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親父たちよ

親父たちよ>掲示板

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  • from: クマドンさん

    2019年01月29日 05時37分00秒

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    大病と心の病には意味がある

    苦しい時代があった。
    本当にこれからどうなるのかと途方に暮れた時代があった。
    でも、今は、そのことを忘れて生きている。
    そんなこともありましたねと、まるで他人ごとのようなものだ。

    しかし、その渦中に居た時は、
    苦しくて苦しくてであったな。
    特に50歳を過ぎてからは、そんなことの連続だった。
    まっすぐに突っ走る。
    わき目もふらずに猛進する。
    その結果、身体を壊した。心を壊した。リタイアした。
    「休め」のサインが、痛みや絶望の形で顕れる。

    それからは、数カ月のトンネルだった。
    痛みに耐える日々。
    身体がままならず不自由な日々。
    妄想と失意と絶望で、ずっとずっと蹲った日々。
    こんな状況は、いつまで続くのか・・・・。
    本当に途方に暮れた。

    過去を悔いる。
    こうなった己を攻める。
    欲望に走り、独りで突っ走り、周りの人の心を傷つけた。
    忠告が在り、警告があり、辞めよとの声が聴こえる。
    でも、辞めない。それを続ける。続けざるを得ない。
    本当は、とてもとても不自由な生活。

    そして、突然落とされる。
    奈落の底だ。
    しかし、本当は突然ではなかった。
    その予兆。その兆し。予感は確かに感じていたはず。
    でも、不自由になった自分には、
    そのことを気付きながら、コントロールすることはできなかった。
    自分でありながら、その自分をままならなくする。

    そこで、電源が抜かれる。ストンと落ちる。エネルギーが切れる。
    強制終了だ。
    目が覚めたら、ICUだったりする。
    心の病で閉じこもり、人に会えなくなっていたりする。
    そんなことばかり幾つも幾つも体験した。
    死ぬ手前。自死寸前。そんな時、本当に孤独なものだった。

    でも、そのおかげで、今、ここがある。
    そこを経ることで、見える景色が変わった。
    生き方が落ち着いた。
    独りで生きることの平安を感じた。
    自分が自分であることの幸いを知った。
    信仰に還った。
    自分が、自分らしく、やっと素直に生きられるようになった。

    試練があっての今だ。
    苦しみがあっての幸いだ。
    どん底に堕ちたからの落ち着きだ。
    この道は、確かだから、もうぶれないだろう。
    そのことを知り、そう生きるための道が、この道だったのだと今は言える。

    でも、そこに到るまでには、
    森に迷わなければならない。
    きっと帰り道を見失わねばならない。
    はっと、何かに気付かなければならない。
    道を見失ったのだから、
    本気になってその道を探さねばならない。

    失ったから、やっと探し始める。
    本来の自分を、その時から、やっと探し求める生き方となる。

    それでは、それまでの自分は、一体誰だったのか。
    それは、自分だと思い込んでいた、それは仮の自分自身。
    しかし、本当の自分になることが、この人生での私の使命なら、
    そのままでは、私はこの生を全うしたことにはならない。
    仮のまま生きるとは、眠ったまま、夢を見るだけの空しい人生だ。

    本当の自分と出会うためには、
    その仮の自分だと思い込んでいた幻の自分が死なねばならない。
    だからこそ、人は、時が熟すと、試練が起きる。
    そこで、幻の自分自身の弱さと愚かさと罪深さとに気付かせられる。
    本当に有無を言わせない。
    どんと、突然、不意に、何の前触れも無く、やって来る。
    しかし、その絶望は、ありがたいものだ。

    そうでなかったら、きっと私は、目覚めないまま生きた。
    そして、いつもいつも迷いの中で、森をあちらこちらと彷徨っていただろう。
    でも、そこも、還るための大道であったことを、
    正気に戻れば気付くはずだ。
    そのためには、このどん底を深く深く味わわねばならないようだ。

    絶望は存在しない。
    その真っ暗闇の中でも、
    きっと微かに救いの灯りが、光明が燈っているはず。
    その呼び声が遠く遠くで囁くように聴こえるはず。
    差し伸べられているその手に、気付くはず。
    そこに、信がある。

    それを、信ずるかどうかだな。

    絶望しない人に、信仰の恵みは与えられない。
    その絶望の痛み、苦しみ、孤独こそ、
    人を本来の人とし、信仰の人とし、感謝と祈りの人とする。
    しかし、まだ自分を頼りにして、その手をとらない人は、
    きっともっともっと深い絶望の海に沈む、沈む。

    不思議なことだが、この大病と心の病とに、
    人生の岐路がある。

    私は、この道を選び、歩いたことを喜びと感ずる。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月28日 05時33分42秒

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    回光返照

    昨日は、本当につまらないことで怒鳴ってしまった。
    いや、何ともねぇ。申し訳ない話だ。

    朝、サラダに入れるトマトを買って欲しいと妻に言った。
    すると、この季節に食べるトマトは、とても燃料がかかっているトマトだ。
    そんな贅沢なトマトは、私は買いたくないとのこと。
    いや、一つでいいんだ。一つを四回に分けて食べるから。と言うと。
    私は、絶対に嫌だ。買いませんだった。

    それは、分かる。
    でも、たった一つのトマトを、私は私の健康のために欲しいと言った。
    でも、私は、買いません。絶対に嫌ですだった。
    何だかその時、かちんと来てしまった。
    「それはあなたが自分で勝手に決めたこと」
    「私は、トマトが食べたいんだ」と、またやってしまった。
    その内、だんだんヒートアップして来たので、
    妻もどんどん強い口調になって来た。

    日曜日の朝、トマト一個のことでの口論だった。
    情けなくも、哀れで、哀しい朝だった。

    昼に帰って来ると、近くの叔母から4回も電話があったそうだ。
    今朝も6時に叔母の家の雪除けをした。
    その後2軒と駐車場の雪除けとで、腰が痛くなってしまった。
    またまた椎間板ヘルニアかとやばさを感じた。
    その電話は、月曜日にゴミ当番だから、
    ゴミの籠を置けるスペースの除雪をしてくれとのことだった。

    「後で、行くよ」と、言っても、また、直ぐに電話が来た。
    「やってよ」だった。
    「腰が痛いから、夕方行くよ」
    それでも、また、叔母からの催促の電話だった。

    何だか腹が立って来た。
    どうせこの天気だから雪は融けるはず。
    それを待てば明日の朝は、アスファルトが見えるはず。
    なのに、腰の痛い、私に自分の気持ちが収まらないから、
    何度も雪除けの催促の電話だ。
    3時過ぎに行ったら、もうすっかりと融けていた。
    それでも、水だけの重い雪を、寄せてスペースを空けた。

    さてさて、私は、どうしたらよかったのかなぁと、今、想う。
    こんなにも怒鳴らなくても、怒らなくても、腹を立てなくても、
    よかったのではないか・・・・ということだ。

    「回光返照」

    そうした自分を鏡に映す。
    そうした私も、私なんだと情けない。

    トマトは、そうだねぇと言って、自分で買ってくればよかった。
    だって、一度思い込んだものは、妻は絶対に変えることができないのだから。
    ここで、議論しても、全くの無駄だった。
    子供の頃からそう思い込んだことは、変えられない。そのまんまま。
    考えを変えると言うことが、不安だから、思い込んだらそのまんまん。
    そうした彼女を理解して、諦めればよかった。

    叔母は80歳。
    少々認知症の気が在る。
    不安に想ったり、気になったりすると、どうにもならずに電話をかける。
    突然電話が来て、「今、やって」と、催促される。
    勘弁してください。後で、行きます。
    そう言った先に、直ぐに催促の電話だ。
    それを、私がやることを見届けるまで、その電話が続く。

    私は、そうなのだから、直ぐに行けばいいのに。
    素直に諦めて、「はい、はい」と出向けば善いのに、
    腰が痛く、まだ昼飯も食べていない私に、
    ほんのちょっとでも待ってくれない叔母に対して、腹を立てたのだ。
    でも、やっぱりその時も、直ぐに黙って叔母の家に行けばよかった。

    変わらないものに対して、腹を立てても仕方ない。
    諦めること。降参すること。分かりましたと認めることだ。
    変わらないものは仕方ない。
    こちらがその変わらない頑固さに合わせて行くしか道は無い。
    だから、日々の生活は、生涯の修業の場となる。

    腹を立てない。腹はいつでも平静に横に寝かしておく。
    ただ、自分が我を通すのではなく、譲ればよかったんだな。
    「そうだね。そうだね」と、相手の気持ちを認めればよかった。
    しかし、身内となると、なかなかそこは・・・・。

    回光返照だな。

    「回光返照すなわち還り来る。霊魂に廓達すれば向背にあらず」石頭大師

    「我々が回光返照するというのは、
     天地と同根、万物と一体の自己を体験することです」 澤木興道

    まだまだの私だ。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月27日 05時42分19秒

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    濃すぎる土曜日

    実に、実に、濃すぎる一日だった。

    雪が積もっていた。
    今年初めての雪除けだった。
    我が家を終わると、三件の家の雪除けに向かう。
    叔母の家、視覚障がいの独り暮らしの人の家、お世話になった人の家。
    みんな80代の独り暮らしの女性だった。
    その家の玄関から道路までの雪除けを去年の冬からしている。
    スノーダンプで雪を押しながら、
    こんな人が、一人ぐらい居てもいいかなと、思って仕事する。
    これも一つの菩薩行だ。
    ついでに、長男の駐車場の雪除けもやった。

    9時からは、ヨガだ。
    身体の気付きと目覚めだった。
    言われた通りにする。
    ただ黙ってその通りにする。
    すると、新たな気付きが生まれる。
    この格好は、生まれて初めての格好もある。
    昨日は股関節の集中過重だった。
    耐えられないが、その耐えられない痛みもよかった。
    身体と心とがそうやって繋がる。
    私が今、負っているものは、やっぱり神様からのくびきなんだな。

    昼は、あき乃だった。
    お母さんは、腰を痛めて、お休みだった。
    居るべき人がそこにいないことの寂しさだな。
    ご主人が温和な笑顔でお茶を運ぶ。
    私は、雲海を飲み、冷たい蕎麦を堪能する。
    蕎麦を食べる時は、ただ黙って蕎麦と向き合う。
    噛みしめる。深く味わう。語り合う。
    身体と魂とが喜んでいることを感ずる。
    お客さんがひけたとき、ご主人と話した。
    いつもいつもその柔軟な姿勢に頭が下がる。
    学び続ける人。
    あき乃の蕎麦と天ぷらには、
    このご主人の魂が味わいとして顕れている。
    お母さん、早く元気になってください。また、行くよ。

    2時からシネウインドで「家に帰ろう」を観た。
    何と大入り満員だった。
    私のいつもの指定席には既に初老の叔母さんが陣取っていた。
    いい映画だった。
    85歳の仕立て屋の爺さんが、アルゼンチンからポーランドへの旅だった。
    それは、ナチのホロコーストから命を救われた彼を助けた親友に、
    約束をした一着の青いスーツを届けるためだった。
    このロードムービーが実に素敵だった。
    どこにもいい女は、居るものだ。
    人生を深く味わって生き抜いて来たその女性たちが彼を助ける。
    私は、彼の人としての誇り、生き抜く力であった信念。
    その信念を全うしようとする気力、情熱に感動だった。
    こんな老人に、私もなりたい。
    だから、あれだけの中高年のお客さんだったのだろう。

    5時からは、ノイズムの「ROOM」だった。
    雪道のやすらぎ堤を歩いてりゅうとに向かった。
    閑散としたりゅうとぴあ。
    東京交響楽団3月公演とノイズムⅡのチケットを買った。
    展望レストランで、赤ワインの小瓶を一本空にした。
    そして、会場では、最前列の胡坐をかける椅子に座った。
    真っ暗な中で微かな音が聴こえ、灯りが入ると銀色の部屋が現われた。
    ダンサーたちは、その天井から降りて来る。
    そして、動き出したら、もうその瞬間から、魂が奪われたな。
    私の身体も気持ちよく踊っているような気分だった。
    これも、ヨガのおかげ、ヨガマスターのおかげさまだ。
    身体は本来、踊りたがっているんだな。という実感。
    それから、踊りとは、感情であり、想いであり、意志であり、顕れである。
    その動きは、言葉以上の、言葉以前の言葉なんだな。
    浅海さん凄すぎる。西澤さん素敵すぎる。
    踊りは、文学だったな。と、わけのわからない結論だった。

    それから、バスに乗って、末広橋。
    シンさんのお店だった。
    Iさんがカウンターででっかい蠣を3つも食べていた。
    テレビでは、全豪オープンの大阪ナオミだった。
    本当にメンタルだなぁとの試合だった。
    何時間もこの聴衆の前で戦い続ける。
    最後は、勝者と敗者のどちらかしかいなかった。
    そんなスリリングな闘いを、ライブで観られることの感動、感動。
    試合途中だったが、家でゆっくりと観たいので、
    半額の300円の生寿司と、75円という破格の値段のアジの刺身を買って、
    我が家に急いだ。
    そこで、妻と、この感動的な勝利を見届けた。

    ああ、終わった。
    ああ、私の濃すぎる一日も、やっと終わった。
    何だかね、この濃すぎる一日のスケジュールは、
    テニスの一試合の試合時間よりも、濃くもあり、長い時間かかっていた。
    これが、ある土曜日のクマの一日だ。
    今日の日曜日は、休養日とする。本を読もう。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月26日 06時31分16秒

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    500匹の猿たち

    起きたら、大雪だった。
    昨日までのあの乾いたアスファルトは、
    今はすっぽりと雪に覆われている。
    来たなぁー、が、実感だ。
    このまま終わるわけはないとは思っていたが、
    毎日の快適生活に、私は真冬であることを忘れていたらしい。

    自然は、自然で生きている。
    さてさて、またまた雪のけ生活の始まり、始まりだな。

    自分の「輝き」を大事にする。
    そんな話をした。
    確かに、ここまで来るまでに、
    私は、どれだけいろいろと迷って生きていたかもしれない。
    それは、「これが自分だ」という「自分」と、
    はっきりと巡り合っていなかったせいだった。

    ただ、大道は歩いていた。
    確かに何度も道を外れたと想い、見失い、迷っていても、
    そこは、まだ大道の中だった。
    だから、ふと、正気に帰り、我に還ると、
    やっぱりこの道なんだと、ここまでとぼとぼと歩き続けられた。
    そのことには、少なからぬ自負がある。

    500匹の猿の話だ。
    ある島に500匹の一つ目の猿たちが住んでいた。
    そこに、一匹の猿が流れ着いた。
    その猿の目は二つあった。
    すると、その猿に気付いた500匹の猿たちは、
    その猿をまさに化物、おぞましい存在、おかしな生物のようにして、
    とにかくとにかく苛め抜いた。

    あっちでも虐められ。こっちでも虐められ。
    まさに行く場も拠り所もすっかりと失った猿は、どうしたか・・・・。
    自分もその500匹の猿たちの仲間にいれてもらうために、
    自分の手で、片目をつぶした。
    そして、自分も一つ目の猿となった。

    これは、お釈迦様が語ったお話しだった。

    私だったら、どうするか。
    みんなだったら、どうするかという話だった。

    昨夜、そんな話をある人と話ながら、
    私は、はっと気付いた。
    もしかすると、この500匹の樽たちも、
    元々は、二つ目の猿たちだったのではないかと・・・。
    そして、同じようにしてこの島にたどり着いた時、
    権力をもってその島を支配している一つ目の猿たちの仲間に入れてもらうために、
    片方の目を自分で潰してしまった猿たちではなかったのかと・・・。

    そうやって、自分は惨めに痛い想いをしてその仲間に入ったのに、
    同じようにして流れて来たその猿が、二つの目を持っているのが許せなかった。
    だから、徹底的に虐める。いたぶる。
    何でお前だけ二つの目で生きていやがんだ、だな。
    それは、妬みでもあり、羨みでもあり、後悔でもある。
    自分は、その権力者たちに迎合するために、片目を潰した。
    なのにこの猿は・・・・。だな。

    これが、日本の組織社会。
    その組織で権力をもっている人に、阿る、迎合する、忖度する。
    自分はそうは思わないことも、
    それはやってはいけないと思っていることも、
    そう気付きながら、目をつぶる。
    見て見ないふりをする。
    どんなに悪いことでも、法を犯していることでも、
    自分がかかわっている間は、知らぬことにする。

    その内、その巨悪が露見する。
    とうの昔にその職を多額の退職金を得て辞した人たちはほっとする。
    まさにロシアンルーレットだった。
    たまたまその人が手を染めている時に、その罪は発覚した。
    その責を問われるのは、たまたまその仕事に携わっていた課長・係長。
    「えっ、なんで、私が」
    「これって、この組織がずっとやって来て、隠ぺいして来たことですよ」
    でも、懲戒となり、職を追われ、退職金もはく奪される。

    結局、秘書が勝手にやったことだ。
    私は、全くこの話に感知していない。寝耳に水で、驚いている。
    との談話が伝わる。
    そんなはずはないことは、世間はちゃんと知っているが、
    大物はしらを切って、知らぬ、存ぜぬで、幕が落ちる。
    これがゴーンを始め、日本の組織社会で行われている実態だ。

    でも、想う。
    一つ目の500匹の猿の仲間に自らなろうとして、
    せっかく見えていた片目を潰したその猿にも、
    やっぱり問われる責任はあるということを。

    「何で、私が・・・あいつも・・・」ではなく、
    そんな腐った組織や権力者を見抜けず、
    その仲間に加わって共に美味しい餌を食べたのだから、
    やっぱり、仕方ないと、諦めるしかないなぁ。

    だから、見える目を、自ら潰してはいけない。
    だから、たとえ500匹居ようとも、我関せず、
    自らの信ずる道を独りでとほとぼと歩けばいい。
    「犀の角のように行け」だな。
    「天上天下唯我独尊」だな。

    本当に「輝く」尊い自分を、失わないこと。
    そして、人生とは、その本当の自分となるための修業であることに気付くこと。
    片目は、絶対に潰さないこと。
    そして、腐った組織と権力者とその取り巻きの仲間にならないこと。入らないこと。

    今、罪に問われている哀れな秘書は、
    この大雪をどんな気持ちで見ているだろうか。
    「善因善果」「悪因悪果」
    それは、冬に当然雪が降るように、ごくごく自然な成り行きなんだな。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月25日 05時59分25秒

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    美味しいものの力とは

    寝坊の朝だ。
    まだまだ頭がぼーっとしている。
    夜の「畑の会議」だった。
    それから、映画「ワンスアポンアメリカ」だった。
    そして、チャンネルを変えたら「アジアカップ前半」だった。

    そんなことをしていたら、
    あっという間の、11時だった。
    私は、翌日のことを考えると、
    何よりも就寝時刻を大事にしている。
    10時を過ぎたら寝る時刻なんだ。
    それが、とうとうこの時刻になった。

    そして、翌日は、この有様だ。
    なかなか思うようには行かぬのが人生だな。
    それなのに、夜中の2時には眼が覚める。
    そして、次は、3時過ぎ。
    まだまだ大丈夫と再び眠ると、西郷さんの夢だった。
    そして、はっと気付くと4時20分。
    それから、むくっと起きて、腹這いになり澤木さんの説法を読んだ。

    流されて、その場その場で生きていると、
    こんなことにいつもなる。

    「擾擾忽忽水裏月」と生きたいものだ。

    「なほゆかし声もなく行く時鳥」だそうである。

    とにかく、随所に主となる。自分で在りきる。それだけのこと。
    こうして、日々の生活でふらふらとしていては、
    なかなかそんなどっしりとした落ち着きは、ままならないものだ。

    夜の会議のためと、腹ごしらえをすることにした。
    太威に行ったら、残念、6時からの開店だった。
    あの担々麺を、味わいたかったな・・・と涙だった。

    すると、拉麺がどうしても食べたくなってしまった。
    これは、身体からの欲求。衝動であった。
    居てもたってもいられなくなり、
    ぐるぐると近くの美味い拉麺店を思案した。
    「なるへぞ」とばかりに、久しぶりの「三宝亭」に行った。

    5時過ぎたばかりなので、客はカウンターの叔父さんと私だけ。
    さっそく「ネギ辛味噌拉麺」と餃子を頼んだ。
    コップの水には酢を注ぎ、それを飲む、飲む。
    これは、Jさんが教えてくれた究極の栄養ドリンクだ。

    さてさて、熱々ほくほくの拉麺だ。
    ここに辛子味噌をたっぷりなじませ、
    そこにラー油を垂らし、胡椒を振りかける。
    それをゆっくりと和えながら、スープの味を深くする。
    だんだんと辛味と深味が増してくる。
    そのスープをいただく身体の喜びようと言ったら・・・。

    その時、はっと気付いた。
    この私をこのカウンターに連れて来たのはいったい誰なのかと。
    つまり、美味いと感ずるのはどうしてなんだと。
    ただ拉麺を食しているだけのことなのに、
    何でこんなに深く感動しているのだと。
    美味いとは、どういうことなんだと。

    確かに一口一口、味わうと、身体が喜んでいることを感じた。
    そこには、ある意味「幸福感」が存在していた。
    この喜びは、あき乃の蕎麦を食べる時にも感ずる。
    あき乃の天ぷらを食べる時もそうだった。
    雲海の温かな蕎麦湯割りの焼酎もそうだった。

    何だろう。
    この美味いものを食べる時の感動とは・・・。
    そんなことを考えていたら、またまた腹が減って来た。

    身体は、本当に美味いものを味わう時、深く深く感動する。
    だから、ふと想い、美味いものに出会いに出かける。
    日常の中に置ける、ささやかな奇跡でもある。

    それでは、この魂が、深く深く感動するものとは何だろう。
    そう考えてみたら、やっぱり、私にとっては、澤木さんだったな。
    だから、寝坊しても、読書する。
    そして、そこで美味いと出会った言葉が、
    その日の、今、ここの魂を活かす力となっている。

    拉麺も蕎麦も、生きる力。
    深い言葉も、生きる力。

    人はパンのみに生きるにあらず。だな。

    魂のお世話。
    魂の感動。
    それも忘れずに今日一日だけでも生きたいものだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月24日 05時31分20秒

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    聖徳太子の教え

    戦をしないために。

    越後・東北での戊辰戦争を調べている。
    そこには、多くの悲しい物語だ。
    戦をするということは、人が多く殺されると言うこと。
    勝手に死ぬのではない。
    みな、殺されたのだ。
    人殺しが、戦なんだと、その最中の人たちには分からなくなる。

    大義名分は、双方にある。
    正義が、戦を創り出す。
    実は、俺が正しいという正しさほど、怖いものは無い。
    何故なら、その正しさには、反省はなく、悔い改めもない。
    徹底的に敵と称する人間を殺す、殺す。

    大砲を打ち込み。
    鉄砲を容赦なく打ちまくる。
    村を焼き、町を焼き、必要な食糧や金は強奪して行く。
    その軍隊が通った所は、焼け野原で、
    敵と言われた人たちの死体の山だ。

    実は、戊辰戦争の実態とは、これなんだ。
    何だか、みんなその戦の真実を忘れている。
    まるでテロリストのようにして、他国を蹂躙する軍隊が居た。
    その軍隊が突然、国境を超えて来る。
    有無を言わせない。
    「恭順か、死か」
    「恭順なら、身ぐるみ全部置いていけ」だな。
    これが、人間のすることか。
    同じ日本人がすることか。

    実に情けない。
    鬼だ。修羅だ。まさに地獄を自らの手で造っている。
    一方的に戦を仕掛けて攻め上る。
    その戦の理由は、いくらでも捏造する。
    暴徒を送り込んでそれを斬らせる。
    そこから、大義名分が生まれる。
    味方を斬ったお前たちは、逆賊だ。

    こんな惨いことが、今から150年前のこの日本で行われた。
    そのことを、そうした歴史の事実を知っている人は、どれだけいるか。
    「逆賊の冤を雪ぐ」と、今でも越後・東北の人たちの中で想う人もいる。

    あの戊辰戦争は、本当に新しい国を創るための正義の戦だったのか。
    今こそ、真の平和な国家を目指すために、
    歴史家によって、戊辰戦争を問い直す必要があると思っている。

    戦をしない。戦で紛争を解決しない。
    それは、「大和」である日本人の本心ではないだろうか。
    聖徳太子の教えは、正に、この戦をせずに、平和な国を理想としていた。

    一条「和をもって尊としてなす」

    和が先なんだ。我が先では絶対にない。

    三条「怒りを絶ち、瞋りを棄て、人の違えるを怒らざれ。
       人皆心有り、心各々執るところあり、
       彼是なる時は則ち我非なり、我是なる時は則彼非なり。
       我必ずしも聖に非ず、我必ずしも愚に非ず、
       共に是れ凡夫なるのみ」

    十五条「私に背きて公に向かうは、是臣の道なり。
        凡そ人私有れば必ず恨みあり、恨みあれば必ず同じからず、
        同じからざれば則ち私を以て公わ防ぐ」

    十七条「事は独り断ずべからず、必ず衆と宜しく論ずべき」

    二条「篤く三宝を敬え」

    聖徳太子の教えを、深く深く味わわねばならない。
    戦は絶対にしない。
    大和を理想とする。

    そうした視点から、この越後・東北戊辰戦争を見直したい。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月23日 05時28分18秒

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    願に生きる

    生きる為ために、食べるのか。
    食べるために、生きるのか。

    この違いは大きいと思う。

    願をもって生きているのか。
    その願を成就させようと生きているのか。
    そのことを、日々の生きるによって学ばせられる、教えられる。

    やっぱり、この深く深くから、決してぶれない、不動なる願なんだな。
    これが、あると無いとでは大違いの人生だな。

    そして、その願とは、自分のことではない。
    きっとそれは、人のこと、人のため。
    その人が幸せになるための願なのではないだろうか。
    その願ならば、神様はその成就のために助けてくださる。
    きっとそうだ。
    その願が、まっすぐな願であれば、
    その願こそ、魂に宿っている私の使命なんだな。

    その声を聴く。
    本当に、その魂を通しての神様からの呼びかけだけに応える。
    神様のくびきを負う。
    そして、私ではなく、その意志に従う。
    煩悩具足には戻らない。
    人の言葉に右往左往して、自分の行く手を見失わない。

    善く生きる。
    善き魂とする。

    そのための人生。

    だから、深く深くで願を立てる。
    そして、真っ直ぐに、人のこと、世の中のことを眼中に入れず、
    そこへ向かって歩を進める。
    歩き続ける。

    これが本来の生き方。
    歓びをもって生きる。
    独りであっても決して独りではない生き方だ。
    そうやって余生を生きる。息を引き取るまで、そう生きる。
    その覚悟ができると、すっきりとする。
    人が勝手なことを言う。
    でも、気にしない、ぶれない、気を使わない。
    そんな暇も時間も私には残されていない。

    では、願とは、私が立てるものかと思うと、そうではない。
    昨年の1年間を考えても、
    どうも私は、私が知らぬうちに与えられた、
    その願によって生かされている気がする。

    「こうなりますか」という我が身に起こった数々の必然への驚きだ。
    その一つ一つが、この道に繋がる。
    いや、この道をとぼとぼと歩いていたればこそのこの出会い、この必然。

    現場に戻る気の全く無かった私が、
    こうして3月までこの仕事をする。
    それも、望んで、日々楽しみ、日々充実しての生活だ。
    この子供たちを成長させたいという願だな。
    そのおかげで、来年度も継続で来たらと願いを出した。

    西郷さんの物語もそうだ。
    昨年の今頃、私は、今のような視点を持たなかった。
    それが、一冊の本と出会い、東北を旅し、歴史家に出会った。
    今は、戊辰戦争がまったく違った戦いとしてとらえられるようになった。
    その想いを伝えることが、私の願になった。

    きっと人は、誰でも、その願は与えられているのだと思う。
    ただし、自分のことを優先にしたり、世間体を気にしたり、
    あれもこれもと欲しがっている内は、
    その願はその人自身にも気付かれず、沈黙のままだ。

    生きるために、食べるのか。
    食べるために、生きるのか。

    その問いがその人の人生に目覚めた時、
    やっとその願が、魂の声てして、微かに囁き始めるようだ。

    願を持って生きよ。

    「人間は何度も何度もこの世に生まれて来ることはできない。
     人間がこの世の中に生まれてくるのはただ一度です。
     たまたま人間として生まれてきた、この大切な一生を、
     何の願を立てずに空しく過ごしてしまうということは、
     まことに勿体ないことである。
     高い願を立て、その願を成就しようと努力してゆく、
     そこに、この世を生きて行くはげみがあるのです。
     また、その人の願の高い低いによって、
     その人の値打ちも自然と決まるわけであります。」

    「願に生きる」

    今朝の澤木さんの教えです。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月22日 05時30分46秒

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    本家郷に還る

    本家郷に還る。

    天地同根万物一体。

    そんな言葉と、朝、出会う。
    沢木興道さんだ。
    面白い生き方を貫いた人。
    何もこだわらずに一生禅坊主を通した人。
    だから、その人の話は、気持ちいい。

    気持ちいい人の話は、分かりやすい。
    面白い。
    ああ、そうだ。そうだったと、納得する。
    興道さんは、自由闊達に語る。語る。
    その言葉が、在り難くこうして記録されている。

    ある意味旅から旅の乞食坊主。
    会ったことも無く、写真でお姿すら見たこともない。
    しかし、この人は、私の中でずんと生きている。
    いや、この人の生き様と言葉とで、
    どれだけ励まされ、気付かせられ、目を覚まさせられたか分からない。

    では、会ったことも無い、その姿も知らない人に、
    どうしてこんなに深く深く感じ、共感し、心酔し、まいったと思うのか。

    それは、興道さんが私で、私が興道さんで、
    何だか境目がなくぶっ続きのような感じだからだ。
    「同じだなぁ」だった。
    それは、傲岸不遜にこんなちっぽけな私を、
    偉大なる禅師である興道さんと同じだとしたら、
    確かに罰が当たるだろう。

    同じとは、そういう意味ではない。
    でも、やっぱり、きっと、同じなんだなぁと思う。
    その同じだ。
    だから、興道さんの語りは面白い。
    「そうだなぁ。やっぱりその通りだなぁ」と、合点する。腑に落ちる。

    そこなのではないかと言うことだ。
    語られた言葉を合点する。腑に落ちる。納得する。あっそうかと気付く。
    それは、どうしてなのか・・・・。

    簡単な話だ。
    その語られた話を、私が既に知って、信心しているからだ。
    私は、この煩悩具足の我でもある。
    そのために、随分随分迷いと妄想のまま、あっちこっち旅させられた。
    それが、私だ。
    しかし、その旅には、旅をさせられているご本人が知らぬとも、
    一つの目的地が与えられている。
    しかし、その地図は、魂にだけ描かれたもので、
    この意識には上っては来ないものだ。

    ところが、旅の途中に困難な試練と出会う。
    まぁ、生きるとは、苦であるから、それは当たり前のことだ。
    その時、俺が、俺がと自慢していた我が、
    ほとほとたいしたものでもなかったことを、まざまざと知る。
    そのたいしたことなかったが、大事、大事だ。

    その瞬間、言葉が聴こえる。
    それを魂の声と言う。
    その時、初めて、自分が人生の旅の途中であること。
    そして、今、ここに、迷い、苦しんでいること。
    これからどう生きたらよいのか、途方に暮れていることを悟る。
    本当は、それが人としてこの世に生かされている事実なんだが、
    何だか人の言うことや、世の中の言うことに、騙されて生きていただけなんだな。

    その声が、本来の自分自身だ。
    もう世の中や人には騙されず、その声だけを頼りにして生きる。
    その生きるを決意して、再び立ち上がり、旅に出た時から、
    御同行だ。

    その道ずれは、神様であり、仏様。
    そして、一緒にこの苦難の道をおもしろおかしく旅をするのが、
    キリストであり、ブッタであり、道元であり、良寛であり、沢木さんだ。
    本来の自分に還る。
    これが、「本家郷に還る」だ。

    そして、キリストも、仏陀も、道元も、良寛も、沢木さんも、
    みんな同じ声を聴いた。
    それは、宇宙であり、天地の声だ。
    実は、みんな同じ声を聴き、その声に導かれて生きて来た。
    その旅の途中で、実感として覚った言葉を、語り、記録した。

    「天地同根万物一体」
    つまり、別々なものは何も、一つも存在していない。
    みんな同じ、一続きだな。
    そこに生きると、これが分かる。実感として、腑に落ちる。

    そういう意味で、私が沢木さんだし、沢木さんが私だった。
    でもでも、まだまだ私は、その旅が始まったばかりの人だ。
    だから、謙虚に、その言葉を聴く。
    そして、祈る。
    そして、願う。
    そして、喜ぶ。
    そして、感謝する。

    本来とは、実にシンプルな生き方なんだな。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月21日 05時40分30秒

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    見えないものは、あるんだな

    昨日の、不思議の実感だった。

    教会で司会をした。
    聖書の言葉を原稿に書いた。
    それは、教会の兄弟姉妹たちに、伝えたい御言葉だった。
    下川先生が、その御言葉を教えてくれた。
    私は、その原稿を、ただ読んで祈ればいいと思っていた。

    ところが、その御言葉を読み始めたら、
    込み上げて来るものを押さえられず、涙だった。
    涙の私が、その涙を堪えて祈りを続けた。
    私は、涙を流し深く哀しみ、泣いているのは誰なのかと感じた。
    泣こうとはしていない。
    壇上で司会をしながら、泣くつもりがあるわけはない。
    なのに、どうしても、涙がとめどない。

    御言葉は、聖霊だ。
    私は、壇上で涙しながら、声を詰まらせながら、
    私を見ていた。
    ああ、泣いているのは、魂なんだなと。
    涙の私。
    魂の私。

    不思議なのだが、そのことを、私の涙で実感できた。
    顔を上げて、みんなを見た。
    すると、教会の中の空気感が一変していた。
    何かすっきりと、浄化されたものを感じた。
    「私が、私が」という、強い我が、すーっと消えた。

    礼拝の後、長机を動かして、食事の会場づくりを私は自主的に行う。
    男性が少ない時は、ひと苦労な仕事だった。
    黙々と独りでやっていることもある。
    ところが、昨日は、日ごろはお手伝いしない姉妹たちが、手伝ってくれた。
    奉仕を当たり前のようにしていた。
    彼女たちの魂にもきっと御言葉と涙を通して、何かが届いたようだった。

    不思議だなぁと、そんな姿を見ながら、魂の働きを実感した。

    午後は、松浜のこらぼやで、「賢治の会」だった。
    昨日は久しぶりの参加だった。
    11名の60代から70代の人たちが卓を囲んだ。
    卓の上には、ミカンと大福がのっていた。

    「さいかち淵」が、本日のテーマだった。
    みんなでこの物語を輪読する。
    初めて出会う物語に、私はいつも賢治さんはどこに居るのかと考える。
    実は、表だった物語の陰に、裏に、見えないところに、
    賢治さんの姿は見え隠れしている。
    その面白さが、賢治さんの童話の面白さだ。

    もう一つは、寓話になっていることだ。
    それは、物語を通して、伝えたいメッセージがいつも隠されているということ。
    それも、法華経を基本とした、仏の道であり、死生観でもあった。
    見える世界は、現実であり、我執であり、欲望であり、殺生与奪であったりする。
    しかし、その哀れな人間としての姿を、
    賢治さんは、どこかで、聖霊のようにして俯瞰して、見ている。
    まさにそれは、この娑婆を見守る、仏様の視点でもある。
    その視点で、この物語は描かれる。

    みんなは、読んだ資料や評論家の話で、この物語を読み解こうとする。
    それは、理屈だ。それは、人が頭で勝手に考えたことだ。
    そして、議論したり、言い合ったりする。
    私の言ったことが正しいに決まっている。
    でも、そうした言葉のやりとりを、賢治さんはにこにこと見ている。
    ここにも、いつも賢治さんは、いてくんなさる。

    私は、そんなああだこうだとは関係なく、
    この8月13日のお盆の日に、さいかち淵で行われる殺生を追う。
    子供たちは石を淵に投げて魚を捕ろうとしている。
    大人たちは発破をかけて魚を捕ろうとしている。
    翌日は、子供たちが毒もみをもって来て、魚を捕ろうとしている。
    そんな中に、「ぼく」は居た。

    あれっと、感じた。
    ぼくには、名前が無く、どうも実体もないようだと。
    ぼくは、きっと聖霊ではないかと感じたら、
    この物語に見え隠れした賢治さんが仕掛けた一切の謎がこの時、解けた。
    ああ、ぼくは、子供たちの中で遊び、子供たちを遠くから見ているぼくだと。
    木の上から、子供たちの鬼ごっこを眺め、
    「魚を捕ることは、悪いことだよ」と、独りの男の子に呼びかけるぼく。

    でも、理屈の中で、現実的に、評論家の本を読み、
    知識が在り、この本の由来を知っている思っている人たちには、
    このぼくに対する実感が伴わない。
    見える物が、物語だからだ。

    私は、こうしてぼくとなって物語の中で生きている賢治さんが、
    何だかおかしく感じた。
    いつもいつもいたずら小僧のように物語の中で生きている。
    物語の中に賢治さんは生きている。
    それを感じられるかは、きっとその人の生き方次第だ。

    これが、昨日の二つの不思議だなぁの実感だ。
    不思議だなぁに、充ちている。
    不思議だなぁしか、本当は存在しない。
    そのことを感じて日々是好日と生きられること。
    今日を、今を、ここを生きるの幸せなんだと、感じた。

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  • from: クマドンさん

    2019年01月20日 21時52分34秒

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    濱田道子さんの場合

    そのものとなると、そのものが語り出す。
    だから、作り物ではなく、そのものとならねばならない。
    濱田道子さんの、そのピアノには、
    そのものが次々と湧き上がり、あふれ出す。
    そんなそのものの力が強く強く感じられる。

    音とは、誰かが創りだすものでもあるが、
    本当は、そこに生まれたいと願っているものではないだろうか。
    その音を感じ、その音を音として表現する。
    ある意味では、自動演奏家だな。
    音に委ねる。
    音が生まれ出るその瞬間、瞬間を喜びとして感じ、
    音に励まされ、音に後押しをされ、音に追われるようにして、
    無心に音を紡ぎ出す。

    指が・・・追いつかないほど、音が溢れる。
    こんなに長いフレーズをどうやって語り続けられるのか、
    それは、太古の巫女たちの歌のように、
    エンドレスで在り、迸るものであり、流れ出る音でもあった。
    どこまで行くのか。
    そのお互いのあうんの呼吸の中で、
    リスペクトされ、感化され合い、どこまでも行く、行く。

    その行先は、音に聴いてくれ。
    これでもか、これでもかと、音は連なり、繋がり、発展し、成長する。
    音は、音の魂となり、あるがままに迸る。
    こうなってしまうと、音を紡いでいる彼女も無だ。
    音だけが、音として、立ち上がる。
    音は、まるで生き物のようにして奔放に駆け回る。

    それが、快感なんだな。
    この人は、ただ者ではない。
    ある意味、天才なんだと、私は、思う。

    初めての感じ、初めての音、初めての繋がり。
    それを、この今、ここ、目の前で演じ、表現しきる凄さだな。
    確かに、その先の音は、無い。
    生まれた瞬間に、その音が、こうなていくんだと、意志を持つ。
    演奏している彼女は、自らが創作しているのか、
    音によって操られているのかも分からないのではないだろうか。
    それを瞬時にする。間髪をいれずにする。皮膜の中に在り。

    生まれたい。この世に顕れたい。
    それは、本物の音の想い。
    それを感じて、顕し切れる人は、ごくごく少ないのだと私は感ずる。
    音の巫女となる。
    音に、委ねる。

    何だか、その瞬間、瞬間が実にスリリングで、快感なんだな。

    演奏が終わってから、お話しできた。
    そしたら、山の下市場の人であることが分かった。
    何とまぁ、私のリスペクトするジャズピアニストは、
    山の下のレジェンドだった。
    そんな出会いが、もっともっと不思議だなぁだった。

    大西順子さんという、ビックなジャズピアニストが居る。
    私は、彼女の演奏に、現実をすっ飛んで、あっちの世界だった。
    「これは・・・なんだ」という、未知なる衝撃だった。
    その時と、同じ衝撃を濱田道子さんのピアノに感ずる。
    「これは・・・なんだ。いったい、なんなんだ」だな。

    まだ未経験で、感じたことのない音、音、音。
    その音に晒されていることが、
    酔っぱらいの私にとっては何よりもの快感だった。

    これからも、追っかけるぜ。
    濱田道子さん。

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