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親父たちよ

親父たちよ>掲示板

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  • from: クマさんさん

    2013年01月31日 05時57分31秒

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    戦うことこそ

    昨日は、「感染列島」に魅入ってしまった。
    観始めてしまったら、席を立てなくなってしまったのだ。
    市民病院が舞台であることもあったが、
    患者さん一人一人の命を必死に救おうと院内感染の危機の中で、
    ウイルスと戦う医師と看護師の姿が素晴らしかった。

    壇さんが、謙虚に医師と看護師に頭を下げてお願いするシーンがある。
    すると、一人の看護師が勇気をもって手を挙げる。
    すると一人が、また一人が、命懸けの仕事に関わることを決意する。

    一人でも生きる可能性のある人を助けたい。
    希望のない患者から人工呼吸器を外して、その人に付け直す。
    檀さんは自ら子供の口から呼吸器を外した。

    幼い子と父親とを残して、ウイルスに感染して死ぬ看護師。
    鳥インフルエンザと言われ、深々とその責任の重大さに耐え切れず頭を下げる養鶏業の男。
    ガンを抱えながらも、現地に行って感染源を特定する藤竜也。

    何かこうした極限状況の中で、人間としての尊厳の側に人が動き出すとき、
    その人の行動や言葉に、人は感動するものなのだ。
    そこには、自己犠牲や自分を捨てて他者を生かすための選択が存在していた。

    壇さんは、長野の病院へ行く途中に、感染していることを知る。
    その死期が迫ることを感じ、重病患者の担当を申し出る。
    最後にはまだ証明されていない血清輸血の治療に自分の身体を差し出した。
    その最期の姿をパソコンの画面で恋人に送るのだ。

    彼は、彼女の命を救うために、長野に駆けつける。
    心肺停止。必死な想いで彼女の命を救おうとする。
    それは、養鶏業の男の娘に対してもそうだった。

    戦う。ここに感動がある。
    人とは、本来そうした戦いへの使命感のスイッチを、
    持って生まれているのではないだろうか。

    誰かの為に、誰かの命を生かす為に、愛する人の為に、
    自分の命を懸けて戦っている人の姿こそ、美しいのだと私は想った。

    戦う。ここに感動はあるのだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月30日 06時30分36秒

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    誰かがやらねばならないのなら

    次男がインフルエンザのために出席停止で今日までお休みだ。
    職場でもインフルの猛威が止まらない。
    私はまだしばらくは大丈夫なようだ。

    山の下通信に、今年は「まち つくろ」と言うテーマで、
    コラムを載せることにした。
    そのために、これまで私が携わってきたまちづくりを思い出している。
    「やろう会」という「親父の会」を立ち上げたのが平成17年度である。
    つまり、もう8年も前の出来事なのだった。

    この掲示板を立ち上げたのも同時代だった。
    長男の反抗期とともに、親父としての自覚が生まれ、
    同じ親父達との連携と連帯と飲み会を行うために、
    次男の通う小学校に呼びかけて、設立に至った会でもあった。

    そこからは、やっぱり一人の地域親父として生き方そのものが変わった気がする。
    「やろう会」で出会ったメンバーは、
    今でも山の下の将来を考え、イベントを起こし、祭りを変えようと努力している。
    親父達がこうしてまちづくりに参画することが自然なまちは、
    やっぱり次の世代へ受け継いでいくためのよき移行期ができるのだった。

    どこの組織でもそうだったが、
    長老とその取り巻きは存在するのだ。
    そして、既得権と決定権とはそこで独占され、
    次の世代の意見がなかなか取り入れられないことも現状のようだ。
    しかし、山の下はそういう面では恵まれている環境にあると思う。
    40代がとにかく元気に声をあげ、
    まちづくりのために奔走しているからである。

    そうした面では、「やろう会」での実践は、
    親父達のまちづくり魂に火を付け、
    新たな気づきや発見を親父達に与えることができた会だと思っている。

    「自分たちにもやれることはあるのだ。」
    「自分たちこそやらねばならないのだ。」
    昨年度の「水土」でのイベントの数々は、
    やっぱりこのまちの未来を考えた親父達が企画して仕掛けたものだった。

    そんな熱い魂の親父達がこれからも増殖することを願っている。
    そのためには、「やろう会まちづくり菌」を、
    もっともっと多くの若者親父達に蔓延させねばならないのだと思っている。
    ちょっと不謹慎な表現であることをお許しいただきたい。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月29日 06時35分11秒

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    「同事」について

    インフルエンザの大流行のようである。
    幸い私はまだ罹患していないようだが、いつ罹患してもえかしくない状況なのだ。
    手洗いとうがいとの予防に務めるだけである。

    本を読んでいたら、仏道の修行の四摂事の一つに「同事」があった。
    私でないものはないという境地のことらしい。
    私が出会う人は、全て私なのだという想いなのかもしれない。
    その人の気持ちは、よく分かると共感する気持ちであるかもしれない。
    仏教としての「同事」はよく分からないが。
    このその人は、私なのだという同情・共感は、人として大切な思いだと感じている。

    よく人の気持ちが分からない人と言われる人がいる。
    その人は、自分が言ったり、したりしていることが、
    相手にどのように受け取られ、感じられているのかが分からない人なのだ。
    しかし、相手の心や想いを感じるためには、
    私は、私であってはならないのである。
    人の心と想いとが分かるためには、私はその人そのものにならねばならないのだ。

    それは、想像力とは、少し違うようで。
    ただ、相手を見るだけで、相手を感じるだけで、
    内から切々とこみ上げ、溢れてくる想いであるような気がする。
    理屈では説明できない、この胸の奥にジーンとして存在する想いなのだ。

    この想いとは、不思議なもので。
    どんな人の想いとも重なり、一致して、その想いと一になる想いでもあるのだった。
    「ああ、そうだったのか。」
    「やっぱりこんな辛さの中で生きていたのか。」
    「大変だったろうな。悲しかったろうな。」
    そんなこみ上げてくる「同情」でもある。

    しかし、よくよく考えれば、この「同事」や「同情」とは、
    人である全ての人には生まれながらにして天より与えられている想いでもあるのだ。
    そして、それは菩薩が私たちに日々感じ、想い、
    傍らで私たちに伝えようとしている想いや願いでもあるのだった。
    この世は、実は菩薩の「同事」や「同情」、つまり「慈悲」に満ちているのだ。
    私は、人から優しくされ、人から愛されて、その存在を私の胸の内に知ることができた。
    菩薩が先だった。

    人は、体験したことのみ真実と感ずることができる。
    私は、数知れぬ「同事」や「同情」に支えられ、助けられて生きて来た。
    毎日チーンで母にも語り、母は私の愚痴や辛さを聴いてくれる。
    「お父さんも大変だねぇ。」
    「大丈夫だよ。心配しないで。」
    そんな声が聴こえるようで、一安心して席を立つ。

    「同事」や「同情」とは、人の悲しみや辛さに共感する力である。
    そして、その悲しみや辛さに対して私の無力さを知ることでもあった。
    私は、その悲しみや辛さを取り去り、癒すことはできない私である。
    ただ、私ができるのは、その人のことを日々心配し、その人の幸せを祈ることだけである。

    私だけは、その人を見守っていこう。
    私だけでも、その人の助けになろう。
    そのためには、その人の傍らに立ち、その人の想いを想いながら、歩いていこう。
    そうした生き方が、人にもできるのだ。
    その生き方を全うする日々の生活こそ、仏道修行なのだと教えられた。

    共感し、同情し、慈悲の想いでその人の傍らに立つことは、私にもできるのだ。
    そして、この四苦八苦の日々の中で生き抜いている私たちのことを、
    最も共感し、同情し、慈悲の眼差しで見守っていてくださるのが、菩薩なのだった。

    だから、私は日々「同事」の修行だけでも忘れまいと思っている。
    「同事」は、全ての人に既に罹患しているはずである。
    それをある機会で発症するか否かは、その人の縁なのであった。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月28日 06時34分11秒

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    物語の使命とは

    朝、走ろうと思ったら、雪で真っ白だった。
    昨日はあんなに青空が見えて、天気がよかったのに。
    おかげでトレーニングができず、体がずいぶん重くなった。

    次男がインフルエンザA型に罹患した。
    しかし、熱も出ないし、身体がだるいぐらいで、たいしたことなくすんでいる。
    水曜日まで出席停止だ。
    昨日も一日ゲーム三昧だったらしい。

    時間をいかにして使うか。
    私は、時間の使い方が上手くできないようである。
    休日は、何も予定を入れないと、あっという間に過ぎてしまう。
    あれもこれもしたいと思いながらも、テレビを観て終わることもある。
    その後は、いつも苦い後悔だった。

    この土日は、そんな私だから、映画を予定に入れた。
    土曜日はアンゲロプロスの「狩人」3時間に渡る長編だ。
    日曜日は、「あの日、あの時、愛の記憶」
    ポーランドの収容所から脱走した男女の愛の物語だった。
    私は、ある時間、その人たちの人生を同時代的に見つめていた。
    ギリシャが軍の独裁政治を敷かれていた頃のブルジョワ階級の人々の物語。
    命懸けで逃亡しながら、別れ別れになってしまった男女の人生。

    しかし、その物語の底の底には、
    軍事独裁政治に対する激しい抵抗と自由と民主主義へのあくなく願いがあり。
    その独裁の中で、戦う民衆たちの多くの血潮が流された記録を、
    モニュメントとして、実はアンゲロプロスは独裁政治下に、
    この映画をゲリラ的に作っているのだ。

    ヒットラーによるユダヤ人に対するホロコースト。
    そんな収容所の悲惨で非人道的な生活がこの映画では記録されている。
    人間の尊厳が奪われ、動物以下の虐待を受け、死を待つ人々。
    人間が決して忘れていはいけない歴史だった。
    そして、ナチから終戦によって解放されたポーランドの人々は、
    次には突然攻め込んできたソ連軍によって、シベリアへ連れ去られて行くのだった。

    淡々と描かれたこの二つの映画は、その底の底には、
    自由と民主主義のために命を懸けて戦った人々の怒りや、苦しみや、
    孤独が描かれているのだった。
    自由を守り、命懸けで戦った人々の記録を残す。
    これも、「物語」の大事な使命だと私は想った。

    「王瀬の長者」も、「キビタシノ森」も、弱き民衆が力を合わせて、
    自由と尊厳のために戦う物語だ。
    そして、その自由と人間としての尊厳を守る戦いこそ、
    日々の生活において、私たちは全うしなければならない生き方なのではないだろうか。

    「精神の自由と独立」
    「人間としての尊厳を保つ」
    それは深い深いところからの魂の呼びかけであり、
    自然の中で自然と共に生きるための、人間らしい生き方なのだ。
    そして、人は後の世に生まれる人たちが人間らしく生きるために、
    この「物語」を残して行ってくれたのである。

    いつの時代か、この人間の自由と尊厳とが犯される危機が来るかもしれない。
    その時は、「レ・ミゼラブル」の「トモロー」を民衆の旗を掲げて歌えばよいのだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月27日 16時37分20秒

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    簡単でわかりやすいこと

    本当はとても簡単で、分かりやすいことだったのではないだろうか。
    それだけあれば、それでいいというものは、
    当たり前であり、誰でも知っていて、誰で求めているものかもしれない。

    困ってていたり、辛い想いをしていたり、悩んでいたりしている人がいたら、
    ただ心配してあげるだけなのだ。
    心を配る。
    それは、「私はあなたが好きだよ。だから、ほっとけないよ」のサインでもある。
    「私は、あなたの話を聴きたいよ。それで少しでもあなたの重荷が軽くなるなら。」
    「あなたはどうしているかなぁ。苦しんでいないかなぁ。ちゃんとご飯食べてるかなぁ。」
    これが、心配というものだな。

    そのあなたのことを想い続けているよという想いを届けることが心配するということなのだ。
    しかし、おせっかいにならない程度に、
    時にはとてもとても遠慮がちに、
    時期を見計らい、相手の心の負担にならない程度に、気楽に、気さくに。

    心弱ってばかりの私のような男にとっては、
    そうして心配していてくれる仲間や友が何よりもありがたいものだった。
    弱さの時、人は本物の愛と出会える。
    弱くないと、そのありがたみとその真実味が味わえないものだかだ。
    だから、振り返ってみるとどん底に落ち込んだことは、
    私の人生にとってはよかったと言えるのだ。

    「あなたの苦しみ。あなたの悲しみ。それは私には分かります。」
    それは、私もかっては苦しみ、悲しんだ体験があるからだった。
    心の病になった苦しみ。母を喪った悲しみ。夢やぶれた挫折の想い。
    実は、私ではない人は一人もいないことに、やっぱりいつか気づいてしまったのだ。
    簡単には「分かります」なんぞは、言える言葉ではない。
    「お前に、何が分かるか」と、父のように反発する人もいるからだ。

    それでも、私でない人はいないはずなのだ。
    あなたは、やっぱり私だから、私はあなたの辛さや悲しみが伝わってくるから、
    やっぱり見過ごしにはできないし、傍に寄って、声をかけたくなるのです。
    「大丈夫?」とね。

    これって当たり前のことだと、やつぱり私は思っている。
    誰かが道に倒れていたら、やっぱり声をかけるだろうし、
    誰かが困っていたなら、やっぱり声をかけるだろう。
    子供たちには、そんな想いを大人が後ろ姿で教えてやればいいのである。

    それって本当はとても簡単で、分かりやすいことなのだと私は思っている。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月25日 06時38分41秒

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    深さに還える

    今朝は、この雨なので走らない。
    だから、朝は寝床でゆっくりと本を読んでいた。
    池田晶子さんの本は、ページがいつまでたつても進まない本だ。
    本当に一冊の本を読み終わるのに時間がかかる。
    そして、何を語ってくれているのか、さっぱり分からないことが多い。
    それでもこの本にしがみついているのは、
    きっと私が池田晶子さんを好きだからだと想った。

    池田さんが哲学会の大長老や大先輩について語っている文章がある。
    好きなのだ。感動なのだ。お慕い申しているのだ。それは、愛でもあった。
    私にとっての池田さんは、そうした存在になっているのかもしれなかった。

    本日は、こんな言葉に出会えた。
    「人がふさわしい魂を相手に得て、その中に言葉を知とともに蒔いて植え付けるとき、
     その言葉のもつ種子からは、また新たな言葉が別の新たな心の内に生まれ、
     つねにそのいのちを不断に保つことができるのだ。」
                               『パイドロス』 プラトン

    「僕は何も知らない。だから知りたい。
     それが僕にとっての善く生きるということなのです。」

    そんな深いところから生まれてきた命ある言葉を、
    私もこの魂に蒔いてもらいたいと願っている。

    こういう人間も存在している。
    だからこそ、私が私とて生きるためには、
    深いところで永遠に変わらずに存在し続けてきた「イデア」である言葉が必要なのである。
    人を見てはいけない。
    人を見ていると、あたかもそれだけが真実のように錯覚し、
    そうしなければいけないと思う自分になってしまうからだ。

    世の中はどうであろうと構わないのだ。
    社会とは、明日にはまた違ったことを言うものなのだ。
    それは、やっぱり海の波であり、この大雨の天気のようなものだと思う。
    変わってしまうものに己を託して、
    あたかもそうしなければ人間ではないと言う愚かさからは離れた位置で生きたいと思う。
    どんなに荒れていたとしても海の底は、静かなる世界なのだ。
    どんなに嵐が来ようとも、この雨雲の上には温かなお日様と青空とは存在するのだ。

    深さとは、その静かさのことだ。
    深さとは、そのお日様のような温かさのことだ。
    深さとは、ずっとずっとそのまんまに有り続けている「何か」が在ることなのだ。
    深さは、深さ故に変わらないものなのだ。

    その深さを知ることが、知るという喜びであり、より善く生きるということなのだ。

    私は、その深さで出会った友がいる。
    その友たちとは、生きるとは何かと語り合う。

    私は、池田晶子さんに恋をしているのかもしれない。
    願わくば、池田さんにその深さで語り合える独りとして認めてもらいたいものだ。

    日々、酷い逆風の中に生きている。
    そんな時は、やっぱりその深さに還り、心を閑かに沈めたいと思っている。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月24日 05時58分20秒

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    弱さと悲しさがあるから

    三日前から生活を戻そうと無理をして起きている。
    5時起きはこの時期なかなか辛いものがある。
    それでも、やっぱり元の身体と心に戻したいから、
    こうして起きて掲示板に書き込みをしている。

    ここに書き込みしながら、私はいろいろなことを考えている。
    それは主に自分の失敗であり、弱さであり、
    そこから学んだことが多かったと想う。

    人は、弱さでは繋がれるのだ。
    王瀬の長者の劇の脚本を書いて、そのことが私は分かった。
    弱さとは、人の心の深さなのだ。
    弱さであることは、人を人らしく戻してくれる。
    その涙と悲しみの中で、本当の自分と出会える。

    しかし、その忘れていた本当の自分とは、
    他の人たちにもある本当の私なのだった。
    だから、弱さには共感ができるのだ。
    だから、弱さに対しては助けの手を差し伸べたいと想うのだ。

    共感。同情。慈愛。
    人の魂深くに存在する人間らしい想いや感情は、
    自分を捨てたその深い場所から生まれてくるものだった。
    ある意味、その深さこそ菩薩がいなさる場所なのだ。
    私たちは、弱さと涙の中で始めて菩薩と出会えるのではないだろうか。

    けっして見捨てない。
    あなたのことをずっと見ている。
    私はいつもあなたの傍に生きているよ。

    それが菩薩であるお地蔵様の言葉だった。
    人は決して独りぼっちにはなれないのである。
    弱さと悲しみの最中にあり、絶望のどん底にあっても、
    そこには、ちゃんと菩薩がいなさってくれるのだ。
    深く、深く、降りることで、まず最初に繋がるのは、
    そんな私を待っていてくれ、見守っていてくれ、
    慈愛に満ちた眼差しで見守っていてくれた菩薩であった。

    その瞬間、始めて菩薩の慈愛が分かるのだ。
    愛されることで、人は始めて愛することが分かるのである。
    そして、その慈愛こそ、私の魂の奥深くに不覚にも眠っていたものだったのだ。
    弱さと悲しみによって、
    その深さに陥ることによって、私は本当の「慈愛」と出会えた。

    人は、これだけで生きればよいのだ。

    次の作品「慈眼」は、「見て見ぬふりはしない」がテーマである作品だ。

    弱さと悲しさとは、人と人とを深く深く繋げてくれるはずである。
    絆という確かな繋がりは、この深さに至らなくてはできないものだ。

    「優しさ」とは、憂いを知る人と書く。
    良寛さんがまさにその人だった。
    「君見ずや双眼の色 語らざれば 憂い無きに見えたり」
    憂いの人は、人の憂いを感じで、見捨てておけない人なのだ。
    その憂いに任せた衝動こそ、慈悲なるものではないだろうか。

    人は、弱さと悲しさとで繋がれるものだ。
    その深さこそ、本当の愛である「慈悲」が生まれる場所なのだから。


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  • from: クマさんさん

    2013年01月23日 05時58分00秒

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    深さを

    人は、もうこれからは高く昇る必要はないのではないだろうか。
    もうすでに十分高く昇っているのだから、
    今は、深く生きる時が来ているのではないだろうか。

    高く昇ろうとする時、そこに競争が生まれ、孤立が生まれ、否定が生まれる。
    高くないものは、高くならねばならず、
    高いものは、より高くならねばならず、疲れている。
    もう十分なのだ。
    休まないか。
    のんびりしないか。
    しかし、やっぱり高く昇れと脅迫されているので、
    やすむことも、のんびりすることも罪悪のように感じる。

    森の話を聞いたことがある。
    森の樹木たちは他の木よりもお日様の光をいっぱいに浴びたいために、
    どんどん競いながら高さを目指すのだそうだ。
    だから、植樹では密に植えた樹木の方が短期間で高く育つのだそうである。
    しかし、ここからがやっぱり自然のすごさなのだが、
    高さ100mや200mの森が存在しないのは、
    それ以上高さを競うことの危うさを知っているからだと言う。
    森の樹木たちはある程度の高さを達成すると、
    それ以上は高く伸びないのである。

    そして、お互いのテリトリーを守り、譲り合いつつ、
    お互いが平等にお日様の光を浴びられるように、
    あるがままでとどまると言うのだ。

    確かにそうだった、飯豊のブナ林に入ると、
    そこには共に生きるための知恵と温かさに満ちていた。
    競い合うのではなく、和み会い、助け合い、声をかけあう感覚なのだ。
    生きるとは、お互い様で生かされているという安堵感でもあるのだった。
    何百年とこま深閑とした奥山にひっそりと生きてこられたのには、
    やっぱりそれなりに理由があるのだ。

    もう高く昇ることは、しないのである。
    何故ならば、その大樹が生きていくためには、
    その枝の広さや大きさと同じくらいの太くて逞しい根をはらねばならないからだ。
    その根は、地中深く縦横にはびこらせ、
    隣り合った互の根を絡ませ、潜らせ、引合いながら、
    しっかりと自分の身体を支えているのだ。

    実は、深くなければ、高くないのだ。
    その深さを、私たちは忘れているような気がする。
    高さばかり追い求めさせられている人たちの何とも浅はかなことか。
    人としての存在感とは、この目に見えない深さにこそあると私は思っている。

    いかに深くなれるか。
    いかに深さで他の人と繋がれるか。
    その深き根を確かに育てるのだと教えることこそ、
    本当の教育ではないだろうか。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月22日 06時00分59秒

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    忘れるという言葉

    私がぐたぐたと何かを悩み始めて、どうどう廻りをするとき、
    やはり、原点を見失っている時だった。
    また、悩む時はじっとしている時で、何か行動しているときは忘れるものだ。
    何もしないで、後悔ばかりしていたり、先のことを考えていたりする。
    悩んでいても何一つ変わらないのだ。
    それならば、ゆきのけをして汗をかいたり、ストレッチでもして身体を動かせばいいのだ。

    この掲示板を書いているときは、不思議に無心になる時だった。
    何を書こうとも考えずに書き出し、今も何もこだわらずに書いている。
    その無心感が書いた後でたまらなくよいのだった。

    ジョグもそうだった。
    時には音楽を聴きながら走るが、無音で走るとき、足音さえも懐かしく聞こえる。
    風を肌で感じ、寒さを身に染み込ませながら、かじかむ指先を袖にもぐし、
    ただお地蔵様を目指して走っている。
    その無心感がやっぱりよいのだ。

    池田晶子さんの本に毎朝・毎夜しがみついている。
    読んだ分の百分の一も理解できていないようだ。
    だから、悔しいから読み続けているのではなく、
    やっぱり、その「存在」について知りたいから、分からぬ言葉を読み進めている。
    30分間など、あっという間に過ぎてしまう。
    やっぱりその時は、無心感なのだろうと想っている。

    しかし、不思議な言葉なのだ「無心」とは、
    心が全く空っぽだったならば、その瞬間の私とは、誰なのだろうか。
    「無心」が「在る」とはなんなのだろう。
    しかし、実はここにこそ、原点があるような気がするのだ。

    くだくだと悩み、迷い、自己否定して、辛くなり、自信をなくし、ぽつんと生きている。
    「ああ、もうだめだなぁ」「辞めてしまいたいなぁ」「力が出ないなぁ」「情けないなぁ」
    その時は、心がつまらなくてどうでもよい思いにギュウギュウ詰めで窒息寸前なのだ。

    妄想を捨てる。
    しかし、人は捨てようとすることで、もっとそれにとらわれてしまうから、
    ただ単に忘れればそれでよいのだ。
    少なくとも忘れている間は、心は「無心」になれるからだ。
    心がとらわれている余計なこだわりや、悩みや、苦しみは、
    心から「亡きもの」とすればよいのだ。

    忘れるように、日々生きることだ。
    考えたって、悩んだって、時間の無駄なのだ。
    忘れるような即行動。

    在るのは、やっぱり「今」この「瞬間」だけなのだから。

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  • from: クマさんさん

    2013年01月21日 21時14分59秒

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    腹からの警告

    年末・年始とこの連休で少なくとも4キロは太った。
    情けないものだ。
    あれだけ努力して減量したのに、その努力も水の泡だった。
    体重を計らなかったことが、油断だった。

    血圧もそれなりに高値安定だったる
    薬がなくなったので医者に行ったら、呆れられた。
    計算上は昨年の暮れになくなっている勘定なのだ。
    「クマさんは、突然死したいのかね」とのこと。
    動脈硬化を抑えるための薬は、長寿の薬でもあるそうだ。
    情けない身体になってしまったものだ。

    雪のために、朝、ジョグをしなくなった。
    そのために寝坊の連続。
    生活のリズムが全く狂ってしまい、6時半に起きてのごみ捨てだった。
    おかげでこの掲示板も書けないでいる。

    最近、年だなぁとさくざく思うことがある。
    夜中の2時ころに目が覚めることが日課となってしまった。
    それから眠ると、とても濃い夢を観てしまうのだ。
    3時半には起きて仕事をしていた。
    すると、一日体がだるくて、眠くてたまらない。

    何よりも、「やるぞっ」という意欲がすっかりと減退していることだった。
    どうも何をやるにもおっくうになり、やる気が出ないのだ。
    時には、本当にネガテイブでブルーな中年男になっている。
    仕事を続けられるのだろうか・・・・。

    さてさて、これもみんな油断のためだった。
    やっぱりある意味人は意識的に自分の生活をコントロールしていかねばならぬのだ。
    そのままでは、突然死の法則に全く巻き込まれて抜けられなくなってしまう。

    どこかでまた原点に帰らねばならないのだ。
    この出始めた腹が私にそんな警告を続けている。



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