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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018年03月31日 06時03分59秒

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    3月31日 土曜日 晴れ

    昨日は、辞令交付だった。
    懐かしい人にも出会えた。
    この日を迎えた人たちだった。
    順番に名前を呼ばれて、辞令をいただく。
    定年により退職すると書かれてあった。

    帰りに三宝亭で「五目うま煮麺」を食べた。
    この拉麺には、救われた思い出がある。
    私が休職して居る時、散歩のついでにこの拉麺を食べた。
    復帰できるか心配な日々だった。
    それでも、この拉麺を食べ、
    接客の女性の笑顔にほっとしたことを覚えている。

    何人かの人に、退職を告げるメールを送った。
    嬉しいことに、返信が返って来た。
    何年ぶりの友も居た。
    それでも、「飲むか」と言ってくれた。
    みんなその時その時で一緒に何かを創り上げた友だった。
    本当にいろいろなことをやって来た。
    そのおかげで、こうして報告できる人も多い。
    人生は、まさに出会いだった。
    ありがたい出会いによって、ここまで来れた。

    職場への最後の挨拶だった。
    すでに新年度への戦闘態勢だった。
    年度をまたぐこの大きな峠を、
    私は今年から越えなくてもいい。
    新年度、新しい人たちと始めるためには、
    山のような起案文書が必要だ。
    忙しく働いている同僚に、心からエールを送った。

    帰りに山仲間のKさんに報告に行った。
    難病だった。
    その上に、股関節の手術のために明日から入院するそうだ。
    美味しいコーヒーを淹れてくれた。
    もっと早く、訪ねてくればよかったと、苦い後悔だった。
    百名山を終え、ニュージーランドやカナダのトレッキングをした人だ。
    もう76歳になっていた。
    私が、60歳なんだから、当たり前だな。

    夕方、独りだったので、吉原に行った。
    カウンターでしみじみと、黙って飲んだ。
    すると、温かな涙が湧いてきて、止まらなくなってしまった。
    何の涙だったのだろう。
    みつともないくらい涙を流した。
    「今日、辞令もらったさ」
    そんな話をしたら、山菜の天ぷらのサービスだった。
    その味も心に沁みた。また、涙だった。

    さてさて、これから山に行く。
    弥彦山だ。
    懐かしい「山賊会」のメンバーが西生寺に集結する。
    その人たちに、こうして31日に退職の報告をできることがありがたい。
    夕方からは、東区ボーイズの合唱練習だ。
    それも、東区ホールでのコンサート前の合同練習。
    ここでも、大先輩のみなさんに、退職のご報告ができる。

    そして、帰ったら、12までのカウントダウンだ。
    今、朝日が大山台から昇って来た。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月30日 06時31分12秒

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    生きてみないと分からないな

    毎日が。生きる練習だな。
    今週は、お休みをとった。
    平日、我が家で過ごした。
    すると、時間を持て余している私が居た。
    こういうことなんだな。
    だから、何かをやろうとせっせと考える。
    じっとしていられない。
    これも性分なのだろうか。

    庭仕事をした。
    プランタからあけた大量の土が庭の片隅に在る。
    その土を赤玉土と腐葉土を入れて、プランタに戻す。
    ビオラとパンジーは花盛りだ。
    今年は、いろいろな種類の花を育てようと想っている。
    この庭を花でいっぱいに輝かす。
    そう想って花を観ていたら、
    ああ、ここに独り生きるの友達がいたなぁと感じた。

    今日は、辞令交付だ。
    いよいよ「お疲れ様でした」の辞令をいただく。
    ここまで、来れた。
    山あり山あり、谷あり谷ありだった。
    何度か心と身体との病によってお休みをいただいた。
    その度に、復帰は無理だろうとの不安を抱えた。
    「まさか」の連続で、どうにもならない状況にも立たされた。
    そんな最中には、確かに、死にたくも在り、
    どこかへ消えてしまいたくもあった。

    でも、今、ここに生かされている。
    何だか肩の力を抜いた。
    「どうでもいい」と想えるようになった。
    「いい加減が、ちょうどいい」と飄々と生きられるようにもなった。
    人の目を気にして生きていたが、それもやめた。
    自分は自分。人は人。
    違うことで、自分自身を全うしようと想って、生きた。

    どん底にあった。
    でも、いつの間にか、その場所が自分の生き場所となった。
    どん底なんか、実は、どこにも存在しなかった。
    一時は、そう感ずることもある。
    でも、季節は変わり、時間は流れ、人は忘れる。
    そんなものだったな。

    そして、たくさんの人たちの言葉によって、
    思いやりによって、私は、やっぱり助けられて生きて来た。
    「生きる」ということは、
    それは人にとっては「仕事」そのものなのではないだろうか。
    そして、その仕事を果たすために、
    人には、御同行。同僚。同志がちゃんと神様から与えられている。

    独りだ。独りだと、嘆いていたのに、
    本当は、その独りの周りにたくさんの独りの人がかかわっていて、
    その独りの人が生きて行けるように、
    励ましを与え。
    支えて下さり。
    いつもいつも見守っていてくれた。
    それは、事実だ。

    それは、本当だった。
    自分のことを独りぼっちだと感じている人には、
    その人たちのことが見えないだけだ。
    人は、そんな人を「見過ごしには」しないものだ。
    本当は、目には見えない、言葉には聴こえないかもしれないが、
    そんないっぱいいっぱいの人の想いで、
    人とは生かされているのではないかと、
    やっとこの歳になって想えるようになった。

    人は、決して独りぼっちにはなれない。

    この花たちが無言で私を見ているように、
    きっとこんなどうにもならない私のことを、
    じっと忍耐強く、温かな眼差しで、見守っていてくれた人がいたはずだ。
    私には、人生の苦難の節目節目に、
    そうした人たちと出会った経験がある。
    その人が居てくれたから、その峠を乗り越えることができた。
    そう言い切れる人が、私には、何人もいる。
    それは、とてもとてもありがたいことだった。

    花は、黙って私を見ている。
    私も、黙って花を見つめる。
    私は、たった独りで黙ってそこに咲いている花たちに、
    何か毎日、教えられているような気がする。
    あのヒヨドリもそうだ。
    花無心。ヒヨドリ無心。
    私も、これからは、そこで生きねばならないと、
    そんなことを花やヒヨドリを観ているとそう感ずる。

    まだまだ欲が在り、有心だから、寂しさや焦りを感ずる。
    本来の自然に還れば、ここに置かれているように生きるだけ。
    ただ生きる。
    そのことに、迷いなく徹することができたなら、
    きっと、何も焦らず、何も動かず、
    今、ここにじっとして生きられるのだと想っている。

    そんな日々を淡々と粛々と生きることの練習が、
    これからの私の生活になると、
    そんなことを想って本を読んでいた。

    「自然の一部として生まれて来た思うだけで、気負いはなくなる」 篠田桃紅

    「自ずからに由れば、人生は最後まで自分のものにできる。」

    「自ずからの足で立っている人は、過度な依存はしない。」

    「自分という存在は、どこまでも天地にただ一人。」

    「日々違う。生きていることに、同じことの繰り返しはない。」

    「体の半分はもうあの世にいて、過去も未来も俯瞰するようになる。」

    「誰か式、誰か風、ではなく、その人しかできない生き方を自然体と言う。」

    「103歳になってわかったこと」である。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月29日 07時28分50秒

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    ぼんやりと朝を迎える

    ぼんやりと生きる。
    何も予定が無い一日。
    何をしようかと考える。
    でも、何もしないで、庭に出る。

    野草が小さな緑色の葉っぱだった。
    芝生の間から出ている野草を抜いた。
    草取りは、無心になれる。
    何だかねぇ。
    何も役に立っていないような気持ちだ。

    本を読む。
    ぼんやりと佇む。
    新聞紙やチラシの整理をする。
    一枚一枚開いてみる。
    こんなに時間をかけたことはなかったな。
    チラシも気になったものには目を通した。
    いつの間にやら、お昼だった。

    食べるものは、面倒だからカップ麺。
    お湯を沸かす。
    お湯を注ぐ。
    五分間だけ待つ、待つ。
    テレビのワイドショーでは証人喚問の話。
    「関与はありません」そのことだけは、はっきりとしたらしい。

    さてさて、世の中はこうして騒がしく動いている。
    私は、何だか時間を持て余している。
    じっとしていられないので、
    部屋の片づけや掃除何かをする。
    今日は、これをしましただな。

    そんな細やかな一日でいい。
    これが私の幸せと、足るを知ればそれで充分。
    夕方、3年ぶりにジョグをした。
    あれだけ走っていた私が、
    大手術と椎間板ヘルニアの後、
    全く走っていなかった。

    土曜日に弥彦山に登る。
    このままでは、30分間も歩けない。
    実に実に、情けない身体になってしまった。
    いつものコースを走った。
    ヤマダデンキの交差点まで、10分近くもかかっていた。
    股関節や太ももの裏の筋肉が、ぎくしゃくしている。
    何よりも、息が辛くて、走りが続かない。

    こんな身体になっていた。
    それでも、こうして生きて行く。
    「ここからだな」と、自分自身に言い聞かせた。
    「仕方ないよ。ずっと走っていなかったんだから」と、慰めの言葉。

    ああ、そんな独りぼっちの自分自身を、
    こうして振り返っていると、
    何だかね。
    自分のことながら健気になって来る。
    何もできない。何もしない。そこに落ち着こう。

    こうして独り生きている私のことを、
    これからも、こうして見つめたい。語りたい。
    それは、自分に言って聞かせるためのようだ。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月28日 06時26分54秒

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    息で、生きる

    いやぁ、眠った、眠った。
    こんなにも人は、眠り続けることができるのだろうか。
    前夜、送別会だった。
    「これは一つの区切りです。これからやっと自分の人生のような気がします」
    そんなことをみんなに語った。
    ここから何かが始まる。
    いや、ここから何かを始めたい。
    そんな気持ちで、思う存分酒を飲んだ、飲んだ。

    目覚めなかった。
    身体が鉛のようにだるかった。
    とうとう肝臓に来てしまったのかと、少し心配になった。
    何も本日の予定はない。
    眠ろう。眠ろう。眠ることだけをしよう。
    9時に起きて朝食を食べた後、また布団に潜った。
    次に目覚めた時刻は、午後の2時をとっくに過ぎていた。

    水を飲んだ。
    そして、テレビを観た。
    証人喚問だった。
    彼の職業は、無職だった。
    私と、同じだなぁと、何だか妙に共感が生まれた。
    彼は、彼なりに、自分の職務をやりきったのだろう。
    せっぱつまって、とにかく乗り切るために、禁じ手を行った。
    何だかどこかで同情する私だった。

    これからは、こんな日々が続くのだろうなぁと、ふと感じた。
    何も予定が無い。
    誰とも会わない。
    身体の具合が悪いのでずっと眠っている。
    そして、刻々と歳をとる。老いて行く。
    本当に一日一日の意味や価値を、
    どこかで求めている私がいた。

    「こんな生活では、駄目だよ」と、自分自身に言っていたりする。
    でも、私は、頭の言うことよりか、
    身体の言うことを聴くようしている。
    身体から休もうのサインが出たら、それに聴き随う。
    無理をしないだけ、大人になったような気がする。

    何もしない。
    何もやらない。
    そこでのほほんと、のんびりと生きる。
    ヒヨドリがやって来る。
    ぽつんと餌の在る皿の上に止まり、
    無心にミカンをついばんでいる。
    今も、こうして鳴いて、朝の到来を告げている。
    彼は、私の友達だ。

    久しぶりに友から、メールが届いていた。
    「ご退職おめでとうございます」だった。
    嬉しかったな。
    何だかあることから、疎遠になってしまった彼とは、
    腐れ縁だよと、よくよく飲んで語り合った。
    しかし、どうしてかあることからちぐはぐとなり、
    何だかメールすることも遠慮していた。
    そんな友からのメールが、何よりも嬉しかった。

    人は、想いによって生かされている。
    発願があれば生きられる。
    自分のことではなく、人のことを先にして、
    その人の幸せを願う。祈る。
    その時、願われた人だけでなく、
    願った私自身も救われる。
    それでは、私は、どれだけのひとに発願をしているだろうか。
    どれだけの人のために日々祈っているだろうか。
    それを、これからは続けていく日々となりたいと想う。

    「念」という意味を教えてもらった。
    「今」の「心」と書いて、「念」と読む。
    そのことが「マインドフルネス」なんだそうだ。
    頭で考えない。
    頭で考えたことや、欲によって支配されない。
    昨日のことは、悔やまない。
    明日のことは、思い煩わない。
    ただ今、ここを感じて生きる。

    「息」とは、「自分」の「心」だ。
    「自ずから」の「心」だ。
    ここに自然としての私が生かされている感覚が存在する。
    まず、この「息」を意識して、感ずることだ。

    すると、吸う息、吐く息に集中しているだけで、
    いつの間にか頭が空っぽになる。
    心そのものが落ち着いて来る。
    思い煩っていたことを忘れる自分。
    その息を吸って、吐いてのただの繰り返し。
    そこに、迷わない。そこだけに生きる。時間を使う。


    感念する。
    閑念する。

    そのマインドフルネスで、ただ生きる。息をする。
    きっとそれでいいんだと、私が想えるようになったら、
    何もない。何もしない。何もやらない。
    その一日が、深く深く幸せを感じられる一日となるはず。

    今、ここに、朝日を浴びて生きていることを、感謝しよう。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月26日 06時07分45秒

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    離任式の朝

    さてさて、離任式の朝。
    この日は、こうやって来るものだなぁ。
    きっと途中で何かがあって、
    全うできないこともあるだろうと、
    自分自身の波乱万丈を観て、そう感じていた。

    病に倒れる。
    生きるの限界を見る。
    そんなことがあれば、きっとそこでリタイアだった。
    何度かそんな危機は、確かにあった。
    不思議なことに、その都度、助けが顕れ、蘇生して、復活を遂げた。
    しかしそれは、私の力ではないことをよくよく知っている。
    私は、何もできない。何も遺せない人生なのだから。

    守られている。
    導かれている。
    不思議を生かされている。
    そんなことを実感として感ずる。
    見守られ、生かされている内には、
    まだまだこの世には使命がある。
    そのことを、私は、自分のことを通してよくよく分かった。

    人は、死ぬべき時が来たら、死ぬのだろう。
    それは、招命だった。
    その呼びかけが無い限り、
    人は、この世に生きている意味があり、
    その意味の顕れとして生きることが使命なんだ。
    命は、意味である。
    その意味を自分の生き方・人生・生涯で顕わにすること、
    それが私に与えられたこの人生での役割だった。

    きっといらないものや、余計なものはそぎ落とし、
    その本心だけになって、これからの余生は生きなさいとの呼びかけなんだろうなぁ。
    ここは、一つの終着駅でもあるが、
    それは、これからの旅の乗り換えの駅だ。

    先週から体調がぼろぼろだ。
    何だか疲れ切って、その疲れが身体から抜けない。
    何よりも、飲み過ぎによる胃腸の不調は、哀しいほどだ。
    それでも、重い病に成らずにこの日を迎えられた。
    それは、妻のおかげさまだった。
    彼女は、私の身体のことを考えて、料理を作ってくれた。
    だから、何だか、とても感謝している。

    この日を迎えてみて、私は、感謝すべき人たちばかりだったと知った。
    二人の息子にも感謝だった。
    どれだけ彼等に支えられ、励ませられて生きて来たことか。
    私の人生の幸福感は、彼等が居てくれたからのことばかりだ。

    この日まで、生きていたいと言っていた母だった。
    「兄ちゃんの退職の日まで生きたいよ」と、いつも言っていた母。
    この朝を、きっと生きていたらどんなにか喜んでくれたことだろう。
    そんな日が、今朝なんだな。

    何を語ろうかと思っていたが、
    語る言葉が見つからなかった。
    通過点。途上の途中。
    今、ここから。
    そうではあっても、この一日を深く深く噛みしめたい。
    味わいたいものだと、今朝は感じる。

    それは、私の人生において、たった一つのその日でもある。
    無事にこの日を迎えられたことは、
    ある意味では、奇跡ではないだろうか。
    これからも、もっともっと委ねて生きよう。
    生かされているそのはたらきを感じつつ、
    与えられた命の役割、その使命を忘れずに、
    そのまま、その命じられるままに、何も考えずに生きて行く。

    昨日のアルビの試合の感動だった。
    一所懸命。
    しのぐ。立ち向かう。耐える。果敢に攻める。
    そんな姿が、感動を生んだ。涙が溢れた。
    そして、その試合は、今は、どこにもなく、消えている。
    その今、ここに、どれだけ本気に一途に闘い続けられるからだと想う。
    そうすれば、闘う人も応援する人も、
    心を一つにして感動を味わえる。

    そんな、第二の人生を、今日から始める。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月25日 07時28分10秒

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    彼の物語。私の物語。

    彼は、貧しい仕立て屋の一人息子。
    ある上流階級のお屋敷に父が仕立ての仕事に行くとき、
    彼も共に行って手伝っていた。
    その家の一人娘のことが大好きだ。
    しかし、その娘とのことである日、
    屈辱的にその父親から殴られた。
    貧乏人は、しょせん貧乏人。

    彼の父が死に、天涯孤独となった彼。
    まだ少年の彼は、盗みをした。
    そこでもしこたま殴られた。
    そんなどん底を生きる彼に優しくしてくれたのは、
    顔と身体に障害のある人だった。
    その人は、彼に一個のリンゴを手渡してくれた。

    彼は、働くことにした。
    鉄道の仕事だった。
    そして、成人した彼は、彼女を迎えにあの家に行った。
    父は、彼を軽蔑している。
    しかし、彼女はトランク一つで、このお屋敷を出て行った。
    彼との本当にその日暮らしの生活が始まった。
    二人の可愛い女の子に恵まれた。
    何もいらない。
    ここで、こうして家族四人で暮らせるならば。
    幸せは、ここにある。

    ある日、彼の会社が倒産した。
    全員解雇だ。
    彼は、沈んだ貿易船の所有証明書をこっそりと手に入れた。
    彼には、ある目論見が在った。
    彼は、その天才的な想像力を膨らませて、
    一山当てることにした。
    それは、彼女をまだ幸せにしていないためだった。
    しかし、本当は、あの上流社会のお金持ちである父親を見下したいからだった。

    彼は、その船の所有証明書を担保に莫大な借金をした。
    そして、創ったのが、蝋人形館。
    しかし、全くの偽物、インチキだった。
    客は誰も来なかった。
    またまた、全財産を失ってしまう危機に立った彼は、
    娘の一言から一つのアイデアが閃いた。
    「そうだ、ユニークな人たちを集めて、ショー創ろう」だった。
    そして、ポスターを張り、自分で街中を歩きまわり、その人を探した。
    小人・髭女・全身入れ墨男・世界一の巨体男・ノルウェーの巨大男。
    世の中から差別され、蔑まされ、闇の中を生かされていた人たちだ。

    ショーは、大当たりした。
    インチキな見世物から始まったが、
    いつしかその人たちのタレントが輝き、
    素敵な素敵なショーになって行った。
    大衆には大うけで、サーカスは連日満員御礼の状態だった。
    新聞の批評家に酷評されても、
    その新聞を武器にして、自分の儲けとする商才も彼にはあった。
    飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだ。

    彼には、まだまだ欲望が在った。
    それは、彼を殴ったあの父親たちが生きている上流階級に認められることだった。
    確かに、彼は偽物のインチキのペテン師かも知れない。
    でも、彼にブレーンが居てくれたら、
    きっとこのサーカスも、上流階級の人たちが認める一流になるはずだ。
    彼は、1人の若い脚本家に目を付けた。
    彼をスカウトする。
    酒場でのこの交渉のシーンは素晴らしかった。
    10パーセントで、手を打った。

    そして、益々ショーとしての魅力が高まり、興行収入もアップした。
    ここで、辞めればが、いつもの人生だった。
    彼は、まだまだと思っていた。
    彼が考え、夢である、あの上流階級の人たちに認められ、
    その仲間の一人としてまだ認知されていない。
    豪華なお屋敷に家族を住まわせ、贅沢な生活をして、
    妻の父親を見返す暮らしとなっても、
    ピーナッツは、しょせんピーナッツだ。
    氏素性は、変えられない。

    彼は、本物を探した。
    女王陛下に謁見したその場で、魅力的なデーバと出会った。
    彼女の歌を聴いたことがなかったが、その評判だけでコンサートを決めた。
    オペラ劇場。集まる人たちは上流階級の人たちばかり。
    それは、彼が夢にまで見ていた世界だった。
    もうすぐ、彼の夢は叶えられる。
    コンサートは大成功だった。ブラボーの嵐。喝采はいつまでも鳴りやまない。
    その夜のレセプションに、妻の父と母が来た。
    彼は、父に侮蔑の言葉を投げつけ、門前払いした。
    そして、デーバに会いたいとやって来た異形の人たちを、
    同じく部屋には入れなかった。

    閉ざされて、眼がくらんだのは、彼の心の方だった。
    彼は、そのデーバの魅力に夢中になった。まさに魅了された。
    何だか夢のような日々を送った。
    かの新聞の批評家さえ、本物の芸術と賛辞を送った。
    有頂天になってしまった彼は、とてもとても大事な何かを忘れてしまった。
    家族を残し、サーカスの仲間を忘れ、
    彼女のために、全米40か所のコンサートを企画した。
    このコンサートのために、全財産を賭けてまでも・・・・。
    彼は、自分自身を見失っていることに、彼は気付いていなかった。

    成功と名声とは、そんなに人を有頂天にさせるものだ。
    その時、勘違いが起こり、人は、最も大事にしなければならない何かを失う。
    彼の妻は、彼を深く深く愛している。
    だから、彼には忠告をし、思いとどまるように説得もする。
    でも、憑りつかれたように突っ走っている彼には、
    全く聴く耳はなかった。
    全てのことは、彼にとって、取り返しのつかない道に進んでいた。
    しかし、彼は、知らない。
    どんな末路が彼を待っているのかを。

    デーバは、いつしか彼に恋をした。
    彼にデーバは、自分を愛することを切に求めた。
    その瞬間、彼は、目覚めた。
    「私は、一体、何をしていたのだろう・・・」と。
    まさに、夢から覚めた。
    その瞬間、全てが分かった。
    彼は、自分にとって何が大事てあったかが、やっと分かった。
    本心に還った。
    しかし、そのことを知ったデーバは、彼に大きな罪を犯させた。
    彼女とのスキャンダルだった。

    サーカスの建物が放火によって全焼だった。
    彼は破産して、妻と子どもたちは、彼の元を去って行った。
    彼は、絶望した。
    つくづく、孤独を感じた。
    自分の無力を感じ、全てを失い、何一つ為せなかった半生を振り返った。
    酒浸りの日々となった。
    そのバーを、異形の仲間たちは訪れる。
    「あなたは、闇の中で生きていた私たちを光の中に連れだしてくれた」
    「こんな私たちに、生きる希望と喜びとを与えてくれた」
    「私たちは、あなたに心から感謝している」
    「だから、再び立ち直って、私たちと一緒にショーを再開して欲しい」

    彼は、人生の途中で、いつの間にか道を誤った。
    道に迷ってしまったことすら分からないまま、いい気になって生きていた。
    傲慢で、自己中心で、頑固で、富と名声だけを求めて、
    愚かな人になり下がっていた。
    それは、彼が憎しみを持って見上げて来た、あの上流階級の人たちと同じだった。
    彼は、彼の本心をすっかり忘れてしまっていたのだ。
    しかし、その本心に戻らせるためには、
    やっぱりクライシスが必要だった。

    全てを失うことからしか、人は本心に立ち帰ることはできない。
    そして、どん底に生きている自分自身を改めて発見した時、
    本当の意味での懺悔と後悔が生まれて来る。
    その深い深い罪により、人は、本当の孤独を知る。
    独りぼっちであることの痛みを知る。
    人生をやり直せないことの後悔を知る。
    そして、こんなに愚かなどうにもならない人として生きていたのだと知る。
    ほとほと自分自身が情けなく、嫌になり、
    悔いても悔やみきれない痛みに日々耐えられない自分自身を知る。
    「やっと分かる」

    しかし、その時なんだな、光が顕れるのは。
    真の闇には、必ず微かなる光が燈る。
    それを、人は「愛」と呼ぶ。
    彼が忘れて見捨てて来た人たちは、彼を忘れず見捨てなかった。
    彼が本心に立ち帰ることを、心から待ち望んでくれていた。
    今、自分たちがこうして喜びをもって生きられるのは、
    彼と出会えたおかげだった。
    「だから、もう一度、あなたと一緒にショーをやりたい」

    彼は、善き種を撒いて来た。
    彼は、自らは知らなかったとしても、善き道を選んで歩いて来た。
    その種は、どん底の彼に、収穫の時を告げた。
    「あなたが撒いた種です。今、こんなに実って、収穫を待ち望んでいます」と。
    希望とは、絶望の隣に在るもの。
    いや、絶望することが、希望なんだな。
    人は、一切合切を失わない限り、その本心には気づかない。還れない。
    だから、人生と言う物語には、伏線が在り、危機があり、絶望と喪失がある。
    そこからしか、人は、本来の人となる道はない。

    ヨブは、ヨブであって、もうかってのヨブにはあらず。
    彼は、彼であって、もうかっての彼にはあらず。
    私は、私であって、もうかっての私にはあらず。
    これは、私の物語だ。

    10パーセントの種が実った。
    彼は、もうここに建物を建てることをやめた。
    その発想が彼だった。
    街外れの港の近くの安い土地に、大テントを建てる。
    そこで、グレートなショーを再開しようと。
    そして、冒頭のシーンに戻る。
    満員のお客たちの喜びと感動に満ちた顔・顔・顔。
    そして、生き生きと演ずる異形の人たちは、まさに畏敬の人たちだった。

    彼は、その大成功を見届けて、若いパートナーに全権を委ねる。
    彼は、我が家と愛する家族の元に帰って行った。
    幸せになるために。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月24日 10時54分01秒

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    新聞発表の朝

    さてさて、この日が来た。
    退職者の新聞発表だ。
    私の名前があった。
    退職する人の中の一人として。

    毎年、この時期、この新聞を他人ごととして見ていた。
    誰が退職し、誰がどこへ移動したかだった。
    でも、今朝は違った。
    私の名前をそこに探した。
    そして、自分の名前を見つけた。
    この日が来たんだ。

    何だか、ここまで来られるとは想っていなかった。
    多くの試練と自業自得のこと数多だったからだ。
    やっぱり相当なわからんちんだったと想う。
    いっぱい人にはご迷惑をかけてきた。
    本当にごめんなさいの人生だったな。

    でも、そのことに気付けてよかった。
    私は、私独りでここまで来れたのではない。
    思えばどれだけの人たちに助けてもらい、お世話になったことか。
    その時、その時に出会った人たちに、
    私は、確かに救われて生きて来た。
    「ありがとうございました」しかないな。

    今、少し、右手の指の動きが悪い。
    さっきからミスタッチが多い。
    薬指がひきっているような感覚がする。
    脳梗塞かなぁ。
    そんな身体なんだと、改めて想った。

    この仕事を最後まで、現役で全うする。
    それも一教師として終える。
    そのことは、私の信念であり、亡くなった母の夢でもあった。
    私は、そうやって生きてこられたことに誇りを感ずる。

    最後の最後の仕事まで、
    昨日一日、目いっぱい働いた。
    くたくただった。
    疲れた果てた。
    突然死、寸前だった。

    でも、それは、それでいい。
    そうしないと、今日が来ないから。
    自分を追い込み、次々とこなしつつ、それを果たす。
    「休みたい」「眠りたい」「疲れ果てた」と、
    それでもやっぱり、目の前の仕事をこなす。やっつける。

    考えてみたら、本当に何も無い人生だった。
    でも、この仕事をやり遂げられた今は、
    それでよかったと自分自身には言ってあげられる。
    誰も言ってくれなくてもいい。
    自分だけには、「よく生きた」と、言ってやりたい。
    そう想って、今朝の朝風呂だった。

    さてさて、やはり右手が痺れるようだ。
    いつものように指が動かない。
    小休止している間、観ていた番組に魅入ってしまった。
    カンボジアで単身孤児院をしている63歳の亮子さんの生き方だった。
    やっぱり「愛」なんだな。

    辛く哀しいことの多かったその人生なのに、
    人のために働きたいと言う一心で、カンボジアを訪れ、
    立ち寄った孤児院の子どもたちの悲惨な現状を目の当たりにして、
    見過ごすことが出来ないと、日本での家財道具を一切合切処分して、
    この地を再び訪れ、寺院を再生して、孤児院を造った。

    自身は、57歳で甲状腺がんとなり、全摘手術を受けている。
    それでも、この地に残って、日々を生きている。
    「帰るわけにはいかないじゃないですか。」
    ここに生きている子どもたち28名が自立するまで、
    自活できるまで、どうしても育てたい。
    いつも明るく、希望をもって、どんな困難にもへこたれず、
    そうやって生きられるのは、
    きっと自分のためだけに生きているのではないからだろう。

    感謝の会が開かれた。
    それは、テレビスタッフの中に通訳がいたからだ。
    いつもは子どもたちは想いが在っても、伝えきれない毎日だった。
    だから、「ありがとう」を、深く深くの思いのたけを、
    伝えたかった。
    でも、言葉にならない。言葉につまる。想いが溢れる。
    その想いは、涙に変わる。想いは、熱い熱い涙だった。
    まだ幼い子どもたちが、泣いている。

    こうして生きている人が居る。
    凄い人だ。
    人は、こんなに凄い人にもなれるんだ。
    彼女は、そんな子どもたちの感謝を受け止め、感動している。
    彼女には、家族は居ない。
    彼女には、子どもは居ない。
    彼女は、ガンのおかげで弱った身体で生きている。
    彼女には、お金は無かった。
    だから、彼女は、子どもたちが仕事して自活できるように懸命に働いている。

    やっぱり「愛」なんだと、私は想った。

    愛だけで生きる人を、人はきっと木偶の坊と言うのだろうなぁ。
    「清浄本然」かな。
    彼女は、そう生きている自分を知らないまま生きている。
    「心身脱落」
    「一切合切を忘れてしまう」そのままの生き方。


    そう生きている彼女が、尊い。
    そして、人とは、その尊い人になる人なんだな。

    何だかね。
    右手の指がよく動かない。
    身体が難儀で、何もしたくない。
    疲労感がひどく重い。
    そんな私に、神様が本当に生きている人を、紹介してくれた。
    「おいおい、まだだよ」
    「これから、これから」
    「では、どう生きる?」

    そうだね。
    亮子さんのように生きられたら、きっと本望だろうね。
    人生そのものを退職する日に、
    きっと心爽やかに、晴れ晴れとしてその朝を迎えられそうだ。

    尊い生き方こそ、清浄本然と言う、道元さんの教えなのではないだろうかな。

    他に言いようがないから、そう言い切りたい。
    やっぱり「愛」だな。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月22日 06時26分47秒

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    熱かったかどうか。

    どうにもならない状況に立たされるとき、
    私は、どうすればいいのだろうか。

    その状況は、私の予想を超えていた。
    まさに想定外の出来事だった。
    どうしてこんな状況を与えられてしまったのか、
    しかし、刻々とその状況は変化し、
    絶えず、どう動いたらよいのかを問いかける。

    答えは、試行錯誤の中にあり。
    とにかく、迷っていては、その先には進めない。
    状況の中に放り込まれて攪乱されているのではなく、
    まず、ひとまず、外に出てみる。
    大局に立つ。
    冷静にこの流れ、変化し、瞬時に動き回るこの状況を、
    分析する。

    次に、顕れたアイデアを、即座に実行してみる。
    右が駄目なら、左から行く。
    中央が無理なら、開いてみる。
    後ろのスペースを突くなら、そこにボールを転がし、
    味方を走らせる。

    そこで、その意志を意図を、伝え合い、お互いに共有する必要が生まれる。
    悩んでいる暇もない。
    嘆いているなら、もっともっと走れだった。
    まず、息が切れて、立っていられなくなるほど走ろう。
    とにかく自分自身を追い込んで、走り続けよう。
    走り続けながら、彼岸に立つ冷静な視点を持ち続けよう。
    身体は熱く、心はクールにだ。

    ほんの僅かなんだ。
    そのボールが、ゴールに入らないのは。
    その僅かとは、ゴールへの可能性だ。
    その時は、諦めない、嘆かない、修正する、立ち位置を変えてみる。
    その判断と行動とを瞬時に行う。
    身体でしか、その本気さは表現できない。
    だから、もっともっとしつこく激しく球際で闘って欲しい。

    引いたら負けだ。
    それは、相手のリズムになるということ。
    リズムとは、パルスのようにして瞬時に連動する、伝わるものだ。
    そこには、言葉が無くとも、互いに感じ合えるパルスがある。
    それを、信じる。
    感じ合う、判断する前に、身体を動かす、そこに走る。
    きっと、その走りに向かって、意志のあるボールは走ってくるはず。

    ライブでの感動とは、こうした選手のやってくれるな、そうくるかの、
    そんな奇跡を共に感ずることの醍醐味だった。
    共に、叫ぶ。共に、走る。共に、闘う。共に、創る。
    それが、ライブの楽しみであり、選手の喜びでもあるはず。

    立往生していては、情けない。
    悩んだままに時間が過ぎ去って行くのは、どうかと思う。
    何かをする。
    何かを仕掛ける。
    その内に、はっと気付く、答えに出会う。
    そしたら、それをみんなで連携して表現する。

    それをしなければ、サポーターの熱い熱い魂には、応えられない。
    たぎるしかない。
    そのたぎった姿が、私を感動させる。
    それは、まさに、舞台と同じ感動だった。
    いや、このスタジアムと言う劇場では、
    観客である私も登場できる空間なんだ。

    やっぱり12番の背番号何だな。
    「ダンシング・ベートーベン」での感動とは違う。
    この試合の感動には、私自身も参加している。
    そんな、至上なる歓喜を味わうために、
    その歓喜で涙を流すために、
    「やったぞ」と、雄叫びを上げるために、
    この試合はある。
    選手には、そのことを分かって欲しい。

    打開できなかったら、身体をはって、限界に挑む。
    この試合の、ただ、今、ここだけに全知全霊をぶち込んでいく。
    悩まない、下を向かない、迷わない。
    とにかく、次々と試行錯誤、冷静の中に熱く闘う。
    それが、このスタジアムと言う舞台の中で選手が演ずる役割だ。

    その役を無心になって演じ切って欲しい。
    試合が終わったら、立てない、歩けない選手でいてほしい。
    それが願いかな。
    高いお金でチケットを買う。
    あの寒さの中でも凍えながら声援を送る。歌を歌う。
    選手に与えられている役割は、ただ一つだけ。
    感動的なよい試合をする。それだけ。
    それが、プロフェショナルと言うことではないだろうか。

    サポーターを落胆させてはならない。
    試合とは、そういうものだ。
    試合の状況だけでなく、全力で応援するサポーターのことを、
    忘れないで欲しい。
    けっして、勝ち負けを言っているのではない。
    熱かったかどうか。それだけだ。

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  • from: クマドンさん

    2018年03月21日 06時25分58秒

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    いろいろいろいろ

    さてさて、「あと、十日ですね」と、言われた。
    そうか、あと、十日なんだなと、我に気付いた。
    現役最後のお給料だった。
    来月から無職になる。
    少ない貯蓄を食べて行くだけ。
    そんな生活は、きっと長くは続かないだろうなぁ。

    振り返ればいろいろなことがあった。
    まさに、それは走馬灯のようにして駆け巡る。
    あれもあった。これもあった。
    その時は分からなかったが、
    全部のおかげさまで今、ここの私が居る。
    そのことだけは、よくよく分かった。

    あれもなければならなかったし、
    これも大事、大事。
    ちゃんと神様は、私のような我儘をぶっ潰してくれたし、
    それでいて、こうして生かしてもくれている。

    つまり、何があってもいいんだということ。
    「どうにかなる」ということ。
    「大丈夫」ということ。
    「くよくよするな」ということ。
    「いい加減に生きろ」ということ。
    何だか、自分なんかどうでもいい人になってみたら、
    まだまだ少々の我欲をもちつつも、
    何だか、そこに落ち着くと、ふと、「いかったな」と想える。

    誰かが言っていたっけ、
    「老人の苦しみとは、孤独であることだ」と。
    それは、老人に限ったことではない。
    孤独ではない人。
    孤独を感じない人って、果たして居るのだろうか。だ。
    生きているということは、孤独であるということだ。
    そこに収まる。
    そこに落ち着く。
    だから、それが当たり前なのだからと、じたばたしない。
    人を羨まない。自分を卑下しない。

    「なるようになる。ならないものはならないものだ」
    そうだったなぁと、私の身体を想うと合点する。
    治るものは治るのだし、
    治らないものは治らないものだ。
    それは、何と言うかな、宿命であり、定だな。

    しかし、身体には自然の治癒力は備わっているし、
    その力は、私が意識せず、たとえ眠ったままであろうとも、
    やっぱり休みなく、絶えまなく、継続して働いている。
    この身体という自然なるいのちの働きには、
    神秘的な驚きと感動をいつも感じる。
    だから、「きっと大丈夫、大丈夫」
    きっと何とかしてくれるし、
    何とかならないときは、「そうなんです」と知らせてくれる。
    そしたら、「そうですか。そうですね」と、委ねて待とう。

    何だろうね。
    やっぱり糞皮袋なんだろうね。
    この皮一枚で、私がここに在る。
    この皮が消えて無くなれば、私はみんなになる。
    われわれであり、みんなで天地一ぱいなんだな。
    ただ、そのみんなやわれわれから、
    「分かった」存在であるだけの私。

    「Sさん、頭、いらないね」だったな。
    余計なことは考えない。
    昨日のことは悔やまない。
    先のことを思い煩わない。
    今、ここの、寒暖を感じ、鳥の声を聴き、すっきりと気持ちよく生きる。
    身体に聴き、身体を労り、身体の気持ちよいことをする。

    感情を入れない。
    自分なんか居ないも同然、死んだも同然。
    死者が生者に腹を立ててどうするのか。
    そんなことで朝からイライラしてどうするのか。
    そう感じ、気持ちが揺れ動き、ぶれた瞬間、負けなんだな。
    「ああ、平穏無事に、在りたいものだ」

    例え、家族と言えども、人と人。
    お互いにお互いを尊重し、平等で対等な関係だ。
    やっと次男も春から社会人となる。
    もう、子どもではない。
    独りの社会人としての、大人としての人となる。
    それでいいし、それがいい。
    だから、静かに、時を観て、教える。伝える。
    いつかきっと、あの子が「分かった」と言えることを。

    さてさて、まだまだいろいろと私は、学んだ。
    今は、その学んだように、
    学んだままに生きようと願っている。
    そのためには、いかにして、自分なんかを捨てきるかだ。

    いや、忘れれればいい。
    自分のことを忘れる。
    では、ここにこの言葉を記しているのは、誰?
    その誰が、誰だけが、私を生きればそれでいい。

    「仏道は必ず行に依って証入するべきこと」

    「作仏を求めざる 行仏なり」

    「いまはそんなことではなしに、おのれというものが
     一体どんなものかを思うのだ」  沢木興道

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  • from: クマドンさん

    2018年03月20日 19時35分45秒

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    音は来てくれるかな。高橋さん、風邪治してください。

    さてさて、「奇跡のシンフォニー」を観た。
    BSで録画した映画だ。
    それは、いったいどこから来るのかだな。
    音楽に魅せられた孤児である彼は、
    見るもの、聴くもの、感ずるもの全てが音楽して聴こえる。
    ハーモニーだ。
    全ての音は、調和に充ちている。

    その音を全身で感じ、その音そのものになるとき、
    至福の感動と喜びとが生まれる。
    そして、その音はどんどん内から生まれ、
    止むことはない。
    いつの間にか、音と彼とが一つとなる。
    彼が音であり、音が彼である。

    そんな一如に彼がある。
    その在り方こそ、何だか悟りであり、
    奇跡なんだと、感じた。

    私がいる内には、その音はきっと鳴らないのだろう。
    私がここに在るうちは、その音は湧いては来ない。
    しかし、もしも、私が空っぽになったとしたら、
    そこには、きっと、無音ではなく、
    音の顕わになる場となるに違いない。

    私は、まだまだ駄目だから、
    その音は、微かにしか、ほんの瞬時にしか鳴らない音だ。
    その音は、きっと私を訪れる瞬間を待っていることだろう。
    でも、その音に充ち、その音に満たされ、その音の中に生きているのに、
    私は、その音に気付かない。

    その音の訪れと、その音の呼びかけに、耳を傾けない。
    考えていたり、想っていたり、時には、いらいらと起こっていたりだな。
    その時は、魂の音は、鳴っていても届かない。
    私が、私でしっかりと蓋を閉めているからだ。
    だから、解放すること。
    私を忘れること。
    私であることを手放すことだ。

    空は空ならず。
    空であるから色が顕わる。
    それを、信じる。
    それに、委ねる。

    何だか、音の中に生かされながら、
    こんなにも無音であったり、雑音ばかりであるのは、
    それは、私が私のことばったりで、いっぱいいっぱいだからだろう。

    空であることで、共鳴する空間が生まれる。
    コンサートホールは、あれだけ空っぽだから、音が響くだな。
    空っぽにならないと、きっと音は鳴らない。響かない。
    音が、音だけになるためには、
    音が、音そのものとして自由自在に動き出すためには、
    やっぱり、私なんかが居ては駄目だ。

    本当に、どうやったら、私を捨てられるのか。
    その訓練は、そうだなぁ。
    あの大手術。ICU。痛みと孤独の個室。動かない身体。
    その一つ一つの働きによって、そぎ落とされた、削り取られた、奪われた。
    それでも、まだまだ、こうして私が起きだす、うごめいている。
    しかたないな、次には、椎間板ヘルニアで、一カ月間天井を見て呻いた。

    それでも、まだまだその音は、鳴らない。

    これって紀野さんの言葉。
    「人間のぶざまさ、足りなさ、格好の悪さ、どうしょうもなさを
    しみじみと思い知ったとき、もう大きな力に促されるままに
    生きてゆくほかはないな」

    この凡夫そのもので、そのものが仏となる。

    それが自然法爾の道だそうだ。

    さてさて、コンサートホールのような伽藍堂になる。
    そうすると、きっとそこには奇跡のシンフォニーが鳴り響くはず。
    それは、きっと歓喜の歌であり、平安の祈りであろう。
    そんな音の訪れを、待っている、私。

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