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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2019年07月31日 06時17分34秒

    icon

    生かされたまま、無為に生きる

    暑い、暑い、暑い。
    庭の野菜や花たちもぐったりとしている。
    小千谷のSさんに電話した。
    しかし、暑さのせいか、電話ができずに終わっている。
    一日、ぼーっと生活している。

    自宅の縁側から、庭を観ていた。
    そこで、暑さの中でぼーっとしながら本を読んだ。
    「老子」につてい書かれた本だった。
    「無為自然」そのままでいい。
    ぼーっと生活している私には、ぴったりの本だった。

    庭の花たちは、この暑さを喜んでいるようだった。
    ペンタゴンは次々と花を開き、
    ジーニャスの花の数が増え、生き生きと発色していた。
    ピーマンとシシトウの葉は、萎れて元気がないが、
    何だか自然に在る生き物たちにとっては、
    この暑さは、それなりに生きる力と展化されているようだった。

    こんな時間がなかったなぁと、ふと感じた。
    雀たちに米をやった。
    その餌場に恐る恐る近づいて来る雀たちだった。
    しばらく疎遠であったために、
    久しぶりのこの変化にどう対応すべきか迷っているようだった。
    しかし、雛を連れた親鳥が勇気を出して餌場に乗り、
    米粒をくわえて雛の口にやっていた。

    じっと暑さの中で耐えて咲く花たちを眺めることも、
    こうして雀たちの仕草を観察することも、
    何時間もここに座り一冊の文庫本を読み終わることも、
    そんな時間が、久しく私には無かったことを、悟った。
    一年前、まだ仕事に復帰していない頃、
    日々、この生活を続けた。

    上善水の如し

    足るを知る

    不争

    何も為さない。何も持たない。何もしない。そのことの勧めだな。
    仕事に追われている最中には、こんな時間の過ごし方は罪だと感じた。
    何かをやらなくては、意味がないのではないかとも、思っていた。
    だから、じっとしていなかった。
    予定を入れた。家を出た。自転車で走り回った。家事に勤しんだ。
    とにかく動くことが、生きることだと、マグロだった。

    でも、しかし、こうしてぼーっと午前中、庭を観ている。
    本を読むが、次々と読んだ言葉を忘れる。
    その読んでいる最中だけ、その言葉を味わい、心に感じて、それだけのこと。
    今は、どんな言葉が書かれていたかは、思い出せない。
    それでも、言葉を読んでいる最中は、満足している。

    ぼーっとしたまま、そのぼーっとしている時間を味わう。
    その何も無い。何も起こらない。
    それでいて、目には見えないが、少しずつ変化しているここを、味わう。
    味わうと言うことは、感じるということ。
    味わうと言うことは、よくよく見ること。
    すると、花の一つ一つの色の違いや、雀たちの仕草のあれこれが、
    何だかとても愛おしく、楽しく、心地よく感じられる。

    久しく無かったことは、この細やかな変化をじっと見つめて、感ずることだった。

    確かに「無為」である。
    しかし、その「無為」に「足るを知り」その時の流れに心満たされ、感じ続ける。
    それは、頭ではなく、「ここ」で感ずるそのまんま。

    すると、不思議なんだが、人としての生きる「意味」を教えられる。

    ああ、置かれたあの場であの花は、耐えて、忍んで、花を咲かせる。

    花はいつか終わる日を迎える。終ることは、みんなに平等な宿命だな。

    雀にも子がいる。そして、その子の成長を第一にする。

    この猛暑もきっと久しからず。いつか、爽やかな秋の風に変わるはず。

    氷を入れたアイスコーヒーのマグカップの周りにびっしりと水滴がついていた。
    この水は、目には見えないが、この暑さの空気の中に溜まっていた水である。
    目には見えないものは、こうして存在しているんだな。

    無為であることで、そうした自然の働きや、意味に気付くことができる。
    決して、みかけでは何もしていないように見えるが、
    そのまんまで、どんだけ働きに動かされて、変化していることか分からない。

    その自然の1つが、私だった。
    私も、この花たちや、雀たちや、この雲たちや、風たちと同じ働きに拠って、
    創られ、生かされ、変化されている一つの存在なんだな。

    花が私で、雀が私で、あの大山台のポプラが私で。
    そうやって思えば、私でないものは一つもないような気がする。
    そのあるがままの在り方が、私に、私のあるべきようを教えてくれる。
    人は、「無為」であることで、やっと「自然」を味わえる。

    本日、人間ドックだ。何も食べられない。コーヒーも駄目駄目。
    腹がすく、そんな私を味わっている。見つめている。この視点なんだな。
    昨日は、開腹手術から3年ぶりにトレセンでトレーニングをした。
    ヘルニアで開いた腹筋が、がちがちに縛られ、やっと回復したようだ。
    この手術のおかげで、山をやめた。走ることをやめた。スキーをやめた。
    私が、余生でやりたかっことを、やめざるを得なかった。

    それで、ヨガと出会った。
    そういうもののようである。
    水のように流れるままに生かされていればそれでいいんだ。
    自分から欲を出して、無理をすることは無い。
    淡々と、置かれた場所で、与えられた使命を果たす。

    「無為」とは、何もやらない、努力しないということではない。
    「無為」とは、「自然」の命ずるまま、迷わずに生かされるということだ。

    今年の猛暑の中で、それが私の日々の修業となっている。

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  • from: クマドンさん

    2019年07月30日 05時55分55秒

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    今、ここ、これだけ。

    何もしない日と決めた。
    暑い暑い夏の一日。休養を第一のことにしている。

    朝のルーテーンは、いつものようにだ。
    3時半には目が覚める。それは、扇風機が止まったからだ。
    暑さで目覚める。本を読む。
    先日、途中で投げ出そうとした本があった。
    ところが、値段が高かったので諦めきれずに最後まで読んだ。
    目から鱗だった。
    「えっ、これを私は求めていたんだ」の言葉と出会った。
    「信ずること」が、幸せになることであったと、それによって信ずることができた。

    途中で投げ出していたら、この言葉たちには出会えなかった。
    そういうものなんだなぁと、この出会いから、続けることの大切さを学んだ。
    そこで、止めない。
    そこで、投げ出さない。
    その先に、何が在るのか分からないからだ。
    だから、やってみる。続けてみる。その途中を期待しつつ歩く、歩く。

    今、読んでいる「老子」もそうだった。
    何だかずんと心に響かない。
    老子をビジネス書のようにして書いてある。
    求めている言葉ではないという違和感を感じつつも、
    やっぱりこれも最後まで読もうと心に決めてトライしている。
    今朝も3時半だった。
    それから1時間本を読む。

    読みながら、私は、自分自身の生き方に置き換えて考えている。
    「そうだよなぁ」「そう生きたいなぁ」と、思う。
    そうした言葉は、記憶にも止まらない、それはすーっと忘れる。通り過ぎる。
    以前は、忘れることを無駄だと感じた。
    だから、言葉を覚えようと努力した。
    余白にびっしりと言葉を書きこむ。
    小さな手帳に言葉を記録する。
    そして、折に触れてその言葉を改めて見つめ、その意味を味わう。

    今は、言葉がどんどん私なんかを通り過ぎる。
    さっき読んだ「老子」の言葉は、今は、この記憶には無いようだ。
    でも、それでいいんだと、思えるようなった。
    「味わった」そのことだけで、充分だからだ。
    昨夜、美味しいズワイガニを味わった。
    そのカニは今はどこにも無くても、味わったことには変わりない。
    そのカニのいのちが、私の今の血となり、肉となっている。

    本を読む。言葉を味わうとは、それと同じことではないだろうか。
    きっと、そこで出会った言葉は、記憶には無くても、
    魂には血となり肉となり、身についているのだろう。
    だから、過ぎ去ることや、通り過ぎることに、頓着しないことにしている。
    味わったものは、きっと自分の中の何かに変化して残っているからだ。

    早朝、庭と塀の下の草取りをした。
    不思議なんだが、暑さの中で仕事をして汗を流すと、
    この同じ部屋の温度が涼しく感じられる。
    だから、朝は外に出て、少しだけ庭仕事をする。
    すると、気分がスカッとするのは、やっぱり人は身体を動かす生き物だからだ。
    暑いからじっとはしない。
    暑いから身体を動かす。汗をかく。

    それから、鬼の居ぬ間にとばかりに、ダイニングとリビングを整理整頓した。
    そして、要らないものは片づけ、隠し、あるべきところに戻した。
    そして、がーっと掃除機をかけた。
    すっかりときれいになったダイニングで、コーヒーを淹れて飲んだ。

    そういえば、一つの物語を書いたのも、その早朝だった。
    こうして、長男が車で出勤するのを手を振って部屋から見送るこの時間に、
    私は、この「親父たちよ」を書いている。
    空っぽになって、どんどんキーを打っていると、
    私がそれを書いているのではないような錯覚を感ずる。
    世の中から否定され、批判される私である。
    「ああ、どうにもならないなぁ」と、申し訳なく思うことがある。
    それでも、私は、自分であり続けるために、これを書く。

    続ける。止めない。いつも途上だ。
    しかし、こうやって考えることで、気付き、発見することが多くある。
    確かに、そんなことに何の「意味」があるのかは分からないが、
    何だか、このまま、いいつまでも書き続けたいと、思うから、書くだけだ。

    「幸福は、すでに存在している」
    「ただ、そのことに気付いていないだけだ」
    「そのことを味わえば、自分が今、ここで、幸福であることを覚了できる」
    「ただ、あるがままをあるがままに信ずればいい」
    「本当は、とてもシンプルで、簡単なことなんだ」

    もう終わったことではなく、これから起ころうとすることでもない。
    後悔や不安は、要らないことだ。
    ただ、今、ここ、この今を「味わう」「感ずる」「考える」
    その即今に、「幸福」はある。

    心が迷走しだしたとき。
    あれもこれもああ・・・と後悔するとき。
    これからいったいどうなるのか・・・・と不安におもうとき。
    実は、このことは全く実体のない幻であると気付くことだ。
    そうであったから、どうなんだ。
    そうであると思っていても、そうなるとは限らないではないか。
    自分勝手に作った妄想に心が支配されると、どうどう巡りで出口なし。

    私は、あるときから、「思い通りになることは、一つも無いんだ」と気付いた。
    「人の心は変えられないんだ」と分かった。
    「全てのものは変化し続けているんだ」と悟った。
    ならば、そんなものに悩まず、苦にせず、人からどう想われようといいではないかと、
    心に決めた。

    確かに、独りは寂しい時もある。
    人を求めてしまうこともある。
    しかし、求めて拒否されると、もっと深く寂しさが増す。
    だから、人を求めないことも、心に言い聞かせている。

    昨日、友と語れた。
    嬉しかった。

    昨日、ヨガをした。
    心地好かった。

    さてさて、今日はどんな一日になるのかは、
    まだ誰も分からない。
    そうなんだ。何も、この先に何が起きるのかは、誰にも、分からないことなんだ。

    ちょっと待った。
    今、雀が鳴いている。東の空の光が増してきている。
    その先って、いったいどこにあるのか。
    昨日って、いったいどこにあるのか。

    「今、ここ」これがあるがままにあるという、「今、ここ」

    本当に「今、ここ」だけが、在るんだな。

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  • from: クマドンさん

    2019年07月29日 06時48分45秒

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    空から見つめるオクラに

    ままならない人たちが、多い。
    その人たちは、間違いなく自分だけが、自分たちだけが正義だと思い込んでいる。
    それは、大きな勘違いなのに、そのことに全く気付くことができない。
    「信仰」と「アイロニー」とは、両立すると山口 尚氏は書いている。
    その冷静な、客観的なその静かな立ち位置が、
    本来は求められている。

    何だかいつも感ずるのだが、どうしてここまで自分たちのことを正当化できるのか。
    対するわけではない、ただ、その人たちとは違う考え方をもち、
    その人たちとは同調せず、同意せず、独りでも我が道を行く私は、
    いつでも、どこでも、この狂信の人たちの攻撃の的だった。

    目障りだ。
    何だあいつは。
    いんないい加減な奴は、くちばっかだ。
    とかなんとか、とにかく陰でガンガンと言われていることはよく分かる。
    本当に言われているような人であったら私も恥を感ずるが、
    私は、そうではないと自覚しているから、何ともないし、腹も立たない。

    畑には、トマトも
    ピーマンも、ししとうも、オクラも、キュウリも、ナスも実っている。
    ところが、突然、キュウリたちの反乱だ。
    「この畑は、俺たちだけの畑だ」
    「キュウリでない者たちは、この畑から即刻立ち去れ」
    何のことかさっぱり分からない平和に過ごしていた野菜たちだ。
    「どうして、ここがお前たちだけの畑なんだ」
    そんな素朴な疑問に対して、キュウリたちは言う。
    「神様が、そう決めたからだ」ただ、それだけ。

    狂信とは、神様の御言葉を盾にする者たちのことだ。
    本当は自分たちの利益であり、欲望であり、欲求なんだけれど、
    そのやりたいことを、神様のせいにする。
    そうした偶像を勝手に創りだして、
    その偶像の陰に隠れる。
    まるで「オズの魔法使い」のようにして、狡猾に正体を隠す。

    そして、「なぁ、お前もそう想うだろ」
    「あのナスたちがいるから、この畑は平和にならない」
    「あのナスな・・・。こんな酷いやつなんだぜ」
    「あいつは、口ばっかりで、何にもしない、いい加減なやつなんだ」
    「まず、あのナスたちを、この畑から追い出そう」だな。

    その内に、このキュウリたちは、武器を持つ。セクトを広げる。仲間を増やす。
    残念ながら一度でもキュウリの言うことを合点したり、
    キュウリから接待を受けて、ただ酒を飲ませられたりしたらアウトだな。
    もう、そうやってキュウリたちに同調したトマトやオクラは、
    その瞬間から、キュウリたちのセクトに加えられ、
    自分たちの意見は言えず、
    キュウリたちの言ったことだけに「はい」という愚かで無力な存在となる。

    キュウリたちその数を味方に、公然と真昼間から、ナスたちを虐める。
    「ぎゃあ、ぎゃと、お前の所の赤ん坊がうるせうんだよ」
    「何だか匂うなぁと想ったら、お前の匂いか」
    「何やってんだよ。お前がろくな仕事ができないから、迷惑してんだよ」
    まず、ナスの仲間の弱いところから集中攻撃をする。
    それを弱らす。それを潰す。
    すると、気の弱いおとなしいナスたちは、次は自分はないかと怖気てしまう。
    それを見ていたオクラや、ししとうは、黙ったまま、静観している。
    もし、少しでも口出しをしたら、次は、私だからだ・・・・。

    その内に、攻撃されたナスは、枯れた。
    そして、他のナスたちも、他の畑に移動せよとの命令だった。
    いつの間にか、この畑をキュウリたちは支配するようになった。
    自分たちの想いは、神様の思いなのだからと、
    何の躊躇なく、あっちこっちで弱い者苛めを始めた。
    すると、トマトもオクラも怯えて弱り、どんどん元気を失くして行った。
    その畑のど真ん中に、キュウリたちが崇拝する神様の像がおっ立った。
    その像を礼拝するかどうかで、その野菜たちは値踏みされた。

    礼拝の日は、その踏み絵となった。
    宗門改めのようなものだ。
    「この神様を信じなさい。そうしないと救われないよ」だ。
    「お前は、この神様を信じないのか、そうか非国民だな」
    「何だって。お前の云うことがよく分からない。これが神様だろう」
    「私たちは、この神様のお告げを守り、生きている敬虔な信徒たちだよ」
    「それにたてつこうということは、この偉大なる神様に逆らうということだ」

    そして、自由であり、独立した人格をもっていたあるトマトは、
    この畑から追放された。
    その裁判は、とてもとても簡略され、即答で判決が下される。
    「あれは、魔女だ。火あぶりにせよ」と、
    いつの間にか頂点に収まった長老たちが、判事となって、判決をくだす。

    この畑には、秩序は無くなり、暴力と暴言と苛めと搾取が当たり前となる。
    強い者に忖度する者たちには、少しの土地が与えられる。
    その土地は、逆らった自由な者たちから略奪された土地であった。
    キュウリたちに異を唱えた者たちは、異端と呼ばれ、魔女と呼ばれた。
    「信仰」という名の正義ほど、恐ろしい「正義」は存在しない。
    何故なら、その「正義」とは、神様のご意志・ご命令であると、捏造されるからだ。
    人の言葉が、人の欲望が、神様の御言葉にすり替えられる。
    その巧妙な手口に酔っぱらっているのは、とうのキュウリたち本人だ。

    「どうだ、やっぱの神様は、私たちのことを守ってくださっている」

    もはや、この畑の平和も秩序も在り得なくなっていた。
    ここまでなる前にきっと何かの兆候があったはずなのに、
    他の野菜たちは善良で、純真で、何も疑問を持たずに生きていた。
    だから、ある朝、突然、世界が全く変わってしまったように感ずる。

    しかし、「信仰」と「アイロニー」を持ち続けた一本のオクラは、違った。
    彼は、畑の片隅の痩せた土地に移されながらも、
    その痩せた土地故に、生きる為にしっかりと縦横無尽に根を張った。
    そして、目には見えない、その「信仰」という根っこによって、
    どんな誹謗中傷も、苛めも、陰口も、嘘八百の世間の嵐にも、
    じっと耐えて、このキュウリたちの浅ましい姿を見つめている。

    今、そのオクラの目の前で行われていることは、事実だ。
    それは、聖書にも書かれ、歴史の数多の書にも書かれている厳然たる事実だ。
    人は、「信仰」の名の下に「狂信」となる。
    人は、「信仰」の名の下に「偶像」を創り出す。
    人は、その「偶像」を権威にすることで、「異端」を創り出す。
    人は、それを「神様の意思」と呼ぶ。
    人は、その「意思」によって、自らの「欲望」を満たした。

    それを、神様は哀れので、きっと空から見つめているはず。
    私も、空から見つめるオクラでありたい。

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  • from: クマドンさん

    2019年07月28日 07時14分28秒

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    あるがままにあるがままを観る

    彼は、家出少年だった。
    16歳、高校を途中で、光を求めて東京にやって来た。
    宿は無し、金はなし、仕事も雇ってくれる場所も無し。
    はぐれ、彷徨っているうちに、少女と出会う。

    少女は、18歳と言っている。マックでバイト中に彼と出会った。
    そして、ある運命によって、彼に救われる。
    少女はバイトを首になった。
    母は昨年亡くなった。小学6年生の弟と二人暮らし。
    彼女が懸命に働くことで、二人は生きている。

    少年は、命の恩人の中年男に拾われた。
    売れないしがないフリーのライターをしている。
    月給3000円。宿付き、食事つき、仕事付き。
    彼には、まだ5歳くらいの娘がいる。
    喘息の彼女は、妻の実家のお母さんが預かっている。
    彼の妻は、事故で突然亡くなった。
    経済的にも、生活態度的にも、同居は無理、無理だった。

    その姪っ子が同居している。
    20歳かな。就活に勤しんでいるが、ことごとく断られている。
    アシスタントをしながらも、ある意味では無職である。

    人は、形而下では個々の苦しみや悩みでいっぱいだ。
    それは、自分だけでなく、自分のことでもあり、自分だったことだった。
    そうした日々の悩みを持ちつつも、懸命に都会の片隅で生きている自分。
    ああ、私の東京の4年間がそうだったな。
    先が見えない。バイト、バイト。酒を飲んでも独りかな。
    都会って、人がわんさかといるために、
    そのど真ん中で息をしていると、ずんと寂しく、孤独になるものだ。

    みんなは、帰る家が在り、待っている人が居る。
    疲れた顔で電車に乗っている人、人、人、は、
    全部絶対にこの後は、出逢わない、かかわらない、存在すら忘れる人たちばかり。
    真っ暗な四畳半のアパートに帰りたくねぇなぁ。
    風呂無し。トイレ共同。テレビ無し。
    隣の女子大生は、よくよく彼氏を連れて来る。夜の営み。壁1つ。
    休日なのに、500円も財布の中に入っていない。
    それをバス代にして、目黒の叔母さんちに行って、晩飯を食べ、小遣いをもらう。

    さてさて、そんな形而下での個々の苦しみ、悩みだけでは物語にはならないものだ。

    超越した天と繋がる。
    少女がある光に導かれて、祈りつつ、鳥居をくぐったところから、
    この物語は異界と繋がり、そのままの今、こことなる。
    異界と繋がり、そのパワーを現実にすることで、
    その異界が異界でありながら、この形而下にも存在しているものであることの証。

    彼女は、晴れ女となり、ネットでも話題の人となる。
    その頃、東京は長雨続きで、天候の異変が続く。
    晴れる日が無く、日の光を見ることも全く無い日が続いていた。
    そこに、彼女が現われた。
    まさに救世主、メシアだった。

    天は、彼女の入りに応え、暗雲がいつの間にか去り、
    光り輝く青い空が広がる。あなたは、それを信じるかだな。

    超越的な幸福は存在しいてる、とある本に書いてあった。
    その超越した、あるがままを、信じられるかどうかだった。
    その存在は、信じようが、信じまいが、ここにあるもの。
    それは、「あるがままにある」だけだ。
    それと私とが、一致するかどうか。
    つまり、その働きと一つに融け合い、一つになれるかどうかだった。

    そうなった瞬間から、形而下の苦しみと悩みとは、どこかへ消えてなくなってしまう。
    心は、ただ永遠なるものと繋がっていることへの平安に充たされる。

    ウィトゲンシュタインの言葉だ。
    「人間は自分の意思を働かすことはできないのに、他方にこの世界のあらゆる苦難を
     こうむらねばならない。と想定した場合、何が彼を幸福にしうるのであろうか。
     この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は
     幸福でありうるのか」

    その問いに対する、彼の答え。
    「まさに認識に生きることによって。
     良心とは認識の生を保証する幸福のことである。
     認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。」

    「認識とは、世界をしかと見ることである。≪ある個別な出来事が起こるか否か≫
     に振り回されることなく、そこから一歩退いて、≪すべてはあるがままにあり、
     起こるがままに起こる≫という仕方で一切と向き合うこと。」
    「こうした認識の生を生きるときには、不確かな未来をめぐる不安や取り返しの
     つかない過去をめぐる後悔は消滅し、そして、現実が永遠なものと接触し、
     「安心」が湧きおこる。」
    「引用の二文目は、≪すべてをあるがままにあるとみる生は、「安心」という
     幸福を保証する≫と述べる者と解されます。」  
                        「幸福と人生の哲学」 山田 尚

    さてさて、そこと繋がり、それを信じて生きられるまでに、私は61年と11カ月だ。

    「すべてはあるがままにあると見るような超越的次元に幸福は姿を現す」

    「ウィトゲンシュタインは、≪語りえぬもの≫を≪神秘≫と呼び、
     それを大切にする姿勢を重視しました。」   同上

    「もとよりことばには出せぬこともある。それはみずからを示す。
     それがすなわち神秘的なるものである。」

    「私は、敢えて矛盾に陥りつつ言えば、≪幸福は神秘だ≫と主張したい。」

    「いずれにせよ何よりも重要なのは、私たちを「超えた」語りえぬものが在るという
     ことへの気づきです。」

    「ひとはみな、あるいは病に苦しみ、あるいは他者に傷つけられ、あるいは罪を犯し、
     あるいは挫折し、あるいは愛するひとを失い、あるいは貧困に追われ、
     あるいは虚しさに窒息し、あるいは欲望の奴隷となり、それぞれの老いを経て
     死んでいく、または、不慮の事故のために死んでしまう。
     だがこれがすべてではない。そして、これがすべてではないと「語る」とき、
     私たちはこの世の不幸を圧倒する何かに触れることになるのです。」 同上

    ここに、この少女と少年、それを取り巻く人たちの物語が在る。

    さてさて、それを信じたい人は、「天気の子」を観るといい。
    またまた、私の涙は溢れ続けた。どうしよう。溢れ続ける。
     

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  • from: クマドンさん

    2019年07月27日 06時42分20秒

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    不思議だなぁで、ずっと来ている

    不思議たなぁと、振り返ると想えることが多くなった。
    そうやって自分に起きた出来事を不思議に感じていると、
    何だかそのことが繋がっていて、連鎖し、そうなるように流れて来た気がする。
    すると、安心をする。
    きっとこれからも、きっと死ぬまで、この不思議だなぁで生きられるからだ。
    不思議だなぁは、いつまでも続いている。
    そのことを信ずるならばだな。

    もう7~8年前になるかなぁ。
    劇団を立ち上げた頃のことだった。
    古町どんどんに私が出かけた。
    いつものように飲み歩き、酔っぱらいの私だった。
    その瞬間、ガーンと魂を打たれた。
    「この歌声は、何だ」「何で魔笛の夜の女王が、鳴っているんだ」だった。

    Yukaだった。
    あのコロラトーラソプラノのMaxの歌声が、古町モールに響いていた。
    「オペラが街にやって来た」その衝撃を今でも忘れられない。
    そうか、コンサートが向こうから街にやって来てもいいんだなの、
    正に逆転の発想だった。
    それから、その日と翌日のYukaのコンサートを追っかけた。
    魂を鷲掴みだ。魅了されて、ただ言葉にもならない状態だった。
    そこで、劇団の役者のHさんに出会った。
    彼は、私よりも半年先に、Yukaの追っかけをやっていた。

    そして、Tukaファンクラブを立ち上げると言う電話をいただいた。
    私と彼とは、まさに親衛隊のようにして、そのクラブに参加した。

    ここからなんだな。
    私の音楽とのかかわりの原点は。
    私は、Yukaの追っかけを続けた。
    そして、最前列で陣取り、「ブラボーブラザース」を結成して、
    彼女の歌に力いっぱい全身全霊で声援を送り続けた。
    「ブラボー」「Yuka」
    その頃、花束王子も仲間に加わり、
    私たち3人は、とにかく彼女のstreetのコンサートを盛り上げた。

    そして、思った。
    「山の下でも、このコンサートはできないだろうか」と。
    そう想うと、行動に出るのは素早い私だ。
    後先のことを考えず、とにかく、コンサートの会場を求めた。
    すると、山の下市場に「なじら屋」という、
    豚肉専門の焼肉屋を、Cさんが開店をした。
    私は、職場の帰りに、毎晩のようにそこに寄った。

    そして、その2階の10畳くらいのスペースでコンサートができないかと考えた。
    コンサートが山の下の市場に来たっていいじゃないかだった。
    すぐに、Cさんに話し、彼も大賛成をしてくれた。
    演奏者は・・・。
    そう言うば10年ほど前に、
    沼垂の焼き鳥屋「山小屋」でもコンサートをやったことを思い出した。
    私が企画したコンサートの原点は、この「山小屋」にあった。
    そこで、第一回の演奏者を視覚障がい者であり、
    東京芸術大学を卒業したバイオリニスト、佐藤博さんにお願いをした。

    彼とは、偶然、山小屋のカウンターで出会った中だった。
    つまり、私のコンサートの企画は、
    沼垂の「山小屋」から始まり、山の下市場の「なじら屋」に継承された。
    その時、演奏してくれたジャズメンは、
    私が、jazzstreetで追っかけをしていた人たちばかりだった。
    これは、Yukaの追っかけ体験から学んだことだ。
    演奏者には、心から「ブラボー」で感動を伝える。
    そして、演奏の後に握手を求め、直接感動を言葉で伝える。
    その内に、何度も通ううちに、私のことを覚えてもらえる。

    そして、私の役目は、どこに行っても「ブラボー・ブラザーズ」だった。

    山の下市場のstreetで、「なじらね音楽祭」まで、やることができた。
    大勢のスタッフと市場の商店街の人たちの力の結晶だった。
    今、思うと、夢のような音楽祭だった。

    しかし、ある年で、さっとこの山の下から音楽が消えた。
    私が力尽きたからだけではない。
    いろいろとあっての消滅だった。
    だから、「いつか、必ず、再び、山の下で」が、
    私の念願となった。

    そして、濱田道子さんというグレートなjazzpianistと出会った。
    私は、彼女の追っかけをした。
    すると、彼女が山の下の出身であることと、
    山の下市場とのかかわりがとてもデープなことが発覚した。
    「ぜひ、山の下でコンサートを」だったな。

    私は、昨年、シンさんのお店と出会った。
    そして、シンさんの人柄と、この店のコンセプトと、雰囲気に魅せられた。
    吹き抜け付きの2回には6畳くらいの部屋があった。
    「ここで、少人数のコンサートをやりたい」と、閃いた。
    そして、昨年は9、10,11月と3回のコンサートだった。
    10名限定のプレミアチケット。
    千円でワンドリンクが付く。

    そして、昨夜は、濱田さんとそのフレンドを迎えての5回目のコンサートだった。

    不思議だなぁと、いつも感ずる。
    どうして、いつから、私は、こうして、コンサートの企画をするようになったのか。
    やっぱり、それは、その時その時の出会いのおかげさまだということだろう。
    しかし、機が熟さねば、収穫はできない。
    そして、その機とは、やっぱり向こうからやってくるものだった。
    私が、無理やりこさえたものは、失敗に終わっている。
    本当に「不思議だなぁ」と思うことのみが、現実となっている。

    昨夜のコンサートを聴きながら、つくづくその不思議の在り難さを味わっていた。

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  • from: クマドンさん

    2019年07月25日 05時56分31秒

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    あらゆるものには「意味」がある

    飲んだ日の翌日は、やっぱりこれを書けない日となる。
    二日酔いにはならないために、日本酒は控えている。
    ちょっと酔った程度で抑える。
    平日の飲み会では、二次会へは行かない。
    バスの時刻に間に合うように帰ることにする。
    賢くなった。

    それは、どれだけ「失敗」や「反省」、「後悔」があったからだ。

    ある本に書いてあったことだ。
    苦しみや、辛さ、哀しみ、挫折等を通してしてか、人は成長しないと。
    私は、自分自身を振り返ると、その言葉が腑に落ちる。
    その通りだからだ。

    ということは、本来は避けて通りたいそのことに、
    本当に人が人間として成長するためには「意味」があったということだ。

    人は、その「意味」を感ずるならば、生きられる。
    それは、フランクルの言葉にも言われていることだった。

    アウシュビッツ収容所で過酷でいつ殺されるか分からない日々を、
    彼は生き延び、生還を果たした。
    その彼が言うには、死んだ人と生き残った人と違いは、
    「希望」をもっているかどうかの違いだったそうだ。
    「もう駄目だ」と思った人たちは、その通りになった。
    「ここでは死なない」「生きてまた家族に会いたい」「自分の仕事を成し遂げたい」
    そう想いつつ、日々の労苦を受け入れた人たちは、生き残ったそうだ。

    次に、「愛と死」にはこんな言葉が記されてある。

    「私は毎日毎時、死の危険にさらされていた。
     そこで私は天と契約を結んだのであった。
     すなわち、私が死ななければならない運命ならば、私の死は私の母に
     生き永らえることを贈るのであった。
     そして、私が私の死まで苦悩を耐え忍べば忍ぶほど、
     私の母は苦しみの無い死を迎えることができるのであった。
     私は私の生命が意味をもつときにのみ生きることができたのである。」

    死にも意味がある。
    苦しみも意味がある。
    そう思って、そう信じて、この死とこの苦しみとを母の為に使ってくださいと、
    神様と契約をしたというのだった。

    不思議なことだが、何だかとても「意味」が分かると言うことは、
    今、ここに、どうして私が生きているのかという「問い」の答えが分かることだ。
    そして、その答えが分かったのなら、その意味を信じて生き続けることだ。
    その「意味」が露わにしてくれた言葉こそ、私の日々の生きる道標となる。
    その「意味」は、私が歩むべき道を示す。
    「この道を行きなさい」
    「意味」とは、自らが創りだすものではなく、
    向こうからやって来るものだからだ。

    いや、既に、私にはその「意味」が与えられ、
    その「意味」に導かれ、その働きに拠ってここまで生き延びて来たような気がする。
    アウシュビッツではないが、私だって何度も死ぬ目にはあったし、
    絶望してどん底に落とされた。もうだめだとも思った。
    それでも、今、ここを生かされているのには、
    その「意味」の働きのおかげさまなんだと、今は信じている。

    私が生きることが少し楽になったのは、
    きっとその私の「意味」を信ずることができるようになったからだ。
    「人から嫌われてもいい」と、そんな風に想えるようになっこともそうだった。
    トマトはトマト。キュウリはキュウリ。ナスはナスなんだ。
    私は、トマトとしてこの世に生かされ、トマトとしての意味を託された。
    だから、私は、成熟しした美味しいトマトになればいい。
    そして、そのトマトになるためには、この「意味」を与えてくださった神が、
    全てのことを知って、日々のお世話をしてくださっているはずだ。

    そのことを、信じられるかどうかなんだ。

    フランクルは、神を深く深く信じ、その「意味」である自分を生きた。
    どんな状況に追い込まれても、そのことの「意味」を考えた。
    そして、人を見ないで、神との契約の中で「希望」をもって生き続けた。
    アウシュビッツからの生還は、彼の人生の「意味」だった。
    彼が、そこを「意味」を考え生き延びることで、
    こうしてどれだけの人たちが、今も、ここで救われていることか。

    人は、きっとその「意味」を伝え、受け継ぐために、この世に生きている。
    だから、まず、その自分だけに与えられた生存の「意味」を問うことだ。
    そして、既にそれは与えられているのだから、まずその「意味」に気付くことだ。
    気付いたら、迷わずに、余計なことを考えず、たとえ人から嫌われても、
    その意味を感謝しながら実行することだ。

    しかし、弱くて、愚かで、思ったことが実行できず、安きに流れる私だ。
    その時は、また自分自身の弱さと愚かさと罪深さとを告白して、
    神様の助けを求めることなんだな。
    そうやってしか、私自身の成長は在り得ないことを、
    その「意味」そのものが私に教えてくれている。

    こんな言葉もこの本には書かれてあった。

    「心の中の言い表せない願いが叶う」

    「愛することは許されること」 渡辺和子著
    毎朝、3時半に起きて1時間、この本を読んでいる。

    トマトは美味しいトマトになることだ。
    それは、きっと与えられた「意味」として日々を生きることなんだと、
    神様から教えられた気がした。

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  • from: クマドンさん

    2019年07月23日 05時40分42秒

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    目にはみえないものは

    目には、見えない。
    でも、ここにいる。
    そこと、どこかで深く繋がっていることの安心感。

    私からは、いつもそこへの呼びかけ、語り掛け。
    そこからの返信は、無いかもしれないが、聞き入れられている安心感。

    不思議なんだなぁと、振り返る。
    すると、全てのことが、そうなるはずだったで、落ち着く。
    今、ここに、私が存在していることは、
    それは、不思議な世界での働きの1つ。

    あの舞台の上での切実な、真摯な、全知全霊の祈願だった。
    その祈願に感動する。
    それは、深い深い信心だからだ。
    「信ずる」ことができることは、「幸い」である。

    私たちが「信ずる」ものは、目には見えない。
    それを、どう説明することもできないし、そんな気持ちは全くなかった。
    いいんだ。私には、いてくんなさるんだから。
    いつも分別の中で生き、世間体の中で生き、他人の評判の中で生きている人。
    きっと、その人たちにとっては、見えないもの。
    そこと繋がっていたら、その生き方は、決して今のような生き方ではないはず。

    目には見えないものとは、繋がって生きることが幸いへの唯一の道。
    そのことを日々、是、新たに感じつつ一日を生きる。
    一日だけ生かされる。
    そんな気楽さ、安らかさ。
    何とかなるてば。大丈夫。大丈夫。任せていればそれでいいんだがな。
    そんなのんびりとした生き方ができるのは、
    この目には見えない大いなるものとの繋がりを実感するからだ。

    「無心について」を読みながら、感じたことは、
    数年前だったら、この言葉はきっと腑には落ちなかっただろうということ。
    大拙さんは、その実体験・実感・信仰を、言葉に置き直した。
    言葉とは、その実感と一体で在る時、深く深く語るものだ。
    ただし、それを受けとる者に、
    その言葉で顕わにされた実感・実体験があるかないかだ。

    歳をとるということは、それだけ多くの苦労と哀しみと挫折とを経ることだ。
    若い者とは違う、落ち着きや、見通しや、知恵があるとしたら、
    それは、この人生の道をとつとつと独り歩きながら気付き、発見したことが、
    その人には蓄積されているからだ。

    しかし、「いかに生きるか」の「問い」を持たず。
    見えるものや、世間体や、他人からの評価ばかり気にしている人や、
    人を見下し、他人を馬鹿にして、我がままに、増上慢に生きて来た人は、
    いくら歳をとっても、人としての実りが乏しいことは、
    いろいろな場面でよくよく感ずる。

    私は、ふっ潰された。粉微塵に打ち砕かれた。粉砕された。今も、そうだ。
    しかし、そのおかげで、今、ここの、
    落ち着きと安心とを得られたことを感謝している。

    信じて生きることしか、この孤独の人生の歩みを、幸いに変えるものはない。
    「お任せします」「計らい無し」「そのまんまでいい」
    何だか手を離し、余計なことは考えず、
    我執が出て来たら、そっとその我執にどいてもらう。
    自分が先ではなく、いつも相手を先にする。
    自分なんかどうでもいい人として生きる。

    そこに、仏心があると教えられると、「はい」と答えられる。

    しかし、この一番大事なことを、人は、子どもに、若者に教えない。
    「人に勝て」「自分が損をするな」「人なんかどうでもいい」とかなんとか・・・。
    今の世の中、世間とは、そんな愚かで、生き難い場所になったのではないかなぁ。

    目には見えない、ひの働きが教えることは、
    全く、逆のことのように想われる。
    私は、そっちの道をだから信じて歩くことに決めた。
    すると、本当に「言葉」が沁みて来る。

    何が言いたかったのかは、よくは分からないが、
    私は、その周りの人たちの中に居ても、孤独であると言うことと、
    孤独ではあるが、この目には見えないものと繋がり、
    いつも対話し続けているということ。

    孤独であることで、人は決して孤独にはならないということ。
    今、ここで、こうして繋がっているから、安心しているということ。
    その実感は、信仰をもたなければ、きっと味わえないのだということ。

    その実感から生まれたものが、「言葉」なんだということ。
    つまり、その実感をもった人にとっては、言葉とは一体であるということ。
    初めに言葉があった。
    それを、信じられるかという「問い」そのものであること。

    そう想うから、そう生きているということ。

    noisumu

    それは、「no-isumu」なのだそうだ。
    NOとは、否定ではなく、「無」であること。「空」であること。
    無い時、きっと何かが顕れる。
    向こうから、顕れたい何かか、無いを通して顕れる。
    その極致を、金森さんは、追究してやまない、やまない。

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  • from: クマドンさん

    2019年07月22日 06時02分45秒

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    五十嵐キャンプ場でキャンプだった

    土日に魚沼の五十嵐キャンプ場でキャンプをした。
    とは言っても、雨が心配だったので、
    トレーラーハウスのバンガローだった。
    中には電灯がともり、エアコンまで備えてあった。
    実に快適な居住空間だ。

    長男がタープを立てる。
    これが実に、実に悪戦苦闘の連続だった。
    隣のトレーラーとの幅が狭く、
    方向を何度も変えても難しかった。
    ロープが張れない、支柱が倒れる。

    次にすぐ前の道路に張った。
    到着が5時半だったので、7時近くにはなっていた。
    すでに辺りには夕闇が迫りつつある。
    しかし、ここも駄目だった。
    車が通る道でもあるために、砂利が敷かれ、ペグが入らない。
    ここでも悪戦苦闘の連続だった。

    その内に、私はへとへとに疲れ果て、勘弁してもらい休憩にした。
    「もう、諦めよう・・・」だった。
    そして、バンガローに入って驚いた。
    両足のすねの辺りにびっしりと小さな血の点々だった。
    ざっと数えて30以上の虫に血を吸われた跡だった。
    タープを立てることに夢中で、私はむき出しの両足が不防備であったことに、
    全く気付かなかった。
    それにしても、これだけ刺されてもつゆほどの痛みも感じない。
    これは、ただものではない虫だと悟ったる

    今も、あたかも皮膚病のようにして、赤い点々がびっしりだった。
    痒いの、痒いの・・・・。
    しかし、悟った。
    後悔しても無駄であることを。
    この献血は、山の虫たちへの返礼であると、考えることにした。
    何だ、こんな私でも、虫のためには、役に立ったではないか、
    そう想うことにした。
    人は、気持ちの持ちようだ。
    デボラ熱にならないことを、祈りつつ、菊水一番搾りを飲んでいた。

    長男は、むくっと起きだし、
    「やっぱり立てる」と、サイトを変えて、ランタンを付けての挑戦だった。
    大人になったな。
    私のように諦めて、途中で投げ出さない。
    暗くなっても、どうしてもやると心に決めての実行だった。
    そして、ペグが入らない現状を考え、
    立ち木にロープを縛って、見事にタープを立ててくれた。

    そして、私と妻とはせっせと、そのタープの下にテーブルや用具を運んだ。
    「できた」「完成だ」
    私たちは薪を燃やし、炭に火をつけた。
    網を敷き、ホイル焼きとスペアーリブを造り、シェラスコを調理した。

    まず身体を動かすことだなぁ。
    そして、自然の中で生活することだなぁ。
    例え、30か所も虫たちに献血をしたとしても、
    この「至福」には、なにものにも代えられないと言う大きな気付きだった。

    確かに、非日常の今、ここではあるが、
    この沢の音を聴きながら、肉を焼いている私は、
    本来のあるがままの私ではないのか、という問いだった。
    ここに居る私は、私だ。
    その私を、心から楽しんでいる私も私。

    翌朝、4時半に目覚め、沢の傍でマットを敷いてのヨガだった。
    それもまた、私。
    渓声山色 心身脱落 脱落心身  本来清浄心
    これもまた、私にとっては「至福」なんだな。
    今、ここからは、ご近所の家々とその窓が観える。
    昨日の今頃は、沢の音を聴き、目の前に山が聳え、読書していた。

    何だかね。
    自然の中に還ると、何かが本質的にリセットされる気がする。
    そのためには、献血の犠牲も致し方ないかと、自分に言い聞かせていた。

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  • from: クマドンさん

    2019年07月20日 08時10分28秒

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    やられた。絶句。言葉にならない。存在する力そのもの。

    闇の力なのかも知れない。
    人は、その力によって操られている存在なのか。
    自分が生きているとは、知っている。
    自分の意思で生きていることだった。
    しかし、その意思も欲望も夢も希望も、
    もし闇の力によって吹き込まれたものだったとしたら、
    それは、自分が決めたことになるのかの話だ。

    生まれて来るもの、湧き上がって来るもの、どうにもならないもの。
    それにとらわれ、葛藤し、苦悩し、哀しみ、痛み、苦しんでいる。
    「人生とは、悲劇にほかならない」と、大拙さんが言っている。
    悲劇だと認める。
    それは、本心ではなく、人としての業の為せること。
    私は、その業からの声となり、その声のまま生きたいともだえ苦しむ。

    欲しいものは、決して手に入れられず、
    たとえ、手に入れたとしても、瞬く間に消えて無くなる。
    いつまでも在り続けるものはなく、
    全てのものは変化して、私に背中を向けて去って行く。

    遺されたものは、「孤独」そのもの。
    悲劇の舞台を生き延びて歳をとると、
    その業に生かされたままの生き方の「虚しさ」「哀しみ」を知る。味わう。
    思い通りにはならない。
    そんな当たり前の事実を前にして蹲り、絶句する。

    そこに、「愛」が顕れる。
    それは、この地上のものではなく、天からやって来る天啓だ。
    愛である天使がその孤独を優しく包む。
    その孤独の人が気付かない間に、そっと顕れる。
    今、ここで、絶望し、哀しんでいるその人は、
    天使の愛に包まれていることを知らない。感じない。
    でも、知ることが、在ることではなく、
    在るから、知ることができるんだ。

    絶望と孤独と哀しみとは、その在ることを感じさせてくれるチャンスとなるはず。
    きっと、そこを経ない限り、
    この傍らにずっとずっと私が生まれた時から、
    いや、生まれることを予感された時から、
    いや、私の父や母が生まれる以前から、
    その愛は、ここにあった愛と出会えないのが人なんだ。
    だから、きっと悲劇の舞台は、愛と希望いう救いで完結するはすだ。

    孤独と哀しみの魂は、その愛によって抱き上げられ、
    心に確かなる希望の炎を宿す。
    その炎こそ、決して、消えない。騙されない。真実真正の光となる。
    人は、その天からの愛によって、その光を魂に宿す。
    いや、眠っていたその魂の命そのものが蘇る。
    それは、正に再生そのもの。
    再生した人にしか、人としての本来の輝きは光らないものだ。

    私は、愛を感じた。
    私は、愛をさらに信じた。
    あの孤独な魂は、私だった。

    さて、その愛を深くで感じ、味わい、
    その愛の無限なる永劫の力・働きを信じた私は、
    いったいそれからどう生きるのか。

    「Mirroring-それは尊き光のごとく」
    第二幕は、新作「FratresⅠ」

    祈るしかない。
    それは、祈願である。
    迸る魂のパッションをじっと矯め、養い、待つ。祈る。
    そこは既に孤ではない。
    孤であることで、みんなとなる。
    「信」という一つに融け合い、闘い、祈り、切望、希望。

    あの神々しいまでの力強さは、何なんだ。
    人とは、こんなにも逞しく、鋼のように精錬され、強くなるものなのか。
    そのパワーに圧倒される。
    それは、「神ながら」の力と輝きだ。
    私は、それを観た。感じた。体感した。絶句した。
    私が信じているもの。
    それが、ここに顕わだ。
    在るとは、力そのものなんだ。

    そして、その瞬間がやって来る。
    それは、全く予期せずに、突然、ざーーっと降り注ぐ。
    降り注ぐ。降り注ぐ。祈りの背中に、それは降り続く。止むことはない。
    「やられた」「まいった」言葉にならない。
    身体が震えて、涙がいつしか嗚咽となった。
    なんなんだ、これは。
    これはまったくあの世からの到来だ。

    人々は、円になった。
    じっと真ん中を見つめて、祈る。
    その祈りがまったくの1つだった。
    孤孤であるが、一つの輪だった。
    これが本来の人のどんと腰の据わった姿・形。
    沈黙しつつ、待望する祈りの集合体。

    そのど真ん中に、また、再び降り注ぐ。降り注ぐ。降り注ぐ・・・。
    私は、この降り注ぐを、ただ信じた。
    きっと私の信仰は、この降り注ぎなのだと、感じた。
    降り注いでいる。そして、それは、けっして、絶対に止むことは無い。
    何故なら、ずっとずっとそれは降り注ぎ続けていたから。
    そして、これからもずっとずっと降り注ぎ続けるからだ。

    幕が降りた。
    暗転。

    絶句。

    これを語りたいと願う私。
    しかし、言葉はこれには無力なままだ。
    これを顕わにするためには、言葉そのものを新生させる必要がある。

    Noism15周年記念公演。2019.7.19 りゅうとぴあ劇場 3列14番

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  • from: クマドンさん

    2019年07月19日 05時45分07秒

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    人は、無力なのか

    突然にして命を奪われた人たちは、
    今、この朝を、どこでどうしているのだろうか。

    人は死にたい時は確かにあるだろう。
    でも、それがどうしてガソリンでの放火となるのか。
    独りなんだから、独りで決めて、独りで去ればいい。

    「なつぞら」を毎日録画して、帰って来たら楽しみに観ている。
    あのドラマの舞台が、まさにこの動画会社だ。
    なつがいる。中さんがいる。そして、動画のプロたちがいる。
    原画を書く人。アニメーターと呼ばれる人。背景を書く人。
    その人たちの夢と情熱が、あのアニメーションとなる。

    アニマという魂を絵に吹き込み、命を与える。
    セルロイドに書かれた絵に命を吹き込ませ、
    この世に蘇生させた人たちが、その命を一瞬で失った。

    その物語を創作している独り独りの人たちにも、
    その人たちだけの、それまでに生きて来た物語が存在している。
    恋人がいて。妻がいて。子どもがいて。父や母がいて。
    何かを夢見て、何かに打ち込み、あのなつたちのように、懸命に絵に向かった。
    その魂たちは、今、この朝を、どこでどうしているのだろう。

    戦争とは、こういうことなんだ。
    爆弾を落とすとは、こういうことなんだ。
    そのことを見失う。感じない。想い至らない。
    「ああ、戦争が起こったんだ」と、他国の戦をテレビで見る。
    でも、その爆発の影には、この人たちが、この若者たちがいる。
    そのことを、絶対に人は、忘れてはならない。

    孫の安否を確認しようと、現場に駆け付けたおじいさんがいた。
    テレビ局のマイクがその人を取り囲んでいる。
    彼は、その悲しみと怒りとを吐露した。
    その家族である人の悲しみ、切なさ、怒り、憤り・・・。
    それが理不尽に殺された人たちの家族の気持ちだ。

    分かって欲しいことは、殺したその本人の魂は、亡くならないとのこと。
    つまり、この重体の男は、まだ呻きながら身体に留まっているが、
    亡くなっても、その魂は、生きるということ。
    つまり、殺された人たちの魂と、向き合わねばならぬこと。
    そして、一度死んだら、二度と死ねないということ。
    その罪は、消えず、永遠に糾弾され、責められ、十字架を負わせられること。

    「ああ、あんなことをしなければよかった・・・」と、次の朝を迎えても、
    もう既に遅すぎたということ。
    この亡くなった人たちの人生を断ち切ってしまい、
    この朝をもう二度と迎えられなくしてしまったことをいくら懺悔しても、
    それは、絶対に、絶対に、赦されないこと。
    死にたいなら、独りで逝くしかないことを、こうした人たちには分かって欲しい。

    この家族との別れには、家族としての覚悟は、在り得ない。
    いつものように「只今」と帰って来ることしか、信じていないからだ。
    今朝、その息子を娘を亡くしてしまった父と母とは、
    どうしているのだろうか。哀しい。哀しい。

    今、息子が会社に出かける。
    車でのいつもの出勤だ。
    いつもいつも無事を祈って、この部屋から息子の車を見送る。
    今、エンジンがかかった。
    向かいの家の角を曲がるまで見送る。祈る。

    この殺人犯の彼にも、きっと家族は居るだろう。
    父も母も、兄弟も姉妹もいるかも知れない。
    その人たちの生活も全てのことがあの放火から一変した。
    今、その容疑者の家族たちは、どんなに怯え、絶望して、
    この朝を迎えていることだろうか・・・。

    ガソリンを買いに、スタンドに向かいながらでもいい。
    鞄の中に数本の包丁を入れながらでもいい。
    これからやろうとしていることを、やってしまったらどうなるのか、
    そのことを想像して欲しい。
    人を殺した後で、どんなことが起こるのか、思い出してほしい。
    冷静に考えて欲しい。
    何でそんなに恐ろしいことを自分がやろうとしているのかを、俯瞰してほしい。

    そして、人間として正しく生きるべき方に、転換して欲しい。
    止まって欲しい。ガソリンは自分の車に、包丁は台所に、しまって欲しい。
    そしたら、誰も死なない。誰も悲しまない。だれも恨まない。絶望しない。
    それは、犯行を行った本人もきっとそうなんだ。
    「ああ、あの時、思いとどまってよかった」と、いつか必ず思う日が来る。
    確かに、それは今ではないかもしれない。
    だが、思いとどまって欲しい。絶対に止めにして欲しい。
    創造力を働かせて、もし・・を考えて欲しい。

    今、日本では、こうした殺人が多すぎる。
    そして、いつも犠牲になる人たちは、
    その人と何もかかわりのない人たちばかりだ。

    今、この魂たちは、何を感じ、何を想い、何を語っているのだろうか。
    その声にならない声は、きっと誰かが声として顕わにすべきなんだな。
    今日から、何だか「なつぞら」が、
    そこに生きている人たちが、この亡くなった人たちに観える気がする。
    その悔しさ、驚き、怒り、絶望、哀しみ・・・。
    ないまぜになってぐちゃぐちゃな現実のその感情を、
    どうすれば救われるのか・・・。

    人は、無力なんだと、つくづく感じる。

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