新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:62人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマドンさん

    2014年09月30日 06時02分39秒

    icon

    今でしょう

    0時を過ぎてから、眠る。
    布団の中に入ったら、いつ寝たのかも分からない爆睡だ。
    しかし、きっと無呼吸の私は、夜中に息が止まっているはずだ。
    そのまま「うっ」と言って、朝を迎えられない日がいつか来るだろう。
    目が覚めるとは、なかなか大変で、ありがたいことだ。

    4時50分に目覚ましが鳴る。
    もっともっと眠っていたい。
    起きたとしても慢性的な寝不足で頭が重いだけだ。
    「今日は、寝ていよう」という、ささやきがどこからか聴こえる。
    「今日ぐらいいいよ」とも言う。
    「そうだなぁ、そうするか」とその甘い誘いに惑わされる。
    しかし、やっぱり意を決して起き上がり、
    やかんに水を入れて、ガスにかける。

    「やめようよ」
    「明日でいいよ」
    「そんなひとしなくていいよ」
    その声に従うこともできるし、その声を無視して行動することができる。
    そう考えると、やっぱり私の中に少なくとも二人の私がいることがよく分かる。
    ささやくのも私だし、断るのも私だった。

    禅をやっているJさんが言っていた。
    「まず行動すること」と。
    起きる。灯りをつける。やかんに水を入れる。窓を開ける。新聞を読む。
    そうした一連の動作を何も考えずに、黙ってやることが、
    「無心」になるということらしい。

    確かに、甘いささやきの「邪心」は、そこにはなかった。
    この掲示板もそうだった。
    毎日、決まった時間に、とにかくこの掲示板を開いて書き始める。
    それがずっとずっとできなかったのに、今日はこうして書いている。
    これから、「ソー族」に変身し、30分間のジョグをする。

    そんな朝の決まり事から、逃げない、ぶれないことが大事なんだなぁと、
    復活した私は、改めて感じている。
    「昨日は、もうない」
    「明日は、分からない」
    「今、ここ、これはここにある」
    だから、今ここで出来ることを迷わず、「無心」にやることだ。

    もう一人の私とは、「真面目」の本当の私だ。
    その私に恥じない生き方を、今、ここですることなんだなぁ。

    恥じた、ろくでもない生き方をしてきた私は、
    そんな私に対して、申し訳ない気持ちで生きている。
    だから、今日だけは、今だけは、「真面目」の私で生きたい。
    それが、この睡眠時間5時間であり、早朝のジョグだった。

    そんな自分にいつなるか。
    やっぱりJさんが言うように、
    「今、でしょう」しかこれからの生き方はないと思えばいいんだなぁ。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月29日 06時00分11秒

    icon

    ソー族について

    またLSDを再開した。
    危ないドラッグの話ではなく、長い道のりをゆっくりと走るトレーニングだ。
    関屋分水のタコ公園を目指して走り出した。
    このコースは、ずっと松林の砂丘の小道をアップダウンして走るコースだ。
    いつも日陰なので暑さを感じない。
    季節の山野草や、野鳥のさえずりが私の走りを応援してくれる。

    8月の暑さの中で、この弱った足を励ましながら、このコースを走ったことがある。
    本当に5分と走りは続かなかった。
    辛くなっては、すぐに歩いた。
    「いいよ、いいよ、大丈夫、大丈夫」そういつも言い聞かせながら、
    しかし、内心は動揺し、寂しさを感じた。

    それが、今では一気に最後までLSDで走り切る。
    これがトレーニングの効果というものだった。
    途中、どれだけのランナーに会ったことだろう。
    それぞれがそれぞれのランニング姿で、この新潟島の周回コースを走っている。
    若い男性ランナーが、疾走しながら追い越して行く。
    かわいい女性ランナーのグループとも出会った。
    この仲間に入れてもらったら、きっと私のスピードも変わると思った。

    この時期にこうしてランナーが一気に増えるのには、わけがあった。
    私もその一人なのだが、「新潟シティマラソン」が近づいて来たからだ。
    特にこの新潟島の周回コースは、みんなが走るコースとして設定されている。
    私は、10キロのエントリーだ。
    そこで、こから関屋分水に向かい、陸上競技場まで走ることにした。

    やすらぎ堤のコースにも、たくさんのランナーだった。
    しかし、私は6キロを走った辺りから、ふくらはぎが痛み出し、
    太ももの裏の筋肉にも痛みを感ずるようになってしまった。
    つまり、これは何度もやった肉離れの前兆だった。
    「やばいなぁ」と、こんな時はすぐに歩きに切り替える。
    「無理はしない」それが、57歳の鉄則だった。

    「ソー族」
    ただ獲物を求めて只管に走る種族。
    短パンとランニングシャツ。足には個性的な色のシューズを履いている。
    瞑想する人々のように黙々とまっすぐに走る。
    手には長距離の狩りに耐えるように、ペットボトルを持っていることもある。
    この季節になると新潟島の周回コースに出没する。
    それが、「ソー族」だ。

    ふと、トイレから初老の長身の老人が現れた。
    「ソー族」の族長のような威厳と風格のある白髪の男性だ。
    彼が、私の前を本当に本当にゆっくりと走り?始めた。
    傷ついたソー族である私は、30メートルほど前の彼を目指してゆっくりと走った。
    時間とともに、彼の背中がだんだん大きくなってきた。
    私は、彼のペースで彼の真後ろを走っていた。

    ソー族には、年長者よりも少しでも速く走るという掟があった。
    私は、遠慮しつつ、心では少しの喜びを感じながら、
    彼をゆっくりと右から抜いた。
    私は、少し上げたペースを、足を引きずりながら保っていた。
    族長を抜いたとたんに歩いては、掟違反もはなはだしいからだ。

    平成大橋を目指し、そこをくぐったら、BSNを目指して走っていた。
    相当族長とは離れたはずだと思い、やっぱり無理せずに歩くことにした。
    秋の風が心地よかった。
    そんな秋の川辺の景色に見とれていたら、
    その視界にわっくりと威厳をもって走る族長の姿があった。
    その走りは、私が出会った時から変わっていなかった。
    「やっぱり、カメが勝つんだ。」

    私は、だんだん小さくなっていく族長の後ろ姿に敬意をはらい会釈した。

    さてさて、これから「ソー族」に変身する。
    あの族長の緩やかな走りと、生き方とは、
    57歳の私にとっては、とても偉大なる目標となった。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月28日 06時10分40秒

    icon

    心からの感謝

    練習1回。
    後はCDでの自主練習を繰り返し、昨日めでたく本番を迎えた。
    東区ボーイズ(トークボーイズ)として、通栗市民会議で歌を歌った。
    そして、この繋がりの不思議さをも感じた。

    この男性合唱団が立ち上がった時、私も参加していた。
    合唱が好きで、歌いたくて、大きな声を出したくて、合唱とは繋がってきた。
    ママさんコーラスに助っ人として参加したこともある。
    かの県民会館で毎年クリスマスの時期に開催された「メサイア」にも、
    私は5回は出場していた。
    下手の横好きとはよく言ったもので、
    とうとう東区劇団では、役者として歌うまでになってしまった。

    しかし、立ち上がりに参加しながらも、演劇の忙しさから足が遠のき、
    いつの間にか幽霊会員となっていたようだ。
    東区ボーイズの活躍は市報などで知っていた。
    Kさんは美しい女性の指導者だ。
    その彼女を囲み60代~80代?の親父たちが歌を歌っている。
    本当に歌うことが大好きな人たちだった。
    それは、歌っている時の笑顔に表れている。

    私はいつも想うことがある。
    この年代で仲間と一緒になって本気でやれる何かと出会えたことは、
    みんなにとっては幸せなことだろうなぁと。
    現役を引退してはや何年。
    引退組には、「教育」と「教養」が必要なのだそうだ。
    この話を聴いて、なるほどなぁと私は感心させられた。
    「教育」・・・「今日行くところがある」
    「教養」・・・「今日用事がある」

    家で一日ごろごろと新聞やテレビを観ている内に、夕方となり、
    ただたそがれて一日を終えるたけの老人も多いことだろう。
    しかし、人生一度っきりなのだから、
    その一日だけをほんの些細なことでいいので、何かを行うことで、
    夕食のうまさが違ってくるのではないだろうか。

    ごみを捨てた。部屋の掃除をした。庭の草取りをした。野菜の苗を植えた。
    ほんの一つ。ささやかな楽しみをもつ。
    そうした意味では、Kさんには心からの感謝だった。
    実は、そうした一人一人の生き甲斐を育てるためには、
    経験豊かな農婦が必要になる。
    畑を耕し、土を肥やし、種を植え、水をやり、毎日言葉をかけて、世話をする。

    まさに、生涯学習には、地域にKさんのような素敵な農婦が必要なんだ。
    そのおかげで、親父さんたちは自分の中の小さな種から芽を出して、
    今は双葉となって秋の光を浴びている。
    「いい畑だなぁ」と私は想う。
    そのまだ小さな葉は、一つ一つ喜びで輝いているからだ。

    だから、みんなはKさん、いやK先生に心から感謝している。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月27日 10時01分47秒

    icon

    復活を待つ

    友より「掲示板見ているよ」との嬉しいメールがあった。
    通勤途中のバスの中で読んでくれているそうだ。
    ガラケイの私には分からないすごい技だった。
    そうした反応や答えがあるということは、繋がっているということだ。
    独りになると、妙に心寂しくなることがある。
    そんな時、どうしているかなぁと、あれやこれやと友の顔を思い出す。
    いろいろとあった。
    いろいろとやった。
    だから、こうして年代の違う彼とも出会うことができたのだ。

    しかし、言葉に力がなくなったと最近は想う。
    言葉を、力ある言葉として再び取り戻したい。
    そのためには、いったい何をどうすればいいのだろう。

    そのためには、やっぱりトレーニングを怠らないことだと思っている。
    朝のジョギングをまた復活させた。
    カタツムリのような走りでも、日に日に体と走りが軽くなっている気がする。
    続けてきたから、この軽さを味わうことができる。
    ついこの間までは、5分も走れなかった体だった。

    朝、5時起きをまた復活させた。
    最近はDVDで勝手な映画鑑賞会を独り行っているので、
    寝るのが0時を過ぎることが多いが、今朝もそれでも4時起きだった。
    睡眠時間は4時間もないだろう。
    それでも、やっぱり起きるということを自分に言い聞かせて復活させた。

    男性コーラスの東区ボーイズへの参加を復活した。
    何といろいろとあって2か月間もお休みをしてしまった。
    指導の先生から、「来て、来て」のラブコールを何度ももらいながらだ。
    行かねばならないと思いつつも、会議が入り、用事ができて行けなくなった。
    そしたら、とうとう練習日でない日にでかけてしまった。
    そんなひとから、遠ざかったコーラスだった。
    それが、木曜日に一回参加したら、本日県立大学でコンサートに出演となった。
    コンサートにもついでに復活だった。

    復活したことは、全て一度、ぱたりと止めてしまったことばかりだった。
    そのままだったら、私はいつまでも再びそのことをやらずに今日も生きたと想う。
    ところが、そんな訓練を自分に嫁せ、それをやることを自分に言い聞かせ、
    決まった時刻に決まった行動を取ることによって、
    失われていた力はまた復活した。

    そこで、復活とは何かとやっとわかった気がする。
    一度全てを失うことだ。一度本当の意味で死ななければ、復活はあり得なかった。
    失うことも、死ぬことも、復活のためにはとてもとても大事なことだったのだ。

    さて、言葉の力を失った今、この言葉の復活の時を静かに待っている。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月26日 06時02分21秒

    icon

    認知症なのか・・・・・

    反応のあることはありがたいことだ。
    こうして更新を始めてから、やっと何だか応えがあった気がする。
    私は、誰に対して語っているのかは分からない。
    ただ、語ることによって、私が助けられていることはよく分かる。

    語るとは、私の中の本当の私が語ることだからだ。
    その言葉こそ、私が今日一日を生き抜くための道でもある。
    私は、いかに生きるかをやっぱり日々問うている。
    ただし、その問いには明確な答えはないのかもしれない。
    途中の会の一人として、
    今日一日を人生の途中として生きるだけだからだ。
    その時、やっぱり深くからの「問い」は大事だと思う。

    後何年生きられるかはないと思う。
    突然の死は、誰にでもやってくることだからだ。
    死は後ろからやってくる。
    「メメントモリ」
    いいではないか。今日もこうして目覚めることができたのだから。

    子どもたちとサッカーをしていた。
    私にシュートせよとばかりの絶妙なボールがクロスされた。
    走ってゴールに向かったら、子供とぶつかった。
    転んだ時、下敷きになった子供をかばったら、
    変なひじの付き方をした。激痛、激痛。涙もにじんだ。
    骨かなぁと思った。諦めて医者に行ったら、打撲だった。
    1週間、まだまだ左ひじには湿布を張っている。

    車屋さんに必要な書類を届けるために、夜車屋さんに向かった。
    行ったらまだ担当者が居なかったので、コーヒーを飲んで待っていた。
    カバンから必要な書類の入った封筒を出そうと探したら、
    何とその封筒の影も形も存在しなかった。
    ここに来るための目的がそれだったのに、
    それを勤務先のデスクに忘れてきたらしい。
    コーヒーをただ飲みして、「すみません・・・・」と帰宅した。

    今、ここで必要なものだからと準備するのはいいが、
    手を離した途端、その必要な物の存在すらすっかり忘れていることがある。
    後でそれに気づいて探すのだが、どこにもないのだ。
    そして、その記憶すらどこにも存在しないのだった。
    焦ってしまう。
    そして、もう一度行動をやり直してみると、
    「えっ、こんなところに・・・。」と絶句、茫然自失することが多い。
    先日は、男子トイレの入り口にあるものを置き忘れていた。

    お湯を沸かす。
    お風呂にお湯を入れる。
    魚を焼く。
    そして、違うことをしている内にすっかりそのことを忘れてしまう。
    しばらくしてアッと気付いたら、後の祭り。
    大変なことになっていることが多くなった。
    だから、タイマーをかけるのだが、
    そのタイマーのスイッチを押し忘れる始末だった。

    どうも認知症に近い症状が多すぎる。
    「問い」を持って生きることも大事だが、
    日々安心・安全につつがなく生きることも、
    私には大事な1日を生き抜くための訓練のようだ。

    あなたにはこんな失態はありませんかね。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月25日 06時08分39秒

    icon

    独りぼっち考

    独りだなぁとつくづく感じる。
    独りぼっちだなぁとも想う。
    しかし、しょせん人は、誰でも独りではないのかとも想っている。

    この独りという漢字をよくよく感ずると、
    けもの偏に虫という字でできている。
    「かぐや姫」という映画を見たら、
    そのこの世の生き物たちのことを子供たちが歌っていた。
    その歌を聴くと、生きているもの全ては、
    元々独りでこの世に存在していることがよくよく分かる。

    独りぼっちを悲しく想うが、
    実は生きていることとは独りぼっちになるということなんだな。
    この世に生を受けたということは、
    誰かといつもくっついて生きるということではなく、
    独りぼっちで生きなさいということらしい。

    最近植えたブロッコリーに、モンシロチョウが卵を産み、
    そこから小さな小さな青虫が生まれ、
    大切なブロッコリーの葉っぱをむしゃむしゃと食べている。
    葉っぱには大きな穴や、小さな穴があっちこっちと空いている。
    貪欲な食欲の青虫は、数少ない葉っぱを全部平らげて、
    ちょっと太く長い青虫に成長する。

    さて、またモンシロチョウが産卵のためにはたはたと飛んできた。
    一匹なんだ。
    葉っぱの裏にもそもそと動く数ミリの青虫がいた。
    やっぱり一匹なんだなぁ。
    でも、モンシロチョウは、何も悩まず、何も想わず、何もこだわらず、
    ただはたはたと一匹で飛んでいた。
    青虫もまたしかりだ。

    独りぼっちであるということは、ただ生きるである。
    どうして私は独りぼっちなのかと悲しむことは、愚かなことで、
    元々そうして生まれたのだから、
    モンシロチョウや青虫のようにただ一日を生き延びればいいのである。

    独りで生まれた人は、元々独りぼっちなんだ。
    そして、その独りぼっちを再び始めることで、
    きっと人とは、生きるの原点に還れるのではないだろうか。
    モンシロチョウや青虫のように独りぼっちで自然の中で生きるとき、
    人は、独立した独りの人として自分の存在に気付くのかも知れない。

    そんな人に、ワタシハナリタイ。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月25日 05時52分05秒

    icon

    生活の訓練

    雨になった。
    久しぶりにこんな時刻に掲示板を書いている。
    走りたいのだが、走れない朝に少しほっとしている。
    私は、もともと怠け者で、自堕落な人間だ。

    生活を変えるのは、言葉ではなく、想いでもなく、訓練だとある本に書いてあった。
    あっちこっちで自爆して、とうとうこんな姿になってしまった私。
    気付くことはずっと後で、その最中はただ只管突っ走るだけ。

    ふとふと、寂しい気持ちに襲われて、消えてしまいたい時もある。
    それでも、今日一日は生きて行かねばならないと思う。
    朝、こうして書けなくなったのは、
    言葉に言葉としての力を失ってしまったからだった。
    言葉が溢れてこなければ、書くことはできない。

    それは、この日々の生活に起因している。
    だから、たるみきったお腹の肉を何とかしようと、
    また早朝のジョギングを9月から始めた。

    それは、ジョギングというしろものではなかった。
    数分カタツムリのように走ると、息が切れた。
    何よりも体が重く、足がだるく、いっこうに前に進まない。
    「おかしい「「こんなはずはない」と、気持ちばかりは焦るが、
    現実はそんなものだった。

    ここで焦りは禁物だった。
    大事なことはこの情けない現実を受け入れ、こうであることを諦めることだ。
    「どうしてこうなったのか」ではなく、
    「どうしたら走れるようになるか」をクールに考えることだ。
    そして、その答えは簡単だ。
    どんなに朝が辛く、眠く、暑く、だるく、やる気がなくても、
    着替えて、外に出て、準備体操をして、ゆっくり歩き出すことだった。

    生活を変えるのは、言葉でも、想いでもなく、日々の訓練なのだ。
    暑さと雨の夏、私はじっとじっと動かなかった。
    その日々があまりにも長く続きすぎた。
    「明日から走ろう」「来週から走ってみよう」
    しかし、その日は来なかった。
    やっぱり「今日から」なんだと、この自堕落な体を見てそう思った。

    生活は、訓練によってしか変えられない。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月23日 14時01分10秒

    icon

    生きることの「勇気」

    昨日、NHKの番組で義足の女性たちの特集があった。
    何気なく観ていた私は、いつの間にか彼女たちの人生に惹きこまれていった。

    20歳で交通事故で右足を膝から下で切断した彼女は、
    やっぱり初めは現実を受け入れられず、引きこもりの生活をした。
    そんな彼女を心配して、両親はある義足の技師のところに彼女を連れて行った。
    希望も夢も失っていた彼女は、看護士の学校も中退していた。
    「この子は、絶望のどん底だなぁ」と感じた技師さんは、
    彼が作っている義足の人たちだけが集まるスポーツ団体に彼女を連れて行った。

    そこでは同じ義足の人たちが、陸上スポーツを楽しんでいた。
    笑顔があった。励ましがあった。助け合いがあった。
    どうしてこの人たちは絶望しないで、将来に夢をもって生きているのか。
    それが彼女の疑問だった。
    そして、本当は積極的で、人とかかわることが好きだった彼女は、
    そこに参加している一人一人に聴いてみた。

    病気や事故で足を失った人たちだ。
    両足の股関節から義足をつけて、スポーツを楽しんでいる人もいた。
    そして、みんな共通することは、それをそのまま楽しんでいることだった。
    足を失ってからは、何気ない普通の生活が、
    どんなにありがたかったかと思ったそうだ。

    しかし、その普通の生活のままだとしたら、
    きっと自分はこんなにもいろいろなスポーツに熱中する生き方には、
    ならなかったかもしれないと、彼女は言っていた。
    高校から続けているフットサルを再開した。
    以前のようには想うように動けないが、
    ボールを追う楽しさは、運動できる喜びは、以前にも増してあるそうだ。

    彼女は、義足の人生を受け入れた。
    そして、同じ苦悩をしょった人たちの中に入り、
    そこで、あるがままを受け入れ、自分の人生を楽しむ生き方を学んだ。
    同じ人生でありながら、失われた片足は、
    彼女に全く違った、喜びのある人生を与えてくれた。

    ただし、やっぱりそれを受け入れ、あるがままをよしとする、
    「勇気」が必要なんだなぁと、彼女の絵顔を見ていて、そう感じた。
    「勇気」だよなぁ。
    私には、それが欠けているんだなぁ。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月23日 13時45分49秒

    icon

    欲はなく

    何もしないでのんびりと生活する極意とは何だろう。
    欲もなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。
    そんな穏やかな生活は、あれもこれもとは正反対にあるのだと思う。

    朝、またジョグを始めた。
    とにかく体が重く、足が上がらず、難儀している。
    そんな時は、無理しないことにした。
    ゆっくりゆっくり、歩くような速さで走る。
    どんどん後ろからランナーに追い越されていく。
    ランナーは、走りに対しては誠にストイックなものだった。
    追い越して行ったランナーの背中があっという間に遠く、小さくなっていく。
    それでも、アリの走りは続けていく。

    息苦しくなったら、そこで立ち止まり、歩きに変える。
    ギャーチェンジも必要だ。
    私のギャーはローかセカンドしかなくなった。
    それでもいいと私は想う。

    あれもこれもと想うと、達成できないものばかりで、苦しく、寂しくなってしまう。
    独りぼっちでいるときは、独りぼっちでいたらいいんだ。
    走れないなぁと思った日には、休むことを決めればいいんだ。
    走っていて辛かったら、すぐに歩きに切り替える。
    それが柔軟な生き方というものかもしれない。

    57歳になってから、1カ月たった。
    ある日、ある時にふと想った。
    そうか、これからの人生は、死にゆくまでの人生なんだなぁと。
    「メメントモリ」
    突っ走っている時には、そのことに気付かないだけなのだ。

    さてさて、人生はジョグと同じだった。
    もうトップスピードを維持できない体となったなら、
    立ち止まって一息ついて、ゆっくりと歩けばいい。
    歩いていると、季節の風の香りを感じ、小さな野草たちとの出会いも待っている。

    自転車で疾走しては分からない世界がそこには生存している。
    その世界との出会いに、ほんの小さな小さな喜びを感じられる年代となった。
    欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。

    そんな生き方を、今日1日だけでもしたいものだと思っている。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2014年09月21日 10時02分49秒

    icon

    言葉の復活を

    きっと誰も読んではいないこの掲示板。
    長い間更新もできず、言葉がここには何も登場しなかった。
    この掲示板は、私にとっての息子たちへの心の声のつもりで書いてきた。
    書くことは好きだ。
    時間が在ったら、どんどん書きたいと想っていた。
    そして、この掲示板でのクマのつぶやきはきっと死ぬまでつづくのだと想っていた。
    しかし、こうして書けなくなってから、
    書くことを忘れ、離れてしまってからは、
    この掲示板の存在そのものが、遠いものに感じられる。

    それは、私自身がしっかりとここで存在していないからだとも想っている。
    言葉とは、想いである。
    言葉とは、夢であり、希望でもある。
    言葉が生まれることで、人は言葉の存在に気づき、歩き始める。
    そんな言葉がかってはここにあった気がする。

    言葉が出てこない。
    失語症にかかったのではないが、言葉が内から生まれない。
    そんな今の私の心の状態が、この掲示板から遠ざけてしまったのだと想っている。

    どこかで原点に戻りたい。
    再び、その言葉が言葉として力を持ち、
    私を支え、励まし、力づけてくれたあの光の中へ。

    原点とは、そういうことだ。
    そこに立てば、許されてそこに戻れば、きっときっと元気も出るはずだろう。

    先週、護摩堂山にSさんと登った。
    ゆっくり、のんびりと、山の気を体全体に吸い込んだ。
    そうだ、そうだった。ここだったんだ。
    長い長い月日の中で、私は私を私にしてくれた山と離れて生き過ぎた。

    土から離れた樹木が生きられないように、
    私は、やっぱり山と森とこの鳥の鳴くいのちの空と雲から離れてはいけなかった。
    感ずることがなくなれば、人はそれを表現するための言葉を失うのは当たり前だ。
    感動を失くしてしまった乾いた魂には、言葉は溢れないだろう。
    「書きたい」「語りたい」そんな私だったはずなのに・・・・。
    つまり、日々を喜びを感じながら生きていない。
    それが言葉を失った、原因だと思っている。

    感動することが先なんだ。
    涙を流すことが先なんだ。
    ささやかだが新鮮な日々の驚きや感動が、言葉の泉なんだな。
    「信仰と希望と愛 その中で一番大切なものは愛です」新約聖書
    つまり、信ずる心であり、明日に向かった夢や希望であり、
    隣人に対しての思いやりや優しさなんだな。

    そんな温かな日々を送っていない限り、
    やっぱり人には言葉が現れてこないのだろう。
    何故ならヨハネの福音書の冒頭に書いてあるからだ。
    「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と。

    その道を歩いていない限り、言葉はここには溢れてはこないんだ。
    「この方は、初めに神とともにおられた。」
    「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずに
    できたものは一つもない。」
    「この方にいのちはあった。このいのちは人の光であった。」
    「光はやみに輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
     

    言葉の復活を心から願っている。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

もっと見る icon