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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2019年05月31日 05時34分33秒

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    老いの幸福感とは何か

    叔母ちゃんと会ってから、想うことがある。
    それは、人は、長く生きることは、幸せなのかということだ。

    身体の衰えのために、歩くこともままならず。
    94歳で独り暮らしをしていたAさん。
    何を想い、何を考えて、日々を生きていたことだろう。
    買い物もままならず、自分の身の回りの世話も面倒でできない。
    訪ねてくれる人は、ヘルパーさんだけ。
    時々、外に出るが、後は、ずっと引きこもり。

    何をしたいということもなく。
    どこへ行きたいということもなく。
    食べることと、休むことと、眠ることの繰り返し。
    自分自身でもその身体の変化・衰えに驚いている。
    膝がこわばって立って歩けないこともある。
    それでも、食べて行かねばならないで、
    膝をついて、四つん這いにって台所へ行く。

    彼女は、実にしっかりと実直に頑固に生きた人だった。
    人の世話にはならない。
    人から世話になることを、とても申し訳なく想っている。
    だから、ヘルパーさんが来る日には、彼女は掃除をして、片づけて置く。
    反対なんだ。
    その仕事を手伝うために、ヘルパーさんは来ると言うのに・・・。

    そんな気丈な彼女も、倒れてしまった。
    真冬の台所で、ストーブもついていない極寒の中、
    意識もうろうとして、彼女はいったい何を想っただろうか。
    ケアマネさんのおかげで、九死に一生をみた。
    確かに、幸運にも彼女は、発見され、生かされた。
    もし、その訪問が無かったら、
    きっと彼女は、その場で死を迎えていたと想う。

    ところがだ。
    こうして来週の月曜日に退院となっても、
    彼女の心は、重く、暗く、生きる気力も既に失われるところだった。
    「もう生きたくないて・・・」
    「死にたいて・・・」
    そう言われて、私には、返してやる言葉も無かった。
    彼女は、退院しても我が家には帰れない。
    その家は、息子たちによっていずれ更地にされて売りに出されることだろう。

    老健という施設に入所が決まった。
    それは、彼女にとっては救いのはずだった。
    特老は満員で、待機している人もたくさん居るとのこと。
    彼女の順番が回って来るためには、
    今、そこに入所している人たちの死が必要だ。
    誰かの死を待っての入所の現実。
    しかし、その待っている間に、自らの死が訪れるかもしれない。

    彼女は、本当に頭はしっかりとしている。
    だから、不自由な身体になっても、
    やっと先日、要支援2から、要介護1に認定された。
    介護認定は、認知症の進み具合で、違って来る。
    しっかりと生きている彼女には、介護保険で賄える範囲は少ない。

    何だか、しっかりと、長生きしている彼女のような人には、
    もっともっと大事な何かを掴んで、信じて、生きて欲しいと、
    訳も分からず、私は、祈っている。願っている。
    ここまで来ると、どんな施設に入るかではなく、
    真に心と魂とのケアではないかという、「問い」だった。

    いずれ、私も、そうなるはずだ。
    その時だな。
    その死と向き合わねばならない絶対の孤独の中で、
    どうすれば、「幸福感」を感じて日々を生きることができるか、
    そのことだと、今は、想う。

    彼女は、その幸福感を感じているだろうか。

    人は、みな最期を迎える。死を迎える。
    しかし、その瞬間まで、幸福感をもって生きたいものだ。
    では、どうやったら、そうなれるのか。
    この「問い」も、深い。深い。

    今、ここに、幸福感を感ずる。

    その修業を怠ってはならないと、自らを戒めている。

    追伸
    今夜、シンさんのお店でコンサートだ。
    あの夢にまで見たも「濱田道子」さんの故郷凱旋コンサートである。
    共演は、まさに妖艶なる篠笛奏者「田村優子」さんだ。
    とてもとても楽しみだ。幸福感の中に在る。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月30日 05時29分22秒

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    叔母さんたちからの「問い」だ

    94歳の叔母さんのAさんのお見舞いだった。
    小針の医療センターの個室で3カ月間の入院だった。

    突然、倒れた。
    それも、あの寒さの2月の台所だった。
    ストーブもつけられず、凍えたままで土日を過ごした。
    本当に助かったことは、奇跡だった。

    偶然、その家の前をケアマネが車で通りかかった。
    ちょっと顔を見て行こうと、玄関に立ったら、鍵が開いていた。
    声をかけても返事が無かったので、心配で家の中に入って見たら、
    Aさんは、意識無く、台所の冷たい床に倒れたままだった。
    直ぐに救急車を呼び、この病院への緊急搬送だった。

    全ての臓器の機能不全だった。
    よく今、息をしていると、医師は驚いたそうだ。
    それでも、Aさんの生命力の強さだった。
    臨終も有りうる状態の中から、
    その生命力によって、日に日に回復の道を辿った。
    この世に、かっての私のように生還を果たした。

    その回復力は、驚異だった。
    来週の月曜日に退院となる。
    寝たきり。ただ、ベットに横になり、天井を見上げて暮らす日々。
    個室だから、話し相手もここには居ない。
    退院したら、老健に入る。
    特養は満員で、順番待ちだそうだ。

    「死にたいて・・・」
    「生きていても・・・」
    二人の息子は、埼玉と静岡だ。
    帰って来る気は全く無かった。
    Aさんが50年も住んでいた家は、
    今、すっかり整理され、Aさんのものは捨てられ、ゴミとなり、
    いつでも壊して、更地にすることができる状況になっている。
    つまり、Aさんは、帰る家も無くなってしまうのだ。

    亡くなっても、帰る家も無い。
    その魂は、一体どこに還ると言うのだろうか・・・。
    これが、老いて行く。身体が不自由になる。そのことの現実だった。

    甥の私には、何としてやることのできないこの状況だ。
    「やるせないな・・・」
    老健に入ったら、何かあった場合の緊急連絡先は、
    新潟に暮らす私だった。
    一番最初に、駆けつける人となる。
    息子二人は、他県だった。

    帰りに、90歳の叔母さん、Sさんの施設に行った。
    夕食の時刻だった。
    Sさんは、黙ったまま、俯いて動かなかった。
    私が車椅子の彼女の隣に座って声をかけた。
    しかし、薄っすらと目を開けて私を見たが、何も反応せず、
    また、黙って俯いた。
    認知症がまた進んだようだ。

    スプーンで、ご飯・煮魚・豆・マカロニサラダを食べさせた。
    本当に一口一口、ゆっくりゆっくり咀嚼して、時間がかかる。
    15分かけても、減り目が見えない。
    男性の職員が隣に座った。
    食事のテーブルが変わったのは、自力で食事ができなくなったからだった。
    「介助が必要になりました・・・。」
    そうか、そうだったのか・・・。

    「また、来るよ」と、声をかけて、Sさんと別れた。

    人は、老いる。人は、衰える。そして、人は、孤独だ。
    あの施設に居る全ての老人は、いつか来る死を待つ人たちだ。
    私のことすら分からないまま、自分自身のことすらままならないまま、
    生きるの意味を問うことも無く、
    何だか、霞がたなびき、消え去るように、そっといつの間にか居なくなる。

    さて、人生とは何だろう。
    さて、生きるとは何だろう。
    さて、生きるの幸せとは何だろう。

    いつも高齢の叔母たちに会うと、その「問い」を預けられる。
    これは、とても重く、深い、「問い」だった。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月29日 05時27分33秒

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    魂は、不滅だ

    魂は、死なない。
    魂は、きっと永遠に生き続ける。
    いや、その永遠を生きていた魂のほんの僅かな顕れが私。
    私は、きっと何かを託されて、この世に生を受けた。

    ここに生きるとは、この身体で生きること。
    この身体がある限り、
    きっと私は、クマさんとしての私の人生を生きる。
    いや、きっと生かされるための働きに内から促されているのかも・・・だ。

    一度死にかけた私。
    きっと、無意識の中で、三途の川を渡りかけていたのかも知れない。
    ただ、帰された。
    「まだまだ、ここでやることがあるだろう」との仰せだったろうか。
    突然、目覚めた。
    人工呼吸器をの太い管を加えて、薄暗いICUのベッドの上だった。
    あの瞬間を、まざまざと覚えている。

    私の魂は、それまで、いったい、どこを彷徨っていたのだろうか。
    ある時間の記憶が、私には全く無かった。
    眠っていたというのでも無い気がする。
    異界に居た。
    ただ、この現世に再び顕れるためには、
    忘却の河を渡らねばならない。

    異界での魂のままであるのに、
    私は、そのあるがままの魂であることを忘れる。
    しかし、その深く深くの魂からの「問い」は止まない。
    「いかに生きるか」の「問い」は、続く。果てしなく。いつまでも、いつもいつも。

    その「問い」が、魂の糧ではないかと、ふと気付いた。
    あの百日紅の樹木にいつの間にか、小さな葉が茂っている。
    本当に、いつの間にだった。
    それは、目には見えない、変化・成長が、絶えず休まず行われているからだ。
    あの渓流の轟音は今も、止まずに轟いている。
    その音は、かっても、これからも、
    この山がある限り止むことはない。

    全てのものは、変化し、成長し、連続して、不断であり、止むことは無い。
    それは、自然としての私も同じ働きの中で生かされたいるということだ。

    私は、老いるのではなく、ただ自然のままに変化し、成長し、不断である。
    それは、この身体のことではない。
    この魂。精神としての私のことだ。
    身体は、その魂・精神が宿るための器である。
    大事な大事な器である。
    もし、その器が割れて砕けてしまったら、
    この魂・精神は、どこへ行くというのだろうか。

    身体は、粉々に砕ける時が来る。骨だけになる時が来る。
    しかし、その時、この魂や精神は、消えて無くなってしまうのだろうか・・・。
    そうは、考えられない。
    そんな気がする。
    いや、そのことを信じたいと願っている。

    魂と精神とは、不滅である。
    いや、不滅であるから、今、ここに、私として存在している。
    生きることの意味とは、そのことに気付くことではないだろうか。
    魂は、死なない。
    精神は、不滅だ。

    そしたら、人殺しや、自殺は、絶対にしてはいけないことなんだ。
    何故なら、人は、死で終わらないからだ。
    その瞬間から、魂としての、精神としての、「生」が始まるからだ。
    この「生」は、「死」では絶対に終わらない、永遠なる「生」である。

    人を殺した彼は、今、きっと、そこに立っている。
    その犯した非道な罪は、消えない。
    「ああ、」と気付いても、再び、その罪を犯す前には戻れない。
    非情であっても、全く人生とは不可逆的な一遍のものなんだ。
    人を殺してはいけない。

    魂は、二度と死ねない。
    このことを、もっと分かってもらいたい。
    そのことが、とてもとても心に重くのしかかる。

    亡くなったお二人のご冥福をただ祈るだけだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月28日 05時20分43秒

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    余計なことは考えない

    余計なことを考えない。
    さっさとやる。
    身体を動かす。働かす。
    その方が楽だなぁと、感ずる。

    朝は、どんなに眠くとも、3時50分に起床する。
    それから、白湯を飲む。
    腹ばいで本を読む。
    途中、うとうととして、何を読んでいるか分からなくなる。
    それでも、活字を追う。
    少し立ち止まって考える。
    「絶対的自己同一性」について、想う。

    涼しい朝だ。
    瓦にはぽつぽつと雨の跡。
    昨日の暑さには疲弊した。
    歳をとると気温の変化には身体が対応できなくなるらしい。
    異常に疲れる。倒れるほどだ。
    それでも、終わったら、ヨガに行った。

    きしきしと身体に負荷をかける。
    その負荷によって、腿や膝や股関節が悲鳴をあげる。
    それでも、きつい体制をじっと維持する。
    その内に、無心となる。
    何も余計なことは考えていない状況となる。

    空っぽになることで、楽になる。
    ああでもない。こうでもないとは、思わない。悩まない。
    今、目の前のことを、一つ一つ処理をする。
    ああしよう。こうすれば。とも、考えない。
    それは、その時に、考えればいいことだ。
    時々、ああ、どうしようと想うこともある。
    でも、悩んでも、心配しても何も変わらないことは、
    悩むことを止めにしている。

    「白い巨塔」の最終話を観た。
    膵臓がんステージ4。末期の願だった。
    一度開けたが、何も処置をせずに閉じなければならなかった。
    「執刀医に看てもらえるって、こんなに安心することなんですね」
    それは、その末期の余命僅かの患者になって分かることだ。
    私は、10時間の手術だった。
    死線をきっと彷徨っていたはずだ。
    全く身体が動かない。痛みに襲われ、それは、恐怖でもあった。
    その時だ。財前のように、医師や看護士の優しさを感じた。

    病んだ者しか、分からないことがある。
    母さんに電話して、話す財前。
    彼は、もうあの野望に燃えた財前では全く無かった。
    その時に、やっと彼は、本来の彼に還った。
    それは、死を前にしない限り、人には出来ないことなんだろうか。

    さてさて、時刻となった。
    また今朝も、ヨガをやる。
    丹念に時間をかけながら、身体と向き合い、自分自身と向き合っていく。
    ああ、無心だけなんだな。
    空っぽでいいんだな。
    何も考えてはいけないんだな。

    余生なんだな。
    それでは、一体何を働けばいいんだろうか。
    その応えは、きっといつか、私にも気付く時がやって来るはず。
    財前は、献体をした。
    私も、生きながらでいいから、献体をしよう。
    きっといつかその応えと出会うはずだ。
    その時は、潔く献体しよう。

    そのための私となるために、
    日々のルーテーンこそが、私の道場となる。

    余計なことは考えない。
    気持ちよく生きる。
    さっさとやる。
    独りでいい。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月27日 05時20分00秒

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    自然の中で「独り」とは

    土日に、妻と長男と、五頭山麓のキャンプ場でキャンプだった。
    子どもたちがまだ小学生の頃、使っていたテントが再び活躍だった。
    長男が、キャンプにはまり、道具をそろえている。
    焚火台を新調したので、それを使うためのキャンプでもあった。

    森の中、いつもいつも渓流の轟きが聴こえる。
    新緑がまぶしく輝く。
    鳥の声が森に来たことを感じさせる。
    自然のまっだだ中は、やっぱり落ち着く、ほっとする。
    それは、他人がいないから、仕事に行かなくてもいいから、のんびりできるからだ。

    そこでは、私は、独りで居られる。
    その独りの充実感を、キャンプでは深く深く味わえる。
    焚火をする。
    ちょろちょろと生まれた幼子を、少しずつ育てていく。
    薪の角度や重なり方を変え、風を吹き入れて、火を起こす。
    火は、まさに生き物だった。
    その火を司り、その火に命を与える。
    炎と向き合っていると、縄文の人たちの心が分かる気がした。

    私は、薪をせっせと造った。
    このキャンプ場のいいところは、伐採した枝から、薪を造るところだ。
    小枝を折り、太い枝はのこぎりで引く、長さを揃えて、それをバッグに入れる。
    汗をかきかき薪を造る。
    長男は、せっせと火を焚き、鍋をかけてビーフシチューを煮る。
    妻は、食材を切り、味付けをする。
    三人三様の分業だった。

    「自然の中では、協力しないと生きて行けないんだね」は、妻の名言だった。
    ご飯を食べる。たったこれだけでも、三人三様の労働だ。
    縄文にしろ、弥生にしろ、
    昔の人たちは、ご飯を食べるために、これだけの労働・働きだった。
    独りでは、全部はできない。
    食料を採って来る人。薪を割る人。火を焚く人。鍋の番をする人。
    「食べる」ということだけで、どれだけの人たちの労働があり、
    どれたけの人たちの力が必要であったことか。

    本当に、人は、自然の中では「協力」しないと生きて行けない存在なんだ。
    樹木は自立し、鳥たちは枝から枝へと飛び移り、猿も猪もこの森で生きている。
    しかし、私たちは、多くの道具を持ち込み、その道具で加工し、その道具を使って、
    「夕食」を造る。
    自然の中で、最もか弱く、道具が無ければ何もできないたないのが、私たち人間だ。
    だから、生きるためには、「平和」が必要なんだ。
    自然の中での生活は、私たちにその原点を思い出させる。

    ソロのキャンパーが多いことも、時代を感じさせられた。
    その自然の中で、ぽつんと独りで暮らす。
    それほど人は、人の中で疲れている。
    私もそうだ。
    だから、「我がままに」「独り」を貫く。

    人には合わせない。人の言うことを気にしない。どう想われようともどうでもいい。
    人は本当に人のことをほっておかない。
    人のことをとやかく言う。批判する。差別する。
    それなのに、自分のことは言わない。見ない。反省しない。
    そうした人の中で生きることに疲れ。嫌になった。どうでもよくなった。

    早朝、5時から渓流を前にして、1時間のヨガをした。
    自然の中でのヨガがふさわしく感じた。納得だった。そのままだった。
    一つ一つの動きと呼吸とは、樹木そのもの。鳥そのもの。渓流の音そのもの。
    そのものとの同化だった。

    ここで、ヨガをすることで、みんなが同じものから生まれていること。
    姿形は違っていても、みんな「一つ」の「顕れ」なんだと実感すること。
    そんな不思議だなぁが、ここでは当たり前にあること。
    自然の中では、たった独りなのに、独りであることを感じられない。
    みんなの中で生かされている実感だった。

    道元さんが、永平寺を建立した。
    絶対の修業のための道場だった。
    人を離れ、権力者から遠ざかった。
    森閑とした森の中、山の中。

    さてさて、本日も始まった。
    またまた、人の中で生きねばならない。
    その時も、そんな時も、「独り」で在り続ける生き方を貫こう。
    そんな自覚を、このキャンプで一層深めることができたようだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月25日 07時54分45秒

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    独りは、いい。

    どこでも独りで居る。
    独りでいられる。
    それって、とても楽で、自由な生き方だ。

    他人に気を使わない。
    他人からどう想われようとも、気にしない。
    だからと言って無茶をするわけでない。
    理性的に、常識的な範疇で生きる。
    それも、目立たなく、俺がと言わず、
    居ても居なくてもいい人として、そこに居る。
    これって、とてもとても楽なんだな。

    昨日、帰って来てから、バスで万代シティーに向かった。
    「クラフトビール」の大会だった。
    道路の片側に、ビールと食べ物とのブースが並ぶ。
    反対側にテーブルと椅子だ。
    私は、さーっと観てから、ライデーンのIPAを頼んだ。
    本日は、IPAの飲み比べと決めた。

    椅子に座って、天を仰いだ。
    ビルとビルの合間に、初夏の夕方の青空だった。
    風は爽やかで実に気分爽快だ。
    ライデーンを味わう。
    それは、飲むと言うよりは、食するするビールだ。
    独特のほろ苦さが身体に沁みる。
    小さなブラカップのビールだった。
    それを、じっくりと時間をかけて飲む。味わう。

    ビアカーデンでは、その量を競う。
    しかし、一杯500円のSサイズのこのビールは、
    そういう飲み方にはふさわしくはない。
    太威の担々麺を食べる時の、敬意だった。
    造り手の魂と技が、この味を醸し出している。
    それをいただくのに、ビビッと一飲みでは申し訳ない。
    身体でいただく。身体に沁みる。身体が喜ぶ。
    そうした丹念で一口一口を一期一会とする味わい方だ。

    だから、Sサイズは、少量とは感じない。
    このコクと深い深い味わいに、じわりじわりと酔って行く。
    次に、所沢ビールの「ファラオ」という黒ビールを呑み、
    次に、鹿島から来たパラダイスビールのIPAを飲み。
    次に、妙高高原ビールのバイツェンを飲んだ。
    次に、栃木のIPAを飲んだ。
    これが、私的には最も気に入った味だった。

    その味は、大手のビール会社のビールには無い味わいだった。
    大手のビールには、そま造り手の顔が見えない。
    その造り手の魂はきっと同じであると思うが、
    大量生産されたビールは、それはそれなんだと、改めて思った。

    このビール一つ一つが味やコクが違っているのは、
    造り手の想いや願いが違っているからだ。
    そして、何年にも渡る試行錯誤の結果、
    到達した逸品の味だからだ。
    その味は、他では絶対に味わえないものだ。
    クラフトビールは、地域限定のご当地ビールである。
    そこに行かないと飲めない。
    量販店やスーパーでは手に入れられない、希少価値も存在する。

    何よりも、造り手の気持ちが、ダイレクトに伝わって来る。
    それは、こだわりであり、技であり、かんであり、魂である。
    その造り手の魂を震わせる味でなければ、
    そのビールは私たちが飲むことは絶対にできなかったはずだ。

    各ブースには、その造り手の人たちが居る。
    そして、お客が来ると、カップに自ら産みだしたビールを注ぐ。
    時には、そのビールのオンリーワンを説明をする。
    自分たちがこの世に誕生させ、育て続けているこのビールを、
    心から愛していることが、その表情から感じられた。

    「これなんだな」と、深く深くの合点だった。
    これは、きっと「みんな」からは、誕生しないビールだ。
    これは、きっと「独り」だから、この世に生まれたビールだ。
    そして、このビールの味は、「みんな」ではなく、「独り」なんだ。

    「独り」がいい。
    そのことを、どうして学校の先生も、大人たちも子どもたちに教えないのか。
    それは、学校の先生も、大人たちも、独りで居ることが不安だからかな。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月24日 05時19分39秒

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    苦しみは、恩寵である

    「苦しみは、恩寵である」 by 池田晶子

    一日を終えると、ほとほと疲れ果てている私だった。
    夕方4時頃には、階段を上り下りすることすら難儀になる。
    そんなに弱っているわけではない。
    衰えたというのでもない。
    それでも、身体はそれなりに変化する。

    見た目では、そんな難儀さは分からないと思う。
    日に焼けて黒くなった顔。
    がっちりとした身体。
    この時節、半袖短パンで生活している。
    それなのに、本当は、よたよたとして生きている。
    他人を見た目で判断しないことだな。

    休酒について、いつも「生きるべきか、死ぬべきか」の悩みだった。
    酒を飲まない。
    そう考えるだけで、ビールがほとほと恋しく感じる。
    肝臓の為。一日でも健康である為と、自分に言い聞かせる。
    自分自身の身体のことなのに、この葛藤は何だろう。
    ノンアルコールビールを、昨日は1L飲んでいた。
    雑種の缶ビールよりも高くついた。

    飲まないことで、何が変わっているかは、分からない。
    確かにガンマの数値は、2月より4月は50下がった。
    それでも正常値の2倍半の高さだった。
    どうせ、そう変わりがないのだったら、
    少しだけ飲んでも変わらないだろうと、自分に言い訳や説得をする。
    しかし、「飲んだら、負け」だと、思っている。
    だから、堪える。耐える。忘れる。気を紛らわす。

    合唱の稽古だった。
    その前には、いつも太威の担々麺を味わう。
    たっぷりの辛子味噌に、ニンニクに、黒コショウに、ラー油だった。
    ベースのスープの味が深いから、
    足せば足すだけ、どんどん変幻自在に変化して、味が深まる。
    そうした、即、ここ、のライブ感が、この担々麺には存在している。
    元気になりたい時、リセットしたい時、これを食べる。
    すると、本当の仕事とは、どういうことなのかが、よく分かる。
    「美味かった。深かった。」が、私からの最上の評価だった。

    さて、山形のお父さんの葬儀を終えた、K先生だった。
    稽古の前に語られた、お父さんとの家族の物語は、とてもとても深かった。
    彼女は、その深い物語を生きて、生かされて、今に至った。
    そして、音楽が大好きなお父さんによって、
    彼女の中で、ミューズの魂が熟成され、ここに、こうして花を開いた。
    彼女は、4つのアマチュア合唱団を指導している。
    自ら合唱団を立ち上げ、30年近く続いてる女性コーラスもある。
    お父さんの魂は、新潟の彼女の生き方に開花している。

    指揮をしながら、歌声の響きに、「父を感じます」と、言っていた。
    その言葉に励まさて、私たちもお父さんの魂を感じながら、
    その「聴き手」を意識して、歌を歌う。
    すると、確かに歌声の響きや味わいが違っていることを感じた。
    目には見えないものこそ、ここに存在するものなんだ。
    その目には見えないお父さんの魂を、歌う12名が共感し、歌っている。
    その歌声が、聴く人の魂の感動となる。

    疲れ果てても、子どもたちの笑顔に救われる。
    休酒の苦しみは、明日の健康だ。
    太威の若き大将は、静岡と北海道で一カ月の拉麺修業の旅をしている。
    彼女は最愛の父を92歳で亡くした。
    しかし、その悲しみを経て、音楽を感ずる深さが深まっていた。
    お父さんは、死を経て、魂となり、今、ここ、に居てくれた。

    確かに、「苦しみは、恩寵である」。

    そして、その苦しみを避けて通った生き方には、
    きっとこの深い深い味わいとしての恩寵は、神様からは与えられないのだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月23日 05時27分15秒

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    「訊く」ことにする

    ああ、やっちまったなのこと。
    そんなつもりはなかったのだが、
    きっと、私が確認しなかったために、
    そうなってしまった失敗。
    そのことで誰にも迷惑がかからないことを祈るばかりだ。

    これも私の思い込みのせいだった。
    もうこのことは、知らせてもよい決定事項だと疑わなかった。
    そのまま、知らせた。
    しかし、それは(案)であり、
    検討事項でもあった。
    そのことを、私は誰からも知らされていなかった。

    さて、それでは検討しますという段になって、はっと気付いた。
    「そうか、そうだったのか・・・」
    他の人たちにとってはそれは毎年行われている慣例事項だが、
    今年初めての私には、その慣例は無かった。
    こうした失敗は、私にはいつも起きることでもあった。

    思い込みなんだな。
    そうだろうと、勝手に考え、そうだと決める。
    いや、そんな隙間も無いくらい、
    そのことを「そうではないかも」と考えることなく、
    自分が「こうだ」と思ったことで行動する。
    周りから見たら、「何で、こうなる」とは、思うだろうな。
    しかし、本人である私は、「知らない」んだ。

    この傾向が私にあるようだ。
    後から事実を知って、「知らなかった」と愕然とすることも何度かあった。
    まず、知らないことや初めてのことは、
    自分で勝手にそうだとは決めないで、
    周りの人たちや、経験した人たちに訊くことだ。
    まず、「訊く」。
    61歳。そこから、またやり直しだなぁと、ほとほと落ち込んでしまった。

    この「訊く」の文字だが。
    私は、これまでの自分の文で使ったことは、希な文字だ。
    「聞く」ではなく、「聴く」でもない。
    この「訊く」について、私はその実態を知らなかった。

    「聞く」は、自然に、何気なく、この風の音のような音を聞くことだ。
    「聴く」は、音楽を聴いたり、他人の言葉を意識して聴くことだ。
    では、「訊く」とは、何か。
    それは、自分が不明であることについて、知っている人に教えを乞うこと。
    つまり、自分自身の問いに対しての、答えを求めることである。
    他の二つの「きく」よりは、より主体的で、意志的である。

    「訊く」ことによって、自分の次なる行動を決定する。
    「あんたは、他人の話を聴かない」と、妻からは、よくよく言われる。
    しかし、聴いてはいるのだが、
    それをそうだとは想わないから、
    きっと予想されたことと反対の行動をするのだろう。

    今回の失敗を、自らの教訓とする。
    まず、思いこまない。自分勝手に決めない。
    素直に、当たり前に、とにかく初めてのことは、「訊く」ことにする。
    それは、もっともっと謙虚に生きる、生き方にもつながるはずだ。
    何事も無く、過ぎることが、一番なんだな。

    無事即平安。
    そのためには、「訊く」ことなんだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月22日 05時32分45秒

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    普通の人って、どんな人のことを言うのかな

    「普通の人って、どんげ人のことを言うんだ」と、
    昨日、シンさんのカウンターで、Aさんと話が盛り上がった。
    「この人は、普通の人に違いない」
    そう思っている人をここに連れて来ても、
    その人本人は、「私は、普通ではありません」と言うかも知れない。
    「きっとあの人は、普通の人だ」と思っていても、
    よくよく付き合ってみると、
    ある部分で突出しておかしな部分を持っていたりする。

    「普通って、本当はないのではないかねぇ」と、
    何だかそこいら辺での妥協だった。
    みんなそれなりに何かを抱えている。
    みんなそれなりにどこかおかしい。
    また、みんなそれなりの悩みを持ち、
    それなりに苦しんでいる。

    自分のことをだから、普通の人だと思えない人も多い。
    「みんなができることが、私にはできないんだ」
    「普通の人たちは、そんな仕事さくさくとやるのに・・・」
    「自分は、どうしてもそのことに時間がかかるし、不器用なんだ」
    という困り感を抱えて生きている青年も居る。
    その人にとっては、普通の人は、何でもできる偉い人と感ずるようだ。

    「俺の話をきけ」
    「俺の言うことが正しいんだ」
    「俺が一番偉いんだ」という人は、よくここに登場する。
    やっぱりこの人たちも、普通の人なんだろう。
    他人のことをこけおろし、陰口を言っているこの人たちは、
    自分自身は、何事も無く、正しく、ちゃんと普通に生きていると、
    自覚している人たちなのかと、何だか不思議だ。

    「普通」って、どこにあるんだろう。
    「世間」って、どんな人たちなんだろう。
    「常識」って、一体どんな姿・形をしているんだろう。
    「みんな」とは、何人集まればみんななんだろう。

    と、言うことが、分からなくなった61歳の私。

    私は、決して普通の人にはなれない人だ。
    残念ながら、とてもとても評判の悪い人だ。
    「あいつは、口ばかりで、何にもしない」と、言われる。
    きっと、普通の人から見たら、嫌な人なんだろうと、思われる。
    それは、私が、その人たちと違い、「普通」の人ではないからだ。

    でも、振り返って見たら、みんなそんなことは在るのではないかの話。
    Aさんと、大笑いして語ったことは、
    「普通の守備範囲をだだっ広くすれば、私もあなたもきっと普通」
    だから、本当は、いろいろあって、そのいろいろそのものが、
    全部、みんな、人として「普通」にある在り方なんだと、
    そんな気がした。

    「俺が、俺が」と威張っている人も普通の人。
    「あいつは駄目だ」と他人の陰口を言う人も普通の人。
    「俺は、どうも他人とは違う」と感じて悩んでいる人も普通の人。
    「俺はどうしてこんな不器用なんだ」も、きっと普通の人。

    普通でない人は、きっとこの世には存在していない。
    だから、その人一人一人に優劣は無く、同等で、平等で。みんな同じ。
    勝手に、「正義」だとか、「セクト」だとか、「俺が」で、
    決めつけたり、線を引いたり、見下したり、馬鹿にしたりしてはいけない。

    そんなことを平気でする人は、
    私は「普通の人」にもなれない哀れな人だと、思う。
    確かに、他人を馬鹿にしたり、陰口を言ったり、仲間はずれにしたりする人は居る。
    それは、とても残念なことなんだけど、
    そういうご自身はどうなのかという話だった。
    みんな普通の人なのに、どうしてその違いを認めないのかなあ。

    違うことが、普通なことなのに、
    どうして違うから、おかしいと思うのかなぁ。

    みんな違った、普通の人なんだ。
    それで、いいのではないだろうかという、話だった。
    違うことを卑下してはならない。違うことで落ち込む必要は無い。
    みんなきっと感ずるものは違っても、
    普通にみんなと違うものを抱えて生きているのが、
    私たちなのではないだろうか。

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  • from: クマドンさん

    2019年05月21日 05時30分20秒

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    嫌われる私

    最近、嫌われているだろうなぁ。
    面倒なやつだと思われているだろうなぁと、
    思うことがいろいろとあった。

    それは、私がはっきりと「それ、おかしいよね」と、言ってしまうからだった。
    長年の慣習であるからとか、
    こういうものなんだとか、
    勝手に不合理なルールが決められているとか、
    個人的な意見によって不利益を受けるとか、
    そんなことがあったら、私は、黙ってはいられなくなった。

    それは、前は、正規の職員として、
    また、年長な職員として、率先して範を為す立場だったから、
    そう思ったことの10分の1も言わなかったが、
    今は、違う。
    もし、組織に何かの矛盾や不合理があったら、
    気付いたら即、上司に伝える。

    それまで、誰も、何も、言わなかったそのことに、
    改めて原点に立って問い直すと、
    何だか、「これって、変だよね」が、いろいろと発見された。
    ずっとずっとその組織に所属していると、
    その矛盾や不合理にちらっと気付いても、
    「そういうものだから」とか、
    「私が言ったら・・・」とか、
    自分の立場や今後の評価を考えると、
    言いたいことも言わなくなってしまう。
    それは、私自身もそうだったから、よくよく分かる話だった。

    しかし、何だかね。いつ辞めてもいい。
    そんな気持ちで真摯に、楽しく、おおらかに毎日を生きている私。
    仕事とは、こんなにも楽しいものだったのかと、
    改めて日々気付き、その楽しさを味わっている私。
    ところが、やっぱり4時頃になると使い物にもならない位いくたくたの私。
    いつまでこの体力と気力わ求められる仕事を続けていられるのかと思う私。

    61歳。組織の外。枠の外。流れの岸辺。岡目八目。
    そんな立場で、組織を観ている。
    だから、「まぁ、いいか」とは、見過ごしにしない。
    どうせ、期間限定の臨時雇用だ。
    今のうちに、組織の改善を目指して、気付いたことは文書で伝える。
    そのことを、実行している。

    しかし、組織は、なかなか動かない。変わらない。改善しない。
    それが、やっぱり組織だった。

    その無力感を感じている。
    その虚しさを感じている。
    「言っても、無駄か」
    「言ったら、煩いやつ」と思われる。
    「面倒なやつだ」と評価される。
    「何で黙って言われたことだけをやらないんだ」と腹を立てられる。
    だから、気付いたとしても、組織で生きたい人たちは、見過ごしにする。
    黙っている。

    やっぱりそうだったかと、残念だったが、仕方ない。
    その時は、そう判断した上司の人間性が露わになる。

    またまた、嫌われてしまったな。の、諦めでしか過ぎなかった。

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