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親父たちよ

親父たちよ>掲示板

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  • from: クマドンさん

    2021年01月29日 09時16分22秒

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    劣化・腐敗とは、サヨナラする時だ

    いつからこんなに大人たちが、劣化・腐敗してしまったのだろう。
    もっとこの国の大人たちは、大局に立って考え、私心を無くし、
    誰かのために自らを投げ打ってでも働いて来たのではなかったか。
    今、この、現代に、そんな子どもたちの見本となる大人はいるのか。

    情けなく、余りにも惨めな大人が、政治をやっている。
    何なんだ、あの行動と発言の数々は、
    全く国民の痛み、哀しみ、辛さ、絶望は、どこのこと。
    共感も同情も何も感じないから、原稿を棒読みにする。
    それも、読み間違いの連発だ。
    何なんだ、そんな男に、この緊急事態を救う気があるのか?
    自分が無能・無策のデクノボウだと分かったら、引けばいい。除ければいい。
    本気でやれる人に、替わればいい。
    しかし、それもしたくない。せっかく立てた国のトップだ。
    汚したな。自分の人生を。情けない。情けない。

    どういうわけか、不思議なことがまかり通る時代になった。
    社会主義国に王様が権力を握ったまま20年間だ。
    共産主義国家は、独りの王様の権威を権力を国民に恐れさせ、
    他国までも支配しようとしている。
    民主主義国家では、愚かな権力者に忖度し、国民の意志はその権威には届かない。

    それぞれ、市民たちの生命と財産、その幸福を実現するための社会を目指したはず。
    ところが、思想・言論の自由を奪われ、政府に対する意見は、政府批判ととらえられ、
    国家の治安を危うくするものと厳しく罰せられ、処刑されている。
    愚かな権力者たちは、金をばらまき、私服を肥やさせ、支持を得ている。
    このポストを盗られてはたまらぬと、小さな内から反乱の芽を摘む。
    言うことを聴かない官僚は左遷される。辞任に追い込まれる。恐怖政治だ。
    しかし、本人は無能・無力なただの人。
    そのおかけで国家が大混乱となろうとも、贅沢な会食を税金でできればそれでいい。

    歴史とは、進歩・進化してきているのだろうか。
    自由・平等・博愛と叫んで行われた革命でも、
    最後にはナポレオンは、皇帝となった。
    力ずくでもそのトップに上り詰めたものは、それを奪われまいと圧制を敷く。
    まさに、それと同じことが、21世紀のこの国、世界中に行われている。
    人間とは、そんなに権力を求め続けるものなのか。
    その権力を手に入れるためには手段を択ばす。
    その権力を奪おうとする者に対して容赦なく攻撃を加える。
    そうやって登りつめたカスは、
    何一つ国民の気持ちや願い、想いを語ることが出来ない。
    「あんなアベができるのなら、俺だってやれる」その程度の見識・了見。

    自分がこのポストに留まる。自分が次のポストに昇進する。退職金をもらう。
    そのために、「危険な情報」は、隠ぺいする。表には出さない。緘口令を出す。
    せめて、自分がこのポストに居る間は、嘘をつき続けてくれ。
    これが大企業の東電のやり方だ。
    原発爆発の収束の目途も立たず、何兆円という税金を無駄に投入し続ける。
    その責任は、とらない。
    だれも、その責任をとって辞任しない。それどころか、法廷闘争に持ち込む。
    それほど退職金と天下りのポストが御身大切なんだな。

    これが、今、この国の政治を司り、大会社を経営している大人の姿だ。
    ただ、自分だけがよければいい。責任はとらない。私は、ちゃんとやっている。
    本当のことでも自分が損になることは、隠す。知らぬ存ぜぬ記憶にございません。
    人間としての尊厳・誇りの微塵も感じられない。
    潔くもなく、ただ損をしない、自分の権力に固執する。
    だから、誰も、ついて行かない。
    そんな人を信じていたら騙される。煮え湯を飲まされる。信頼できない。
    それでも、家族のために生きねばならない。職名には頭を下げる。
    しかし、人間的には、許さない。大いに義憤すら感ずる。馬鹿者だと思う。
    しかし、この国。こういう人たちだけを、本当にトップに据える。
    それは、その人を引き上げる人が、そういう欲の人だからだ。
    恩を売る。その恩は、必ず返される恩である。
    その悪と恩の連鎖がこの国の〇〇党の議員たちだ。

    国民の幸福を最優先として議員をしている人はどれだけいるのか。
    そんなことを感じさせる無私な大人は本当にいるのか。
    みんな足の引っ張り合い、権力闘争。次の大臣のポストには誰がつく。
    自殺者が毎月、昨年度より200人・300人増えている。
    そのことを真摯にとらえたら、あんな棒読み・読み間違えこそ国民に失礼なんだ。

    驕り高ぶった人間は、どんどん人間として劣化し、腐敗する。
    その見本が、今のカスだ。
    こんな人間にだけはなるなよと、子どもたちに教えたい見本が国にリーダーだ。
    おかしくはないかい。
    大人たちは、怒ってはいないのかい。
    あんな人に、自分の人生・幸せな生活を委ねていいのか。
    本当にまだあの支持率の人たちは、この人を頼りにして信じているのかの「問い」だ。

    劣化・腐敗が、世界中に広がっていた。
    そのことを明らかにしてくれたのが、パンデミックだ。
    今、世界中で問題となっているのは、その国家の指導者たちのことではないだろうか。
    そして、この国のその人は、余りにも情けなく、無力で、無能で、どうしようもない。
    その劣化・腐敗が、明確となったのが、今、ここ、コロナ禍なんだ。

    まず、afterコロナの前には、そのことを根本から問い直すべきだ。
    「核廃絶条約」に唯一の被爆国であるこの国は加盟していないのだ。
    この国の政治家たちには、人間としての魂と哲学があるのだろうか。
    もう、劣化・腐敗した無力で有害な政治とは、サヨナラする時が来たと私は思う。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月28日 06時45分43秒

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    ドッボンしなけれゃ、分からない

    見事に討ち死にをした。
    そのために、その場に立ったようなものだ。
    課題曲が決められていても、難曲には違いは無い。
    それを暗譜で歌える人たちの凄さに、逆に私は感動をする。
    私は、最後の時間まで詰めた。あがいた。練習を繰り返した。
    でも、分かっていた。
    きっとピアノだけでは、歌えないことを。
    つまり、そこまでは全く届かない状況の中に居る。

    これを必死に練習したら、どうだったのか。
    この曲だけを集中的に練習したら出来たのか。
    それは、やってみなければ分からないことだ。
    しかし、これこそがプロの厳しさだ。
    コンサートホールでお金をとっての演奏は、それだけのものは必要なんだ。
    感動を与えられる歌であること。
    私は、そこまで至らなかった。遙か彼方で蹴落とされた。それだけだ。

    ただ、分かったことがある。
    出来なくても試される場には、立たねばならないということだ。
    他の人たちが待つその場で、全く歌えない私が歌う。
    それは、恥ずかしさとか、屈辱感とかではない。
    その場に私が立ち、歌えるかどうかの、私の決意と行動だった。
    逃げ出したい。辞めたい。帰りたい。
    その弱気にどれだけ「だめだ」と挑み続けたことか。

    つまり、私の中には、「逃げたい私」と「逃げてはいけない私」が居た。
    その私と私とのせめぎ合いだった。
    その中で、恥をかくと分かっていながら、それをやれた。
    私は、ここに、今回の意味があったと思っている。

    何事も「ドッボン」なんだ。
    しかし、そのドッボンは、ドッボンした人だけに意味が在ること。
    ドッボンもせずに、それが大事だと言っている人は、嘘なんだな。
    ドッボンした人にだけ、その先が感じられる。
    「ああ、こうか」と、腑に落ちる。
    だから、人生は、ドッボンに尽きる。
    そして、そうすることで、後悔はなく、きっと何か大事なものを学べる。

    今回のドッボンでも、そのことの確かさを学んだ。
    符号化通知は、今日か明日には届くはずだ。
    それでも、レクイエムの練習は、続けようと思っている。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月27日 07時20分56秒

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    オーデション当日

    今日、レクイエムの出演オーデションがある。
    とうとうこの日が来てしまった。
    まだまだ先だと思っていたが、月日はちゃんと確実に流れていた。
    出来ているかと言えば、まだ八割の出来だろう。
    やっと楽譜を見て歌えるようになっただけ。
    本日、暗譜で歌える練習を徹底的にやる。
    それで、オーデションのステージに立つ。
    いつもドッボンの気持ちだけ。
    あのりゅうとのステージで歌えるだけで、満足としよう。
    この機会を与えられたことには、心からの感謝だった。

    今朝は、どういうわけか、目の調子が悪い。
    視力が急に落ちた感じだ。
    こんなこともあるさで、明日、元に戻っていたら嬉しいことだ。
    生きていると、何が起るかは分からない。
    そんな日々を、何とか生かされていることが現状だ。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月26日 09時56分52秒

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    意味を味わう

    味わったことは、身体となる。
    それは、具体だ。
    意味とは、その「意」を味わうことだ。
    では、「意」とは何か。

    私たちは被造物である。自分で生まれたわけではない。
    生んでもらった。いつの間にか、生まれて育っている。
    しかし、この世に生まれるもの全てには、「意」はある。
    いや、「意」でなくて生まれた存在は一つもあるわけはない。
    みんな命在るもの、命の無いもの、全てには「意」がある。

    それでは、その「意」とは何か。
    それは、「それでいい」という絶対の肯定・認識だ。
    「それでいい」として生まれて来た。
    「それでいい」として生きている。
    しかし、その「意」を理解せず、それを知らず、それに従わず、
    ちっぽけで愚かなる自分を優先にすることで、
    「意」を見失う。「意」から外れる。
    道を外したまま、歳をとる。生かされる。それを知らぬまま、死ぬ。

    「意」としてこの世に生かされた私。
    しかし、その「意」を知らず、いや、時にはそれを見下して、
    そんな目にも見えない存在もしないもののために生きられるかと、
    自分勝手な方向へ舵を切る。進む。
    それが大いなる迷いであるとも知らないで。

    まぁ、いい。
    とにかく、今朝、はっとした。
    意味の無い存在は、一つも存在していないんだと。
    何故なら、この世に生まれた。また、ここにある。
    そのことだけで、意味がある。
    在るものは、意味の在るものなんだ。
    それで、充分だと、私は、思った。

    だから、ヒヨドリの寒太郎と話しかける。
    彼は、そんな私の言葉を感じてくれていると信じながら。
    私が、迷った時。凹んだ時。駄目だなぁと落ち込んだ時。
    私は、きっと自分自身の「意味」を見失っている時だと思う。
    そして、その「意味」とは、普遍的なものであり、個別は個別であるが、
    普遍は普遍で、寒太郎と私とは、その普遍の深くで響き合っている。

    自然に在るもの。自然に生きるものは、その意味の顕れだ。
    ここに、迷ったら、学べばいい。
    私は、いつもそうして、リカバリーして来た。
    ここには、意味が顕わに存在している。
    問題は、その寒太郎や雀の顕わにしている意味を味わえるかどうかだな。

    味わわなければ、自分の身体にはならない。
    実は、不思議なんだが、この意味を味わうのは、精神であり、魂だった。
    またここで、立ち止まる人が居る。
    「何を言ってんだ。そんなものあるわけ、ねぇろ」だな。
    池田晶子さんが言っていた。
    「魂が分かると、全てが分かる」と。
    私は、歳をとり、やっとその近くまでたどり着いた気がする。
    しかし、まだまだ、遙か彼方だ。
    それでも、その存在を確信していることだけでも、幸せな人だと思っている。

    「意味」は、在る。絶対に。
    ただ、これは、そのことを信じられる人にだけ、分かるものでもあった。
    「信じる」ことの出来ない人は、死んでからも信じられない人だ。
    「信じる」か、「信じないか」のどちらかで、
    その人の人生は、全く違うものとなる。
    そり証は、私だ。そして、あの人たちだ。私の師たちだ。
    そうやって真っ直ぐに生きている人たちがいる。
    この国の政治家ほど愚かな裸の王様はいない。
    何か、勘違いしてはならない。
    ちゃんと生きられている人は、いる。
    それは、何かを信じて、身体で体得したものを生きている人たちだ。

    私は、遺された僅かな時間を、この人に従って生きることにした。
    信ずる人に、着き従って生きることだ。
    そう考えると、信じられるのは自分だけでという人たちが、哀れになる。
    こんな自分の何を信じると言うのだ。
    私は、この自分で生きて来てよかったが、過ちも数多でかして生きて来た。
    それが、私だ。
    だから、生き方の師は必要なんだな。

    まぁ、今日もただ、その「意」を味わって生きるだけ。
    味わうことが先なんだな。
    それから、それは何かと考える。
    その時、身体の言葉で顕される。
    その言葉こそ、信じられる言葉となる。
    その言葉が、普遍となる。

    とにかく、意味の無いものは無い。
    その意味を日々味わうことで、日々人は新たに生きられる。
    そんなことを、朝食を造りながら、ふと気付いた。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月25日 07時30分26秒

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    人類への地球からの問い

    大きな揺れ戻しが起きる。
    それは大自然の摂理のようだ。
    大地震は地殻のひずみや歪みを解消するために起きるものだ。
    元に戻る。だから、押さえつけられた力を跳ね返す。地震が起きる。
    そして、津波が起きて、大災害が勃発する。
    それも、突然の話だ。
    数分で終わる。その後には、跡形も無くそこにあったものが流されている。
    多くの命にが消えている。
    ついさっきまで、笑っていたその人が、今は、どこにもいない。

    しかし、そうした歪みや歪を人間が、この大自然に起こしていることがある。
    熱帯林の伐採であり。大気汚染。地球温暖化。海水温の上昇。等々。
    これは、人類がこの地球上に生存していなければ、
    決して起らない地球にとっての災害だった。
    実は、この私たちが住む地球の環境を汚染し、犯しているのは、
    そこに住んでいる膨大な数に膨れた人類だった。
    そのことを、私たちは、忘れて生活している。

    植えると、戦争が始まる。
    実は、今、世界では干ばつやイナゴの大群等、
    食糧生産に異常をきたしている現実があった。
    大量に食糧を生産していたその国の小麦やトウモロコシが枯渇したら、
    一体、食糧輸入国であるこの国は、どうやって食べて行くのだろうか。
    異常気象が、食糧の生産を阻んでいる。
    そのことを知りながら、人類は環境に負荷をかけて、汚染する。
    私も、そうだ。

    さて、地球視点から、この人類の生存の可能性を考える。
    すると、怖ろしいことに気付くはずだ。
    地球の歴史では、ある時、地球そのものの存続に負荷をかけるものたちを、
    大量に排除する働きが生まれて来たということだ。
    それは、大災害もそうであるが、ペストのような疫病がまさにそれだった。
    一気に何万人・何十万人という人の命を奪っていく。
    当時、ヨーロッパの人口の三分の一が失われた。
    それも何年間もそのペストの感染によって、恐怖の時代を過ごさねばならなかった。
    時に、これが現われる。まさに、死神である。悪魔である。

    今回のコロナは、パンデミックと言われる。
    つまり、世界中での感染拡大。それを防ぐことは出来ないのが現状だ。
    目には見えないが確かに存在するそのコロナウイルスは、
    もし、意志があるとしたら、一体何を考えてこれだけ感染を広げ、死者を出すのか。
    感染力が弱いから、こうしてたくさんの人たちに感染を広め、
    自らの命を全うし、仲間を増やせる身体のシステムになっている。
    ある意味恐ろしいシステムを備えたコロナウイルだった。

    変種も現われているということは、増殖する過程で、変化できる力も持っている。
    私は、よくは分からないが、その変化にはここまではないのだとも考えている。
    つまり、どのようにも変化・変容ができるウイルスなんだ。
    としたら人類はこのウイルスに対するワクチン・特効薬を開発することはできるのか。
    その闘いが日々、世界中で行われている。
    そして、今、各国の国民は、そのワクチンを待ち望んでいる。
    インドでは開発されたワクチンを発展途上国に何万本と無償配布している。
    世界の大国としての役割は、他の困っている国の人々を救うことだ。
    決して、利権を奪い、領海を侵し、武力と暴力とで搾取することではない。

    つまり、このパンデミックの危機では、世界の大国の役割は大きいということだ。
    そして、お互いにお互いの隣国の苦境を見て見ぬふりをしないで、
    支援し、助け合って生きることではないのかと、私は、想う。

    この世界的な危機の中、その限られたパイを独占、独り占めする大国があったら、
    その国こそ、この地球上に生きる人類と言う兄弟・姉妹の敵ではないのだろうか。
    実は、問われているのは、地球環境の歪みと歪であるが、
    本当は、この人類の中に権力者によって起こされている、分断と対立。
    それを修正し、フラットに、公正に分けあえる世界を、
    私たちが造られるかどうかのテストを、今、人類は受けているのではないだろうか。

    独占から、飢えは生まれる。
    権力から、差別が生まれる。
    それは、同じ人類として生まれながら、おかしなことと私は思う。
    人類としての意識。人類としての自覚。人類の一人てしての私。
    本当は、問われているのは、このパンデミックでのこの危機を、
    人類の一人として、どう自分なりに考え、解決していくかという深い「問い」だ。

    その「問い」を私たち人類は、地球そのものから問いかけられている。
    さて、その答えをどう出すのか。
    その答が、今の人類を必ず物語るはずである。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月24日 07時46分42秒

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    みんなでありたい。普通でありたい。

    普通でありたい。
    だから、周りの人たちを気にしながら、自分自身も普通になろうと努力する。
    どこに普通と言う基準があるのか、私には分からないが、
    そうやって生きようと努力して来た人にだけは、普通が見えるようだ。
    台湾籍をもつ母から生まれた作家は、生まれたことだけで、
    この日本では普通ではない存在とみなされて生きた来た。
    みんなと違うものは、全て、普通ではないものだ。
    しかし、だからその違いを受け入れ、その個を認められるのならばまだいい。
    しかし、実情は、全くその反対のことが多いと、語っていた。

    それは、普通でなくなることを恐れている人たちにとっては、
    その在り方そのものが自分たちが思いこんでいる普通とは違っている人たちを、
    排除し、攻撃し、差別しようとするからだ。
    人が集まる社会からは、いじめはなくなることはないと思う。
    そんなものなくなればいいとは思う。
    しかし、自分自身の中にも異質ものを排除しようとする気持ちも無くはないからだ。

    普通になろうとしている人を、彼女が語った。
    それは、みんなに自分をよく見られたい。みんなと同じでありたい。
    集団の中で生きていたい。みんなから少しでも認められたい。
    そうした願い持たされて、生かされて来た人たちにとって、
    「みんな」が当たり前になり、「普通」が信仰の対象にもなっているということだ。
    つまり、それ以外の在り方を、その人は考えられなくなる。
    しかし、「みんな」も「普通」も、本当は存在していないものだ。
    その人が、親や教師や友達から教えられたと思い、
    その人が勝手に創りあげた幻影がそれなんだ。

    しかし、幻影を信じて、そうあらねばならないとそのことを追ううちに、
    いくらやってもその理想の「みんな」と「普通」になられない自分に気付く。
    この二つに呪縛されている人には、自分自身を育てることが難しい。
    何故なら、自分自身とは、個別である私だからだ。
    確かに、私の中には「みんな」と呼べる私も居る。
    または、「普通」=「普遍」と呼ばれる共通項も在る。
    しかし、それを知りつつも、独自な自分を確立することが、
    自分として自立した生き方となる。

    しかし、この人たちは、思考を停止する。
    もし、そんなことに気付いてしまったら、今まで信じていた対象がなくなってしまう。
    それでいいと思っていたから、そうなろうと突き進んで来た。
    それなのに、今更、それは間違いでした。
    これまでの自分の人生は、幻影でしたとは、誰も考えたくも無い。
    そうやって30代・40代まで生きて来た。
    今更、宗旨替えは御免こうむる・
    だから、そんな疑問はなかったことにして、これからもその信仰に突き進む。
    「思考停止」は、「自分の成長停止」と同じことだ。

    そうやって生きて来た人の一つの特徴は、
    自由に生きている人たちのことを心から赦されないということだ。
    自分は、こんなに我慢して、自分を殺して、普通になろうとして来たのに、
    どうしてあの人は、自分勝手に、自由に、楽しそうに生きているのだ。
    「我慢が、ならない」
    つまり、ここで、攻撃モードに転換が起こる。発生する。自覚無しだ。

    日本人は、同調圧力を強く感じさせる国民であると、
    そうした外国籍を持ち、外国の暮らしや考え方を見に付けて育った人は、よく言う。
    何だかその集団の中に居るだけで、違和感と孤立感とを感じてしまうそうだった。
    それは、私自身も感じたことだ。
    どうしても「みんな」にはなれない。「みんな」とは違う。
    そのことを意識してから、この娑婆の世界はなかなかの苦行の世界となった。
    みんなは、とても楽しそうなのだが、私は孤独だった。
    みんなは、いつも一緒にいたが、私はいつも離れて座った。
    受け入れてくれる人が居なかったわけではないが、いつも違和感を感じて生きた。

    しかし、彼女は言う。
    こうやって人のことを攻撃する人は、自分自身を愛せない人なんですと。
    自分の中で自己を確立できていないその弱さを感じているから、
    人のことばかり気にしているそんな自分を、愛することはできないからだ。
    そこで、「何であの人は、みんなと違うのか」「おかしいだろう」と、腹を立てる。
    そんな言葉を誰かが言うと、そこに同調する人たちが、声を出す。発信する。
    それは、差別と偏見に満ちたヘイトになることも多くなる。
    しかし、数は自分たちが圧倒的に多数だった。
    攻撃される側は、弱い個であることが多いからだ。
    そこへ、自己の欲求不満の腹立たしさをぶつける。
    そこから、いじめは始まり、次第にエスカレートする。

    何が言いたいかと言うと、自分自身を受け入れ、愛されない人は、
    人のことをけっして愛することはできないということだった。
    そして、幼い時から、親からの強い指示命令で育てられた人は、
    その親の一方的に押し付けて来た価値観だけを鵜呑みにして、
    それがこの世の中で、みんなとして、普通として生きる生き方であり、
    そう生きることで、きっと自分は幸せになるのだと、信じ込ませられてしまうのだ。
    今の20代・30代・40代の大人の人に、そういう人が多いように感じられる。
    若者からプロテクトが社会的に起きて来ない原因は、
    教えられ、押し付けられ、指示命令されたその価値観は、
    おかしいのだと、そうではない違うものがあるのだと、
    学んでは来ていないからなのではないだろうか。
    つまり、この時代の変化にも、従順に生きる方だけを身に着けているということだ。

    日本人から、特にそれを感じてしまうと、彼女の言葉は重く受け止めた。
    私たちは、本質的に保守的で、権威主義で、お上を信じて生きて来た国民なんだな。
    上からの指示命令に、不服なんぞ滅相も無く、「ははぁ」それだけだ。
    そうやって、それだけを信じて生きることが、自分の幸せなんだとも思い込んでいる。
    だから、変革は望まない。現状維持。明日もこれなら、これでいい。

    個を確立するためには、孤にならなければならない。
    みんなと普通の中では、個は絶対に確立は出来ない。
    なぜなら、個とは、みんなや普通ではない自分であるからだ。
    みんなは、こうする。だから、私は、こうしない。
    普通はこうだ、だから私は、違う道を行く。
    そのみんなから離れる孤独しか、その個を育てる豊かな土壌は存在しない。
    孤独になること。まず、ここからなんだ。ここが個の出発点だ。
    しかし、みんなと普通の人たちが一番恐れていることは、孤独な自分だ。
    その孤独に、耐えられない。孤独であることは、
    自分を否定されている気になってしまう。
    だから、孤独感を少しでも感じないように努力する。
    SNSはそのためにある。

    何を言いたいのか、自分でもよくは分からなくったが、
    腹が空くと、人間は攻撃的になる。
    それと同じで、
    自己が稀薄になり、見失ったままでいると、
    幸せそうに生きている人をいじめたくなるもののようだ。
    人を差別し、いじめている人たちほど、心が飢え渇いている人はいない。
    あることないこと勝手にでっちあげて、誹謗中傷する人たちを知っている。
    また、私もその被害者となり、見事に悪口陰口の標的にさせられた。

    しかし、考えを始めに戻すなら、
    この人たちこそ、「みんな」と「普通」の幻影に騙された人たちであり、
    そのことの腹いせで、妬みから、こうした人に対する攻撃は生まれるのではないのか。
    それは、あくまでも「異星人学会」での仮説にしかすぎないことだ。

    しかし、やはり、「ああしろ」「こうしろ」「お前は駄目だ」「何やってんだ」と、
    親から言われ続け、「これはお前の将来を心配しているから言うんだ」と、
    親が自分もできなかったことへの不満を、その解消を子に押し付け、
    「世の中はそんなに甘くはない」「みんなと同じでいい」「普通でいいんた」と、
    教え込まされ、その価値観を術だと信じ込まされて生きて来た人たちは、
    今、親が言っていたように幸せな生き方をしているのだろうか。
    確かに、私は、大半の人たちが、それなりに幸せに生きていることも知っている。

    しかし、この「みんな」と「普通」に毒されて、
    今でも自分のことを許せず、愛することも出来ない大人もいることを、
    私は、知っている。
    その親の「みんな」と「普通」とは、一体なんだったのだろうか。
    その人は、今、その毒親たちに反乱をし始めている。
    この自分だけの旗印を立てて、反乱する。
    その「反抗期」は、いくつになってもいいのだと、私は思う。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月23日 07時17分59秒

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    孤独感の薬

    さてさて、孤独感をどう癒すのか。
    日中、独りで居る。それはそれで気楽でいいと思っている。
    しかし、午後からが辛くなることがある。
    午前中は、ルーティンをゆっくりこなすだけで昼になる。
    それは、それで気持ちいい。
    特に、Sさんと電話で話せた後には、爽やかな充実感だった。

    昼食を自分で造る。
    昨日は、親子丼もどきを造った。
    昼食を食べながら、ワイドジョーを観る。
    世の中の動向の確認をする。
    コロナの話題満載だ。それにして、この国の首相は・・・情けないものだ。

    さて、そけから、どうする、だった。
    入院している時は、ここからBSの映画劇場だった。
    どんな映画でも、毎日欠かさず映画を観ていた。
    これがこれで、人生の勉強に随分なっていたので感謝している。
    今は、その2時間を他のことに使うことにしている。
    「予定」があるなら、それをやる。
    11月までは、ここに学童保育の仕事があった。
    つまり、仕事とは、孤独な私に行く場所・やることを造ってくれていたのだった。

    そのことを失くなってから、二カ月の月日がたった。
    この自由を確かに私は、謳歌していた。
    しかしだ。その夜に約束がある。行く場所がある。行かねばならない義務がある。
    だから、午後から外に出かけて、遊ぶわけには行かなかった。
    映画に行っても、そこで必ず一杯呑んでしまう。
    先日は、それなのに昼呑みをしてしまい。後悔したものだった。

    だから、この夜の約束までの空白の時間を、
    どう素面で気持ちよく過ごすかの課題なんだと、昨日、気付いた。
    だから、まず、散歩にすることにした。一日5000歩を超える。
    10000歩を目指すなら、2時間近く歩かなければならない。それは無理だと分かる。
    だから、一週間の平均を5000歩とする。まず、それだ。

    次に、そろそろトレセンに行ってもいいのではないかとも思っている。
    250円でいい。そこへ行くと、走ることも出来る。筋トレも出来る。
    車で15分。着替えて、準備体操をして、寒い体育館のコースを走る。
    そう言えば、一年前には学校の帰りに、総体に行った。5キロ走った。
    そして、筋トレを一巡した。すると、60分間のトレーニングだった。
    夕方は混んでいる。ならば、平日の日中に行く。それは、いい。

    次に、図書館での読書だ。
    天気さえ良ければ、ホンポートには、ここから4キロの距離だ。
    歩いて行けば、運動にもなる。本を読めば心のエネルギーも蓄えられる。
    最近、家でも読書をあまりしなくなった。
    テレビも見ないので、日中、どれだけぼーっとしているかよく分かる。
    確かに、ぼーっとする時間は、必要だ。それを罪悪とは想わない。
    しかし、何かをやれる時間だと考えると勿体ないが先に来る。
    モーッアルトやベートーベン等、音楽家につていの本を読みたいと願っている。
    あの本たちに囲まれた贅沢な時間をまた過ごしてみるかだった。

    次に、午後からの習い事を探すことだ。
    人がいる場所。一緒に何かをやる場所。これは孤独感の何よりの薬だ。
    私は、意外とこうした知らない人たちの中に入って行っても平気なので、
    こうした講座・習得の会は、向いているようである。
    ヨガも、そういう気持ちで始めたものだ。
    書道とピアノを、再び再開させることもいいではないかと、今、気付いた。

    今、庭仕事が出来ない。
    けれど、いよいよ断捨離をする時節が到来したようだ。
    まず、計画を立てよう。
    全て用の無い物、必要で無い物、捨てるべき物、全部処分しよう。
    何だ、これをやったら、何日あってもこの仕事には終わりはないな。
    天井裏のあの倉庫には、全くいらないお宝の山だった。
    あれをここできれいさっぱりと片づけるのも、妻と子のためになる。
    私の物なんぞ、遺しておいても、邪魔なだけだ。
    捨てることに時間を使う。こけも、いいなぁと、今、思った。

    やることが無いのではない。
    やることを見つける感性が鈍っていたただけだった。
    せっせと身体を動かす。身体を使う。集中すると、無心になる。
    そうすれば、孤独感なんか、どこかに吹っ飛ぶ。忘れてしまう。
    没頭する何かを見つける。そしたら。時間を忘れてそれをやる。
    それで、いい。
    これが孤独感の一番の薬なんだなぁ。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月22日 07時26分50秒

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    退職後こそ、本当の人生だ

    退職したら、何をしたらよいのか分からない。
    退職後の自由な時間をどう使えばよいのか分からない。
    まぁ、仕事オンリー人間には、多い心配。感覚だな。

    仕事をしている間は、自分のことを麻痺させることができる。
    やるべき仕事が向こうから次々にやって来る。
    だから、それを的確にスピーディーにこなす人を、有能だと呼ぶ。
    そう呼ばれ、上司から評価されるために、自分を粉にして懸命に働く。
    仕事の成績によっては、次の人事でも有利になるはず。
    とにかく、まず、上司だ。そして、仕事の相手だ。お客様だ。
    そうやって40代を邁進する。
    その時、自由な時間は、皆無に近い。時間があれば休日出勤も厭わない。

    家族のためと称して、家族サービスも仕事のために皆無となる。
    籍は確かにこの家に会っても、暫く顔を見ない、不在状態。
    まさに、家族から言わせれば、「ふざけんなよ」だな。
    そういう父親に対する信頼感は、全く無くなる。育たない。
    それは、自分のためだけにその自分の時間を使い切っているからだ。
    この分は、家族のためにとは、その男は思わない。
    とにかく、仕事・仕事。その次には、自分の好きなことへの没頭だ。
    しかし、その好きなことも、他者からの評価に繋がる成果を求める。
    つまり、自分を成長させることもなく、59歳定年間近となってしまう。

    もったいない話だと、こういう話を聴くと、いつも感ずる。
    なんたって人生は、一方通行。逆走は出来ない。
    だから、全ての時間が一度きりの通過点。
    その時、何を優先順位の上位に置いて、
    どれだけ自分のことを捨てて、忘れて、他者や家族の為に尽くしているか。
    その結果が、定年退職のその日に分かる。
    私は、「お疲れ様」とは、家族には言ってもらえなかった。
    そんな定年退職のお祝いすら、無かったな。
    それが、現実なんだ。

    「明日から、どうすんの?」それも現実だ。
    しかし、こういう私でも、どれだけ家事や子育てをして来たことか。
    家族旅行には年に何度も企画し、実行した。
    年末には、毎年2泊三日のいけり池の平スキー旅行だ。
    休日は、小学生の息子たちと遊び、とにかく可愛がったつもりだった。
    それでもだ。それなのにだ。そんなもんなんだ。家族とは。人生とは。

    私は、だから、定年退職で自分が向き合った現実を受け入れた。
    私は、40代から、結構、この退職後に向けた生き方の準備はしていたからだ。
    演劇・合唱・登山・ランニング・筋トレ・読書・映画・コンサート等等。
    その時から、そのことには時間を使った。励んでいた。
    だから、ビバ定年退職だった。
    家族には、そうやって冷たく扱われても、何のその。
    私には、やりたいこともある。新しく挑戦したいこともある。
    だから、今は、それが出来るための健康第一に考え、行動している。

    しょせん、人は、独りで生きて、独りで死ぬものだ。
    そのことを、まず分かった方がいい。
    誰からに何か頼っては駄目だ。依存したらもっと寂しく、切ない結末を迎える。
    妻とは、しっかりとソーシャルでスタントを保ち、お互い依存・干渉はし合わない。
    60代の自立は、とてもとても大事なことだ。
    家庭生活でも同じ。男は、独り暮らしを楽しめる家事力は身に着けるべきだな。

    それから、年金を細々ともらえるまでの3年間。
    貯蓄を減らさない程度の、お酒を外で呑める程度の小遣いは、稼ぐことだ。
    だから、仕事をすることを自然と考える。
    しかし、がつがつではない。ゆるゆると、楽しみながら、短期にやる。
    そこまで、社会もこの年代には期待していない。
    ボランティアと考え、僅かでも報酬をいただけることを在り難く思う。
    そのためにも、現役で仕事のために健康を害するなんて馬鹿な真似はしないことだ。
    とにかく、60歳からが本物の自分の人生だ。
    ならば、その時に羽ばたけるように、気力・体力・心の健康の準備を怠らないことだ。

    仕事は、50歳を過ぎたら、後進に譲ることだ。
    そして、自分の経験と知識をまたその会社・学校で役立ててもらうために、
    後輩をしっかりと育て、導いてやることだ。
    しかし、「俺が、俺が」の威張った仕事人間・上司は、
    まだまだ自分のことが一番かわいい。
    だから、定年退職を、部下たちは「やれやれ、やっと居なくなる」と思うだけだ。
    妻からは、「明日からは、どうするんですか」と、溜息をつかれる。

    こんな人生に誰がした。自分だ。それだけの話だった。
    何だか男たちよ、親父たちよ、間違った生き方を私たちは、
    信じて生きて来たのではないのか。
    また、私たちは、子どもたちに街かったことを教えて来たのではないのか。
    そんな哀れな「問い」が、私にはある。ある。
    だから、63歳の後悔を、ここに書いている。
    ただし、私にはまだ自由に動ける身体もあり、ある程度の健康も与えられている。
    それすら、無くなり、定年を迎えたあなた。
    これからの長い長いし死までの老いの生活をどう独りで生きて行くと言うのだろうか。

    退職しても、「何をしたらよいのか分からない」と、言われた。
    まぁ、その人は、本気で自分自身になるために、
    しっかりと誰にも頼らず、依存しないで、独りで自分とまず向き合うことだと、
    私が言えるのは、冷たいようだが、それだけだ。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月21日 07時15分28秒

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    食べることが、生きること。満腹が、平和をつくる。

    このコロナ禍のの中で、大変苦しい生活を送っている人たちが多い。
    今、こうして社会が困窮すると、その波はまず社会的な弱者に及ぶ。
    派遣社員がまず着られる。学生のバイトが無くなる。
    家賃が払えなくなり、部屋を追い出される。
    母子家庭では貧困が続き、子どもも働きながらの就学も仕方ない。
    とにかく、食べられない。満足な食事もできない。
    この現代のこの国で、飢えて、耐えて生活をしている人がいる。

    しかし、反面、この国の食品ロスはすさまじい量だった。
    枝本奈穂美さん(料理研究家)のお話を聴いて、いろいろと考えさせられた。
    彼女は、神楽坂のあ店の軒下で「夜のパン屋」を開いていた。
    パン屋さんでは、売れ残りをロスパンと呼んでいる。
    そのパンを毎日、自分たちで食べることも無理なので、
    売れ残ったパンがロスパンとして廃棄されることも多い。
    そこで、知り合いのパン屋さんにお願いして、それを安く買い取らせてもらった。
    そのパンを夜だけパン屋を開き、
    仕事の無くなってしまった人たちに売ってもらうようにした。

    そのパンは、店頭に並んでいたパンだった。
    たまたま売れ残ったから、廃棄される運命だった。
    しかし、こうして救い、再び店頭に並べると、そのパンを求めてお客さんが集まる。
    何だか、このパンたちが、失業したり、仕事を奪われてしまった、
    その人たちに観えて来てしまったと語っていた。
    みんな同じなんだ。なのに、仕事を奪われ路頭に迷っているこの人たちがいる。
    人間の都合だけで捨てていいものはこの世にはあってはいけない。ないはずだ。

    今、地球上にある食糧で、人類すべては賄える量であると言う。
    ところが世界では飢餓で苦しみ、亡くなる人たちが大勢いる。
    そして、この国ではその人たちを養えるだけの食糧を毎日廃棄している。
    つまり、食糧の配分の仕方をどこかで間違っているのではないか。
    また、食べ物として最後まで全うさせ、循環できる仕組みが必要なのではないのか。
    そんな「問い」から、彼女はNPOの活動を始め、食品ロスを無くす努力をしている。

    ある高等学校に実習の指導に行った時の話だ。
    とてもとてもいい子たちばかりで、先生のその話をしたら、
    その学校では生活に困っている家庭の生徒が多いのだと話してくれた。
    母子家庭・父子家庭。だから、アルバイトで働いていね生徒多いそうだ。
    その子たちの食べたものを調査すると、粗食かインスタントかコンビニ弁当だった。
    自分が一個55円の卵を買って食べていることが、
    何だか恥ずかしくなってしまったそうだ。
    自分だけが満腹でいいのか。食べられない子どもたちがいてもいいのか。
    そこで、始めた活動が、こうしたロスされる食物の再分配だった。

    そして、そこに新たな小商いを生んだ。
    つまり、その仕事は、ある人たちに居場所と楽しさと生き甲斐を与えた。
    そして、コミュニケーションをお客さんとしながら、
    人と人との繋がりを、食べ物で仲介することで、
    柔らかく、温かな関係作りに役立ったと話していた。

    つまり、食べることを大事にすることで、食べ物を愛おしむ気持ちだけでなく、
    生活や暮らしそのものを大事に出来ることに気付いたのだった。
    食べ物を大事にすることで、世の中を変えて行ける。
    また、自分が生きて行くためには、多くの人たちの手助けが必要だということだ。
    お米や野菜は農家の人たちが育てくれなければ食べられないものだ。
    つまり、料理に使う食材一つ一つを想像力をもって考えてみれば、
    そこには多くの人たちの手がかかっていることがよく分かる。
    そうしたら、食べているものが、もっと美味しく、感謝していただけるはずだ。

    もし、その食材が買ってもらえなかったら、仕事を失い、その食材も失われる。
    生産者さんたちは、それぞれの事情を抱えて生産をしている。
    それを考えて、共にやっていけるやり方をこれからは考えねばならない。
    食べるものは、良いものであってほしい。
    そして、食べることは、生きることと繋がっている。

    私は、人が食べている物に対して、否定はしない。
    スナック菓子を食べている高校生には、その人の事情があるからだ。
    だから、「こっちの方が美味しいよ」「食べてみない」と勧める。
    そして、その食べ物を差し出して、一緒に食べる。
    そして、人は、そうやって食べて、お腹いっぱいになると、
    「平和だよねぇ」って感ずるものだ。
    だから、みんなには、食べて、幸せになってもらいたい。
    食べることが、生きること。
    そのお手伝いをこれからもして生きたい。

    時々、その食べられない人たちの心の痛みを感じて涙しながら、
    こんな話を聴かせてくれた。
    善い人なんだなぁ。
    そんな生き方を、私もしたいとふと感じた。

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  • from: クマドンさん

    2021年01月20日 06時58分02秒

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    数値の悪化

    昨日、医院に薬をもらうために行った。
    そしたら、10月末の血液検査が、異常に悪化していたことが分かったる
    実は、私はこのコロナ禍なので三カ月間薬をもらっていたので、
    この結果を聴くことがこんなにも遅くなってしまったのだ。
    血糖 264 HbA1c 8.1
    これは、糖尿病に至る数値だった。

    普段なら、6.4位で維持されていた数値だった。
    私が、かって検査入院をした時の数値にぐっと近づいていた。
    どうしてこんなことになったのか。
    ただ、酒の飲み過ぎですと、医者に言われた。
    つまり、身体の内部の変化については、見た目では分からないものだ。
    この血液の検査による数値の上下に寄って、
    私の身体の内部における健康度がリサーチされる。

    それにしても、と自分自身でも驚きだった。
    原因を思い出すのだが、やっぱり酒しか考えられないということだ。
    ここまで来たら、酒をやめるしかないのか。
    とにかく、酒を呑まない日を造り、肝臓を休めることだった。

    Γ-GT 242 M73以下が正常値である。
    これは、いつもいつも高めの設定だった。
    手術で全身麻酔を私は、三度経験している。
    この麻酔も肝臓の機能には影響すると医師が言っていた。
    この数値は、だからある程度からは下がらないだろうと予想している。

    さてさて、身体とは、やっぱり生き物なんだ。
    私が、こうして普段通りの生活が出来るのは、
    この内臓が、適切に働き、私の生命としての身体を維持していてくれるからだ。
    つまり、どこかで機能不全が起きる時、
    私の身体は、その部分から良くない影響を他の部分にも及ぼして行く。
    今は、肝臓と膵臓なのかも知れない。
    無自覚のまま、細胞は壊され、再生されずに、次第次第に劣化する。
    すると、その機能が衰え、その働きが十分でなくなる。
    そして、身体のどこかに自覚症状が現われる。

    もう20年以上前だろうか、突然、送別会の席上で汗が止まらなくなったことがある。
    これは、身体のどこかに異変が起きた強硬だと察した。
    春休みだったので、大きな病院で検査した。
    すると、血糖値が異常に上がり、ヘモグロビンの数値も上がっていた。
    「このままでは、糖尿病になりますよ」との恐ろしい宣告だった。
    その時、初めて私は、入院生活を経験した。
    検査入院・教育入院だった。
    栄養指導を受け、一週間の断酒、そして、適切な食事をいただいた。
    食べても体重が減るのだと、初めて知った。

    そうやってから、体重も抑える努力をしてきた。
    運動も日常生活に取り入れている。
    筋トレ・スクワットで、筋肉も鍛えられた。
    仕事もしていたので、じっとして生活していたわけでない。
    何よりも、酒量は確かに人よりは多めだが、激増したわけではなかった。
    だから、この数値の驚きだった。

    「この状態では、薬を三カ月出すわけには行きません」
    「今日も、血液検査をしてください」
    それで会計は、3000円だった。薬代は1300円。
    つまり、一度診察を受けるだけで、5000円近くの出費だった。
    これも、懐には痛い痛い話だった。

    健康第一だ。
    その健康とは、普段の毎日の生活の積み重ねの結果だった。
    私は、こうして定期的に医師の診断を受けられるので、
    身体の異常は、こうして数値で表される。
    確かに、5000円は痛いが、もし病気で入院したのなら、
    こんなものでは済まされないこともよく分かっている。

    人生は、60歳からだ。
    これからが本当に人生の楽しみを味わえる歳になる。
    だから、まず身体を健康に維持することを第一に考えることだ。
    酒・・・・。思案のしどころだな。

    とにかく、身体の内部からの改造・改良が必要のようである。

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