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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017年02月26日 07時10分41秒

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    左足の痛みからのメッセージ

    左足の痺れが、痛みに変わった。
    こうして座っている間も、痛みが足首から上がって来る。
    痛みが絶えず続くことで、集中ができず、心がイライラとしてしまう。
    ほんの少しの間座っているだけでも、耐えられない。
    何が私の足に起きているのか、わからないが。
    その痛みで、その不具合を訴えて来る。
    痛みとは、その痛みによって、その存在を知らせる役目なのかもしれない。

    腰の神経か、筋の異常から来るのだろうと考え、
    昨日は、歩きながら腰をもんだ。
    左脇の腰骨の上のツボを絶えず指圧した。
    昨日の夕方には、そうやって歩くことができた。
    歩くことも効果があるのではと考えて、山ノ下埠頭まで歩いた。

    かがむことができず、ズボンを立ってはけなかった。
    片足になることも、腰を曲げることも痛くてできなかったからだ。
    ズボンをいったん脱いだ状態にして、そこに片足を入れ、
    片手で支えて、ズボンを上げた。
    この動作が切なかった。

    今は、これを書きながら数分も変わっていられない。
    腰から。左太もも、そして、何よりも足首が痺れるように痛いのだ。
    一行書いては、歩き。
    また、こうして痛みの波が押し寄せて来たら、また歩く。
    歩けるからまだいいが、この痛み尋常ではない。
    どうにもならない。

    こうなってみると想うことは、何でもなかった四日前のことだった。
    私は、こんなに左足の付け根と足首を意識することもなく、
    ただぼーっと生きていられた。生活できた。
    ところが、こうなってみると、何をしていても痛む、痛む、痛む。
    これでも四日前よりは、よくはなっている。
    ただし、この足首の痛みは、今朝からのことだった。

    痛みの位置が変わるということは、何かの変化があったということだ。
    そして、痛みが絶えず続くということは、
    この痛みにもいつか必ず何かの変化が来ることも予想される。
    これは私の身体の左足の出来事なのに、
    私にはどうすることもできず、
    それを私は、何か私とは別物にある痛みとしてだけ感じ、体験している。

    この自分でもどうにもならないことが、
    何だか私の人生なんだと、この痛みが私に教えてくれているようだ。
    そのどうにもならないものが、四日間をかけて、
    それなりに修復し、修繕しながら、変化している。
    その変化は、私の意志では全くなく、私の想定をずっとずっと超えている。
    まるでその痛みが、痛み自身として思考して、意識して、そうしているように、
    きっとそれは、自然に、なるようにしてなっていくのだろう。

    私は、こうして歩きながら痛みと対話する。
    いや、一歩的な語りかけでしかすぎないようだが。
    今は、その痛みと痺れとがピークのようだ。
    少しでも弱り、去ってくれることを願っているが、
    どうなっていくのかは、痛みに聴いてくれただった。

    自分の左足であるのに、何もできないでただ痛んでいる私とは、
    いったいどこにいる私なんだろうか。
    痛みは、私ではないような気がする。
    それは、身体のことだからだ。
    私はここにいて、身体は痛んでいるだけ。

    身体は、きっと私ではないのだろう。
    こうしていても足が痺れ、痛みがずんずんと続くので、じっと座っていられない。
    だから、これの行を書いたら、また部屋の中を歩きまわる。
    私は、絶えず歩きまわらねばならない、左足をもっている。
    いや、もっているとう表現は、誤りだろう。
    この左足は、私の意志や想いとは関係なく、独自に存在し、痛んでいるからだ。

    彼は今、その不具合を調整し、修正するために、
    微調整をずっとずっと絶えずきっと続けてくれているのだと想っている。
    痛みとは、その彼の働きの自己主張だ。
    私が意識しなくても、深く深く眠っていても、彼は働き続けてくれている。
    そして、私がこうしてうろうろと歩きまわるのも、
    それはやっぱり彼からの指示でもあった。
    「こうしてください。少し楽になりますよ」だな。

    つまり、この痛みを通して私は左足と対話しながら、
    その指示・命令に従いつつ、共同作業でこの不具合を微調整しているのだ。
    痛みとは、確かに身体からの自己主張だった。
    全ての原因は、酔っぱらって、ツァラトゥストラを聴きながら、
    この椅子で変な格好のまま眠ってしまった私にあるのだ。
    その時、身体はきっと警告し、悲鳴をあげていたことだろう。
    なのに、私は・・・・。

    だから、身体は、修復・修繕するための大工事を、今、ここで、行ってくれている。
    それはまさに突貫工事だった。
    痛みとは、修復へのプロセスである。
    歪んだり、塞がったり、切れたり、壊れたりしたものは、
    何とかして元のように戻さなければ生きてはいけないものだった。
    例え、元には戻らなくても、それに近い状態までに戻していく力は、
    この身体そのものに備わっている力であった。
    身体は、不具合を察知して、その働きのスイッチを自動的にオンにする。
    その働きが、今、ここで、私の左足でフルスロットルで働いている。
    何が、どうしてではなく、全てのあらゆるものが連携し、繋がって、働いている。

    私は、ここにいる。
    私が、働いているわけではない。

    身体は、痛みをもって蘇生する働きをもっている。
    それが、身体の身体としての摂理なのだと、この痛みを通して私は感ずる。
    つまり、痛みとは、蘇生の働きが働いているということのサインでもある。
    もし、痛みが感じられなくなったとしたら、
    それは、この身体の終わりであり、この蘇生の働きの休止でもある。
    それをきっと人は、死と言うだろう。
    でも、私は、その身体をきっと、今のように見て、感じているだろう。

    そういうことなんだ。
    「コギト・エルゴ・スム」なんだ。
    想う吾は、ここにある吾だ。

    身体は、身体で、摂理の何でしっかりと生きている。
    働いている。
    蘇生している。

    私は、私で、この痛みを感じながら、どうにもならなさを嘆きながら、
    今、ここに、吾として在る。

    こうしている間に、さっきよりも痛みの感触が変わって来た。
    痺れるような痛みから、鈍痛のような感じに変わった。
    座っていられる時間も心なしか長くなった。

    変化を信ずる。変化を期待する。
    それは、善さや悪さということではない。
    ただ、自然なる、自然そのものの摂理の中での変化にしか過ぎない。
    ここには、感情は入れないことだ。
    その変化そのものの意志とでも言うのだろうか、
    そのままに現れては消えることに、こだわらず、ただなんとなくだ。

    現れては消えて行くものを、また、消えてはまた現れるものを、
    ただ、見ている。感じている。

    言葉はいつも語られていたのに、現れなかっただけなんだ。
    そして、言葉は、この痛みのようにして唐突に。不意に現れる。

    冬は、去りつつここにあり。
    春は、いつしかここに現れる日が来る。
    それは、そのものの働きであり、あるがままの摂理でしか過ぎない。
    それをとどめることも、拒むこともできない。
    ただ、きっとそこにも全てが繋がり、全てが働き、
    元に戻ろうとする大いなる働きが働いているに違いない。

    私の左足は、雲だ。
    私の左足は、風かもしれない。

    あらゆるものは、元に戻ろうとする働きに生かされているのではないだろうか。
    どこに戻ろうとしているかは、わからないけれど、
    きっと元に戻ろうとしているのだと、吾は想う。

    吾もまた、元に戻ろうとしている。
    吾もまた、その働きの吾である。

    どこから来たのか。
    誰なのか。
    どこへ行くのか。
    この風さんに聴いてくれ。

    ただ信じよう。
    痛みとは、蘇生なんだと。
    それは、全ての働きによって元に戻ろうとする働きなんだと。
    そして、身体と言う自然がそうであるように、
    吾もまた、元に戻ろうとする働きの最中にあるということ。
    そして、時に起きる挫折や絶望や苦悩とは、その心の痛みとは、
    蘇生なんだと。
    元に戻ろうとする働きなんだと。
    それを、信じよう。

    痛みでしか、蘇生する働きを感じられないように、
    苦悩でしか、蘇生する存在である吾の意味を理解できない。

    痛みは、左足の存在とその働きと意味とを感じさせ、わからせる。
    苦悩は、吾が在り、元に戻そうとする大いなる働きに生かされていることを、
    その時だけ、わかるのだ。
    痛みを通して、吾は吾に戻り、元に還る。

    身体が、この摂理によって絶えず働き続けるように、
    吾も摂理によって生かされ、絶えず働きかけられている。
    ただ、感じられないだけなのだ。
    しかし、吾の不具合、どうにもならず吾を失った時、
    その働きのスイッチは自動的にオンとなり、
    必ず修復・修繕。蘇生へのプロセスをたどるはずである。

    身体と吾は、別々にして一つの摂理で統合されている。
    身体と吾との協働関係。

    こうしている間に、あの執拗な痛みが和らいでいる。
    座っている時間も少し長くなった気がする。
    身体で起こったことの意味は、吾が気付いてあげる。
    そうすれば、この痛みにも意味が在る。

    ソクラテスは、言っていた。
    「魂の世話をしなさい」と。
    身体のことは痛みによって知り、その身体を労わろうと努力する。
    では、この身体とは別な吾を、どうやって労り、世話をすればいいのか。
    そのためには、吾と言う存在と出会わねばならないし、
    吾は、吾そのものとして生きねばならない。

    吾が、吾の摂理に全てを委ね、任すこと。
    それこそ、「ダイモンに聴け」という、ソクラテスの生き方そのものだ。

    痛みの中で、歩きまわり、
    痛みを忘れるために、これを書いた。
    やっぱり、意味が在るのだと、改めて感じた。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月25日 06時17分37秒

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    まだら、まだら、

    さてさて、マフラーはどうなったか。
    実は、何と原点である職場のロッカーに残されたままだったのだ。
    あれだけ探して、あれだけ心配し、あれだけがっかりしたマフラーは、
    そのままロッカーの中にあった。
    私は、その日の帰りに、いつものようにマフラーをする動作を怠り、
    きっとそのままコートだけを着て帰ったようなのだ。

    そのことすら、すっかりと忘れている私。
    マフラーを着けて来なかったのに、
    コートを脱いだ時、マフラーがないことがわかり、
    どこで失くしたのかと、狼狽える私。
    そして、あちこちと探し回っていた私。

    何だか、自分自身が情けなくなると共に、
    そうした行動を行っている自分自身が怖くもなってきた。
    自分でありならが、自分でしたことを覚えていない。
    置き忘れは、確かに増えているような気がする。
    ふとその場所に用事があって行ったはずなのに、
    その場所に行くと、何をしにここへ来たのか分からないこともある。

    昨日は、大事な提出書類なのに、
    幾つも書くべき個所を見落として提出し、上司を困らせてしまった。
    何度も何度も彼は私の所に来て、「ここを書いてください」と書類を渡された。
    最後には、「こう書きましたが、よろしいですか」と、
    その個所を代筆してもらった。
    何とも情けないことだが、私は全くそのことに気付いていないのだ。

    忘れることが多くなった。
    自分だけのことならば、それは自分が困るだけだが、
    こうして仕事で大事なことを忘れてしまっては、
    迷惑をかけただけでは済まない事態に陥りかねない。
    本当に、慎重に、気をつけて、日々を生活しなければならなくなったようだ。

    だから、私は、大事な要件については、付箋に書いてデスクに貼っておいている。
    用件と締め切りと提出先をそこに明記する。
    処理したら、その付箋をデスクからはがして捨てる。

    次に、メモすることにした。
    手帳に何でもメモをする。
    例えば講演会や出張に出かける場合、
    期日・時刻・行先・用件を手帳のカレンダーの欄に書く。
    今やっていることは、そこに相手先の電話番号も書いておくことだ。
    すると、緊急の場合の連絡で慌てることがなくなった。

    それから、ストーブの消し忘れ等のことがとても気になる性分だから、
    そのことを不安に想わないようにと、
    出がけに必ず、声に出してストーブを消したことを確認する。
    「ストーブ、消した」と。
    その時、身体でも確認させるために、指でストーブを10回小刻みに叩いている。
    それで、やっと安心をする。

    それから、今やっていることは、、
    ひとつひとつの動作に対して、声に出して確認することだ。
    「財布・携帯、カバンに入れた」
    「メガネと時計は、パソコンの前に置いた」
    手を離した物は、既に存在しなくなったものとなる。
    今しがた手にしていたはずの物を、必死になって探すことの情けなさ。

    やっぱり私の記憶も、まだらになってきているようだ。
    その現実に直面したら、悩むことはない。
    ただそれが自然なんだと受け入れ、
    そうならないようにするためにどうしたらよいのか、ただ考え、工夫すればいい。

    悩んだり、卑下したり、悲しんだりは、無駄なことだ。
    そんなことは当たり前。
    ごくごく自然の成り行きなんだから、
    少しでもそうならないためにどうやったら善いのかと、工夫すること。
    それが、「今、ここに、さっさと生きる」生き方のようだ。

    さてさて、ありがたいことにリアルマドリードのマフラーが戻って来た。
    たった一日の出来事だったが、
    この行方不明だったマフラーのおかげで、
    いろいろと学ばせてもらった記憶がまだらのクマだった。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月24日 06時02分57秒

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    何だか諦めることに慣れて来た

    何だか諦めることが多くなった。
    そうすると、仕方ないかと、肚も立たない。

    朝食の時、突然妻から怒鳴られた。
    仕方ないことだ。
    こうやって否定されて、それでも黙ってご飯を食べた。
    胃の辺りが、少しむかむかとしたが、
    諦めている。黙っている。そのまま食べている。

    左足が痛かった。
    ズボンを脱ぐことも、はくことも痛くてかなわなかった。
    かごめない。曲げられない。
    何と臀部から、左もも脇、ふくらはぎまで痛みが電気のように走って行く。
    どうしたんだと、何だかとても心配になった。
    その原因が分からなかったからだ。

    ところが、仕事していて、夕方になってはたと分かったことがあった。
    昨晩、酔っぱらってヘッドホーンでリヒャルト・ストラウスだった。
    私は、椅子の上でいつの間にか眠ってしまった。
    気が付いたら夜中の12時。
    そこから床に入りぐっすり眠った。
    その椅子だった。
    背もたれのあるその椅子にきっと変な格好で眠っていたに違いない。
    その屈折した圧力が、この電気のような神経の痛みとなったのだ。
    仕方ない。仕方ない。
    心配してくれた同僚に、呆れて、笑われた。

    夜は、東区ボーイズの合唱だった。
    図書館で本を借り、それから、腹ごしらえに太威に向かった。
    お店に入って、いつものカウンターに座ったら、無いのだ。
    私の大事に大事にしていたマフラーが。
    クラブワールドカップで勝ったレアルマドリードのマフラーだった。
    とろうとしたら、していないことに気付いた。
    しかし、どこでいったい脱いだと言うのか。
    私は、その脱いだことすら忘れている自分自身に愕然としてしまった。

    合唱は腰の痛みと、失われた大事なマフラーのことで全く元気が出なかった。
    何だかとてもとても疲れている自分を椅子の上に置いていた。
    いつもならでかい声で歌う私が、ほんの細やかな声しか出なかった。
    やっぱり、途中で帰ることにした。
    帰りに太威にもう一度寄ったけれど、マフラーの忘れ物は無いとのこと。

    何だろうねぇ。人生とは。
    自分に起こる出来事も、まさに自然そのまま。
    私が考えてどうこうできるものではないと言うこと。
    そうした自然の最中に生かされ、自然そのものに晒されて、翻弄される。
    だから、この年になると「仕方ない」と「諦め」られる。
    自分はいらないのだから、肚を立てることもない。
    「ああ、そうですか」と、さーっと通り過ぎるのを待つだけだ。

    帰ってから、遅い夕飯をまた食べていたら、
    ここでもやっぱり妻に怒鳴られてしまった。
    朝晩と、否定され、怒鳴られている。
    私が、悪いのだ。
    それはそれで、やっぱり仕方のないことだった。

    今朝、こうしてキーを打っていながら、やっぱり左足は全体に痺れている。
    マフラーのことは全く思い出されない。
    きっとまた、朝食で怒鳴られるだろうなぁ。

    それでも、いいことがあった。
    夢で、亡くなった桜井さん・敏栄さん・お父ちゃん・お母ちゃんと一緒だったんだ。
    みんなが自転車を引きながら人ごみの中をやって来た。
    私は、みんなが来るのを待ちながら、これから行くはずの山古志のことを考えた。
    「あの自転車で、あの山道を登れるだろうか」と。
    そして、私が自転車を忘れて来たこに気付いた。
    そこで、自転車をとりに家に帰るために、従兄の誠に声をかけた。
    「あそこのスポーツ店で、何か飲み物買って待っていてよ」と。

    私は、自転車を取りに人ごみに戻ったら、
    何と不思議なことに、後ろ向きのままドロップハンドルの自転車に乗っていた。
    「なぁんだ。自転車、あるじゃないか」
    ここで、きっと目が覚めた。

    こんな情けなく、どうにもならない私のことを、
    みんなはきっとあそこで待っていてくれるんだなぁ。
    本当に、つい今しがたまで、私は、そこで笑っていたんだ。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月23日 06時13分50秒

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    「嫌われ松子」で生きるとは

    嫌われ者で生きる。
    「嫌われ松子」という映画があったような。
    そんな女の子に私もなりたい。なんちゃって。

    どうしてか、私が言うことが、相手には面白くないことが多いらしい。
    「またあんなことを言っている」と、そう想う人が多いようだ。
    その人たちは、とてもとても真面目な人だった。
    「こうあるべき」の人たちだった。
    「常識ではこうですよ」
    「それは世の中ではこうですよ」
    「世間ではこうなっています」
    と、決定していると言われているルールを大事大事にしている。

    つまり、考えない人だった。
    そのことは、既に決定済み。
    あなたがしていることは、自分勝手の我儘なこと。
    「あなたは、おかしい」と言われたこともある。
    「人格破壊者だ」と痛烈な言葉を受けたこともある。
    酷い酷いバッシングに晒されたこともある。

    その度に、確かに凹んだ。
    どうにもならない自分を感じた。
    私は、ただ私で生きているだけなのに、
    そちらの仲間には入れてもらえず、
    バッシングと批判と中傷を受けるだけ。
    よくわからないけれど、
    本当に私のような存在を認めたくない、
    否定したいという人に何人も出会ったことがある。

    まさに、その現場では孤立無援だったが。
    私のようにその真面目な人たちからバッシングされた、
    二人の侍がいたから助かった。
    今、思い返しても、そう想うのだが、
    私は、ああいう人間には絶対なりたくないし、
    やっぱり変だったのは、あの人たちではなかったのかと、今でも想う。

    言うことを聴かなかったのではなく、
    私がそうは思わなかっただけなんだ。
    そうか、バッシングは、私がしていたんだ。
    その人たちの思惑通りには、絶対に動かなかった私。
    その人たちのことを、そうじょないよと、少し違うと感じていた私。
    だから、きっと真面目なその人たちは私ごときを許すことができず、
    標的のようにして、いじめてきたのだろう。

    嫌われ松子は、真面目な組織の中では、いじめられっ子だった。
    でも、いい。
    そうやって己を通して来たから、実現できたことばかりだからだ。
    それは、世の中の常識を顧みず、誰もやったことがないからやり、
    そんなことに夢中になってどうするんだという批判・中傷をものともせず、
    猪突猛進に邁進したから、姿かたちのあるものにできたものばかりだからだ。

    人目を気にして、その真面目な人たちの思いを尊重して、
    自分の生き方を変えることをしない。
    もし、それが「道 タオ」であるなら、飄々と我関せずやり続ければいい。
    そのうちに、必ず嫌われ松子になるだろう。
    「あいつは、我がままだ」
    「あいつは、常識というものがない」
    「あいつは、ちゃんと仕事をしているのか」
    そんなことを言った顔を一つ一つ思い出す。

    ただ、ここで分かったもう一つのことは、
    そんな人にならなくて、そんな人になれなくて、
    私はよかったということだった。
    その人たちと、私とは、生き方そのものがそもそもから違っていた。
    だから、孤独で、辛く、寂しい時もそれはあったが、
    今は、違う。
    「嫌われ松子」で、私はこれからも生きる。
    独りでいい。
    分かり合える人とだけ、話をする。
    人には、期待しない。

    やっぱり、どうにもならない人であるかもだ。
    でも、そうする。そうしたい。
    そんなことを、ふと感じた。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月22日 06時07分05秒

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    さてさて、どう余生を生きるか。

    ふと、退職後のことを考えた。
    現在59歳。
    現役で働けるのは、本当に後、1年余りだった。
    この仕事とも別れなければならない。
    そうなんだなぁと、実感できた。

    そんなことは分かっていたではないかと、笑われそうだ。
    でも、人ってその立場に立たなければ、
    本当の意味は分からないものだと、やっと分かれるようになった。
    定年退職は、確かにある。
    でも、それはそれで、確かに他人ごとでもあった気がする。
    そうか。その日が、私にも来るのか。
    そしたら、何だか心が改めてしゃんとしたような気がした。

    人生は、限られている。
    自然の成り行きにただ従って生きるのみ。
    ならば、私にもいつか必ず死はやって来る。
    ここからは、やっぱりこの世で残された時間なのだと考えたいものだ。

    後、幾つ春を愛でることができるだろうか。
    例えば、80歳まで生きたとしても、後20回だけの春だった。
    身体が今のようにきけばいいが、
    身体や心が不自由になったり、寝たきりだったらどうだろうか。
    こうして、歩いたり、旅に出たり、働いたりの生活が、
    本当に後どれくらいできるのかは、天のみ知ることだった。

    終わりが在るから、限りがある。
    そう想い、感じて、日々を生きることは、何だか尊いことだとも想う。
    朝は、祈りをする。
    目覚めたことを感謝し、1日の仕事を感謝し、家族と居られることを感謝する。
    そして、家族ひとりひとりのために祈りを続ける。
    ただ、生きて欲しい。そして、自分らしく生きて欲しい。
    それは、ひとりひとりが為すことであるが、
    私は、そのことが少しでも実現できるように祈ることしかできなかった。

    私は、その後のことを考えるようになった。
    私が、私としてこの地域社会で少しでも役に立てる仕事は何かと考えている。
    退職したからのんびりと自分の好きなことにとは想っていない。
    何たって、妻から65歳まで働きなさいとしっかり言い渡されているからだ。(笑)

    しかし、本当は、この限られた命を惜しみつつ、
    日々を生きがいをもって生きることこそ、最善な生き方だと想うからだ。
    何ができるか。
    何をすべきか。
    それを今は、模索中だった。
    私が生きるのではなく、私を生かす場所や道がきっと必ずあるはずだった。
    そのことに気付き、そのことを選択し、そのことに尽くしたい。

    そうやって老いの道を、てくてくと歩きたいものと感じている。
    御同行は、祈りの中に在る。
    孤立無援でも、たとえ心無い批判に晒されても、いいではないか。
    そんなことにくよくよしている時間も余命もそんなにはないのだから。
    好きなように働けばいいんだ。

    「はたらく」とは、「傍を楽にする」ことだ。
    でも、一番「楽しい」のは、そうやって人のために働けた人、
    その人だと私は想っている。
    「ソウイウヒトニ ワタシハナリタイ」だな。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月22日 05時47分23秒

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    昨日の文。再開の文。

    再開。長いお休みだった。
    書けない日は書かない。
    書ける日は書く。
    そうありたいものだと、暫くこの場を離れていてそう感じた。

    思い通りにはならない。
    そんな当たり前のことばかりの一週間だった。
    そうしていなければならない。
    しかし、そのことがストレスになったりする。

    でも、そうしていなければならない。
    どんなにあがいたところで、叫んだところで、怒ったところで、
    そのことは変わらない。
    頑として、そのまま。
    思い通りどころか、思いの真逆に進むこともある。

    「まさか」「どうして」
    それが人生なんだと、知ることだ。
    この年になってしまうと、そこにある意味での諦めを感ずる。
    そのことは「どうにもならない」ものなんだ。
    そして、そのことは、ただ任せて、見守るものでもあるんだ。

    まず、じっと待つこと、耐えること。
    回復は、身体に聴けだった。
    だからどうだということはない。
    全ては自然の摂理のままなんだ。
    私にできることは、限られている。
    その限られていることだけが、私にできることだった。

    決めるのは、私ではなかった。
    さてさて、日々をどう生活していこうかと、途方にも暮れた。
    私ではなく、そのものに任せて、委ね、生きるしかない。
    ここには、選択の余地はなかった。
    小康状態が続きながら、為すすべのない日々を味わっていた。

    私は、嫌われている。
    私のことを、嫌っている。
    そうだろうなぁと、何だか納得だ。
    ウイルスに感染した私は、この部屋から出てはいけなかった。
    家族は、そのことをよしとはしない。
    私も、そのことをよしとは想わない。

    だから、ここに居た。
    じっとしていた。
    私は、私をできなかった。
    どこにも行けなかった。
    歩けるのに、歩かなかった。
    晴れていても、外には出られなかった。

    全てを任せ、全てを委ね、ただ待つばかりの生活。
    そんな生活を余儀なくされる日もあるものだ。
    これも人生だなぁと、自分に言い聞かせつつ生きていた。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月14日 06時08分03秒

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    「シグナルとシグナレス」

    シグナルは、シグナレスを愛していた。
    しかし、その愛は叶わない愛だった。
    2人は愛し合いながらも、一緒になることはできなかった。
    何故なら、二人は、シグナルであり、シグナレスだから。

    そこで、夢を見た。
    同時に二人は夢を見た。
    気付いたら二人は夜の海の渚で肩を並べて座っていた。
    アブラカダブラだった。

    愛し合う夢も、結婚する夢も、こうして肩を並べている夢も、
    その一瞬で叶うことができた。
    「ああ、幸せだなぁ」と、二人が見上げた星空の世界。
    そのどこかに二人がさっきまでいた地球があるはずだ。
    その星空を二人で見上げていたその時、
    その夢は、終わった。

    気が付けば、やっぱり二人はシグナルとシグナレスだった。

    宮沢賢治の物語「シグナルとシグナレス」は、そんな哀しいお話しだった。
    「賢治の会」が日曜日、松浜のコラボ屋であった。
    13名でこの童話をリーデングする。
    そして、この物語の感想を語り合う。
    物語を読む。声に出して読む。その読みを聴く。その想いを語り合う。
    本当に素朴なることであるが、
    これがとてもいいといつも感ずる。

    ひとりでは決して行くことのできない深い深いところへ、
    いつの間にか私は誘われて行く。
    まるで、この二人のようにして、はっと気づくと賢治の宇宙のど真ん中だった。

    この物語に登場するシグナレスのような女性は、実際にいたそうだ。
    賢治はその人を愛し、結婚まで考えていたそうだが、
    その愛は、成就することなく、その女性はアメリカに渡り結婚したそうだ。
    そんな事情を、ある本を読んだ人から聞くことができた。

    そして、この物語は、岩手日報で新聞小説として発表されたそうだった。
    しかし、こうした賢治の恋愛については、
    狭い地域であるから、きっと知っている人も多かったと想う。
    賢治が書いたと知れば、ああ、あの女性のことだなぁと、
    気付く人も多かったと想う。
    例え、それを寓話として書いたとしても、
    ここにある二人の恋愛は、ある意味事実なのだから。

    それなのに、何故、賢治は新聞小説としてこの物語を発表したか。

    私は、はっと気づいた。
    新聞小説であるべきなんだと。
    何だか、賢治の大胆な試みに、胸がすっとなるような気がした。
    賢治は、すごい。
    これをやるか。

    それは、この物語そのものが、ラブレターなのだということだった。
    遠くに去ってしまったその女性も、
    いつかきっとこの物語を読んでくれるはずだと、
    彼は想像したのではないだろうか。
    「愛しています」
    「結婚しましょう」
    「あの星雲のリングが、結婚指輪ですよ」

    そして、夢の中で二人は男と女として結婚する夢を果たす。
    しかし、この地球ではなく、
    あの頃夜空で見つめて語り合った、あの星雲のどこかの星で。

    全く理解不能。難解至極。この世界は私には遠い世界だと、
    この初見の物語を読みながら、賢治の世界には至れないままだった。
    しかし、皆さんのお話しを聴きながら、
    そうだ。きっとそうだったんだという、こんな発見をするが出来た。
    それが、リーディングの妙なのだと、改めて感じた。

    物語を声に出して読む。
    物語を聴く。
    そして、お互いにその物語を共有し、共感し、感想を語り合う。
    その語りには、その人の人生が現れて来る。
    多様な視点から、その物語が語られる。
    そこには、私独りでは決して気づかなかったものがある。
    その発見を、気付きをまたそこで共感する。

    さてさて、そんなリーディングの会を、
    私と元公民館長のAさんで立ち上げることにした。
    講師は劇団を自らもち、脚本と演出、役者まで手掛けるSさんだ。
    4月から、毎月1回。三回のワークショップになる予定だ。

    物語を読む。
    そのアブラカダブラを、もっともっと感じてみたい。

    ここにも、「君の名は。」の世界が存在しているような気がした。
    私は、物語を読むことで、物語を聴くことで、
    私の中の君と出会う気がしているからだ。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月13日 06時09分08秒

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    味わう。ただ味わう

    土曜日に、今年初めての「あき乃」だった。
    行きたくて行きたくてとは想っていたが、
    行けないこともあるもんだと自分のことなのにそう感じた。

    蕎麦の味は、いつもの味だった。
    野菜の天ぷらの中に、フキノトウが入っていた。
    嬉しかったなぁ。
    この苦味が私の好きな味だった。
    春菊の天ぷらもサービスしてくれた。
    ご主人のこうした心遣いがいつもいつも嬉しかった。

    「おいしいお蕎麦だねぇ」と、70代の上品な女性が勘定の時話して帰った。
    私ぐらいの中年の恰幅のいい男性が、もりを一つ食べて、すーっと帰った。
    「蕎麦湯を一つください」と、その頼み方に常連を感じた。
    ここの蕎麦は、確かにここだけの蕎麦だった。
    私は必然だろう、ある日、初めてこの店を訪れて蕎麦を食した瞬間、
    その味の虜となってしまった。
    味とは、不思議なものだといつも感ずる。

    その味の存在を知らずにこれまで生きて来たのに、
    いつか必ず「これだ」という味と巡り合うものだ。
    どうして「これだ」と言えるのか、感ずるのかはわからないが、
    その「これだ」は、やっぱりどこかに存在し、私との邂逅を待っている。

    お客が引けた後、しばらく店内は私だけだったので、
    ご主人と素敵な奥様と話す機会を得ることができた。
    60代半ば過ぎだろうか。
    前職はお役所勤か、教育関係だと予想している。
    蕎麦に魅せられ、退職してからの蕎麦屋の出店だった。
    会津八一をこよなく愛し、そのブログには本町や新潟の街の歴史にも造詣が深い。

    私は、蕎麦好きな同僚の話をした。
    「蕎麦の味って、その土地土地で全く違う味ですね。」
    「お店によっても、確かに違う。」
    「ただ、一般受けする蕎麦の味は確かにある。」
    「しかし、そんなお店には、一回行けばもう行く来はしない。」
    「そのご主人が、魂を込めて、お客さんに美味い蕎麦を食べさせようとするお店。」
    「私も彼も、そんな蕎麦屋さんを発見すると、他県でもでかけてその蕎麦を食べる。」
    「味って不思議ですね。その味を味わいにでかけるんですて。」
    「そして、やっぱり蕎麦って風土が創る味ですね。」

    そんな話をご夫婦で笑顔で聴いてくれた。
    「私ね。美味いものは、語ってくれる。そう感じる時がありますね。」
    「黙って、噛みしめ、味わいながら食べると、
     その時、確かに語り合っているんです。」
    「語り合える蕎麦、語り合えるパスタ。語り合えるラーメン。」
    「私は、その味と出会うと、とにかくその味だけを求めて通います。」
    「食べる時は、独りです。どうして、お喋りしながらこの蕎麦と語れますか。」
    「みんな食べているかもしれませんが、深く味わっていないのではと思います。」

    そうですねぇと、奥様が笑顔で肯く。
    「やっぱりね。語れる味には、深い深い魂が込められているんですね。」
    「十日町のYは、蕎麦の名店で、あの店の前を通るたびに、私は食べに行きました。」
    「ある日、行ったら、あれだけいつも満員のお店に、お客が少なくなっていました。」
    「そして、その蕎麦を一口食べて感じました。随分味が落ちたなぁと。」
    「こんな味ではなかったはずだ。その蕎麦は、
     くちやくちやとして何も私に語りませんでした。寂しかったですね。」

    「私の山の師匠の沼垂山小屋の森田さんが教えてくれたことがあります。」
    「クマさん、お客が店を選ぶんじゃないよ。店がお客を選ぶんだよって。」
    「長年その深い意味がわかりませんでした。だって、店を選ぶのはお客でしょう。」
    「ところがです。魂がこもり語ってくれる味と出会って、
     森田さんが言っていたその意味がやっと分かりました。」

    「きっとその味をわかる人だけがその店の常連となりますよね。」
    「その味に深い深い味わいを込められる主人だけが、
     そうした深い味を味わい、その味と語り合えるお客をお客とすることができる。」
    「つまり、あき乃の蕎麦が、私を選んでくれた。」
    「この深い深い味わいが、どうだクマさんと語りかけてくれた。」
    「だから、私は、ここに来て、今日も蕎麦を食べています。」

    「味わうって、大事なことでしたね。」

    本当だと想った。
    味わうことだ。
    感ずることだ。
    そのことこそが、喜びであり、幸せでもあった。

    だから、人生を味わおう。
    今、ここを味わおう。
    きっと向こうからよく来たねと、語りかけてくれるはずだ。

    「味わう」を味わった至福の時だった。

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  • from: クマドンさん

    2017年02月12日 07時25分25秒

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    「君の名は。の君に」

    私は、誰と話しているのか。
    こうして確かに独白でしかないこの語りだが、
    何だかやっぱり誰かに語りかけているのではないかと想うことがある。

    Sさんと話した。
    何と2時間近くもだった。
    彼は、いよいよある会の終いのための原稿を書いていた。
    しかし、書きながらどうも筆が進まない自分自身を感じていた。
    これまでの20年間の実績を思い出し、
    その一つ一つの光跡をそこに記そうと努力していた。
    しかし、違うのだ。何だか面白く感じない。言葉が言葉として響かない。
    それで、彼は仙台の友に電話して相談したそうだ。

    そこで、友から言われた言葉は、
    「想ったとおりに書けばいい」だった。
    彼には、本当に偉大なる師匠が居る。
    その師匠と共に歩んできた20年間でもあった。
    しかし、ある年から、彼は彼の思いで、独自の道を歩き始めた。
    その師の教えをいつも胸にしながらも、
    彼にとって納得できる、腑に落ちる道を、模索して来た。

    そこで、多くの人や自然との出会いが在り、多くの発見と気付きとがあった。
    それは、彼が自らの身体と心とで感じた経験だった。
    その経験を積み重ねるうちに、何時しか知らず知らず、
    その道は、師匠が夢描いた壮大な道とは違い、
    もっともっと身近で、確かで、当たり前で、素朴で楽しい道を歩くようになっていた。

    Sさんは、小千谷の東山の森の中にある、親子と遊ぶ交流の場に参加している。
    彼にとっては、森は作るものでもあるが、ここにどんと存在しているものだった。
    その森に入り、その森の気を吸い込み、その気に浸るだけで、
    身体も心も気持ちよく、解放される実感を感じていた。
    それは、学問や生態系ではない。
    何かの目的のためのものでもない。
    ただ在るもの。ただ感ずるもの。ただ喜びを感ずるものだった。

    彼は、80歳に近くなって、こんなに日常の生活が豊かであったのかと、知った。
    彼の妻との二人暮らしの、何とも幸せで、楽しいことかとよく語ってくれる。
    私は、「クマさん、いいもんらなぁ」と、笑っている彼の言い方がとても好きだ。
    本当にその日々の二人の暮らしを丁寧に、温めながら生きていた。
    「生活」だね。
    命の蘇りと彼はよく教えてくれる。
    「罪深かったね」とも言う。

    蘇りは、黄泉がえりだなぁと、私はふと想った。
    私は、文字通り黄泉がえりを経験したし、
    彼もまた数多の試練の中から黄泉がえりを経験した人だった。
    もし、彼があのまんま突っ走っていたら、
    この静かで、実に穏やかな生活は、わからずにいたのではないだろうか。
    彼は、そこに気付いた。そこに目覚めた。
    そして、その話をいつもいつも楽しそうに語ってくれる。

    それは、彼が語っているのではない。
    きっと彼にそのことを気づかせ、語らせる大いなる計らいの力ではないだろうか。
    そこで語られる彼の言葉は、聴く者を蘇らせる力が在る。
    何故なら、その言葉は、自分の深く深くから溢れる言葉で、
    自分が一番聴きたい言葉であるからだ。
    実は、彼が語っているのではなく、
    彼は彼の奥深くで眠っていたものが目覚め、語りだした言葉を彼が聴き留め、
    その言葉を、彼がそのまま語っているのではないかと感ずる時がある。

    深い言葉とは、普遍の言葉なんだ。
    そんな語り合いの時は、私と彼との区別は必要なかった。
    彼は私で、私が彼で。
    そして、言葉がここに在り、その言葉に感動している二人が居る。
    本当に「語り」とは、自分を超えた深い深いところからの言葉なんだな。
    「吾」という本来の面目の自分が、「言う」
    つまり、その本来の面目・主人公が居ない語りは、嘘になる。

    言葉を語るとは、そういうことではないだろうか。
    それは、言葉を語ると言う表現ではなく、
    「言葉が語る」という言い方のほうがぴったりくるような気がする語りだ。

    Sさんは、原稿を書くときに、言葉を語らせなかった。
    自分の師匠に対する遠慮や配慮で、言葉を制限し、言葉を黙らせた。
    そして、論文をただ書こうとした。
    しかし、その言葉に人の魂に響く力は存在しない。
    一回さっと読んで、それっきり。
    そんな言葉は、もう書かなくてもいいとSさんも想っているのに・・・・。

    「そうだね。そうだったな」と、電話の最後は、言葉の人に戻っていた。
    「言いたいことを言う」「本当の自分の想いを語る」
    言葉で表現するとは、その想いとの一体感・同一感のことではないかと、
    私は、語り合いながらそう感じた。
    ここに記す言葉もそうだった。
    「よく見られよう」「面白く創ろう」とすると、
    その言葉は、単なる作り物の言葉になってしまう。

    不思議なんだが、こうして書きながら、ここまで一気に書いている。
    ここまで20分間の仕事だ。
    そして、書いた私自身が、その気付きを喜んでいたりする。

    この言葉を書かせているものは誰なのか。
    「君の名は。」
    その君を信じたい。
    Sさん、今日も本気になって原稿書いていることと思います。
    Sさん、「君の名。の君に、」書かせてやってください。
    その言葉こそ、Sさんの中に蘇った「君」が真摯に誠実に語る言葉となるはずです。

    原稿、楽しみにしています。

    追伸:ふと気付いた。長年の問いだった。
       自分とは、「自然から分かたれた自分なんだ」と。
       つまり、普遍なる存在である中で、
       クマと言う限定された存在としてここに在るということ。
       クマは、その奥深くで自然のいのちそのものと繋がっていること。
       そことは、地続きで、ずっと一体であること。
       なのに、そのことをすっかりと夢のようにして忘れていること。
       「君の名は。」の問いは、ずっとずっと持ち続けねばならないこと。

       すると、いつか、その君と出会うこと。
       そして、君に出会った瞬間、きっと君だったとわかること。
       何故なら、私が君で、君が私だから。

       「君の名を。」

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  • from: クマドンさん

    2017年02月11日 09時16分44秒

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    まちのことは、自分たちが何とかするさ

    昨夜は、隣の町内の「井戸端会議」だった。
    そこに呼んでいただける幸いに感謝している。
    自分たちの住んでいるまちは、自分たちで善くしたい。
    そんな想いをもった現役を引退した人たちの集まりだった。
    何とも熱い人生を生き、これからもそれを貫こうとしている人たちだ。
    その気持ちが、私にあることを思い出させた。

    かって私は、この地域にだけ配られるかわら版に、
    クマさんとして、毎月1回3年間に渡ってコラムを書いたことがある。
    このきっかけが、まちづくりだった。
    まちのことを考えよう。
    みんなでどうしたら善くなるか思案しよう。
    こんなに頑張っている人もいるよ。
    まちにはこんな可能性もあるのでは。等々。
    当時は劇団もやっていたので、その劇の話もそこでした。

    どれだけの人が読んでいてくれたかは定かではないが、
    そんな原稿を毎月書いて掲載していた。
    その時の気持ちが、何だかこの熱き人たちと飲んでいると蘇って来るのだった。

    「何とかしたい」そんな気持ちをみんながもっていた。
    そして、「待っていられない」と、自分たちでできることはやろうとしていた。
    「今度はこれだ」と、実際にどんどん地域づくり・絆づくりを進めてもいた。
    そうした成果が、またこの人たちのやる気をどんどん促進している。

    願わくば、こうして自分の生活のことと共に、
    自分たちの住んでいる町内会のことを考えられる人たちが、
    その地域社会に生存してくれもらいたいものだった。
    我が町内には、その人が居なかった。
    足をひっぱるだけのトランプは居るが、
    「おい、クマさん、やろて」と言って、
    地域活動を推進する60代・70代の人が、残念ながらいないのだ。

    かっては、40代の私が、どんどん若い者を巻き込んで、
    子供会を中心に、餅つき大会・ハイキング・温泉旅行・懇親会等
    次々に企画して、実行して来た。
    やってよかったなぁと、今では懐かしい思い出だった。
    ところが、私が降りた後は、ぱったりと全くそんな行事はなくなってしまった。

    いかに呼びかけて、自分からやろうという人が大事てあるか、
    このことからもよく分かる。
    先輩方は、みんな年を取り過ぎた。
    若い者たちは、忙しすぎる。
    新しく町内会に参加した若者家族たちは、何もないことが普通になっている。

    「これでは、いかん」と、私は想う。
    またまた、私の眠っていたはずの血が騒ぎたして来た。
    あの「やろう会」を創った頃のように、
    今は、虎視眈々とその機会を探っている。
    その「包括的な構想」が出来上がったら、
    そのビジョンに向けて、
    80代までの20年間はその仕事に捧げたいと願っている。

    町内会で、私が退いた後に、全てのことが無くなったような形ではなく、
    私が亡くなった後も、持続可能なシステムとして、存続できるものとして、
    ここでそうした「包括的なシステム」を創りたいと願っている。
    それが私の最期の仕事となったら、嬉しいことだ。
    まさに黒澤明の映画「生きる」のように。
    なんちゃってね。

    昨日、こんな言葉がふっと浮かんだ。
    「このまちでよかったと言うまちもある。
     このまちに住みたいと言うまちもある。
     私は、このまちならぜひ住んでみたいと言うまちにしたい。」

    そんなまちに、きっと必ずいつかはなるはず。
    ここには、あの黒澤明の映画「七人の侍」のような、
    個性的な侍が揃っているのだから。
    できないわけは、ないと想っている。

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