その感ずる私に戻る瞬間までは、何の私だったのだろう。
    私とは、単なる私がここに居ると言う意識だけの存在なのか。
    医師も、看護師も、家族も、みんな、
    身体としての私がここに居ることを分かっていた。
    だから、懸命なる治療を施してくれた。
    なのに、その本人の私は、その間、どこでどうしていたのであろうか。

    あのまま死んでいたら、死ぬということはそういうことなのかと、
    何の感動もなく、ただああそうでしたかと、
    ごくごく自然に静かに受け入れられるような気がする。
    ああ、死ぬってこういうことだったのか、と肯きながら。
    何だこのことだったなら、
    これから行ってみんなに教えてあげたいなぁと思いながら。
    きっとそうなのだろうと、あの経験からそう想えるようになった。

    まだ死んだ人は居ないのだから、死はこの世には存在しないんだ。
    それは、池田晶子さんの言葉だった。
    つまり、全く無になると言う死は、どこにも存在しないのではないだろうか。
    私は、この世では肉体の死と呼ばれる状態となるだろうが、
    その時、私はやっぱりどこかで死者としての私として佇んでいるのではないか。
    この経験を思い出すと、そんなことが私には確信できる。

    無は無い。在るものしか存在しないからだ。
    そう考えると、私はいったいその間、
    どこをどのようにして彷徨っていたのだろか。
    ある意味、その瞬間から「転生」し、
    死者としての私が始まっていたのかもしれない。
    例え、それが仮死状態であろうとも、
    この世ではなく、あの世にしばし遊んでいたことには間違いない。

    私は、毎朝、そのあの世とやらから戻って来る。
    眠りとは、転生である。
    私は、大きな耳糞をごそっと取り出していた。
    しかし、目が覚めてみたら、すっかりその荒唐無稽な物語を忘れてしまった。
    忘却が転生の狭間には存在する。
    行ったり、来たり。
    逝ったり、来たり。

    私は、意識を失っていたその十数時間の記憶は全くなかった。
    あの時、「ご臨終です」と言われていたら、
    私は、ぃったい何を見、何を聴き、何を感じていたのだろうか。
    きっと私は、今の私ではない違った私として、
    ベッドの上に横たわっている私のことを観ているのだろうと、ふと思い浮かべた。

    私は、ICUの人工呼吸器をくわえた私に帰って来たから、
    この私であるのであって、
    もし、還ってこれなかったとしたら、
    私はきっと異界に在る、
    私として「夢」の世界を今でも生きていたのではないだろうか。

    どちらの世界に目覚めるかだ。
    まだ、こっちの世界を許されているのなら、
    きっと明日も私は、ここでこの部屋で目覚めるのだろう。
    私は、覚えていないだけだ。
    あの「夢」を覚えていないように、
    ただ、私は、暫くの間、きっとそこに居たのだろうとは今でも信じている。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月23日 06時31分38秒

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    あれから一年たった。あっという間の一年だった。

    ちょうど一年たった。
    ふと、一年前のあののたうち回る苦しみと痛みとを思い出した。
    突然、私はみぞおちに何とも言えない痛みに襲われた。
    うめき声しか出なかった。
    脂汗が流れた。
    どんなにしてもその痛みは弱くはならなかった。
    自分の身体であるのに、その突然の変化に驚き、恐れた。
    恐怖でもあった。「これからどうなるのか」と。

    そんな朝が二日続いた。しかし、痛みが去った後は職場に出かけた。
    ところが、肝機能が麻痺状態にまで衰え、黄疸が出てしまった。
    私の身体は、悲鳴を上げ、とにかく瀕死の状況だったらしい。
    突然の入院。何が何だか分からなかった。
    それでもと、置かれた場所での生活を有意義にしようと、
    病衣を着て、ベッドの上で本を読んだ。
    点滴による痛み止めが効いていたようだ。

    しかし、胆石だろうとは予測されたが、
    その原因である石が、超音波では発見されなかった。
    私はそうやって一週間余り、何をするでなく入院生活を続けた。
    ある日、MRの検査で、微かに石があることを発見された。
    「やっぱり、これだったんですね」と、手術することに同意した。
    「簡単な内視鏡手術です。リスクは千分の一の単位ではありますが」だった。
    「お任せします。」
    これで、私の痛みと不安からは解放されると想っていた。
    内視鏡なら、開腹ではないからと、安心していた・・・・・。

    手術台で目が覚めた。
    うつ伏せのまま私は麻酔で眠っていたらしい。
    「何で私が麻酔で眠っているのだ・・・・」と、不思議だった。説明はなかった。
    そして、突然の激痛だった。
    私は全身が痛みそのものとなった。
    耐えるなんて生易しいものではなく、のたうち回る、転げまわる。
    痛みそのものが私になり、ベッドの柵を力いっぱい握りながら叫んでいた。
    「殺してくれ。殺してくれ。」と。

    どんな痛み止めも効かなかった。
    激痛が襲って来ると、意識すら失われるほどの痛みに逃げようがなかった。
    そうなんだ。痛みからは身体がある限り逃げることはできないのだった。
    医師たちは手を出すこともできず、家族はおろおろとそんな悲惨な私を見守った。
    その内に私は自然と衰弱をしていった。
    肝臓の数値だけでなく、敗血症にもなろうとしていた。
    私は、知らなかった。
    私がどんな危篤なる状態であったのかを。
    R病院は、私のことを見放した。それで、私は命拾いした。

    「このままでは内の病院では責任がもてません。N大に行ってもらいます。」
    覚悟を決めるとは、この瞬間の言葉なんだな。
    つまり、一か八かに賭けるしか、生きる望みがないということ。
    それは、私の努力でも私の自力でもない。
    ここから先は、神様の想いのままなんだ。

    夜9時、救急車は走っていた。
    私は揺れるその天井を、ベッドから見つめていた。
    ただ、そうなってしまったことを、ただ受け入れるだけ。
    これから起こることを、ただ信ずるだけだった。
    「このことにも、きっと何かの意味があるはず。」

    私は、死なないと、想いたかった。

    処置室では、数名の医師たちが緊急手術に備えて集まっていた。
    私は、衣服を脱がされ、手術着に着替えさせられた。
    静かに、そして手際よく、看護師たちが動いていた。
    付き添って来たR病院の外科医が、私の症状を説明していた。

    内視鏡手術を失敗し、私の胆管をメスで切り裂いてしまったそうだ。
    胆汁が内臓に溢れ、私は重度の腹膜炎を起こしていた。
    敗血症にもなりかけているので、このまま放置すれば確実に死に至る。
    だから、これから緊急の手術をする。
    ただし、相当大変な手術であるので、まず開けてみないと何とも言えない。
    手遅れである場合もある。
    また、患者に対するリスクは大きく、
    もし助かったとしても、回復までには数カ月の入院を要する。
    とにかく、今、ここで手術をしなければ命が危ない。

    これは、私が冷たいアルミのベッドで横になっている間に、
    妻が担当の医師から受けた説明だった。
    私は、知らなかった。いや、知らなくてよかった。私は、死にかけていた。

    私の担当のS先生が来た。
    私の足元に立ってこう言った。
    「クマさん、このままだと危険だから、これから手術するね。」
    「腹を・・・・切る。これから、すぐに・・・・。」
    頭の中がぐるんぐるんと回っていた。
    「こうしている間にもどんどん数値が悪くなっています。」
    嫌だとも言えないよね。
    一斉の同意は、妻が下した。

    あれから一年がたったそうだ。
    私は、今、ここで、こうして生きている。
    不思議なものだ。生きるということは。
    私は、生きている。いや、生かされている。ただそのことを感ずる。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月22日 21時17分50秒

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    「風」の「波紋」とは

    何ができるんだろうと考えている。
    この街中に、新たな「結」を創るために、どうしたらよいのか。
    誰かが声を出して、何かを始めなければ、何も起こらない。
    それが、こうした街に住む人たちの事実だと想う。

    ずっと昔から受け継いで来たものも、
    ずっとここにありお互いで繋がっていたものも、
    それは、あの妻有の山里のようには存在していない。

    あそこには、茅葺の屋根を作る人。
    自然の樹木で糸を染める人。
    田んぼで手作業で稲を育てる人。
    それぞれがそれぞれとして、そこで営み、生きている。
    そうした風土と共に暮らし、
    風土によって生業を創りだしている生き方は、ここには存在しなかった。

    茅葺の普請があり、
    屋根の雪下ろしがあり、
    田んぼ仕事があり、
    祭りがあり、
    祝言や騒ぎごとがある。

    山野の集落で暮らしているWさんにとっては、
    その妻有の生活は、ごくごく当たり前の自然な生活だった。
    年中行事の中に、いざらいや、山仕事はちゃんと組み込まれていた。
    彼は、仕事をしながらも、その時には集落の行事に参加する。
    そして、汗をかき、仕事して、久しぶりの人たちと話し、酒を飲む。
    それでいいではないか。
    それが、いいではないか。

    街に住む私には、それがない。
    こんなにも密集した町内で、隣近所が肩を寄せ合って暮らしても、
    その人たちは、ここにはいない人たちのように、
    お互いに何もかかわらずにここに生きている。
    それが街暮らしの良さなんだと、山里から降りて来た人はそう想うだろう。
    余計なしがらみがなく、独り独り自由に気ままに生きられるからだ。

    さてさて、それはそれでいいのだろうが、
    やっぱりどこかで寂しいものを感じている。
    十年以上前になるか、自治会の補導部長になり、
    子供会を引き受けた時、私はハイキングに、温泉旅行に、餅つき大会を行った。
    その時知り合った先輩方は、既にもう80歳に近づいている。
    私は、それでも祭りや自治会活動、そして親父の会で、
    私が住む地域での仲間や、知り合いはいてくれることは確かだった。

    しかし、こうした活動に参加したことのない人や、
    そうして地域の人たちと繋がろうとする発想を持たない人たちにとって、
    ここは、ただ家族と共に生活するだけの土地となる。

    妻有のあの生活と、この大山の生活との違いとは何か。
    それを、今しばらく考えて明らかにする必要があるように感じている。
    人は、確かにそれぞれで自分らしく生きたいものだ。
    しかし、それだけでは、何か物足りなく、寂しいものを感ずるものだ。
    そのサムシングエルスとは、いったい何なのか。
    これからの余生は、そのことを考え、あれやこれやと試行錯誤しながら、
    年をとって行きたいものだと感じている。

    誰かが動けば、何かが残る。
    ここに生きる人たちにとって、ああここで暮らせていかったなぁと思えるものを、
    きっと誰かが創らねばならぬのだ。
    そんな時代が来たのではないかと、
    私は、あの「風の波紋」を観て考えた。

    「風」となる。
    「波紋」となる。
    では、どうやって。
    それを自然に学びながら、少しずつ少しずつ実現して生きたいものだ。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月22日 06時12分50秒

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    地震だ

    たった今、地震だった。
    がたがたと音がした。
    今でも目眩のような気分の悪さだ。
    福島沖が震源のようだ。
    津波警報が出た。
    あの東日本大震災の記憶が蘇った。
    息子二人を起こして、今ここに居る。
    予測不能。
    そんな中で、私たちは生かされている。

    津波の恐ろしさが蘇って来る。
    無事であって欲しい。
    津波が起きないで欲しい。
    とにかく、高台に一刻も早く避難して欲しい。
    お年寄りたちはどうしているだろうか。
    障害のある人たちは大丈夫なのか。
    お互いに助け合って避難する繋がりは地域にあるのだろうか。

    恐ろしい。
    恐ろしさが蘇る。

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  • from: クマドンさん

    2016年11月21日 06時17分08秒

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    「風の波紋」と再会できた

    「風の波紋」を観て来た。
    「途中の会」のSさんと、Wさんと一緒だった。
    2人は小千谷でSLを観て来た。
    そして、車で海老ケ瀬の県立大学に到着だった。

    妻有の大雪の山里での生活だった。
    何でここに生きている人たちの姿に感動して、涙が止まらなくなるのか、
    いつもいつもこの映画を観る度に考えている。

    「大雪の中でも、ここ人たちは笑顔なんだ。」
    「それから、いつも助け合って生きている。だから、独りにならないんだ。」
    移住してきた若い女性の天野さんの言葉だった。

    長作さんの家は、地震のために半壊の状態だった。
    老夫婦の馴れ初めも愉快で哀しい話でもあった。
    黙ってテーブルの湯呑を持ってお茶を飲んでいる長作さん。
    私は、その語らない寡黙な姿に、ある頃の父を見ていた。
    おばあちゃんも黙って、縁側から外を観ながら一息ついている。
    語らない。

    半壊になった家をどうするかと、小暮夫婦が語り合っていた。
    まだ建っている百何十年たつ茅葺の家を、
    壊してしまうのは何とも何とも申し訳なく、哀しいものだ。
    だから、何とか再生させてみようと決意した。
    やっぱりこの家、この土地が棲み家なんだ。

    飼っていた山羊を食べる。
    その朝は、雨だった。
    静かにそして寂しげに山羊は、飼い主の小暮さんから、渡された。
    次のシーンは、座敷での宴会だった。
    「これが肺だよ」と、美味そうに山羊の肺を口にする。
    「ありがたいねぇ」「いただきますね」と。

    山奥の民宿の親父と、尺八吹きのお父つぁん。
    とにかくすごい劇でもあった。
    「風が、風が、風が吹く・・・・。」
    その激しい語りには、雪の中で生きる人の逞しさと祈りを感じた。

    何でこの映画が懐かしいのか、私には分からない。
    50年近くこの村を離れて、里帰りした叔母ちゃんが涙ぐんでいた。
    「どんどんこの村が亡くなるみたいでね」と。

    そうなんだ。
    この村は、この暮らしは、この人たちは、きっといつかいなくなることだろう。
    こうした山里の棚田で、手で苗を植えて、草を刈る生活は、
    これから百年後は、もうどこにも存在しないのでないだろうか。
    縄文から続いた山里での暮らしも、
    この人々が生きていたこの村も、
    そして、そうやって身体をつかって日々を暮らした人たも、
    きっといつかは消えて行く。

    変わることや、衰えていくことや、いつかは消えてしまうことは、
    それはそれはとても自然なる流れであるが、
    そのことをとどめることは誰にもできないことでもあるが、
    でも、だからと言って、こうして街に住み、
    人工的な建物に囲まれ、人ばかりのごみごみしたところに暮らしていると、
    何だかやっぱりそのこと全てが懐かしいものに感じられる。

    移りゆくものの中の緩やかな時の流れの中で、
    日々を、人生を、自分を、家族を、そこで生きる。
    それは、いつか老いて、そこで倒れ、死ぬことでもあるだろうが、
    それがそこで生きている全てのものの本望のように、
    その時が来たら、その時を感じて、黙って笑って去って行く。

    その去り方や、消え方が、自然がそうであるようにして、そうであるから、
    どこか深くで諦めて、どこか深くで感じたままに、
    そのままでいいがなと、消えて行ける。

    「ああ、いかったな。難儀なこといっぺあったけれど、いかったこて。」

    何だかね。すーっとこの風景に独り独りが溶けて行く。
    この人工物とごみごみした人と人との狭い狭い繋がりの中では、
    全くそんな気持ちにはならないと想えるような、
    そんな人が人を懐かしみ、人が人を見つめ、人が人をちゃんと想っている。
    そんな暮らしが、この山里にはあるのだと、
    きっと私が知らずして感じたから、
    涙がすーっと溢れて来るのだ。

    在るものが在ると、安心する。
    そうだよなぁと感じたら、懐かしくなる。
    それは、私が経験したものではなくとも、
    人としての私がきっと絶対にかって経験していた想いの懐かしさだ。
    それは、あの炬燵の温もりであり、あの竈の炎なのかも知れない。

    でも、きっと、あの学生たちには、
    この映画の懐かしさをどれほど感じたのか、もっと聴きたくもあった。
    ここで生まれた。ここへ還る。
    それまでのぐるりが、人生と言うものだ。
    そのぐるりを自然と共に暮らせたら、きっと幸せなんだろうなぁと、
    新潟駅までSさんを車で送りながら、私はそんなことを考えていた。

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