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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020年05月31日 07時12分15秒

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    afterコロナは「ルネッサンス」だ

    さてさて、自粛生活が続いている。
    私は3月に一旦お仕事からリタイアした。
    まぁ、一カ月くらいは九州からJRで旅をしてみるかの予定だった。
    だから、JRの接続を調べ、料金を調べ、安い宿も調べていた。
    とにかく、日本の歴史を子どもたちに教えていながら、
    長崎にも広島にも行っていない私だった。
    何よりも現地に立って考えることの大切さは、
    あの東北戊辰戦争の旅でよく分かった。

    だから、その歴史の現場に立ち、そこでその人物の気持ちを想像する。
    そうした歴史再発見の旅を楽しみにしていたものだった。
    それが、今年の2月だったかな。
    ところが、退職してから雲行きがどんどん怪しくなってて来た。
    3月は何と子どもたちが学校に登校できない日々だった。
    これ、突然の決定だったな。
    そして、卒業式だけは、挙行された。

    こうして学校が6月から平常通り再開されることは、
    本当に嬉しいことだと感謝している。
    子どもたちにとっても、親たちにとっても、教師たちにとっても、
    いかに学校とは大事な場所であったとの再認識・再確認ができたからだ。
    学校で授業を受け、学習するから、新たな学習内容を理解できる。
    双方向で、ライブだから、子どもたちは分からなかったら教師に訊ける。
    教師は、その子どもの様子を見て、的確に判断して、指導ができる。
    「ああ、授業はやっぱり楽しいなぁ」の実感だと、今は思う。

    しかし、私のstayhomeはまだまだ続く。
    それは、まだどこからもオファーが無いからだ。
    今は、みんな自分のことで必死な故に、
    こんなリタイアしたじいさんのことには構っていられないと言うことだろう。
    そこで、考えた。
    よりベターなstayhomeの生活とは何かを。
    そしたら、ぴったりな言葉が日報の全面広告に出ていた。
    山田養蜂場提供の
    「ウイルスに負けずに健やかに暮らす、その羅針盤となる5つのこと」だ。

    1 体力・免疫力を保とう stay Healthy

    私は、朝は3時50分には目覚ましの音で起きている。
    それから、ポットでお湯を沸かして500ml位のお湯を飲む。
    そして、ラジオで人それぞれの物語を聴き、メモをする。
    それから、5時になると読書を始める。「エックハルト説教集」
    6時に友にメールを送り、6時半からこれを書く。
    7時10分にはゴミ捨てに向かい、庭の花や樹木に水をあげる。
    そして、朝風呂に入る。
    朝食は自分で作って質素に食べる。
    それから、コーヒーを飲みながら新聞を丹念に読む。
    そして、ヨガと筋トレを1時間たっぷりとやる。
    終ると10時を過ぎている。

    まず、この一日の始まりのルーテーンを守ることに努力している。

    2 ポジティブな気分でいよう  stay Positive

    何事もくよくよと考えないことにする。
    そのために、庭で身体を動かす。仕事をする。
    時々、そう言いながら心や感情が乱れることが在る。
    その時は、薪割をする。樹木の剪定をする。花を刈る。
    何かに集中することで自分を忘れる。無にもする。
    それから、大好きな小千谷のSさんに電話する。
    人と話すことが、心の何よりものビタミンとなる。
    後は、読書に没頭する。

    3 つながりを保とう  stay Connected

    繋がろうにも、繋がれる友が少ない。
    だから、朝だけは、友に対して生存確認のメールを送る。
    家族は、妻も長男も仕事にでかける。
    私は、日中誰とも話さないで終わることがある。
    だから、Sさんとの電話の声はありがたい。
    私は、だから、曜日を決めて、大好きな人の居るお店に出かける。
    それだけは、自分の我慢のご褒美と許すことにしている。
    これも、繋がりのルーテーンとして守って来たことだ。
    後は、しっかりと自分自身との繋がりだ。
    自分との対話で、自分の生き方を真っ直ぐにする。
    自分自身と向き合う時間は、stayhomeでたっぷり与えられている。

    4 感謝の気持ちを忘れずに  stay Thankful

    朝は、神に深く深くの感謝の祈りから始める。
    今朝、目覚めたこと。今日一日は生きられること。
    自分の身体で自由に動けること。ご飯を美味しくいただけめこと。
    「今日も美味しいご飯ありがとう」と言ったら、すっきりとしたこと。
    雀が今朝も雛をつれて来てくれたこと。
    この清々しい朝の天気とお日様の光が輝いていること。
    庭を見てぼーーーーっと過ごすこと。
    すると、庭に登場する全てのものたちに感謝、感謝だった。
    本日も、アゲハが来た。クマンバチが来た。ある日はヒヨドリも来た。
    こんな独居老人の庭に、そうやって訪れてくれる全てのものにただ感謝だな。

    つまり、何でも「ありがとう」を言える。
    逆に、「ありがとう」を言えないことは、何もないのだ。
    妻にも感謝だ。長男にも感謝だ。川崎に住む次男にも感謝だな。

    5 大事なことは考え続けよう  stay Focused

    このことが、今回のstayhomeの一番の課題となっている。
    つまり、世界中の人たちがこの状況の中で「考えている」ということだ。
    何を考えているかと言うと、「これからどう生きて行くか」という、
    生きることに対する根源的な本質的な「問い」ときっと向き合っているだろうと、
    私は思う。
    「生きることは、考えることだ」とは池田晶子さんだ。
    では、私たちはあの忙しい日々の中で、
    「いかに生きる」「より善く生きる」について、
    じっくりと考えていたかの「問い」だ。
    では、ここに書かれている「大事なこと」とは、何のことだろう。
    それは、きっと人それぞれ違っているのだと私は思う。

    しかし、この言葉で最も大切なことは、「は」がここに書かれていることだ。
    「を」ではなくて、「は」なんだな。
    「は」があることで、はっとするし、改めて大事なことの意味を問い直す。

    そして、考え始めたら、その「問い」を「問い」続けることだ。
    つまり、考えると言うことは、
    自分自身の生き方に対して「問い」をもつことだからだと考える。
    その「問い」を忘れて生きてはいなかったか。
    そま「問い」を見て見ぬふりわして、見過ごしてはこなかったか。

    つまり、コロナ以前のままの生活をafterコロナで続けてもいいのか。
    afterコロナからは、もっと何か「人間」としての生き方をしたくはないのか。
    「人間らしい」「人間が大事にされ」「人間独り独りが尊重される」
    そんな生き方ができる「社会」にしたくはないのかの「問い」だと思う。

    それは、自分の生活そのものの在り方もそうだ。
    私は、この自粛生活で生活を原点にリセットできた気がしている。
    本来の私らしい生活が、何だか経済的には無収入であるが、
    細々であっても豊かにできているような気もしている。
    だから、この自粛を自分自身への「問い」と考え、
    生きることそのものの「意味」についていっそう深く考えるようになった。
    この「親父たちよ」が長文になったのは、
    仕事に行かなくてもよい生活だからだ。

    14世紀にヨーロッパを襲い、人口の四分の一が亡くなったペスト。
    しかし、このafterペストで、「ルネッサンス」は起こされた。
    権力・権威は瓦解して、市民の自由な時代がやって来たそうだ。
    だから、afterコロナなんだ。
    ここで社会がどのように変革されるか。
    そのことも「大事なこと」だから、
    国民全員が次の社会はどんな社会になるべきか、
    考え続けることが、大事な、今なんだと私は思う。

    願ったことは、きっと実現できるはず。
    願いもしないことは、絶対に形にもならない。

    さてさて、JRでの九州からの日本の歴史再発見の旅はできなかったが、
    stayhomeのおかげで、
    この5つの生き方を何だか自分自身のものとしているような気がする。
    これは私にとっての「ルネッサンス」だった。

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  • from: クマドンさん

    2020年05月30日 06時58分20秒

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    タクシーの法則についての考察

    金曜日は、昼飲みの日だ。
    緊急事態宣言が解除されたので、少しは気楽に飲めるようになった。
    とにかく、凌いでいる間は、支援を続ける。
    そして、私は、食べ続け、飲み続ける。
    そのことがお互いの幸せ感につながるはずだと、合点している。
    大好きな人たちがそこに居る。
    毎日、来れるわけはない。
    だから、金曜日には会いに行く。

    昨日は、花は買わなかった。
    千屋さんでは、ワインを買った。
    あき乃では、いつものやつでずっと粘った。
    本当に、ぼーーーっと静かで豊かな時間を過ごした。
    そして、J&Yだった。
    この明るいお店と、店主のTさんの笑顔に救われる。
    本当に心地よいカウンターだ。

    さてさて、タクシーの法則だ。

    その1 日替わりタクシーの法則

    以前来た日にはIとKタクシーとHタクシーであった。
    そのタクシーたちが定期的な間隔で、本町通りを通って行った。
    ところが、よくよく観察していると、
    その日によって参戦するタクシーが替わっていることに気付いた。
    これはこれで驚きだった。
    これはきっとドライバーの嗅覚・本能によるのではないかの予想だ。

    その2 左折の法則

    私は、それまで本町通りを過ぎたら、右折して東堀に行くのだと思っていた。
    つまり、右回りで回遊するのだと考えていた。
    それが違っていたことへの驚きだった。
    タクシーは、本町通りを終えると、次の信号を左折した。
    それを発見できたのは、
    私が通りのベンチでお日様を浴びてワインを飲んだからだ。
    視点を変えて研究を続ける大切さだな。

    その3 左周りの法則

    考えてみたら日本の道路は、左側通行だ。
    右回りで回遊していたら、右折した時は反対車線に入らなければならない。
    何よりも通りが激しかったら、対向車が切れない限り、
    対向車線には入れないというリスクがある。
    つまり、左回りで回遊すると、そのリスクとストレスが無くなるの法則だった。

    その4 ヨウカドウの法則

    しかし、左回りをするのは、そのリスクを回避するためだけではないはずだ。
    つまり、次の道路を左折して直進することで何かウインがあるはずだ。
    そのことを店主のTさんと真剣に考えてみた。
    すると、彼が、はっと閃いた。
    「あそこには、ヨウカドウの裏の出口があります」
    「あそこには、確か、タクシーの待機場所があったはすです」
    「それだ。それに違いない」
    「お年寄りのお客は買い物に夢中になってついつい買い過ぎることがある」
    「その時、両手に買い物の袋をぶらさけで、買い物疲れをしていたらどうだろう」
    「その目の前にタクシーだ。やっぱりついつい乗ってしまうよな」
    「安売りで得をした分、タクシーに払うお金と考える」
    「つまり、ヨウカドウの出口があそこにあるから、左回りの回遊が成立する」

    その5 ライオンの本能の法則

    そうやって研究を続ける内に、ある事実に二人は気付いた。
    大手タクシー会社のDタクシーは、20分くらいで既に8周はしている。
    その次に参戦したタクシーは、1~2周でこの回遊から姿を消した。
    不思議だ。どうして、Dタクシーだけは、ここに残って同じ回遊を繰り返すのか。
    その疑問に対して、ある答えが発見された。
    「それは、会社と個人経営の違いではないか」と言う気付きだった。
    SタクシーもIタクシーも、個人タクシーと書かれてあった。
    彼等は、その日の獲物を獲得できるかどうかは、死活問題そのものだ。
    その日の水揚げで、その日の生活は成り立っている。
    だから、獲物を求めるハンターの本能で、お客を探して流している。
    つまり、ここにお客がいなかったら、違う場所に行かねばならないということだ。
    しかし、大手の会社のドライバーは、サラリーマンでもある。
    確かに成績アップは必要だろうが、個人のような必死さに欠ける。
    知恵がつくのは絶えず獲物を探し求める個人の方だということだ。
    つまり、ドライバーにはライオンの本能と経験と知恵とが、
    常に求められ、試されているということだった。

    その6 人情横丁の法則

    しかし、歩道で飲んで発見したことは、これだけでなかった。
    何と、人情横丁を周回するタクシーも多いとの発見だった。
    あの狭い小路なのに、確かにタクシーは多く通る。
    手を挙げて渡る時、止まる車にはタクシーが多い。
    そういえばそうだったの、気付きと発見だ。
    つまり、バリエーションルートとして、
    この左回りの回遊の他に、この人情横丁の回遊も入れているということだ。
    ヨウカドウ横の待機場所には、何台も止めるスペースは無い。
    あの看板から3台くらいが限度だと考える。
    つまり、そこが空くことを期待しての人情横丁の回遊でもあるのだ。

    その7 生きるとは考えるの法則

    今回もTさんとこんな会話で盛り上がった。
    当たり前のいつもの現象である。
    タクシーがこの通りを通り続ける。
    それを気にもしなければ、何も「意味」の無いことでもあった。
    ところが、そこに何かの「意味」を考え始めると、
    その当たり前の何の意図も感じられなかった状態が、
    何だかとても深い深い「意味」を持った法則に変化すると言うこの事実だ。
    そして、その法則とは、
    ドライバーの人たちの思考によって生み出された法則であるとの発見だ。

    ニュートンの「万有引力」の発見と同じことだ。
    彼は、ペストで大学が休校になったので、田舎に引きこもった。
    その時、目の前でポトンと落ちたリンゴを見て、驚いた。
    どうして月は落ちては来ないのに、リンゴは落ちるのかの驚きだった。
    そこで、彼は「万有引力の法則」を発見した。
    この法則が発見されたのは、stayhomeのおかげなのだ。

    さてさて、そう考えると、日々、目の前に起きている当たり前のことにも、
    本当はそのことが当たり前となるための法則が、
    潜んでいるのではないのかの「問い」が生まれる。
    いや、そのことに何かの気付きを感じて、観察する人にだけ、
    そのことの隠された「意味」と「法則」とは明らかにされるもののようである。
    それは、天恵でもあり、選ばれし人でもあるだろう。
    ニュートンは、一個のリンゴの落下と出会った。
    私たちは、タクシーの回遊と出会った。

    しかし、有史以来、人類が誕生して以来、
    こうして毎日行われて来たタクシーの回遊に、
    これほど素晴らしい法則が隠されていたことの発見を、
    私は、人類の独りとして喜び、褒め称えたいと誇りに思っている。
    それも、J&Yと、共同研究者Tさんのおかげであった。
    この場を借りて、深く深く感謝する。

    つまり、この7つ目の法則とは、全ての人間に当てはまる法則でもあるのだ。
    実は、タクシードライバーの人たちは、
    意識化せずとも、言語化せずとも、
    この法則に則って日々の生業を行っているのであった。
    この法則を自分のものとして生きているからこそ、
    ドライバーの皆さんは、日々生活をし、家族と共に暮らしているのだ。
    それは、ライオンたちも同じだな。
    どこで待てば獲物はやって来るのか。
    どこへ行けは、獲物は居るのか。
    それは、本能によって法則として身に付いているものだと考える。

    そして、思考とは、その本能をベースにして多くの失敗繰り返しながら、
    体験を通して培っていく知恵でもあるのだ。
    その知恵を自らの経験の中からどれだけ培い、編み出せるかで、
    そのドライバーの生きる力が成熟していくのだと、私は考える。

    つまり、このタクシーの法則とは、
    そのドライバーたちの知恵が編み出した法則であるのだ。
    生きるとは、考えることである。
    考えることこそ、哲学である。
    池田晶子から、そう私は教わった。

    ということを、TETTOのMさんに話したかった。
    「何の話?」と訊かれても、
    「長くなるからなぁ・・・」と話さなかった話が、
    この話です。
    Mさん、分かってくれたかな。笑ってくれたかな。

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  • from: クマドンさん

    2020年05月29日 06時40分02秒

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    劣化は起こる。だから、どうするかだな。

    世の中は、劣化しているのだろうか。
    職人さんの世界でも、こんなことが起きるのだねの驚きだった。

    芝生をはぐことを判断したのは、
    現場に来た若い作業員だったそうだ。
    「私の判断でそうしました」
    私は、あれだけ芝生のことに対して注意してくれるように監督頼んだのに、
    そして、下請けのこの現場の監督に確認したのに、
    その大事な連絡が伝わっていないことの驚き。

    お客が大事に育てている芝生をどうするか、
    まず、私が自宅でstayhomeしていのだから、
    確認するのが筋だとは思うが。
    または、土を盛る場所の確保のためにこの芝生をどうするか、
    感得に携帯で聴けばいい。
    そんな大事なことの判断を現場扱いにしていることの驚き。

    芝生は、はげばいい。
    はいだ芝生は、終わったらはればいい。
    作業員にとってはそんなものかも知れないが、
    この芝を植えるためにどれだけの労力と丹精をこめたものか、
    その若者には想像もできなかったのだろうの驚き。
    お客さんが大事に育てているのだという気付きすらなかった。
    自分たちの仕事の段取り、はかを優先にする。
    「まぁ、何とかなるさ」の無責任。

    それでは、仕上げは職人らしくびっしりときれいにしているかと言うと、
    「何だ、これは」の驚きと哀しさ。
    芝は土でどろどろ。
    下地は整地されず、ぼこぼこ。
    段差はあるは、傾いているは、で、平気な神経。
    適当に置いておけ、はっつけておけばそれでいい。
    その芝を見て、唖然としてしまった。

    現場監督は、責任者。
    工事が終了したら、その出来具合を点検し、
    完全な仕上がりでお客の立ち合いの元で終了するものと思っていた。
    そしたら、その職人さんたちで、
    芝を無造作にはりつけて、管は飛び出したまま、
    どろだらけに芝をしておきながら、
    「お客さん、終わりました」の驚き、哀しさ。
    この現場の責任者は、いったい誰なんだの驚き。

    この人たちは、下請けの人たちだ。
    言われたことをただやればいい人たちだ。
    私が仕事を依頼したのは、我が家を建てた大手の建築会社だ。
    その会社を信用してこの仕事を依頼した。
    というよりか、以前の径の大きな管との交換を勧めたのは、
    この会社の現場監督のKさんだ。
    そのKさんには、芝のことはちゃんと確認をした。
    しかし、こんなことが起きてしまったのは、
    この人がきちんと監督責任を果たしていないからだった。

    そして、昨日、もっと腹が立った。
    作業した若者が砂を積んで、昼頃に来た。
    私は、朝、Kさんに現場を見てもらって、どうするか考えて欲しいと依頼した。
    これは、下請けの問題ではなく、
    私は、あなたの会社を信頼して依頼したのだから、
    会社の責任で元に戻してもらいたいと、話したばかりだった。
    しかし、また、この話がKさんから、午前中に下請けに伝わっていなかった。
    つまり、勝手に砂を入れて終わりにしようと言うのだった。

    彼も、この現状を見て呆れ、暗澹たる気持ちになった。
    私が腹をたてることはよく分かると、言っていた。
    しかし、その彼が動いていない。
    また、連絡をしていなかったことで、若者に無駄な時間を使わせた。
    私は、若者の携帯でKさんに言った。
    「会社としてどうするのか決定してから来てください」と。

    しかし、その結果の連絡がいつになっても来なかった。
    私がその結果を待っている事すらすっかりと忘れているらしい。
    まず、何よりも先に考えるべき事案だとは思っている。
    5時前だった。
    連絡が無かったので、会社に電話した。
    Kさんに自宅に電話が欲しいという伝言を伝えた。
    しかし、10分たっても電話はかかって来なかった。
    もう一度会社に電話して、出かけるからすぐに電話が欲しいと伝えた。
    すると、すぐかかってきた。
    きっと、私の電話でやっと段取りと打ち合わせを始めたのだろうと思った。

    私は、劣化しているなぁと感じた。
    ただ下水の縦の管を太い物から細い物に替えるだけの簡単な工事だ。
    「昼までに終わりますよ」と、現場監督が笑顔で言っていた工事だった。
    それが、こんな悲惨なこととなり、未だに修復できていない。
    昨日、水を撒いたら、芝がどろだらけになった。
    何の為の芝なのか分からない。

    今回の事例から、学ぶべきことが多いと私は思った。
    ある人にこの話をしたら、
    「今は、どこでもそんなもんだよ」と言われた。
    彼は、だからある店舗を建てる時、ずっと張り付いて監督したそうだった。
    簡単に済ます。不具合はそのままにする。言われたら直す。
    隙間があっても面倒だからそのままにする。言われたようには面倒だからしない。
    職人さんの誇りとは、どうになってしまったのかの驚きだった。

    今回のことは、きっとこの人たちはどこの現場でもやっていることだと思う。
    だから、誰も悪気どころか、一生懸命に仕事をしてくれた。
    しかし、そのやり方が長年行われていることで、
    自分たちが気付かない不具合が仕事の中で起きているのではないかの「問い」だ。
    それも信頼のおける大手の建築会社がこれをやるかの「問い」だ。

    きっと「めんどくさいやつだなぁ」と、思われているだろう。
    「こんげぐらい、どうでもいいねっか」と、言われていることだろう。
    でも、ここだけでなく、他の現場で同じことが行われていたとしたら、
    その会社の信用問題となるはずだ。
    私は、先輩に言われたことがある。
    「お前の仕事は、会社の看板を背負った仕事だ」と。
    今は、そうした自負と誇りとが、無くなってしまったのだろうか。

    さてさて、11時にKさんと庭師さんが来てくれる。
    この会社が会社としてどのように復元するか、
    そのことを今は楽しみにしている。
    それができなかったら、会社自体が劣化しているという証だからだ。

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    2020年05月28日 07時32分06秒

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    「なんとかなるさ」「大丈夫」「まぁ、いいか」

    昨日は、辛い日だったな。
    下水のマンホールの工事だった。
    午前9時に担当の監督が来た。
    「昼過ぎには終わると思いますよ」とのことだった。
    そして、工事担当の若者が二人来た。
    さっそく、庭にある今あるマンホールを掘り始めた。

    しばらくして驚いた。
    その周りにずっと敷いていた芝生が10枚くらいはがされていた。
    マンホールの周りの芝生ははがさなければという話だった。
    今年は、ここの芝に気を使い、やっときれいにはれたと安心していた。
    その芝をはがれてしまった。
    「こんなはずではなかった・・・」とは、後の祭りだ。

    もうはがされてしまったものは仕方ない。
    後は、私が自分の心を静めるだけだ。
    しかし、その穴掘りの工事が一向に進まなかった。
    トイレは近くの叔母の家を借りた。
    11時になっても1人の若者がぼーっと穴を見つめている。
    もう一人の若者の姿は無かった。

    何と接続のためのパイプに不具合があり、
    それを買い求めに行ったのだそうだった。
    これでは昼までに工事は終わらないだろうとの予想だった。
    私にも、午後からの予定があった。
    しかし、このまま工事を任せていくわけにも行かない。
    強制的なstayhomeになってしまった。
    ここでまた、心のイライラが発生した。

    昼を作って食べてから、仕方ないのでBSで「ライムライト」を観た。
    チャプリンの踊れなくなった若いダンサーに語る言葉が身に沁みた。
    舞台から遠ざかり、仕事が無くなった老喜劇役者が彼の役だった。
    彼もまた、プライドから頭を下げることなく、
    仕事をただそのアパートの一室で、酒を飲んで待っている男だった。
    彼は、踊ることに絶望し、自殺未遂した彼女に、
    「生きる力」と「再び立ち上がる勇気」と、
    その力は、この自然に与えられているように、
    「君にも神様は与えている」と彼女を奮い立たせるために語り続けた。

    そして、目覚めた。
    その言葉は、失意の中で酒浸りの自分に対しての言葉でもあったからだ。
    彼は、エージェントから何年振りかで舞台の仕事をもらった。
    そして、舞台に立った。しかし、全く受けなかった。
    往年の名喜劇役者が、ぼろぼろになって舞台を降りた。
    そして、舞台が怖くなり、生きることへの自信を失った。
    その失意と絶望の彼を励ましたのが、彼女だった。
    彼が彼女に語ったように、奮い立たせるために、「勇気」を語った。
    そしたら、歩けなかったその足で、立っている自分自身を発見した。

    私は、この映画を観ながら、時々、階下に降りて、庭の作業の進捗を見つめた。
    この芝をこんなにしたのは、この人たちのせいではなかった。
    この人たちは、ただ穴を掘って、細い管に交感せよ言われただけだ。
    だから、不具合があれば、新しい官を購入しに行き、
    その官を設置するために、芝をはいで穴を掘っただけだ。
    それも、途中から冷たい雨になってしまった。
    本来は、昼で終わる作業が3時過ぎまでかかってしまった。
    そして、全部完了したら、その芝をせっせと並べ直してくれた。

    官の上が、何20㎝も地面から立ち上がっていた。
    「これで、終わり?」の驚きだった。
    「これでは危ないですよね」と私が言うと、
    「どうしましようか」と、笑顔で職人さんに言われた。
    さんざんな工事だった。
    つくづく、人には頼めないのだと、がっかりとした。

    しかしだ。
    実は、何でもそんなものではないのかと、自分に言い聞かせもした。
    つまり、思い通りには絶対に行かないという事実・真実だ。
    本当は、この工事には乗り気ではなかった。
    しかし、いつかやらねばならない工事であり、
    芝の被害はその周りだけと聴いていたからお願いした工事だった。
    それも、午前中で終わると聞いていた。
    しかし、現実は、全く予想外の展開だった。

    そのために、私の心は乱れ、イライラが募った。
    午後からの予定はキャンセルとなり、
    思うようでないことで、何だか落ち込む私でもあった。
    弱いものだと、つくづく感じた。
    こんな工事だけで、感情をぶらしてしまうこのちっぽけな私だった。

    人とかかわるとは、こういうことなんだな。
    私は、いつも独りで庭を観て暮らすだけだ。
    人とは、話すこともあまりない。
    だから、きっと心が落ち着く、平安でいられる。
    しかし、人とかかわり、こうして人に何かを頼んでやってもらうと、
    私の思いと相手の思いとで不具合が起きる。
    そのことが、私のストレスとなり、私のことを苛立たせる。
    弱い男だと、つくづく感じた。

    踊れなくなったバレリーナ。
    全く客から受けない喜劇役者。
    その失意と絶望には、原因があった。
    それが、弱気であり、諦めであり、自信喪失であり、失敗でもあり。
    つまり、心の在り方そのもので、
    彼女は踊れなくなり、彼は舞台から遠ざかっていた。

    しかし、再び立ち上がる勇気を得た時、
    その力と希望とを自らの身体に感じた時、
    彼女はチャレンジし、彼も舞台に役者として立った。
    「気持ち」なんだなぁと、つくづく感じた。

    その自分の気持ちをどのようにして処理するか。
    イライラとしたままにするか。
    落ち込んだままにするか。
    腹を立てたまま時間を過ごすか。
    それは、私の「気持ち」次第なんだと言う事実だな。

    「まぁ、いいか」「仕方ないな」「何とかなるさ」と思うか、
    「どうしてこんなことになったんだ」「どうしてくれるんだ」と思うか。
    同じ事実でも考え方の方向で、「気持ち」もまったく逆になる。
    だから、失意の時や、絶望の時や、もう駄目だの時は、
    そのことにこだわらず、そのことを半ば諦め、気持ちを切り替え、
    「どうにかなるさ」と、思い直すことが大事なんだと改めて思った。

    「気持ち」とは、「気の持ちよう」だ。
    そこで、失望したり、諦めたり、自信を失ったりすることも無い。
    そんなことは、いつでもどこでもあることなんだ。
    はがれるはずのない芝がはがれてしまっても、
    20㎝も地面から管がが出ていても、
    「何とかなるさ」「大丈夫」と、自分自身に言い聞かせる。

    彼女のようにガス自殺を図ることもない。
    彼のように絶望して酒浸りの日々を送ることもない。
    その気持ちを切り替える。
    「何とかなるさ」「大丈夫」。

    そう想わなければ、この世でのこの人生、
    平安に平穏に生きることは難しいと、思った。思った。
    「何とかなるさ」「まぁ、いいか」「大丈夫。大丈夫」。
    そう言い聞かせることの大切さを、昨日の不具合の一日で学んだようだ。

    しかし、芝が・・・・。「何とかなるさ」

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  • from: クマドンさん

    2020年05月27日 06時47分01秒

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    「共生」と「連帯」を森で学ぶ

    英国のキュー王立植物園でただ一人のボタニカルアートの画家、
    山中ますみさんのお話を聴いた。
    先月、お話を聴いてから、ずっとずっと心に残っていた人だった。

    45歳で乳がんになり、その入院中に植物への興味が芽生え、
    遺された人生の時間を植物たちと向き合うことに決め、
    居候同然で植物園に通うようになった。
    そこで、資料や本の整理をしながら、
    植物画を独学で学び、15年たち、今では世界で認められる画家の1人となった。

    植物については、全く興味もなかった彼女は、
    その植物画を描くようになってから、
    その植物についてのめり込んで行った。
    そこには、日本から持ち込まれた貴重な植物があり、
    絶滅危惧種の植物もあるからだった。
    それを絵に描いてこの世界に遺すことが、
    彼女のミッションなんだと考えていた。

    植物が描いて欲しいと彼女のことを呼ぶらしい。
    彼女は、その声に促され、その声に聴き従い、
    その植物の命を絵にして描く。
    そこには、その植物の生物としての「意味」のようなものを感じているとのこと。

    この植物が絶滅したら、この植物とかかわって生存している昆虫絶滅する。
    すると、その昆虫を捕食している昆虫や動物も絶滅の危機となる。
    つまり、どんな植物でも、何かと必ず繋がって存在しているのだった。
    難しいことは私には分からないが、
    私の庭の植物たちを見ながら、
    私は、お互いに繋がってここで生きているのではないのかなぁと、
    感じているので、この山中さんの言葉には合点が行った。

    トラを守るためには、その森を守らなければならない。
    その森とは、樹木だけでなく多種多様な植物が在り、昆虫がいて、
    多様な生物の連鎖・繋がりの中で生かされているものだという発想だ。
    そう考えると、この森は、小さな地球そのものだ。
    その森で行われていることが、日々、ちゃんと行われていたら、
    このトラはその森で生きていける。
    森は、トラを生かしている大事なフィールドだ。

    地球は、本来は太陽のエネルギーだけで生きている。
    本当にそうだった。
    その太陽のエネルギーによって光合成が行われ、
    この地球には酸素が生まれる。
    二酸化炭素を栄養としてそこでまた酸素がつくられる。
    見事な酸素と二酸化炭素との循環だ。

    植物たちは、花を咲かせる。
    私はいつもどうして花をみんなつけるのだろうと不思議を感ずる。
    その時が来ると蕾をつけ、それが膨らみ、花となる。
    すると、待ってましたとばかりに、
    モンシロチョウにアゲハチョウだ。
    クマンバチは毎日決まった時刻にやって来る。
    花の蜜を吸うためだ。

    花たちはその時、花粉をめしべに付ける。
    つまり、この虫たちが受粉を助ける。
    そして、子房の中で種を育てる。
    お互いにウイン・ウインの関係だった。
    しかし、そのためには太陽のエネルギーだ。
    日が長くなる。太陽が高くなる。日差しが強くなる。土の温度が上がる。
    そこで、植物も昆虫たちも元気に育つ。

    地中の虫たちもそうだった。
    春から夏にかけたこのシーズンが、繁殖の季節となる。
    ダンゴムシ・ハサミムシ・ミミズ等等、
    実は庭の石の下やプランタの下は、こうした虫たちの楽園だった。
    たいした賑わいなんだな。
    そのおかげで土は滋味のあるよい土となる。
    土と虫たちとはこれもウイン・ウインの関係だった。

    先日、畑の土を掘り返したら、
    小さなカナヘビが現われた。
    こんな狭い庭の中でも、このカナヘビは生きていけるんだの驚きだった。
    きっと虫たちを食べているのだろう。
    何だかこの庭の番人のように感じた。
    生きることは食べることだ。
    今日も何かの餌にありつけることを祈っている。

    そう言えば、先日悪戦苦闘のアブラムシたちの大群だ。
    あれは、確かに私の「油断」だった。
    しかし、ある日から、テントウムシが目に付くようになった。
    それも、いろいろな種類の小さなテントウムシたちだった。
    アブラムシにはテントウムシが天敵だった。
    とにかく食べる量が半端ではないそうだ。
    もしも、テントウムシが大量発生していたら、
    この問題は解決したが、次は、テントウムシの問題だったな。

    クモが巣をはっている。
    私は、その巣の位置を覚えて、壊さないように配慮する。
    あの何重にも囲まれたクモの糸の巣には、
    それをせっせと制作していたクモの努力の結晶だからだ。
    どうやってクモはこんなにも幾何学的な美しい模様を描くことができるのか。
    そまクモの巣には、既にかかってしまった小さな虫たちが、
    何とがんじがらめにクモの糸で巻かれて置かれてあった。
    捕食した虫を、貯蔵しているのだった。
    この知恵には驚いたな。
    しかし、この虫たちも植物があるからの虫たちだ。

    何だかね。こうやってマクロな視点でこの庭を観ていると、
    次々と新たな発見に驚かせられる。
    そして、ここにはやはり「共生」と「連帯」なのだと、
    改めて感じた。
    命とは、互いに助け合って生きて行かねば、
    生きられないものなんだ。

    一つの命が全てを独占したり、
    一つの命がこの場から絶滅したりすると、
    この庭で生きていた小さなそして細やかな命たちの「共生」と「連帯」は、
    そこからウイルスが広がるように破壊されていくのだと、
    この庭を観るだけで教えられた。

    山中さんが言っていた。
    人間もその地球環境に生きるメンバーの一人なんだと。
    そして、その環境を破壊し、生物を絶滅に追い込んでいるのは、
    その人間なんだと。
    今、地球は、ノアの箱舟なんだ。
    その箱舟で人間はどんな役割を果たすべきなのか。
    そのことを「問い」続けなければならない時代に来ている。

    いつしか、私たちホモサピエンスが絶滅する日が来たとする。
    そうしても、きっとこの地球の生物たちは生き残り、
    繁殖するはずだ。
    そして、次の人類と呼ばれる人たちが現われた時、
    私たち絶滅したホモサピエンスたちのことを何と語るかの「問い」だった。
    きっと「愚かな人類」だったと、言われるのではないだろうか。
    そんなことも話してくれた。

    小千谷のSさんは、今、学校に造った森を守ろうと動き出した。
    この山中さんの話ではないが、
    きっとその森がノアの箱舟。
    地球の命の繋がり、「共生」と「連帯」そのものの場所だと思う。
    そして、生徒たちや地域の大人たちがその森に入り、その森を感じ、
    その森の語る「言葉」を聴きとり、その森の中で気付くとき、
    本当の意味での「共生」と「連帯」の意味を理解するのではないだろうか。

    私は、この小さな庭でそれに気付き、その不思議に驚いている
    山中さんは英国のキュー効率植物園でそのことに気付き、ミッションとしている。
    Sさんにとってのその森は、きっとそんな場所になるのではないだろうか。
    83歳のSさんのその心意気に、森と植物と虫たちとは、
    きっとエールを贈っていると私は信じている。

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  • from: クマドンさん

    2020年05月26日 08時48分23秒

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    雀の雛だよ

    毎朝、雀に餌をやる。
    今もこうして雀たちは餌を待って鳴いている。
    ほんのわずかな餌であるが。
    お腹を空かした雀たちには大事な食べ物となっている。

    ブロック塀の上に雛が止まった。
    親たちと同じくらいの大きさなので、
    一見すると雛だとは分からない。
    しかし、羽はまた産毛のような柔らかさだ。
    何よりも餌を求めて身体を震わす。
    その産毛がぷっくらと膨らむ様子で雛だと分かる。

    この行動は、餌を求るときのものだ。
    とにかく雛はいつでもお腹を空かしている。
    こうやって身体を震えさせ、膨らませて餌をねだる。
    すると親鳥なのか、隣に止まった雀が餌をやる。
    自分の嘴から雛の嘴へと餌をやる。
    雛はそれを喜び、まだ身体を震わせて次の餌をねだる。

    さっき餌をやった親鳥は、
    すっと向こうの駐車場に飛んで行った。
    雛はぽつんと残された。
    その時だ、次に餌台に飛んで来た雀が、雛の隣に止まった。
    そして、雛に嘴で餌を与えた。
    そして、また飛び去ったら、次の雀がやって来た。
    「待てよ・・・」
    その時、私はこの不思議な事実に気付くことができた。

    「親じゃないよなぁ・・・・」
    「餌をやっているのは、親じゃないはずだ・・・」
    ということは、この一羽の雛は、
    ここに集まる雀たちが餌をやって養っているということなのか。
    驚いた。
    そう考えれば合点が行くのだ。

    巣から離れたらどの雀が自分の子なのか分からなくなるだろう。
    飛んでいる内に親鳥とはぐれることもあるだろう。
    でも、大丈夫なんだ。生きていれるんだ。
    雀は、みんなでその雛を育てることを当たり前としているからだ。
    この雀には餌をやる。あの雀には餌をやらない。
    そんなこそくなことは考えない。
    みんなでこの自然の中を生き抜いていくためには、
    助け合うことが当たり前の本能だった。

    それも、一番弱く、助けを必要とする雛に対して、
    自分が食べることを後にして、
    まず餌を与える。
    そして、飛び去って行く。
    なぜならば、その後に来た雀が餌を与えると信じているからだ。
    この安心感と信頼感は、
    私たち人間の社会にはあるのかという「問い」だった。

    このコロナで本当に生きることが精いっぱいで、
    明日をどう生きようかと困窮している人たちの声が聴こえる。
    しかし、その人たちへのセーフティネットが、
    こんなにも脆弱で、制度も支援の方法も無かったと言うことが、
    今回のことで露見した。
    何だか、雀たちの温かさに、
    私たちが失っている温もりを感じたような気がした。

    数年前にこんな光景を見たことがある。
    2年生の教室の隣はトイレだった。
    その窓の上に小さな丸い空気こうが二つあった。
    そこに春になるとムクドリが巣をつくる。
    ある日から、ぴいぴいと雛たちが鳴き始める。

    その鳴き声は、定期的に、ある間隔をおいて聴こえた。
    不思議だなぁと、その様子を見ていたら、
    その間隔の意味がよく分かった。
    それは、二羽の親鳥たちが餌をとって帰って来る時、
    雛たちが鳴く鳴き声だと分かった。

    5羽の雛が、親鳥が来ると、
    黄色い嘴を精一杯に開けて餌をねだる。
    親鳥はその嘴に餌を与えると、またすぐに飛んで行く。
    学校の前の道路を超えて、田んぼに向かう。
    そこで虫をとって来るらしい。

    1~2分の間隔だ。
    また親鳥が低空から、一気にその壁の穴に向かう。
    すると、またぴいぴいとあの鳴き声が聴こえる。
    そして、鳴き止むとき、
    親鳥の姿は巣にはなかった。
    また、あの田んぼに向かって飛んで行った。
    そして、また同じ位の間隔で、巣に戻って来る。

    つまり、1時間の間に30回以上、この同じ行動を繰り返すのだ。
    それも、休まず、続ける。
    本当に只管そうやって行き来する親鳥の姿を見て、
    何だか涙が流れたものだ。
    きっと自分は食べてはいない。
    5羽のお腹を減らした育ち盛りの雛たちだ。

    休むわけにもいかない。
    雛はお腹を空かして待っているからだ。
    それを止めたら、雛たちは死ぬ。
    だから、一日中親たちは飛び続ける。
    きっと休めるのは、お日様が落ちた後、
    夜になれば、雛も眠る。

    12時間飛び続けたとしたら、
    この親鳥たちは、360回以上往復したことになる。
    身を捨ててこそ、かなぁ。
    私は、毎日、その姿を見て、頭が下がった。
    私は、いつしか、その親鳥たちに尊敬の念を抱いた。
    「ああ、いいものを、見せてもらいました」と、感謝した。

    2年生の子どもたちにそのことを教えた。
    そして、昼休み中ずっと親鳥のことを見守っていた。
    子どもたちは、心から感動していた。
    これが本当の親の愛だな。

    そして、いつしかその雛たちの鳴き声が聴こえなくなった。
    きっと親たちと一緒に、この巣を巣だって行ったのだろう。
    親鳥たちは、その親鳥たちにそうやって育てられた。
    だから、当たり前のように、こうやって雛たちを育てる。
    そして、この雛たちが親鳥となったときも、
    きっとそうやって自分たちの雛を育てる。

    この愛は、命には必ず備わっているはずだ。
    そうでなければ、この自然の中で雛を育て、子どもを育て、
    巣立ち、自立させることはできないと思うからだ。
    親は、子を持った時、自分を捨てる。
    いや、子育てだけを優先に考え、行動する。

    自分が食べなくても、
    自分がどんなにお腹が空いていても、
    その嘴の餌は、雛のための餌となる。
    お腹が減っている親は、
    その嘴の餌を飲みこまない。
    その餌を雛に与える。

    無償だな。
    雀も、ムクドリもそうしている。
    それでは、人もそうするだろう。
    今は、みんなはそうする時なんだ。
    そのスイッチをonにする。
    自分のことより人のことを先に考える。

    それができるのが、人なのだと私はstayhomeで考える。

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  • from: クマドンさん

    2020年05月25日 07時07分39秒

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    S先生

    昨日は、S先生の礼拝と聖餐式だった。
    礼拝が始まる前から、先生の後ろ姿を見て、涙が止まらなかった。
    82歳だろうか。
    本当に心から尊敬している先生だ。
    「クマさん」と、こんな私のことをいつも気にかけ、可愛がってくれた。

    私が人生に悩んでいた頃、
    何をやってもうまくいかず、
    これからどうしようかと途方に暮れ居ていた頃。
    私は、ある日、見上げたら十字架がそこにあった。
    「N福音教会」だった。

    大学の卒業式で聖書を贈られた。
    「メサイア」の合唱団に参加した。
    そして、「ジーザーズ・キリスト・スーパースター」のミュージカルを観た。
    聖書のことは、何一つ知らなかった。
    それなのに、その聖句が心に残った。

    訪ねたのは私が26歳位だったろうか。
    私が玄関で呼ぶと、出て来てくれたのはS先生だった。
    しかし、その飄々として姿に、私は牧師さんとは思わなかった。
    「あの・・・、牧師さんは・・」「私ですよ」だった。

    あの頃の私は、きっと頭でっかちの理屈やでがちがちだったと思う。
    勝手に理屈をこねまわし、読んだ本のことを話し、
    何だか独りでぐるぐるまわり続け、
    悩むことから逃げたいのか、そこに留まっていたいのか、
    本人も分からないどうにもならない男だったと思う。

    そんな私の話を、先生は黙ってただ黙って聴いてくれていた。
    本当に今にも倒れそうなおんぼろの教会だった。
    私は、玄関わきの小部屋で、先生と話をした。
    いつも最後は、「祈りましょう」と、先生は祈ってくれた。
    私は、何だか心のもやもやをぶつけるためだけに、
    S先生の所を訪ねていたような気が、今はする。

    そして、礼拝に出るようになった。
    今、私が合唱を続けているのは、この時、賛美歌を歌ったからだ。
    何も奉仕することのできない私は、
    このでかい声で、賛美歌を歌うことを、私の使命とした。
    だから、初めて歌う賛美歌ばかりだったが、
    私は臆せず、周りの人たちのことを気にしないで、賛美歌を歌った。
    今でも、そうだ。

    夕拝があった。
    私は、そこに行くようになった。
    本当に新参者の私のような男に親切にしてくれた教会員の人たちだ。
    私は、いつも聖書の話を先生から教えてもらった。
    確かに感じたことは、「いかに生きるか」を、
    こうして毎週集って学び合っている人たちは、他には居ないということだ。
    しかし、私は、「罪」についての気付きが無かった。
    だから、「原罪」と言われても、分からなかった。
    それでも、冬山から帰って髭面のまま、夕拝に行ったこともあった。
    何だか、礼拝に参加しないと、すっきりとしなかったからだ。

    28歳のクリスマス。
    私は、S先生に勧められ、洗礼を受けた。
    サッカーの偉大な指導者であるKさんも一緒だった。
    翌年の3月を最後に、先生は東京の神学校の校長として赴任する。
    つまり、その時を逃したら、先生から洗礼を受ける機会を失ってしまう。
    「ここだ」「ここがロドスだ」「ここで跳べ」だな。
    私は、跳び込む決意をした。
    決意が大事だった。もし、あの時、まだまだと迷っていたら今の私は存在しない。
    あの時、「よし」と跳び込んだから、今の私だ。

    洗礼を受ける日の朝、母はとても寂しそうだった。
    「同じ墓に入れないんだね・・・」と言われた。
    私は、洗礼を受けた。
    あの水槽に全身を沈めた。
    力強い先生の言葉だった。
    では、私は、生まれ変わったのか。
    しかし、それからの長い長い旅路の始まりだった。

    夕拝の司会を任された。
    この私がである。
    先生はそうやって役割と責任とを与えながら私を鍛え・育ててくれた。
    4月先生は東京に、新たにH先生が牧師として赴任して来た。
    私は、32歳で新採用となって、荒川町に赴任した。
    そこで結婚した。結婚式は、このN教会で挙げてもらった。
    今思えば、何も分からず、自分のことばかりで、
    周りの人たちの親切も思いやりも感ぜず、
    何と言う馬鹿な男だったかと恥ずかしい。
    本当に私は、分からない男であった。

    村上で居を構えた。
    村上の教会に行った。
    しかし、数年後には、私は教会から離れた。
    いつしか教会に行かなくなった。
    N教会から葉書が誕生日に届いた。
    懐かしい人たちからのメッセージだった。
    Kさんとは、年賀状のやりとりをした。

    そして、40歳で新潟に帰って来た。
    実家に戻った。
    それからも教会へは行かなかった。
    N教会は新たな立派な会堂を鳥屋野潟に建てた。
    S先生は、北海道の日高で牧会をしていた。
    きっと私は、何事もなかったら、教会には戻らなかったと思う。

    しかし、死ぬ生きるを経て、大きな罪を経て、
    私は今のY教会に導かれた。
    それが、56歳だったろうか。
    母が亡くなり、父が施設で孤独に生きていた。
    心の寂しさ、虚しさだったか。
    いつしか、この教会に毎週日曜日礼拝に来ることが心の唯一の慰めとなった。

    そして、「まさか」のことがこの教会で起った。
    信じられないようなことが、現実となった。
    私は、日高のS先生と連絡を取り合った。
    先生から励ましと助言とを受け、私はここで闘った。
    不思議なことだ。
    教会を30年以上も離れていた放蕩息子が私だった。
    しかし、今は、ここで踏ん張り、踏みとどまらねばならなくなった。

    そして、昨年の4月、S先生が新潟に帰って来てくれた。
    今は、I教会で牧会をしている。
    その先生の就任式でも涙が止まらなかった。
    次々とこんなにも泣けるのだと自分でも驚きだった。
    先生の真後ろに座った。
    その背中を見ながら、涙で眼鏡が曇ってしまった。
    それは、「愛」であり「尊敬」だった。

    その先生が初めてY教会に来てくれた。
    それは、この教会が多くの試練にさらされ、苦境に立たされているからだった。
    私は、先生の後ろ姿を見た。
    それだけで、涙が溢れた。
    あの洗礼を受けた日から、34年間も経っていた。
    その間、私は先生には恥ずかしい生き方の連続だった。
    それなのに、こんな私なのに、ここに居る。
    そして、私の「師」であるS先生の説教を聴き、聖餐式に参列している。
    パンは肉となり、ブドウは血となる。
    それを、私は先生から託された。

    不思議だなぁ。
    ただ、その不思議の中に居た。
    あの洗礼を受けたあの日に、この日のことは予定されていたと感じた。
    「神様の思いは必らず実る」
    「それは、私たちの考えが絶対に及ばない形で実る」
    私は、先生を見上げながら、そのことを実感した。
    不思議を信じた。

    これが62歳までの私の人生だ。
    そして、これからの人生を私がどう生きるか。
    それをきっと先生は期待しつつ見つめていてくれているはずだった。
    それは、先生からの「愛」であり、私への「敬意」でもあった。
    今、ここで、私は、それを感ずる。

    今、ここで、その想いに応えて生きられるか。
    「より善く生きよ」のその「問い」を、
    私は真摯に受け止めている。
    先生と出会わなければ、きっと今の私にはなれなかったと思う。
    だから、私は、ずっと涙を溢れ続けていた。
    涙って、止まらないものなんだなあ。

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  • from: クマドンさん

    2020年05月24日 06時41分31秒

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    人間は、劣化するなぁ

    少しずつ現実の平穏な心に戻ろうと思う。
    何だか人とのかかわりの中に居ると、
    私の気持ちではなく相手の気持ちに左右されるので、
    自分自身の気持ちの平穏をコントロールできない寂しさを感じた。

    怒ったところで、それまでだ。
    相手の誤解を解いてもらいたいと願っても、それもそれまで。
    人とかかわることで、人の心は歓びにも変わり、寂しさも感ずる。
    そんなことをふと、昨日は感じて暮らした。

    そうなんだよな。
    そこに行ってしまうと、辛いんだよなぁだった。
    だから、昨日は、何もしない。
    何もしないことに決めて、ぼーっと庭に居た。
    すると、それはそれで何だか心落ち着き、豊かなんだと改めて感じた。

    何かをしなければならない。
    何もしないということの罪悪感。
    そこからは、やっと抜け出せた感じがしている。
    時間は、時間の流れのまま流されている。
    お仕事も確かには大切なことだが、
    こうやってぼーっとして自分自身と向き合っていること。
    何かについて考え続けていること。
    これもこれでとても大事なことではないかの気付きだった。

    雀たちの餌箱が、吊るしていた紐の劣化で落下した。
    「どすん」と落ちた。
    直径30センチくらいのバケツを逆さにしたような餌台だ。
    そこに「小鳥たちの餌」という雑穀の餌を毎朝入れる。
    雀たちは、その時刻を今か今かと待っている。
    雀には、餌の時刻が分かるのだ。

    いつもまず一羽の雀がやって来る。
    それは、パイオニアだ。
    勇気のあるその雀が近くの樹に止まる。
    そして、じっと餌台を見つめる。
    そして、辺りの気配を感ずる。
    何もないと了解してから、次の近くの幹に移る。
    それから、餌台に飛び乗り、コツコツと餌をついばむ。

    ところが、地面に落ちた餌台だ。
    まず、いつもの位置でホバーリングする。
    賢いものだ。
    この地面から1m位の位置にあった餌箱を記憶していた。
    「ない」「どこに行った」「あれっ、おかしいぞ」だな。
    次々にやって来る後続の雀たちも慌てふためいていた。
    さてさて、これから雀たちはどのような行動をとるか、興味津々だった。

    すると、やはりパイオニアが地面に置かれた餌台を発見した。
    「あった」というその驚きの声が聴こえた。
    つまり、雀も私と同じで、考えて生きていた。
    その気持ちが「あっ、あそこにある」という声で聴こえた。
    雀のそれからの行動が、一つ一つ声となって聴こえた不思議、不思議。

    「おい、あそこに餌台が落ちてるよ」
    「あれっ、おかしいなぁ。どうして地面にあるのだろうか」
    「行ってみようよ」
    「待て待て、あれは罠かも知れないぞ」
    餌台の上にはたっぷりと雑穀が置かれてあるのに、
    夜中お腹を減らしているはずの雀は、
    その餌台に止まることを躊躇していた。

    まが、餌台の周りに着地だ。
    それから、ひこにあるプランタの陰や、
    その上に落ちている餌を探した。
    次々と飛んで来る雀たちも同じ行動をとった。
    学習している。
    先に来た雀たちの警戒心が、後から来た雀たちにも感じられる。
    だから、いつものように餌台に行かない。
    学習とは、真似ることだ。

    何故、ここまで腹を空かした雀たちが警戒するのかと考えた。
    「高いところにぶら下がっている餌台には飛び乗っていた」
    「しかし、地面に置かれた餌台には警戒して飛び乗らない」
    「そこには、どんな意味があるのだろうか・・・」
    すると、私は、あることに気付いた。
    「ネコだ。ネズミだ。雀を狙っている動物たちだ」と。

    つまり、高いところぶら下がる餌台からは、
    そっと近づくこの天敵たちの姿を見つけ、気配を感じられる。
    その気配を察すれば、逃げるのは訳はなかった。
    そこでは、安心して餌をついばめる。
    そして、仲間たちからの警戒の声も聴こえる。
    危険に対する防衛ができるという訳だったる

    ところが、地面ではそうはいかない。
    周りを見渡すことは不可能だ。
    プランタや花壇の陰に置かれたこの餌台は、
    天敵にとってはもってこいのトラップだ。
    雀たちは餌をついばむことに夢中になってしまう。
    すると、周りの気配を感ずることを忘れてしまう。
    そこを襲われたら一巻の終わりだ。

    それは、雀の本能なのだろう。
    しかし、不思議なことだ。
    言葉を持たないこの雀たちは、
    こうした状況の変化から危機を感ずる。
    「怪しいぞ」「いつもと違うぞ」「何かあるぞ」だな。
    その状況の変化を察知して、臨機応変に対応する。
    「おい、みんな気をつけろ」という呼びかけは皆無だろう。
    しかし、互いに何かの危険を感じ、その危機感が伝播する。
    相互に信号を出し合い、それをアンテナでキャッチする。

    見事なものだと、感動だった。

    第六感とよく言われる。
    私たち人間にも本来この第六感は備わっていると思う。
    それは、言葉以前の感覚だ。
    察知するとでも言えばよいのか。
    敏感であると呼べばよいのか。
    そうした、本来的な感覚は、
    人間も生物として確かに持って生まれているはずだ。

    私は、よく雨が降ることを予見することがある。
    急に空が暗くなる。
    冷たい風が西から吹いて来る。
    ざわざわと樹の葉が不気味に揺れる。
    その内に、ポツンと空からの最初の一滴が私の頬や手の甲に当たる。
    「冷たい」と感ずる。「雨になるなぁ」と思う。
    すると、突然ザーーーっと降って来る。
    あの感覚だ。

    気配とでも言うのだろうか。
    人の気持ちに対してもそうだった。
    彼や彼女は何も言わない。
    しかし、その気配で分かる。
    気持ちは、その気配で感ずる。
    これも第六感の防衛本能なのかも知れない。

    ここまで書いて、ふと感じた。
    第六感が働くその瞬間とは、
    命を守ることと深く深くかかわっているのではないかということだ。
    不吉だ。恐ろしいことが起きそうだ。不安だ。怖い。何かが違うぞ。
    そうした瞬間に、さっと鳥肌が立つようにして、何かを察する。
    危ないぞ。近づいてはまずいぞ。止めた方がいいぞ。

    こう考えると、この雀たちの行動に合点がいく。
    だから、雀たちの心の声が私にも聴こえた。
    そして、私は雀たちから大事なことを学んだ。
    自分の命を守るのは、自分しかいないのだ。
    そして、その命を不慮の事故や事態から守るために、
    私たち命ある者たちには、第六感があたえられているのだ。ということだ。

    だから、第六感を信じよう。
    そして、自然の中で、自然の中の独りとなって、
    この第六感を研ぎ澄ます努力をしようと、私は思った。

    あの検事さんには、この第六感が失われていたようだ。
    「危ないな」「何かあるな」「これは罠に違いない」
    そうした危機に対する防衛本能、感覚、つまり第六感が劣化していた。
    それはきっと「俺は偉い」「俺は首相と友達だ」という、
    何だろうね全く信頼できないものを信頼し、
    驕り高ぶり威張っていたから、
    こんな目に合ってしまったのだの教訓だな。

    またまたこの話に戻ってしまったが、
    今、私たちは、あの人を見ながら、
    人とはどれほど愚かになれるものなのかと、
    一つの愚かさの教科書として学んではどうかの「問い」でもあった。

    人間は、権力よって劣化するものだ。
    愚かな人にだけは、なりたくないものだと、つくづく感じた。

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  • from: クマドンさん

    2020年05月23日 10時26分06秒

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    愚痴だけしか言えない。

    正しいことが、正しく行われない。
    誰が見てもおかしいとおもうことが、堂々と行われる。
    責任を感ずるという言葉は、責任をとりますとは違う言葉だ。
    法律は、解釈なのだそうだ。
    自分に都合がよいように何もかも平気で捻じ曲げる。
    嘘をつく。その嘘をうそとは感じない。
    それはだれかのために仕方なくやっていることだと思う。
    自分は正しい。自分は善いことをしている。

    こんな人が居たら、私は、虚しさを感ずる。
    この人は、何を考えて生きているのかの見本のような人だ。

    今更こんな粗悪品が届けられとも、何に使うと言うのか。
    何百億円と言うお金を、是非、この人はポケットマネーで支払って欲しい。
    何だか「言葉」の価値がどんどん失われていく気がする。
    やったのは自分なのだし、ごりおしたのも自分だ。
    なのに悪が明らかになったら、知らぬ存ぜぬ。
    こんな卑劣な人も世の中にはいるものだと、
    本当にこの人の顔を見ると、虚しさを感ずる。

    どうすれば、この人は辞めてくれるのか。
    もうたくさんだ。顔も見たくない。そう想っている人が大分だ。
    なのに、平気でその職に居座る。
    勘弁してください。
    この数年で次から次の疑惑のオンパレード。
    そのたびに、偽証が行われ、証拠は隠され、当事者は左遷される。
    その人に就き従った人には、高いポストと高額な退職金だ。

    嘘・偽り・誤魔化し・無責任・狡猾・蒙昧・下劣・極悪。
    それでも、今日も、その人は、そこに居る。
    何の為に、何をするために、そこに居るのか、
    本人すらもう既に分かっていない末期症状だな。

    という事実を、突き付けない。
    実は、罪に対して断罪を明確にしないことで、
    みんなその人を馬鹿にする。
    結局、自分だけが可愛い人と、そのことで明らかだからだ。
    罪を明確にして、厳しく問う。
    しかし、そうしたら、一番大罪を犯している自分の悪事が露見する。

    これほどの悪はなかなか居ない。
    どれだけ権力を利用して、民間人や企業と癒着を続けて来たか。
    飲み食いの半分以上は、どこからか金を引き出して払っている。
    その請求書・領収書すらどこにもございませんとうそぶく。
    スーパーのレシートではない。
    何億もの支払いの金だ。
    金銭感覚が麻痺している証拠だな。

    直属の部下が法を犯して告訴される。
    その部下がばらまいた金は、この人がくださったお金だった。
    そのお金は、その人が汗水たらして働いて得たお金ではない。
    これも税金という大事な大事なお金だった。

    何と言うか・・・とても、哀しい。
    定年延長を超法規で行ったのに、
    その男が賭博をしていた事実が分かっても、
    この人は、そこに居座る。

    どうやったら、辞めてくれるのか。
    情けなく、辛く、哀しい。
    子どもたちに「正義」をどのように教えたらよいのだろうか。
    「嘘」をついたらいけない。
    もし「悪いこと」をしたら「正直」に言うんだよ。
    人様に迷惑をかけたら、「ごめんなさい」と誤りましょう。
    そうしなければ、「善い人」にはなれません。

    美しい日本を創るためには、子どもたちに「道徳心」を陶冶すべきです。
    だから、「道徳」を教科にしなさい。
    みんな「正しく生きる日本人」になりましょう。

    本当だ。
    せめてこの人にひとかけらの道徳心がほしいものだ。
    情けないのだ。この人を見る度に。
    腹が立つというよりか、呆れて何も言えなくなるのだ。
    そして、この人は、どんな生い立ちで育てられたのか、
    どんなことを日々考え、行っているのか、
    まっとうな人たちの生活をとやかく言える人ではないのではないかの「問い」だ。

    この人以外なら、誰でもかまわない。
    せめて、自分のことを第一に可愛いと思う人でなければ、
    誰でももっと安心できる社会は生まれる。
    なぜなら、その人は、まず国民を見るからだ。
    国民のことを尊重するからだ。

    何をしているのだうか。
    この人は、いったい誰なのか。
    もう、辞めにしてもらいたい。
    こんな愚劣で愚かなことが、
    このコロナで混沌としているこの国で行われて欲しくない。

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  • from: クマドンさん

    2020年05月22日 06時57分09秒

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    油断大敵・油汗

    桜の葉っぱにアブラムシが満載だった。
    驚いたなあ。
    とにかく、これは私の油断から起きたことだった。
    桜の葉っぱが密なのはよく分かっていた。
    ああ、少しずつ重なった所が黒くなったなあの自覚だった。
    テントウムシが来ているなの発見。
    そして、あのヒヨドリがどうもこの葉っぱの何かを食べているなぁの事実。
    しかし、私は、詳細を調べなかった。

    これまで、この葉っぱにアブラムシが大量発生したことはなかった。
    何年前かアメシロが発生し、驚いて処理したことはあった。
    その後、アメシロに侵略されることもなく、
    平穏無事に過ごしていたので、まさかそんなことが起きていようとはと、
    すっかり油断していたというわけだ。

    様子がおかしかったので、一昨日、まず葉っぱを調べることにした。
    高枝ばさみで枝を切り、葉っぱを見たら腰を抜かした。
    「何だ、これは」だったな。
    びっしりと1mmも満たない小さな白い卵・卵・卵。
    その中に生まれたての足が生えたアブラムシの赤ちゃんと思しき生物。
    密集したその中から、この白く透明なやつと、黒く小さなやつとが、
    我が物顔にのさばって、徘徊中だった。

    老眼の眼鏡では熟視できないので、
    眼鏡をはずして観察すると、一枚の葉にいるはいるは、何百ぴきだ。
    そうすると・・・・、この樹に付いている葉っぱの数をかけると・・・。
    「うぁ・・・・・・・・。たいへんだ・・・・・。」
    パンディミットだ。
    まさに、これはコロナウイルスのようなものだった。

    気付いた時は、既に遅し。
    何百枚の葉っぱがこの枝には生えている。
    その葉っぱ全てをこのアブラムシは占拠していた。
    つまり、この葉っぱはこのアブラムシたちに支配され尽くしているのだ。
    私は、その事実が、とてもとても恐ろしく感じた。
    気付かない。配慮しない。敏感に変化を感じない。
    安心している。大丈夫だろう。
    アブラムシのことなんかこれっぽっちも気にはしない。
    これが「油断」と言うものだった。

    とにかく対策を考えた。
    しかし、パンディミットで。
    ここまで感染させてしまったら、本当に万策尽きるだった。
    だから、申し訳ないが、全ての葉っぱを除去することに決めた。
    幸い、太い幹を途中で切りさったこの樹には、
    数えられるくらいの葉っぱしか存在していない。
    だから、それを高枝ばさみで、次々と切り取って行った。

    昨日もその作業の続きだった。
    すると、その樹の下の樹の葉っぱにも、黒い点だ。
    何と言うことだろうか。
    感染は、この距離をものともせずに、拡散していたのだ。
    私は、溜息を尽きながら、その長い枝も剪定ばさみでバッサリと切った。
    それでも、まだまだ小さなアブラムシたちは生息している。
    この闘いには、終わりというものは存在しない。

    あの小さな小さなアブラムシを、一匹残らず退治することは不可能だ。
    10年以上前の缶の文字の色があせたKチョールを噴射しみた。
    効かない。それでも、まだそこでうごめいていた。
    特効薬はないのか。ワクチンは存在しないのか。
    私は、ネットで退治の仕方を調べてみた。
    すると、マニュアルでの退治方法がいろいろと見つかった。

    粘着テープで、せっせと採る方法。
    牛乳を薄めて散布する方法。
    木酢を使って弱らせる方法等等だった。
    面倒だからこの方法は、採用を却下した。

    次に、化学療法だ。
    退治するための薬が幾つか紹介されていた。
    このネットのページは、この薬を買わせるためのページでもあった。
    しかし、世の中には私のようにアブラムシの大量発生で苦しむ人が多いようだ。
    「まさか」ということは、どこの家にも起こることだ。
    この薬を求めに、コメリでも行ってみるかと、作業を止めた。

    すると、ある作業の見積もりのために、ペンキ屋さんご夫婦だった。
    70代近くのベテランの職人さんと、その奥さんだった。
    彼女も花が好きらしく、庭の花たちを褒めてくれた。
    「私も同じですて。花を増やし過ぎて、この人にいつも怒られています」とのこと。
    「あのぅ、樹についも詳しいですか」
    「そんなでもないですけど、何かありましたか」
    「実は、アブラムシが大量発生しまして・・・。どうしたらいいですかねぇ」
    「クマさんは、今年、予防をしていませんでしたか」
    「よぼう・・・ですか。してないです」
    「うちは、春先に予防の薬を撒きましたよ」

    うーーーん、これだと、合点した。
    まさに、私自身のリスクマネージメントの失敗だった。
    最悪までは行かなくとも、他の家で起きている「まさか」は、
    いずれ我が家の庭でも起きるのではないのかの想定を怠っていた。
    特に、我が家の庭では私がこの庭を管理するようになってから、
    この10年間にアブラムシによる被害は無かったからだ。
    いや、小さな被害があったのかもしれないが、
    そのことに気付かないまま、この日に至っているのだ。

    それから、他の樹木の剪定はせっせと行い、
    互いの葉にお日様が当たるように、風通しのよいように、手助けをした。
    しかし、どういうわけか、あの桜の樹は、後回しになっていた。
    混んでいるな。密になっているなぁとは、気になっていた。
    しかし、剪定の順番の最後に私は回していたのだ。
    そこに「油断」があった。
    変化は小さな小さなことから始まるものだ。
    その小さな小さな内にその変化の兆しに気付けるかどうかだな。

    全ての物事にはリスクがつきものだ。
    最悪までもいかなくても、「もしも・・」と、疑ってみる。考えてみる。
    そうして予測する配慮とでもいうのだろうか、
    この目の前にある事実から、その先をどのように予測するか。
    そして、リスクを念頭に置いて、今、ここを、熟視し観察しているか。

    また、他山の石ではなく、他国のことではなく、
    いつもそのことは我が身にも起きることなのだと考え、
    そうなることを想定しながら生きているかの「問い」だった。

    つまり、他の家の庭の樹木に起こることは、
    我が家の庭の樹木にも起こることなのだという現実認識。

    それから、そうならないための方法があるのなら、
    「予防」を行い、そうならないために、またはそうなってしまったときの、
    リスクを事前に最小に減らすと言う管理意識。

    そして、そうなった場合の迅速な対応・処理。
    切るものは切る。ならぬものはならぬ。断固とした処置行動。

    そして、情報収集をして、最適な方法を探し求め、
    その方法をすみやかに実行し、経過観察を行い、
    良好な結果が得られなかったら、他の方法に切り替える臨機応変。

    アブラムシの大量発生は、
    こうしたリスクマネージメントの大切さを私に教えてくれた。
    まだまだ、この闘いは続いている。
    しかし、私がそうしたリスクを考慮していなかったために、
    桜の樹には数枚の葉っぱだけになり、
    その下の樹の枝の半分は失われてしまった。
    そして、まだまだアブラムシたちは、そこに生息を続けている。

    もし、これが、この地球には存在しない生物が宇宙から飛来して、
    我が家の桜の葉っぱを食い荒らしていたとしたら、
    どんなに恐ろしいことが起こったことかと、
    実は、私は、このアブラムシたちと格闘しながら、そう考えて、肝を冷やした。
    「無理だ」「退治できない」その無力感と絶望となるだろう。
    実は、人類はいつもそうした目には見えない危機に立たされているのだ。
    その実感は、あるのかの「問い」だった。

    哲学者の内田樹さんの言葉だ。超意訳でそれを伝える。
    日本の社会・組織では、危機を想定することは、忌み嫌われているそうだ。
    「こんなことも起こるのではないか」と言えば、
    「君は、そんなことが起こることを期待しているのか」と怒鳴られる。
    「私がやっていることが失敗するとでも思っているのか」
    「失礼なやつだなぁ。失敗なんかするわけはないだろう」
    「しかし、・・・」と、次には、リスクついての進言・忠告をしなくなるそうだ。

    「分かるなぁ」と、あれやこれやを思い出した。

    とにかく、アブラムシだけに、「油断」をしてはいけないという教訓だった。
    こんなことになって、油汗をかいても、後の祭りなんだから。

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