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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2014年10月31日 05時48分20秒

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    メメント・モリ   死を想う

    父が昨日退院した。
    一週間の入院だった。
    その間に、私は何度も夕食時に病室を訪ねた。
    その度に、父に怒鳴られながらも。

    行くとベットで寝ていることが多かった。
    病室の誰とも話さなかった。
    孤立していても、独りで在っても、それは苦にはならものらしい。
    向かいのおじいさんには、奥さんが付き添いにやって来た。
    そのことを父は羨ましく想っただろうか。

    テレビのカードがなくなった。
    テレビの音が聴こえない。
    布団が重いから何とかしろ。
    夕食はまだなのか。

    私に対しては、言えないことは何もなかった。
    私は、耐えられる間は聴いているが、
    これ以上は無理だと思うと、「また来るね」と言って、病室を出ることにしている。
    腹を立てない。それが父との関係では大切な距離感だった。

    老いるとは、子供に還ることなのだろうか。
    還暦とはよく言ったもので、生まれた頃の原点に戻るようだ。
    古希とは、ここまで生きることは希なこととの意味だった。
    しかし、今の世の中、奇跡ばかりだ。

    さて、いずれ行く道。
    父を見ていて、私自身の老いについて考えさせられた。
    できるなら、ぽっくりとある日、突然この世を去りたいものだ。
    もし、重い病気にかかってしまったのなら、延命治療はお断りする。
    とにかく、誰にも迷惑をかけず、本人も苦しまないように、
    ただ自然に任せて、すうっと消えていきたいと願っている。

    その日は、きっといつか来るはずだ。
    「死を想わないと、本当の対話はできない」と、ある作家は言っていた。
    だから、消えてしまうその日を想い、今日一日だけは生きてみようと、
    毎日心に言い聞かせている私だった。

    父は、どうなんだろうか。
    確実に迫っているはずの死について、彼は覚悟を決めているのだろうか。
    淡々と日常は過ぎていくが、
    やっぱり明日は死ぬかもしれないと意識して生きることは、
    その人の生き方を変えてくれる大きな力となると私は思っている。

    父は、退院した。
    しかし、この人生からリタイアして、もう一度リセットすることはできない。
    今日も父は父としての、私は私としての命を生きて行く。

    さて、どう生きようか。
    それが日々私に求められている宿題なのだと考えている。

    父は、今朝はきっと安心して目覚めることだろう。

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    waka

  • from: クマドンさん

    2014年10月30日 05時54分12秒

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    言霊の響きを聴く

    心が弱く落ち込みそうになったら、どうしたらよいのだろう。
    元々独りなんだと考えたらどうだろうか。
    人は、いろいろと言うものだし、想うものだ。
    それに対して、私がどんな反論をしようとも、効果はないだろう。
    思い込みや、偏見は、私にもあるからだ。

    その想いと、私とは違っていると感じても、
    やっぱり世の中の常識や、世間体が有利になるのかもしれない。
    そんな時も、やっぱり独りなんだと考えることにした。

    「想う」という言葉を、想っている。
    木と目と心で成り立っている。
    私は、いつも見てはいないのに、私は、いつも見られている。
    庭の花たちと出会った時もそうだった。
    見ているのは、私ではなく花たちだった。

    木もそうだ。
    どうして木々に語り掛けられるかと言うと、
    いつも木々たちは葉っぱを生い茂らせ、私のことを見守っているからだ。
    私が、気付けばいい。
    そして、その眼差しに応えて、声をかければいい。
    木は、必ず応えてくれる。

    「想う」とは、相手がどうであろうとも、私がただ一方的に想うことだ。
    心配するということかもしれない。
    いつもいつまでもあなたのことを見守っていますよ。
    昨日の「三日月」にもそんなことを言ってもらえた。
    自然とは、ただ見守るその想いのことだ。

    「親」という字には、その想いが現れている。
    そんな深い深い想いをもって私の傍に生きている木々たち。
    その木々たちの傍に立ち、じっと心配そうに見守っている父や母。
    その想いは、自然の想いだ。
    ただ只管の愛情だった。

    だから、相手がどんな酷いことを言ったり、誤解したり、
    偏見の眼差しで見下していたとしても、
    それは相手が勝手に想っていることで、
    私にはかかわりのないことと想うこととする。
    ただし、反省すべき点は、やっぱり反省し、修正しながら。

    そして、私ができることは、想われることではなく、
    こちらから一方的に、ただ只管「想う」ことだけだった。
    私の中の独りの決意としては、その想いをもち続け、貫くことだ。

    それなら、こんなちっぽけで弱い私にもできるはずだ。

    想いは、感情ではなく、意志だからだ。

    言霊が、魂に響き、音となり、表現する言葉となる。
    「想い」も「親」も、人の魂のあるべきようを、
    今も私に伝えようとしている。

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    waka

  • from: クマドンさん

    2014年10月29日 05時45分46秒

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    風邪をひいたら

    昨日から、風邪をひいた。
    喉が痛く、咳が出る。
    季節に敏感に反応するものだ。
    それも、体力がなくなり、抵抗力が弱くなったせいだろう。

    アチコタネーゼの話だ。
    「大丈夫、大丈夫、何とかなるさ。心配するな。」
    私が一番苦しかった時、救ってくれたのはやっぱりこの言葉だった。
    というよりか、そんな私の心の苦しみを感じて、
    これ以上耐えていたら壊れてしまうと感じてくれた隣人がいてくれたおかげで、
    今の私があるということだった。

    アチコタネーゼは、とてもおおらかな言葉だ。
    そして、心の重荷を取り去ってくれる、優しい言葉と感じた。
    人は、それぞれ重荷をしょって生きている。
    やっぱりそれぞれがそれぞれの心配事をもっている。
    そんな時に、そん悩みを察してくれて、
    「アチコタネーゼ」と言ってくれる隣人がいることはありがたいことだった。

    しかし、その言葉を伝えるその人も、きっとこの言葉で救われた一人なのだろう。
    あの酔っぱらいのおじさんも、この言葉で育ってきた一人だと感じた。
    「そんなに一生懸命やらなくてもいいがな。」
    「そんげなことでくよくよしねでいいがな。」
    「失敗したっていいねっか。またやれるてば。」
    心が落ち込んで辛いときには、この言葉は魔法の言葉となる。

    もしも、そう言って、優しく抱き留めてくれる家族や友や隣人がいなかったなら、
    自分独りで、自分に向かって優しく語り掛ければいいと思う。
    確かに、どんなに失敗し、間違ったことをし、人に迷惑をかけてきたか、
    そんな私でも、振り返ってみたら、今をこうして生きている。

    その最中にある時は、絶対に取り返しがつかないことをしてしまったと後悔し、
    焦りからどうにもならないまで自分を責めつけたことがある。
    夜中に目覚めて、それからは最悪なシナリオばかり考えて、
    朝が来るのがどれだけ怖かったことか。

    しかし、私は、死なずに生かされてきた。
    それは、やっぱり家族や友や隣人のおかげさまだった。
    「アチコタネーゼ」と、言ってもらえた。
    それは、「私がここに居るよ。」「私も一緒だよ。」という想いでもあった。

    やっぱり「優しさ」とは、「憂い」の隣に寄り添っていてくれる人にある。

    実は、そんな優しさを感ずることができるのが、
    やっぱり家族であり、友であり、隣人である人の居る「故郷」なんだ。
    「ふるさとは 語ることなし」と安吾は言った。
    言葉では語らないかもしれないが、
    この故郷に抱かれた安心感は、何と言って表現したらよいのだろうか。

    ふるさとは語らずとも、アチコタネーゼと抱きしめてくれる。

    昨日、風邪薬を買ってきた。
    寒気がするので、早めに布団に入って寝ることにした。
    風邪をひいたら、風邪薬。
    心の風邪には、アチコタネーゼ。

    心がや弱り、抵抗力がなくなった人への特効薬だ。

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    waka

  • from: クマドンさん

    2014年10月28日 06時14分11秒

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    アチコタネーゼ

    「クマさん、読んでいますよ」と、嬉しい便りがこの前届いた。
    この反応がとてもありがたかった。
    誰かとどこかで繋がっていると感じるからだ。
    しょせん独りなのだが、されど独りなのかもしれない。
    独りだからこそ、独りとの繋がりを求めるものだ。

    ここに登場しない日々は、いろいろとあった日々だ。
    昨日はやっぱり自己嫌悪のどん底に落ち込んだ。
    危ない危ないと想いながら、じっとその底で貝のように耐えていた。
    時間がきっと解決してくれるはずだ。
    忘れるということも、諦めるということも、こんな日には大切なことだった。

    左ひじのテニス肘というやつが痛み続けている。
    垣根に顔を突っ込んで、何と眼鏡を失くしてしまった。
    サングラスで一日を過ごした休日は、飲み過ぎで途中の記憶が途切れていた。
    そんなこんなの連続だったが、実は収穫も多かった。

    土曜日は、「えんでこ」で、下町の町歩きだった。
    視点を変える。お宝を探す。アンテナを敏感にする。
    するとあるある。まちには興味深いものや人に溢れているのだった。
    ガイドのTさんが素晴らしかった。
    謙虚で、あるがままで、ご自身もまちのガイドを楽しんでいた。
    このまちで働き、このまちでさんざん飲んだ人らしい。
    だから、面白い裏の歴史や事情を聴けた。
    今回の発見は、日和山五合目のNさんが開いたカフェーだった。
    人の生業と住み方で、そこの風景がこんなに変わるものとは感動だった。

    帰りに古町で、岩船ポークを使ったうまい焼肉丼に出会い、幸せになった。
    うまいものを食べることが、幸せな気分になるための一番の近道だ。
    こんな時は、必ずマスターにべた褒めをする。
    すると、マスターも幸せになり、私ももっと幸せになる。
    そんな出会いがあるから、人生はまだまだ捨てたものではなかった。

    何と、このクマさんが、新車の購入だった。
    前のステップワゴンには15年間乗った。
    車は走ればいいから、傷だらけ、凹みいっぱいの車でも、
    愛着とプライドをもって乗っていた。
    しかし、寄る年波には勝てず、エンジンを支えるシャーシーが腐食していた。
    「いつエンジンが落ちるかわかりませんよ」とのこと。
    だから、仕方なく目の前にあるフリードを「これにします」と、購入だった。
    これで、逃げられない借金をどんと肩にしょった。
    この新車、ハイブリッドなんだ。
    なかなかの車に、何だかこちらが運転させられている気もしている。

    日曜日には、小千谷に行っての「途中の会」だった。
    この会での出会いと学びとに、私は今生かされている。
    ごくごく自然に空気のようにあるがままを互いに受け入れられる関係。
    それは、とてもありがたいもので、自然の中で抱かれるような安心感すら感じる。

    岩沢という集落の人たちが創造したお祭りに参加した。
    ストリートの一角を通行止めにして、屋台を出し、酒を飲み、土地の歌を歌っていた。
    地域おこしというけれど、この祭りがあることで、
    本当に地域の人たちが笑顔で、一つになっていくのがよく分かった。
    みんなそれぞれが知り合いだった。
    久しぶりの人たちもそこには居ただろう。
    でも、この祭りがその人たちの繋手となってくれていた。

    祭りは、やるべきだ。
    祭りが無かったら、創ればいい。
    そして、そこには若者を呼ぶべきなんだ。
    この祭りを主催している若者たちの団体の名前が、「アチコタネーゼ」だ。
    これは小千谷の方言の一つで、「大丈夫、大丈夫、心配するな、何とかなるさ。」
    酔っぱらいのおじさんが、同じく酔っぱらいの私にそう教えてくれた。

    「アチコタネーゼ」
    その言葉は、今の私のためにあるような言葉だった。

    どん底で、危ないなぁと自覚している状況の中で、
    そう声をかけて、親身になって心配してくれる人が、人には誰か必要なんだ。
    私は、その言葉の深さを感ずるとともに、
    そう言ってくれる隣人をもっているこの岩沢の人たちが幸せな人たちに思われた。

    せめて、人から言われなくとも、
    「アチコタネーゼ」と、優しく言ってあげられる人に、私はなろうと思っている。

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    waka

  • from: クマドンさん

    2014年10月25日 14時09分54秒

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    まち歩きの楽しみ

    よく新潟市は見るところがない。
    県外からのお客さんを案内する場所がないと言われる。
    しかし、本当は見どころ満載のまちだった。
    ただ、知らなかっただけだった。
    かく言う私もその一人だ。

    私は、新潟検定や、シティガイドに興味をもってから、
    古町や下町の歴史について調べるようになった。
    すると、なかなか興味深い歴史と文化が残されていることに気付いた。

    下町のNさんは、長年小路や街並みの写真を撮り続け、
    とうとうご自分のイラストを使って新潟市の支援で、
    小路の案内柱?を建てている。
    その案内柱は、沼垂の小路にも建てられた。
    ごらんになった方も多いと思う。

    どんな片隅のささやかな場所にも、由来があり、歴史があるものだ。
    そのことを知ることで、Nさんはこれは楽しいと思い始め、
    まち歩きを始めたそうだ。
    彼は、まさにまち歩きの達人である。
    そんな当たり前だった人を、まち歩きの達人にしてしまうほどの魅力が、
    やっぱりどんなまちにもあるものだと、私は思っている。

    今日の午前中には、「えんでこ」で、下町のまち歩きをした。
    本当に2時間たっぷりと歩いて、へとへとなのだが、
    やっぱり意味や歴史や由来を理解しながらのまち歩きは楽しいと感じた。

    これから用事があって出かけるので、
    詳細はまた帰ってきてから、ワインを飲みながらゆっくりと語りたい。
    それほど奥の深いまち歩きに、
    やっぱりみなさんをご招待したいと思っているからだ。

    帰りにおいしい美味しい赤ワインを勝って来よう。

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    waka

  • from: クマドンさん

    2014年10月25日 07時11分28秒

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    追伸

    追伸、後10年くらい生かしてもらっても・・・は、私のことだ。
       何だか誤解される表現なので、訂正する。
      

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  • from: クマドンさん

    2014年10月25日 07時07分49秒

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    父が消えていく日

    父の退院が決まったらしい。
    月曜日に医師からの説明があるから、病院に来てほしいとのことだった。
    昨日行ったら、父はいつもと違って普通の人だった。
    ベッドに腰をおろし、テーブルの位置を食べやすいように変えて、
    食事が来るのを待っていた。
    「いつ、来るんだ」と、夕食が届かないことを怒ってはむいたが・・・。

    聴くと、既に一時間前からこうして座り、
    テレビを観ながら夕食が来るのを待っているのだそうだ。
    まだ6時前だった。来るわけがない。
    「まだ、見えねぇか」と、見てくるように催促をする。
    私が廊下に出ると、はるか先に食事を積んだコンテナが止まっていた。

    「もうすぐ、来るよ」と、言うと、
    「どうしてこんなに遅いんだ」と、また怒り出した。
    しかし、今日は怒ることの理由は、ある意味理解できる。
    イアーホンを付けながら、「テレビの音が聴こえない」と怒鳴った日よりかは。

    父と向き合うと、老いについて考えさせられる。
    男独りの老いの重みと侘しさとでも言うのだろうか。
    息子としては、不謹慎なことだが、
    私は、父を見ていたら、そんなに長生きをしたいと思わなくなっている。

    父は、84歳だった。
    入院の時に個票を書くとき、私も父もその確かな年齢を知った。
    認知のような症状が出るわけだった。
    「お年だからねぇ」と、父のちぐはぐな言動に看護士さんも笑顔だった。

    父は、父でありながら、父ではなくなってきていた。
    父とは、そんなに語り合ったことはなかったが、
    いつも酔っぱらって暴れたばかりの人だったが、
    母が言うように、魂が純粋で、きれいなために、
    世の中とはなかなか折り合いがつけられず、
    生きづらさを感じていた人でもあった。

    常識や世間体や権威の人ではなく、ある意味自由人だった。
    そのおかげで、私は父と暮らすことに抵抗感は少なく、
    父を大嫌いになることもなく育ってきた。
    今は、妹と二人、父の理解者である気がしている。

    そんな父だったが、今はそんな父はどこにも存在していなかった。
    どうなってしまったのだろう。
    父を黙って見つめながら、そんなことを考えることがある。

    父は、退院しても、施設に戻るだけだ。
    そして、一日一日老いていく。
    老いるということは、自分であったものを少しずつ失くすということだ。
    姿形はあっても、父という人は、
    削られるように少しずつ私と妹の前から姿を消している。

    いつか、私をまじまじと見ながら、
    「どなたさんでしたかねぇ」と、言う日が来るだろう。
    それはそれは、とてもとても悲しいことではないだろうか。
    記憶の中での家族が消える。

    後10年くらい生かしてもらったら、いいかもです。
    でも、その年になったら、ヤッパリ生きたいとしがみつくのかもしれない。

    退院しても、父は日々消えていく。枯れていく。

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    waka

  • from: クマドンさん

    2014年10月24日 05時58分22秒

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    野良人になる

    昨日、赤く色づいた桜の葉っぱを20枚ほど拾って、並べてみた。
    どの葉っぱも色の付き方や、色のあせ方が違って、
    それぞれとてもきれいで、個性的だった。
    自然にあるもので、同じものは一つもない。
    それは、こうして手に取ってみることでよく分かる。

    まっすぐなものも一つもないな。
    まっすぐな線を定規で描いても、
    そんな直線は、この自然の中にはどこにもなかった。
    みな曲り、ゆったりとしなやかに生きている。
    まっすぐ曲がりながら育っている。

    変わらないものも一つもなかった。
    すべてのものは変化する。
    私も自然の一つだから、毎日毎朝毎晩と変化の連続だ。
    ベルトがきつくなり、左腕の痺れが和らぎ、偏頭痛は毎朝訪れる。
    自分をやっぱり自然なんだと、その自然の一部として認識する。
    すると、そのままでええがなぁと、思えることもある。

    すべての対立や争い、否定や中傷や排外は、不寛容から起こる。
    「イントレランス」という往年のハリウッド映画の大監督であった、
    名前を突然忘れた人が、そう語っていたことを聴いたことがある。
    「トレランス」は「寛容」だ。
    「イントレランス」は、その反対だから、不寛容だった。

    私は、学生の頃この話を聴いた時、ひうかなぁと少々疑問だった。
    しかし、今ではこの言葉は真実だったと言えるようだ。

    自然のものは、全て違って、同じものはどんなに探しても一つもない。

    まっすぐに定規をひいたような規格品も一つも存在しない。

    全てのものは刻々と変わり、一つとして同じものとしてとどまることはない。

    そうした自然の個性と変遷とあるがままの姿を知れば、
    ありとあらゆるものは「あり」なのだと分かるはずだ。
    飛行機に乗って地上を見たとき、どこにも国境が引かれていないのに驚いた。
    本当は、ボーダレスでありながら、
    そこに目には見えないが、国境を決めたのは、人の心だった。
    ここから先は、違う国。
    ここから先は、違う国民。

    しかし、そこには必ず「不寛容」が存在し、
    「差別」や「偏見」が存在している。

    この人たちはよくて、あの人は駄目なのだそうだ。

    そうかなぁと、そんな話を聞くたびにいつも思う。
    そんなら、そう決めつけているあなたはどうなのだと。
    あなたのように考えられる人が正義で、そうではない人が悪なのかと。
    あなともその一人でしか過ぎないのに、
    どうして他の人たちの価値を勝手に決めつけて、批判するのかと。

    「それで、いいんだ」byバカボンのパパ

    ジョグのコースで、松林を降りて海岸に向かう坂道で、
    よく出会う猫がいる。
    「おっ、いたなぁ、おっはよう」と、会うたびに挨拶する。
    体が大きくて、藍色のようなぶちが入っている猫だ。
    「また、うるさいのがやってきたな」とばかりに、
    私が歩いてくると、のそのそと垣根を越えて消えていく。
    本当に消えていくという表現がぴったしの消え方だった。

    私は勝手に彼女を心の友としている。
    だから、会えないときは、ちょっと寂しい。
    「野良猫。野良犬。野良人。」

    私は、彼女から「野良人」という生き方を教えてもらった。
    その生き方こそ、この自然の中で生きる独りとしてはふさわしい気がした。

    野良人は、何もこだわらず、トレランスな魂の人なんだ。

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    2014年10月23日 06時04分54秒

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    小千谷、山古志に学ぶこと

    中越地震から10年目の朝を迎えた。
    亡くなった人たちのご冥福を心から祈りたい。
    当時10歳の長女を亡くしたHさんの話が新聞に載っていた。
    救ってやれなかったことのやるせない気持ち。
    その深い深い悲しみは、その当事者にしか分からないのだろうと想った。

    私は、その日には小6の長男のサッカーの遠征のために、長野の菅平に居た。
    牧場で牛を見ながら、霧の中でのサッカーの応援だった。
    揺れた揺れた。しかし、情報とはすぐには伝わらないものだった。
    まだ携帯もそんなに普及していない時代だった。
    私たちは中越で起こっている惨事を知ることができなかった。

    小千谷のSさんの自宅は、川の氾濫により浸水していた。
    今は、こうしてSさんとはよく連絡を取り合い、
    「途中の会」と称する、謎の会を開催する関係になったが、
    当時の私にとっては、小千谷は遠い土地だった。

    越後川口は震源地であった。
    集落の7割の家屋が全壊や半壊であったそうだ。
    町が無くなり、多くの尊い人命が失われた。
    しかし、私はニュースで知るだけで、そこに駆けつけるわけでもなかった。

    山古志は山が崩れ、谷に村ごと流されて、全村・全住民の避難だった。
    今でも谷に埋もれている家屋があると新聞は伝えている。
    しかし、山古志は、「山古志に帰る」を祈願として、それを実行した。
    そして、山古志には、復興してから数年たった今年、
    私は、行って、その復興の陣頭指揮に立ったAさんのお話を聴くことができた。

    地震の日、私は中越から遠い遠い長野の菅平だった。
    今は、新潟市に住んでいる。
    しかし、小千谷に「途中の会」で通うようになり、
    山本山からの絶景を見ることで、小千谷が不思議と私の魂に入ってきた。

    山古志もそうだった。
    初めて訪れたはずなのに、そこは懐かしい故郷のように、
    私にとっては原風景のように感じられた。
    「ここに住みたい」と、そんな願いももってしまった。

    地震から10年たった日。
    遠い長野に居た私が、今では小千谷と山古志とに憧れて暮らしている。
    そして、この町や村での復興こそが、
    都市部での過疎化した町を復活させるための先行事例だと私は想っている。

    私たちは、小千谷や山古志の人たちに学ばねばならない。
    そのことを、Y通信には書いて、3年間のコラムに幕を下ろそうと考えている。

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    waka

  • from: クマドンさん

    2014年10月22日 05時35分07秒

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    明日死ぬと想って

    介護生活には、休みはない。

    2年前に介護休暇を取り、父と母と妻の入院の中を生活していた私の気付きだ。
    確かにそうだった。
    曜日を忘れ、休日を忘れ、どこにも行かず、淡々と日々が過ぎて行った。

    昨日も夕方病院だった。
    父が左腕が麻痺しているために、食事の手伝いをするためだった。
    老人の男性4人の部屋だった。
    男同士には何も会話はなかった。
    父は、眠っていた。
    しばらくすると、うっすらと目を開けて、私を確認して、片手を挙げた。

    「何で、俺はここにいるんだ。」と、看護士に何度も話を聴いているおじいさん。
    父は、そんな話すらできなくなっていた。
    何かを私に話そうとするのだが、内容が聴き取れなかった。
    「分かった。分かった。」と、肯いて合図だけは父に送る。

    布団が重いだの、毛布をどうして持ってきたのだの、お茶がこぼれるだの、
    とにかくいろいろとイライラすることを私に訴え、ぶつけてくる。
    それを全部受け取っていては耐えられないから、聞き流す術で対応する。
    なによりもこうした関係に、感情を入れないことだった。

    私は、ベットの脇で黙って文庫本を読んでいた。
    それだけだっだ。
    余計なことを言うと、倍返しで悪態が父から返ってくる。
    父は、そうやって自分の鬱憤とストレスを晴らさんとしている。
    家族だからだ。
    それは、私に対する父の甘えだった。

    テレビが消えていると、突然怒り出す。
    おしっこがしたいと突然言って、起き上がろうとする。
    看護士さんには頭を下げるが、文句だけはちゃんと伝える。
    本当にこうした老人患者をけなげに介護している看護士さんたちには頭が下がる。

    食事が運ばれてきたので、食べやすいようにテーブルの向きと高さとを変える。
    それでも気に入らないと何度も叱られる。
    そんなものだと、私は聞き流して、父に食事を勧める。
    食べている時は、静かだった。
    左手が使えないので、御飯茶碗を私がおさえる。
    おかずの小鉢を食べやすい位置に移動する。

    それだけだった。
    今、こうしてそのことを語れるのは、一緒に暮らしていないからだ。
    こうして自分の生活ができ、仕事に行け、
    その一日の限られた時間だけの介護だからだ。
    それは、本当にありがたいことだった。

    あの同じ病室の四人の老人を観ていると、
    私の明日なんだと、ふと感じられた。
    すると、本当に少しだけだが、優しい気持ちが湧いてくる。
    老いの憂いは、私にもあるからだ。

    今朝の新聞で言葉に出会った。

    「明日死ぬと想って生きなさい。永遠に生きると想って学びなさい」ガンジー

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