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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2019年10月31日 05時37分06秒

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    「瞑想の会」で話すこととは

    話すことは、気持ちがいい。
    何だか自分のことが、よく分かる。
    心がすーっと解き放たれる。
    自由になる。
    心が開かれ、気持ちがとても楽になる。

    それは、ここで私がやっている独白ではない。
    私は、ここでも話しているつもりでする。
    今、ここで、気付いたことや、分かったことを、
    こうして言葉にして顕すことの喜びだからだ。

    しかし、対話は違う。
    ちゃんとそんな私の話をダイレクトに受け止めてくれる人たちが居る。
    自分が今、ここで、感じたままを、
    ただそのまんまを話すことのできる人の輪。
    それが、昨夜も行われた「瞑想の会」だった。

    初対面の人も居る。
    何度か会っていても、どんな人かもよく知らない。
    しかし、ここがとても居心地がいいから、平日の夜にここに集まる。
    鳥屋野潟の傍に移築された古民家だ。
    板の間に座ると、ひんやりとする。
    曲がった梁は、この家の歴史が沁みこみ、どっしりと重い。

    そんな中で6名の男女だった。
    年齢はみんな50代以上としておこう。
    私は、チェックインで、せっちゃんの臨終の話をした。
    すると、その話に触発され、Iさんが、「看取り」の話だった。
    そしたら、ポスビスで週一回ボランテアをしている女性が話し出した。
    そしたら、次に、看取りの看護を学んでいる女性が話した。
    不思議なことだが、どうも何か一つの話をしているような感じだった。

    みんな人の死を見ていた。
    何人もの人の死を看取っていた。
    自分の家族の死を体験した。
    これから死に向かう人たちの心のケアをした。
    そして、人が死ぬとはどういうことなのか、
    ずっと見つめた体験をしていた。

    すると、やっぱり、心の話になった。
    それは、魂の話かもしれない。
    死ぬ人は、その自分自身の死にざまを通して、
    遺される私たちに、何かを教えて去って行く。
    私は、父や母やせっちゃんに、
    死んでいくことの自然さと、
    その亡骸には父や母やせっちゃんは居ないことと、
    それでは一体どこに居るのかということと、
    それは、この亡骸ではなく、
    違う存在として共に居続けるのだということ。
    そんな話だった。

    この輪の人たちは、そのことに深く深く共感し、
    「そうだなぁ」と、思ってくれる人たちだった。
    その「魂」の話をしながら、ごくごくここにあることを話しているように、
    自分自身もそのことは体験したと、そんな感じで共有できる。
    そうした人たちとは、今、ここの気持ちを素直に話せる。

    しかし、この話を職場ではきっと出来ないなぁと想っている。
    家族でも同じだった。
    そして、改めて、この話を素直に話し、聴き合い、共感できる人が、
    本当に少ないことを感じた。
    「余生では、余計なことを話している無駄な時間は余り残されていない」
    「どうせ話すなら、いかに生きるか、魂と何かの話がしたい」
    「それぞれの人生経験の中で深くリスペクトできた話を聴きたい」
    そんな願いが叶えられる人たちの集まりが「瞑想の会」だった。

    月に一度のこの会を、私は楽しみにしている。
    それは、今、ここでの生活で、話せないこと。
    しかし、本当は話したいこと。
    それを、素直に、遠慮なく、安心して話せるからだ。
    それって、とてもとても精神の癒しとなるものだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月30日 05時39分01秒

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    絶対矛盾的自己同一とは

    絶対矛盾的自己同一。
    西田幾多郎の言葉だった。
    「100分で名著」の若松英輔さんが、その意味を教えてくれた。

    私は、高校生の頃に、この言葉と出会った。
    全くこの言葉の意味することが分からなかった。
    絶対矛盾的とは何だ。
    自己同一とは何だ。
    自他の区別を超えたものなのか、
    それても自分を無くすことなのか。

    いわば、このコトバから発せられる「問い」と出会い、
    その「問い」に促され、
    いつもいつもその意味を思考しつつ、
    ああではないか。こうなのではないかと、頭で考えていた。
    理屈でそのものを理解しようと努力していた。
    禅の本を読み、先師の言葉を通して、
    同じ意味ではないかと思索した。
    しかし、そのプロセスからは、
    この絶対的な矛盾を自己同一することは不可能だった。

    そして、ここまで自分に与えられた宿命でもある人生を歩いた。
    いろいろな試練と出会い、多くの失敗と災いとの中を生かされた。
    それはそれで、そのつど私にとっては大いなる学校だった。
    そこを逃げない。
    そこを受け入れる。
    そして、どうして私なのかと、その宿命の意味を深く深く考えた。

    その考えている最中に、私は、コトバと出会った。
    それは、池田晶子さんだった。
    その案内役は、若松英輔さんだ。
    彼は、私の高校の後輩であることも後から知った。
    私は、N大の病室のベッドの上で、一冊の本と出会った。
    衝撃だった。
    もはやこれからの人生が全く予測できない状況に置かれ、
    痛みと苦しみに夜もぐっすりと眠られず、
    身体を動かすことすら難しい状態の中で、
    私は、考えることだけは、冴えていたように感じたる

    だから、絶えず、その「問い」の答えを探し求めた。
    このベッドの上の何も役に立たないでくのぼうに、
    生きている意味は、果たしてあるのか。
    いつ仕事に復帰できる見通しも無く、
    こうして病室で日々暮らしている私に、どんな希望が残されているのか。
    しかし、コトバは、その時、私に力を授けた。
    それは、天からの恵みである「意味」としての力だった。

    きっとそうなんだ。
    「意味」の無いものは、この世には一つも存在していないはずだ。
    存在すると言うことそのものが、
    天から与えられた「意味」なんだ。
    その「意味」を見失い、そもそも「意味」があるということを忘れたまま、
    人とは、生かされているのではないだろうかの、気付きだった。

    だから、自分がここに在るという「意味」こそ、
    私が、ここに生かされている「意味」なんだ。
    その「意味」に気付き、その「意味」を分かり、その「意味」を生きる。
    それが、この世で私が生きるということだ。

    苦難はありすぎるほどだ。
    悲しみは多い。
    悩みは尽きない。
    しかし、この「悲哀」を通してしか、
    私はきっとその「意味」の微かな光や、
    微かな呼びかけを感じられなかったのだと想う。

    臨港病院で内視鏡手術を失敗し、
    目が覚めたら地獄のような激痛だった。
    胆管を切断してしまい、胆汁が内臓を満たした。
    腹膜炎で、敗血症にまで至った。
    その段階で、臨港病院から見捨てられた。
    救急車で運ばれ、N大で生存率五分五分の10時間の手術。
    幸運にも一命はとりとめた。
    しかし、そこから長期の入院生活だった。

    今は、このことを感謝している。

    「悲哀」であり、「無常」である。
    そのことを実感する。
    深く深く諦める。
    それでも、人は、今日を生きねばならない現実。
    「絶望」のどん底であろうとも、人は、今日を生きねばならない。
    それは、どんな状況であろうとも、
    人にはその人としての生きる「意味」が必ず存在しているからだ。
    その「意味」と出会わない内に、その「意味」を分かたないうちに、
    人は、絶対に死なないし、死んではいけないのだと、私は思った。

    そして、その「意味」とは、ここにあるもの。
    みんなの内に必ず存在するものだ。
    気付くか気付かないかどうでもいい。
    ただねその「意味」は誰にでも、全ての人に、全ての命に「ある」ものだ。
    それを分析的に、客観的に見つめられない。
    何故なら、私の目が自分のことを見ることができないように、
    この「意味」そのものの私を、
    私がどうして見ることができるかの「問い」だからだ。

    「意味」は、1人1人の多としてみんなみんながもって生かされている。
    しかし、自分のことや、自分の欲や、自分の我執が優先するから、
    「意味」はそっと静かに水の底に沈んだままで、
    じっとその発見されることを待っているだけ。
    自分を自分だと錯覚している私。
    死ぬと言うことは、そんな「自分」が存在しなくなることだ。

    では、自分という「意味」は消えてしまうのか。
    いや、絶対にそうではない。
    この「意味」は、普遍な「意味」だ。
    それは、プラトンの言う「イデア」でもある。
    それは、ソクラテスの言う「魂」である。
    そして、その「意味」は、一つなんだ。
    私たちは、その一つの「意味」を共有して、生かされている私たちなんだ。
    つまり、1なんだな。

    「多即一」「一即多」
    このことを、信じられるか。

    今、この二階の窓から向こうにIさんのお宅の灯りが見える。
    90歳近くのご夫婦の生活だ。
    私は、そのIさんの老いの辛さ、苦労を想う。
    それは、私なんだなの、共感だ。
    Iさんは、私だ。

    私は、昨日、ゴスペル礼拝に参加した。
    心を込めて、気持ちよく、大音量の賛美をした。ゴスペルを歌った。
    何だかいつものように深く深くから涙が湧きだして来た。
    ああ、イエス様の愛って、これなんだなの感動だった。

    今は、「絶対矛盾的自己同一」だと思う。
    それしかないと、そう確信している。

    私がこう生かされるようになったのも、
    若松英輔さんと出会えたからだ。
    そして、生かされる「意味」と出会えたからだった。
    それは、「悲哀」と「絶望」と「苦難」の先にしか出会えない、
    神様からの恵みであり、愛であった。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月29日 05時46分57秒

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    哀悼 八千草薫 様

    八千草薫さんが亡くなったとの知らせだった。
    88歳だった。
    憧れの女優さんだ。
    あの清楚な佇まいと、優しい笑顔と、あの声と、
    何とも言えぬ素敵な女性だった。
    また1人、昭和の大女優とのお別れとなった。
    ご冥福を心からお祈りします。

    何だろうなぁ。
    「美しいなぁ」と、想える女性の顔立ちや感じが、似ているのはどうしてかなぁ。
    私が、女優や歌手の女性で憧れる人は、
    何だか似た感じの人たちばかりだった。
    そこには、きっとそう感じさせる何かの共通点があるとは想う。
    しかし、その共通点が何かは、はっきりとは言えない。
    何だかその人なんだとという思いが既にここにあり、
    その想いと姿が一致する人と出会うと、
    「この人だ」と、感ずるような気がする。

    酒井和歌子さんもそうだった。
    私は、小学4年生での時、映画館で彼女を観て、心が奪われてしまった。
    あの胸が切なく、虚しく、苦しく、
    どうしてもまた会いたいと言うあの空っぽな気持ちだ。
    あれは、私が生まれる前から存在していたDNAに、
    彼女が顕れ、ヒットしたのだと確信している。

    つまり、私が八千草薫さんを好きになり、
    酒井和歌子さんを好きになったのには、
    ちゃんとした理由があり、法則があったのではないのかの話だ。

    Tさんのブログに若村さんという女優さんが映っていた。
    「ああ、きれいな人だなあ」と、私が感じた。
    そのことをTさんが感じたから、きっとこの写真を載せたのだと想う。
    そしたら、その下に、Tさんの友達の女性から、
    「若村さん、きれいですよね。私も大好きです」と書き込みがあった。

    この時だ。
    「どうして同じ人を、違った三人が美しいと感じたのか」の問いが生まれた。
    というか、私たちには、その若村さんのような女性を美しいと感ずる、
    共通のDNAが授けられているということではないだろうかの驚きだ。
    そう考えると、腑に落ちることが多くなる。

    私が先では決してないのだ。
    きっとその人と出会ったら、そう感ずる何かを私はもっと生まれて来たのである。
    心の琴線に触れるという言葉がある。
    言葉があるということは、その琴線は存在している。
    その琴線の存在を信ずれば、何だかこのことは説明できる気がした。

    その琴線は、生まれる前から私には与えられている琴線だ。
    その琴線に触れ、その琴線を揺らし、響かせるものだけが、
    私にとっての真実の美であり、本物なんだ。
    ある女性を美しいと感ずることや、美しいものと出会い思わず涙することは、
    この琴線に触れたからの顕れなんだと私は思った。

    だから、この余生では、
    その琴線に触れる美だけを求めて旅してもいいのではないかと、
    ふとふとそんなことを考えた。

    美とは、全てのものの昇華であり、包括した存在なのではないだろうか。
    「美」は、「真実」であり、「善」でもあると、
    62歳のクマは、確信するのであった。
    だから、まず「美」なんだ。
    その「美」は、見ることも、聴くことも、触ることもできるからだ。
    そして、その「美」に魂の琴線が降れ、動かされることを「感動」と呼ぶ。
    心から感動し、震えた時、
    私は、きっと「真実」と「善」とも一緒に味わっているのである。

    なんてね。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月28日 05時35分46秒

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    閉校式での涙のわけとは

    土曜日、旧神林村立「砂山小学校」の閉校式だった。
    校舎はこのままで、そこに平林小学校と合併し、平林の児童がやって来る。
    校名は、「平林小学校」となる。
    閉校式をしても来年の4月からも、この校舎で学べる。
    児童数が増えて一層活気のある学校となるだろう。
    しかし、「砂山」という名前は消えることとなる。
    そんな閉校式だった。

    私は、その子どもたちの呼びかけと歌に泣かされた。泣かされた。
    とにかく、どんと感動が内から込み上げ、
    みっともないくらいに涙が止まらなくなってしまった。
    身体を震わせ、嗚咽しそうだった。
    私は、ここまで感動している自分自身を見つめ、
    どうしてなのかと、考えた。

    それは、本物のミュージカルと出会った感動と同じだった。
    こんなにピュアで、真っ直ぐで、素直な気持ちで歌われている歌はないな。
    あるがままが、ここにある。
    その1.2年生が。3.4年生が、5.6年生が、
    けっして作り物ではなく、日々、ここに生活しているままの気持ちで、
    その歌は歌われていた。
    それは、「優しさ」そのものだったと想う。
    そして、「友情」と「感謝」であったとも感じた。

    そうした大切なピュアな気持ちが、そのまま歌や姿に顕れている。
    その時、私の内なる「優しさ」や「友情」、「感謝」が感じて動いた。
    私の中にもあるものだから、
    私はその歌たちによって、触発され、露わになった。
    それが、私の涙なんだと、考えた。
    「美しさ」に出会うと、人は、その美しさに感動し、
    そうして深く深くで感動している自分自身に出会う。
    それは、自分自身の中で眠っていて、久しく自覚していなかった自分自身だ。

    涙とは、その自分自身との邂逅の喜びなんだ。
    ここには、自他はない。
    子どもたちの歌は、私であり。
    私は、子どもたちの歌そのままの私だった。
    絶対矛盾的自己同一だろうか。
    これが純粋経験と言われるものであろうか。
    没我のまま。歌しかそこには存在していないという不思議な感動。

    ピアノの若い男性教員の音がやかった。
    その音が気持ちとなって子どもたちの歌を支え、演出していた。
    歌に深い「意味」を持たせ、伝えていたのは彼のピアノだった。
    そのピアノの響きで、想いは触発された。
    子どもたちは、その「意味」を歌った。
    だから、あるがままでありながら、
    そこに「意味」があるから、私にはより深く感じられた。

    卒業生のSさんが作詞作曲した「ありがとう」の歌が素晴らしかった。
    いろいろとあり、時には挫折しそうになっても、
    そこに友だちが居てくれて、話を聴いてくれた。助けてくれた。
    今、私がこうしていられるのは、あの時、あなたがいてくれたから・・・。
    そんな「意味」の歌だった。
    この歌が、心に響いた。
    それは、このSさんという30代の女性が、
    その歌のまま生きたピュアな人だったからだ。

    私が6年生を担任していた時、5年生だった。
    私のことをよく覚えていてくれた。
    あの頃、私は熱血漢の馬鹿者で、黄色い鉢巻きで檄を飛ばした。
    若かったなぁ。音楽発表会ではバーンスタインの指揮だった。
    Tさんのお母さんが私の席に来て、
    「先生、あの音楽会、感動したよ」と、言ってくれた。
    ああ、馬鹿者でよかったと、いつも想う。

    私は、恥ずかしいくらい、目を真っ赤にはらした。
    Sさんに挨拶に行った。
    「先生、泣いてるよ。アッハハハ・・」だった。
    ただただ、「お前もなぁ・・・・・」と、何も言えない。
    年長さんの男の子と手を繋いでいた。
    「お母さん、すばらしい歌、つくったね・・・」と、言った。

    2年前、太田小学校の閉校式で、
    ミュージカル「春のホタル」の歌、「ふるさと」が北区フィルが演奏した。
    私は、滂沱の涙で、身体が震えた。
    あの時の感動を、こうして私は、ここで味わっていた。
    隣の私の元同僚のTは、そんな私を見て、
    「クマさんは、感受性が強いからな・・・」と、笑っていた。

    それから、二人は、村上に行き、
    焼肉屋の名店「しらさぎ」で、しこたまレバーとカルビとホルモンを、
    生ビールを飲みながら、食べ続けた。
    このお店での話は、またいつか書きたいと想っている。

    とにかく、閉校式の実行委員長の涙もそうだが、
    涙を流す大人は、やっぱりいていいと、私は思った。
    しかし、私は、ところかまわず、泣き過ぎであるかもしれないなぁ。
    「クマさんは・・・」と、またTに笑われるなぁ。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月26日 08時16分47秒

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    ボサコルデオンだなぁ

    昨夜は、シンさんのお店でのライブだった。
    このコンサートは、今回で7回目となる。
    vocalとguitarはさとうえみさん。
    accordionとvocalは田中トシユキさんのduo。「ボサコルデオン」だ。

    私は、二人の音楽が大好きで、よく追っかけをしてあちらこちらのライブに通った。
    そこで、知り合う。そこで、言葉を交わす。そこで応援する。
    そうした関係の中で、お互いがお互いを知ることとなる。

    とにかく私が惚れることだった。
    その創り出される独自の音楽世界に心から浸ることだった。
    その音楽は、ある意味私の郷愁であり、ノスタルジーでもあった。
    それは、田中さんと同時的に、同じ時代を歩んで来たからだった。
    映画音楽にしろ、シャンソンにしろ、荒井由実にしろ、ボサノバにしろ、
    その音は、いつもいつも心懐かしいあの風景と一体となって現われて来る。

    「ああ、あんな時代がぁったな」
    「そうだ、この映画は小林劇場で観たなぁ」
    「お金はなかったけど、何だか懸命に生きて来たなあ」と、
    若かりし頃の、あの何もできず、何ももたない、あの頃の、
    そんな私が、この音楽によって蘇って来る。

    その時代があり、あの苦難が在り、あの寂しさ辛さがあったから、
    今がある。
    それは、accordionを演奏する田中さんも同じだと想う。
    ただ、音楽を奏でてはいないはず。
    その音楽と共に、深い深い想いが託されている。
    その想いが、その瞬間瞬間の音となって現われる。
    その想いをきっと、60代の私たちは、共有している。

    これが、20代、30代にはまだまだ感じられない境地だと想う。
    私たちには、荒井由実に青春の光と影が在る。
    これから何になろうとしているのか。
    何ができるのだろうか。
    どこへ行こうとするのだろうかと、ラジオの深夜放送を聴いていた。
    パックイン・ミュージック。担当は、林芳雄。
    秋吉久美子・桃井かおり・原田芳雄が登場した。
    流れる曲は、荒井由実・山崎ハコ・原田芳雄等等。

    憧れのスターたちは、私にとっては生き方のモデルだった。
    東京に行こう。東京で映画を観よう。東京で生きてみよう。
    我が家はお金が無かったから、私はY大学の夜学に通った。
    そんな金の無い寂しい時代に、ラジオからの音楽は何よりもの慰めだった。

    不思議なことだが、6回目の田中さんのソロコンサートで、
    私は、田中さんの音楽を聴きながら、思い出されてのは、
    そんな高校生から大学生の、あの孤独で辛く、何だか寂しい時代だった。
    しかし、そのことは、今はかけがえのない懐かしさだった。
    その貧しい時代を東京の片隅の、銭湯の煙突の下の四畳半で過ごした。
    テレビは無い。電話は無い。あるのはちょっとでっかいラジオカセットだけ。
    そこで、聴いた音楽が、昨日のコンサートで演奏された。

    音楽は、まさに心のアルバムだった。
    その時の私の想いと、その時に聴いた音楽とは、マッチしている。フィットしている。
    そして、語るようにして歌われるえみさんのvocalには、
    いつもいつも心魅せられる。
    聴き入る。心奪われる。歌そのもの。とうとう、私はバックで歌ってしまった。
    その心地よさ。何だろうなぁ。心地いいんだ。本当に。

    そんなライブコンサートが、昨夜終わった。
    いつものようにその音は、もうこの世界中のどこを探しても見つからない。
    音は、消えることで、心に遺る。
    しや、消えるのではなく、その音は、1人1人の心に沁みる。
    沁みこんだ音として、1人1人が我が家に持ち帰る。
    そのために、音は、きっと消えなくてはならない。
    だから、その音は、ここに沁みでいる。

    そうした心に沁みる音たちに出会えることは、奇跡でもある。
    「ボサコルデオン」本当に素敵なduoだ。

    グラッチェ・ダンケ・メルシー・ボサコルデオン。
    また、来年もお願いします。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月25日 05時46分17秒

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    魂の介護・魂の看取り

    いやはや、昨日は体調がすこぶる悪く、難儀した。
    まず、身体なんだと、いつも感ずる。
    具合が悪い時は、気持ちも落ち込む、やる気も出ない。
    そして、回復には時間がかかる。
    身体は、歳相応に反応している。

    前日Tさんと吉原で飲んだ。
    ちょうど出会うタイミングだったようだ。
    メールしたら、メールが既に届いていたことの驚き。
    妻が遅くなるとのことなので、長男も呼んだ。
    ここのタレかつの味は絶品の味だった。
    私は、その大盛の丼のタレかつ一枚をいただき、
    それを食べながら〆張鶴を飲んでいた。

    何でも体験・経験だなぁと想うことが多くなった。
    私は、父と母を亡くしている。
    私は、介護施設については父や叔母のこともあり知っていることも多い。
    それは、私が遭遇した事実から学んだことだった。

    初めての時は、本当に手探りだった。
    介護についてはケアマネに全面的にお願いをした。
    介護保険とはどういう保険なのか。
    その保険を活用できる人は、どういう人なのか。
    要支援・要介護の違いとは何か等、その時その時で学んで自分の知識とした。

    そして、お年寄りでもこの介護保険についての知識を持っていない人や、
    自分が現在の状況でどんな支援を受けられるのか、
    分かっていない人が大部分だということも、私は理解した。
    支援制度があっても、もの制度の存在すら知らなかったら、
    その制度は困っているお年寄りのためには、何もなっていないということだ。

    それから、介護は本人のためでもあるが、
    家族のためにも在ることを身をもって理解した。
    施設に親を入れることに抵抗感を感じている家族も少なくな現状だ。
    できれば家での介護を、親の為に望むという人だ。
    しかし、その選択は、その人自身と親自身の幸福感にかかわる問題だ。
    お互いが理解し合い、助け合い、優しい気持ちで介護したりされたりするためには、
    介護施設の入所は、大事な選択なのだということだった。

    世間体が悪い。兄弟姉妹から悪く言われる。親が可哀想だ。
    たしかに、そうした気持ちから、自宅での介護を引き受けている家族も多い。
    しかし、その介護する親が身体が不自由で車椅子の生活だったり、
    認知症があり、目を離せない状態であったら、
    その家族一人一人の負担とは、相当重いものとなってしまうものだ。
    何よりも、介護には休日も祝日もない。
    毎日毎日の介護が、いつ果てるとなく延々と続く。続く。

    私は介護休暇で、父と母、妻と三人の入院生活を支え、毎日二つの病院を回った。
    その時、父のことを病院が引き受けてくれたからよかったもので、
    もし、あのまま父が在宅だったら。私は言うことをきかず、酒ばかり飲んでいる父を、
    考えるだけで恐ろしいが、どうしてしまったかは、きっと分からないことだった。
    脳梗塞で倒れた父を、救急車に乗せ、
    救急隊員に母の入院しているK病院にぜひぜひお願いしますだった。
    その病院での受け入れが決まった時、ほっとして涙が流れた。
    それほど、父と二人だけの暮らしが私にとってのストレスだった。
    私は、父のことを相談しながら、
    ケアマネの前で涙が止まらなくなったことを覚えている。

    介護で一番大事なことは、看護される本人よりも、
    その介護を選択した家族の心のケアなのだと、いつも想っている。
    そんな話をTさんとできるのは、
    私が彼のようにその辛さを経験しているからだった。

    本当に人生はいろいろと向こうから勝手にやって来るものだ。
    「何で、私なんですか」「どうして、私ばかりこうなんですか」と、
    恨みや嘆きも多々あり過ぎるくらいだった。
    それでも、こうやって今は、62歳の自分を生きている。
    いや、きっと生かされているからここに至れたのだと信じている。
    おかげさまで、通夜と葬儀についても、見通しをもって段取りを組める人となった。
    介護と葬儀の相談なら、任せなさいになった。(笑)

    今、50代の父親たちは、きっとこれから向かわねばならない課題だった。
    老いた父や母をどう見守り、どう支援し、どう見とるか。
    それは、生命としての存在者である、私たちには必須の出来事にしか過ぎなかった。
    そうならない人は、この世の中に1人もいないはずだ。

    老いる。衰える。病になる。身体が不自由になる。誰かに助けてもらう。
    叔母は、自立した生活が出来なくなって、病院から施設に移った。
    そして、認知症になると、何を考えているのか分からなくなってしまう。
    そうなると、自分の命がもうすぐで果てようと言いう事実も知らない、感じない。

    私は、そうして生きて、亡くなって行った、父と母と叔母を見つめた。
    この厳粛な事実は、私にもいつか必ずやって来る事実だ。
    その時、どう生きてたいのか。
    そのことを、私が想うと、年老いた人たちに何をしてあげたらよいのか、
    分かるような気がする。

    私は、父と母と叔母から、老いと死を学んだ。
    そのことの先生が、父や母や叔母だった。
    そして、そこで学んだことを真摯に受け止めた。
    裏を見せ、表を見せて、散る紅葉だった。
    しかし、その死に対しては、私には救いがあった。

    それは、「魂」を信ずることだった。
    父の魂・母の魂・叔母の魂。
    それは、生前もそこにあり、亡骸となり骨になってもここにある。

    介護や死を看取るということは、
    魂の世話をし、魂を受け入れることではないかと、
    今は、少し想えるようになった。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月23日 05時35分11秒

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    個と全体の調和とは

    北区の「歌の祭典」の合唱団の稽古だった。
    午前中は少しだけCDを聴いて自主練習だった。
    こうして、週の途中に休日のあることは、ありがたいことだった。
    何だか人生が充実した感じがする。
    仕事もあり、好きなこともありだ。

    私は、楽譜を読めない人だ。
    読める人は、譜面を見ただけで音をとって歌える人だ。
    そうしたすごい人とは、時々出会う。
    私は、その人の前に座る。
    そして、その人からその音をいただく。
    その音を真似る。その音と一つになる。

    CDでの自主練習もそうだった。
    その音は、決められた一つの音。
    その他に微妙に揺れる音は、ただの雑音。不協和音。
    その瞬間にその高さの音を出す。
    八分音符の連続や、♯や♭があると尚更大変だ。
    半音ずつ下げたり、上げたりだ。
    それを、感覚でしっかりと自分のものとしていないと歌えない。

    YouTubeで「プロコフィエフのピアノ協奏曲の2番」の全曲だった。
    あの映画のように美しいピアニストが、コンテストでの挑戦だった。
    まさに目にも止まらない指さばきだ。
    それも全て暗譜だった。
    それはそうだろう、あの速さでの音の連続は、
    身体が覚えていなければ、その音を弾き続けられはしないからだ。
    身体と音とは一体となっている。

    つまり、こうなんだな。
    私が居て、音がある。それでは、まだまだの感覚だ。
    稽古の途中で、何小節目から歌い出すことがある。
    流れの中ではその音はとれていても、
    まだまだ身体に全体が沁みこんでいない時は、
    その音から始めることが私には至難だった。

    音は、作曲家によって設定されている。
    その音を、楽器は鍵盤を弾いたり、ボタンをある位置で押さえたり、
    弦を指で押さえて弓を弾いたりすると、その音は出る。
    しかし、歌には、その鍵盤も、ポジションも、弦もなかった。
    この耳だけが、その音感だけが、頼りだった。
    それが歌うことの醍醐味でもあった。

    声の響きが変わってきている。
    62歳ににってからも、日々の成長、進化だった。
    バリトンの響きのある豊かな音だ。
    昨日は、バスは二人だった。
    20名以上のソプラノ・アルトにどっこい負けずに歌うことができていた。
    それは、確かに自主練習の成果だった。
    しかし、こうして男性が少ない現状では、
    私が抜けたり、休んだりすることは難しくなっている。
    だから、まずは、音を身体に入れて、沁みこますことだった。

    そのために、何度も、何十回も繰り返し繰り返し練習を続ける。
    実に、繰り返しは、偉大な力なんだ。
    そうやって自分の音を練って行くうちに、
    ぶれが修正され、一つの正確な音を出せるまでになって来る。
    この一致が、歌うことの喜びだった。

    その音を身体に沁みこます。
    その音だけになる。
    その音からぶれない。
    歌うのは私ではなく、その音が歌うんだ。

    不思議なことだが、本当に全体のハーモニーの中に融け込んだ時、
    私が歌っているのではなく、歌が歌っている感覚になることがある。
    そのあるがままの音との一体感、一致感。
    何と言うかなぁ、その音は四つのパートの1つであるが、
    その四つの音が美しく重なる瞬間、
    その四つの音は昇華され、歌として響きをもって歌う私自身の心に沁みる。

    全体の調和の中での別々な音の一体感。
    このハーモニーを実感するために、私は、歌を歌い、人生を生きている。

    その調和の中に、本当の道は存在している。
    そのことを知りたくて、分かりたくての、日々の自主練習だ。
    私がその調和に至るためには、日々の生活での精進と実践だった。
    私に与えられたその道と一枚になる。
    その道を外さない。
    その道だけを只管歩く、歩く。
    そして、その道を歩くことに慣れた時、
    きっと私は、全体に調和して、
    全体の中で一つになって生きられるのかもしれない。

    個であるが、それは、全体の中で調和する個であるべきなんだ。
    きっとそこに、心地よい生き方もあるはずだと、
    合唱を通して、学ぶことができた。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月22日 06時41分03秒

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    叔母の困り感をどう助けるかだな

    歳をとるとどうなるのか。
    私は、現実に叔母や叔父たちからそのことを学ばさせられている。
    歳をとるということは、まずやはり弱ることであり、衰えることだった。

    昨日、せっちゃんの凍結された預金から、
    何とか葬儀費用だけでも支払ってもらいたいと、銀行に叔母たちが行った。
    現在の制度では、預金者の家族を保護するために、そのことが許されていた。
    しかし、そのために何種類かの戸籍や書類を用意しなければならなかった。
    このことが、なかなか84歳と90歳の叔母たちには高いハードルだった。

    私は、区役所の窓口と銀行の担当者に直接会って話を聴いた。
    必要な戸籍とその手続きの仕方を教えてもらった。
    しかし、そのことを実際に行わねばならない叔母は、
    いくらその内容を説明しても理解できなかった。

    日曜日の午前中、
    私がSさんと電話をしている15分間にも3本の電話が入った。
    その戸籍を自分が取得できるか、心配した叔母からの電話だった。
    「今、電話で話し中だから、後でするよ」と、家電で叔母に言った。
    すると、また、数分後に家電が鳴った。叔母だった。
    「あのさ・・・」と、話始める。
    「今、電話中だから・・・」と、切ると、またすぐに電話が鳴る。
    それから、暫く鳴らしたままほっておくと、
    がらっと我が家の門の格子戸が開いた。
    すぐ近所の叔母は、直接我が家に訪ねて来たのだ。

    それでは、どんな緊急な要件だと想うと・・・。
    「クマさん、明日、私、大丈夫らろっかね・・・」の確認だった。
    「叔母ちゃん、それって、今、ここでしなくてもいいよね」と、呆れた。呆れた。
    しかし、本人には、とてもとても深刻な問題だった。
    とにかく、月曜日の午前中に自分が区役所に行かねばならない。
    その必要とする戸籍をちゃんと受け取ることができるか。
    失敗しないかの心配と不安だった。
    叔母は、いつもこうしていろいろな不安を抱えて悩み、生きている。

    私は、その後、電話を終えてすぐに叔母の家に行った。
    叔母は、とにかく「何をどうしたらよいのか」頭の整理がつかないようだった。
    私は、封筒を3つ用意した。
    「区役所用」「銀行用」「セレモニー用」だった。
    その封筒にそれぞれの名前を大きく記した。
    そして、1枚1枚その請求に必要な書類を見せ、
    その書類に記載すべき事項とその書類の意味とを教えた。
    しかし、何度同じことを私が言っても、叔母の不安は消えなかった。
    「クマさん、明日、大丈夫らろっか」

    叔母には二人の娘がいるが、長女は県外で、次女は平日仕事だ。
    平日の叔母のこうした動きには、誰も手助けできる人は居ない。
    90歳の叔母には50代の娘が居る。
    彼女は平日動けるので、叔母を連れて行動ができる。
    しかし、彼女には、その支援が期待できない。
    さてさて、独り暮らしの高齢者の悩みの原因の1つでもある。
    だから、80歳になっても免許を返納しないわけである。

    さてさて、昨日、その当日を迎えた。
    叔母は、行動できなかった。
    昼を過ぎて、銀行との約束の時刻になっても、まだ家に居た。
    「どうすればいいんか、わかんないよ」と、90歳のK叔母に電話だった。
    「何言ってん。もうすぐ銀行との約束の時刻だよ」と、のk叔母も焦ったそうだ。
    実際に、9時には区役所に行くことを決めていたはずの叔母は、
    どういうわけか、昼を過ぎても家を出ていなかった。
    きっと何かの不安があって、そのことが心配で、行動できなかったのだと想う。
    家族が一緒に暮らしていたら、こうはならない。
    これも独り暮らしの高齢者の悩みの1つだ。決断と行動が、独りでは難しい。

    それから、叔母は、いっそう頑固になっていた。
    私がいくら分かりやすく説明しても、その話は聴いていない。
    一番最初に疑問に思ったことに執着して、そのことが頭から離れない。
    しばらくしてから、「叔母ちゃん、分かった?」と訊くと、
    「クマさん、これってどうなるん・・・」と、
    一番初めに説明した話に戻る。
    それは、聴いていないのか、理解していないのかは分からないが、
    とにかく、いくらいくら説明しても、もどかしいくらい理解しない。
    「やっぱり、こうするさ・・・」と、最後は自分の意志を通そうとする。
    それでは、こんなにも時間をかけて説明したことは、無駄だったのかだ。

    それなのに、「クマさんだけが頼りだは」「頼んだよ、クマさん」と言う。
    本当にそうなんだ。84歳、独り暮らし。足腰も弱り、認知症にもかかりかけている。
    いつもいつも心の中は不安だらけで、どうしたらよいのか分からない状態だ。
    相談する人や、話し相手すら家には居ない。
    じっと独りで閉じこもり、天気が悪ければ外にも出ない生活が続く。
    そんな1日は、きっと辛くて永いことだ想う。
    自分の為だけに食事を作ることがおっくうになる。
    部屋の掃除や片付けにも意欲がなくなる。
    いつの間にか、茶の間のテレビの前からじっと座って動かない。

    実は、亡くなったせっちゃんは、この叔母の後ろの家に独り暮らしだった。
    だから、せっちゃんが生きている間は、まだよかった。
    せっちゃんが来た。せっちゃんと話した。時には、せっちゃんと喧嘩した。
    それでも、姉であるせっちゃんを頼りに、叔母は生きられた。
    その大事な人を、叔母は失った。
    せっちゃんが倒れてから3年間、叔母は独り暮らしの中で弱り、衰えた。

    さてさて、叔母たちには、私は頼りにされている。
    亡くなったせっちゃんの喪主までした。
    叔母の喪主も生前に引き受けて在る。

    しかし、私は、どうだろうかの「問い」だった。
    まず、叔母の歳まで生きられるかだ。
    そして、私も叔母のように身体が弱り、衰え、自由にならなくなるとの自覚だ。
    それから、やっぱり認知症は避けられないだろうなぁという哀しい予測。
    ならば、家族には迷惑をかけないで、さっさと逝ってしまいたいとは思うが、
    この寿命は、神様のくださるものだ。

    叔母とこうして付き合っていけるのは、
    私が介護の勉強をして資格をとり、高齢者の現実を少しは理解できるからだ。
    そして、いずれ行く道と、共感的に同情的に叔母のことを思いやられるからだった。
    のことは、家族にとってはなかなかできず、難しいことだった。
    実の母親でなく、幼い時から可愛がってもらった叔母だからこそ、できることだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月21日 05時40分39秒

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    独りで生きる力を

    ラグビーが負けた。
    南アフリカは鉄壁のデフェンスだった。
    後半は、自陣での辛い辛いラグビーが続いた。
    それでも一歩でも前に進む。
    その姿に、どんだけ勇気をもらったことか分からない。

    「にわか」と言われている。
    さすがにジャージは買っていないが、
    我が家では昨夜の試合は、家族での観戦だった。
    それほど私たちの心をつかみ、夢中にさせる何かがラグビーにはあった。
    私もそうだ。

    倒されても、倒されても、立ち上がって、攻撃に参加する。
    瞬時に状況判断して、その瞬間の役割を自ら決める。
    弱いところがあったら、サポートに廻り、
    押している力の中に入り、私もその力の1つとなる。
    大男が突進して来る。タックルに向かう恐怖心を克服だ。
    そして、倒されても、倒れても、立ち上がる。
    そして、ファイテングスピリット。
    闘いはノーサイドまで続く。

    先週の金曜日に、私の大きな試合は、終了した。
    あれがきっと私の人生で最後の研究授業となると想う。
    この仕事には退職後は、戻らないつもりだった。
    半年間、遊んだ。
    というか、それまで自分が平日できなかったことをやった。
    面白かった。いろいろ学んだ。そして、自分が豊かになっことを感じた。
    しかし、呼び出された。
    現役を引退したラガーマンが、再び復帰したようなものだった。

    その時、職場と人とが、違って見えた。
    客観的に、冷静に、自分の想いではなく、あるがままにそれが見えた。
    そのことは、私にとっては驚きだった。
    そして、とてもとてもそのことを新鮮に感じられた。
    疾風怒濤の中で先生たちは、自らの命を削って仕事をしていた。
    山のように積まれた目の前に来る仕事を、
    次々と処理することでいっぱい、いっぱいだった。
    私は、そんな姿を見て、かっての私のことを思い出した。

    「もう、それはやらない」
    「ゆっくりとやる。できることだけをやる。無理はしない」だった。
    そして、いつの間にか一年と一カ月がたっていた。
    私の仕事は、来年の三月までだ。
    そこに至ったら、あの子たちを卒業させて、きっぱりと引退する。

    それは、この仕事に就かれたからではない。
    この仕事は、私にとっての天職だったと、改めて感じている。
    だから、子どもたちとは、ずっとずっと何かでかかわっていたい。
    しかし、組織の中で、過剰な仕事の中で、子どもたちと向き合うことは、
    やっぱり、もういいと、心で想っている。

    昨日、Sさんと、久しぶりの電話だった。
    彼の82歳での気付きと発見だった。
    彼は、原点に戻った。
    自然のあるがままに回帰した。
    そのことが「とてもとても嬉しい」と言っていた。
    幾つになっても「日々新た」なんだ。

    「続けない」ことが大切だと、歳をとって想っている。
    それは、続けるためだけに、苦労することがもう嫌だと感ずるからだ。
    綴れるために、誰かが難儀しなければならない。
    続けることの意味は知っていても、
    その仕事を自分が任されることに大きなストレスを感じたら、
    私は、降りることにした。

    畑の事務局がそうだった。平日、動けない。それでも、動けと言われる。
    そのことに耐えられなかった。ストレスだった。
    「事務局の仕事だ」「早く出せ」では、何の為にリタイヤしたのか分からなかった。
    M委員もそうだ。どんだけ断り、無理だと言っても、
    「成り手が無いから」と頭を下げられた。
    「平日の会議は、俺が出るから」と、まんまと騙された。
    調査や訪問が定期的にあることなんか、聴かされていなかった。
    そして、私に頼んだその本人が、
    「あいつは、自分からやると言っておきながら、やる気のない無責任なやつだ」と、
    あちらこちらで私の悪口を言いふらしている。
    これが、世間だ。世の中だ。

    私は、そこからも降りることにした。
    心静かに、穏やかに暮らしたい。
    地域活動からは、一切、降りることに私は心で決めた。
    そしたら、すーっと楽になった。
    もはや、自分のことは棚に上げて、人のことをとやかく悪く言う関係から、
    私は、リタイアした。

    結局、こうして、本当の意味で、独りになった。
    そして、これからも独りで生きることに私は決めた。

    だから、まず、来年の三月までは、このチームの一員として仕事する。
    しかし、そののチームの中においても、私はね独りだった。
    それでいいし、それしかないと、私は想っている。

    そして、ラガーマンから学んだことも、この独りで在るということだった。
    全体の中で独りで生きる。
    瞬時の状況判断と決断と行動とは、独りが決するもだからだ。
    その独りで決する力が、私にはあるのかの「問い」だ。

    人は、独りで生きることから、新たな何かが始まるもののようだ。

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  • from: クマドンさん

    2019年10月20日 06時49分09秒

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    気楽に日々を生きるだけ

    1つが終わった。
    小さなことだが、私にとってはとても味わい深い達成感だ。
    ここので来れた。
    それは、確かに自己満足に過ぎないが、
    これが30年以上続けてきた仕事の結果だとしたら、
    「それは、よかった」と、自分自身には言ってやりたい。

    「ああ、こうなりたくて、今までがあったんだな」という気付きだった。
    「教えない。共に考える」だな。
    そのことを深く深くで感じた時に、涙が溢れた。
    「それでいい」と、言われたことへの安堵感だ。
    後は、余生だ。それで、いい。

    昨日は、どこへもでかけないことを自分に決めた。
    疾風怒濤の日々が続いた。
    研修・通夜・葬儀・通知表・研究授業・合唱練習
    そこに、ヨガと映画とトレセンだった。
    よくやるよと、これもまたある意味達成感だ。
    それらを全てやりこなす。
    それも、無理をせずに、自然体のまま、それなりに。

    そこに力みが入っていたり、完璧を求めたり、落ち度無くと緊張したり、
    そんな余計なことに煩わせられなくなったから、
    何とか心と身体とをぼっこすことなく、ここに至っている。
    本当に激務なんだが、その激務をいなし、こなし、受け流す。
    それができるようになったことが、
    私に身に着いた知恵の証明であるのかもしれない。

    「どうでもいい」
    「いい加減にやろう」
    「まぁ、いいか」
    この覚悟と気楽な気持ち。
    これが無くて、がちがちに真っ向勝負をしていたら、
    今頃とっくに自滅して、潰れていること必須だった。
    これは、本当にこの疾風怒濤の荒波を生き抜くための養生訓だ。

    だから、私は、「何もしない日」を作る。
    どこにも行かない。予定を入れない。ずっと家に籠る。ここに居る。
    これができるようになってから、もっとしんなら強くなった気がする。
    「ああ、今日は、やめ、やめ」「好きなことだけ、やる。やる。」

    昨日は、小雨の降る中ビルエバンスを聴きながら、
    庭の樹木を選定し、花を摘んで、きれいに整えた。
    野草や枝葉が、大袋一つだった。
    すっかりと整理されると、実にすがすがしい庭となった。
    これだから、庭仕事をやりたくなるのだ。

    昼食を食べてから、北区の歌の祭典のために、合唱の稽古だった。
    金曜日の夜、2時間の稽古を、ICレコーダーに記録した。
    それを、午後から全部聴きながら、おさらいをした。
    私は、楽譜が読めない。
    オタマジャクシだけで、音程はとれないし、音は出せない。
    だから、音を聴く。音を繰り返す。音を覚える。その音を出す。
    読めない分、聴覚はけっこう鍛えられている。
    音の流れを一度聴くと、大体の音は、耳でとれるようになっている。
    合唱も、30年物のビンテージだ。

    声の響きは、歳をとるにつれて、バリトンとなり芳醇に響くようになった。
    まるでイタリアのオペラ歌手だは、言い過ぎたか。
    とにかく、歌声はある意味で、佳境の域に達しそうな塩梅だ。
    練習では、バスが私を入れて二人だった。
    つまり、私が休むと、独りになる。
    そして、先生は、私の声を頼りにしている。
    だから、これは、何とか、ものにするしか仕方ない。

    そして、ラグビーWCだった。
    アルビの福岡戦もちらちらと観て、イングランド戦もちらちらだった。
    夕食の後は、心してニュージーランド戦を観た。
    得点差には少しがっかりだったが、最後までの観戦だった。

    庭仕事・合唱練習・サッカーとラグビー観戦。
    いいではないか。
    どこへ行くわけでもなく。何をするわけでもなく。
    それは、それなりに充実して一日を終えられる。
    ここにクラフトビールと〆針鶴があるから、
    何とも言えぬ至福の時間だ。

    さてさて、本日は礼拝の司会者だ。
    それから、午後には町内を回らねばならなかった。
    「まぁ、いいか」「やれるだけ、やればいいさ」と、いつものいい加減さだ。

    気楽に生きる。
    こだわりを捨てる。
    どうでもいい。
    まぁ、いいか。

    今は、日々をこれで生かされている。

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